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排水溝の中の恋

作者: 無口人

文学作品です。

文章を楽しんでくれたら幸いです。

棚の奥から埃塗れのラジオを取り出し、スイッチを入れ、2、3、叩いてみると政治家のしゃべる声が聞こえた。ツマミを、コチ、コチ、と左右に回していると、男の低い声で、物語の朗読のようなチャンネルに合った。眠れなかったし、ちょうど良かったな、と思い、しばらくそのチャンネルにツマミを置いておくことにした。途中からのようだったが、聴いた内容は以下である。


夜中の2時を少し回った頃のことだった。




****





『………



「まあ、卒業おめでとう、閑子(しずこ)。」


お母さんの死体と目が合った瞬間に言うから、初めはお母さんが喋ったのかと思いました。実際に喋ったのはその隣のお父さんで、その言葉と一緒に、一旦箸を置きましたが、私は気にせずに沢庵を、ぺりっ、と一口、(かじ)りました。


「お前も明日から、華の高校生じゃあないのか?」


「だからって」


と一拍する間に沢庵を飲み込み、なんて言おうかと構成を建てる時間を稼ぎます。


「だからって、1人で暮らすことでもないんだし、ヨシちゃんも居るんだから、何も変わらないよ。」


と言いました。隣の部屋ではいつも通り、弟のマサが鳴いていました。もう3年も経てば、弟だって疲れたろうし、こっちだってそろそろ五月蝿いなんていう概念が薄まってくる。


「お父さんはな…まともな恋をしてほしいと思っているよ。」


白いご飯を箸の上で盛り口の手前まで持ってきて、そんなことを言いますが、照れ隠しにそれを口に入れたみたいに見えました。


「…なんか食欲ないな、マサ、食べるかな。」


私がそう呟くと、お父さんはそれを聞いて、お母さんの方を見て笑っていました。仲良いね、とお母さんが言ったよ、と言いたそうな顔をしてまたこちらを見ました。私は左の方だけ口角を上げ、食卓に、ご馳走様、を置いて席を立ちました。


隣の部屋の襖を開けると、マサの鳴き声が少しだけ大きく聞こえる気がしました。マサは今年で中学2年になります。私とは2つ違いの弟でした。マサは今日も暗い四帖程の和室の隅で、肌色の塊になっていました。私が足音を立てて和室に入ると、マサは鳴くことをピタリと止めました。仕方なく口に張り付いたガムテープを剥がしてあげると、ァ、と言った気がしました。マサは今、手足がロープで縛られていて、使えないので、私が半分も食べなかった白いご飯と、一口だけ(かじ)った沢庵すべてを一旦、私の口へ掻き込み、細かく咀嚼し、マサの口へキスをしながら流し込みました。マサが飲み込み終わるのは五秒でした。


「……姉ちゃんいつもありがとう。」


私は、自分の唇を舌先で清掃してから、マサの頭を撫で、笑顔を作りました。マサも笑顔を作ろうとしましたが、その前に新品のガムテープを、マサの口へと貼り直しました。それにて、もう今日の分の、マサの鳴き声は無くなりました。


私は明日の入学式を期待しながら、そのままマサの性器の辺りに倒れこんでしまいました。


お父さんはまだお母さんと話をしています。






****






「姉ちゃん、朝だよ」


気付いたらソファの上に横になっていました。


「お父さんが冷蔵庫の中のもの適当に食べろって。じゃあ俺、学校行ってくるから。」


と言ってマサは家を去ってしまいました。あぁ、お父さんが(ほど)いたのか。私はお母さんの横を過ぎ、冷蔵庫を開けると、中には薬指と耳と、白菜と卵があったので、私は迷わず耳を取り出し、砂糖をかけて食べました。私ももう遅刻だけど、すぐに制服を着て、家を出ることにしました。玄関から出ると、2時間ほどそこで待っていたであろう、ヨシちゃんが立っていました。


「いつも遅れてごめん。」


「相変わらずねぇ。」


決まっていつも、この会話をします。道ではたくさんの動物が走り回っていました。いつも2人で歩いて通う道は童話の話やら政治の話などをしているのですが、今日はいつもと違います。


「シズちゃんが同じでよかったよ。」


「私もヨシちゃんが居てよかった。」


今までは所謂(いわゆる)女子校の小学、中学という人生を歩んできた私は、初めての共学校で同じ境遇の同性の友達がいるということに心底安心していました。男というのは、お父さんとマサくらいしか経験がないため、それ以外は都市伝説くらいにしか考えていませんでした。


学校に着くと、既に入学式が始まっており、体育館の後ろからへこへこと2人で入ると、白いオクラみたいな男に席を案内されました。臨時に用意されたパイプ椅子に、ぎっ、と腰掛けると遠くのステージでは麩菓子がよく分からない言語でてらてらと話をしていました。


「シズちゃん、人いっぱいだね。」


ほとんど母音がない声でヨシちゃんが耳打ちをしました。周りをぐーんと見渡すと、真っ黒の塊だと思ったものが、点、点、とあることに気づきました。


「この中には、男とかも居るんだよね?」


と私がヨシちゃんに当然の質問をすれば、


「当然よ!あれも、それも、男なんだから!」


と、ヨシちゃんも少し興奮気味に言っていました。


恋、出来るかな、なんて思ったりしました。




暫く時間が経つと、入学式が終わり、次に教室に移動させられるらしく、どうやら私はCクラスで、ヨシちゃんはDクラスのようでした。ぞろだらばら、と集団の黒に着いて行くと、教室がいくつかある階に着き、私たちはCクラスの前で手を振りました。ヨシちゃんとはそこで別れました。その瞬間、急に野菜や菓子だった周りが人間へと変わったのです!逆に私自身が苗木が何かのように思えました。そして笑顔で手を振ったヨシちゃんが脳裏をよぎり、殺意まで芽生えたのでした。そんなことを思っていたら、いつの間にか、私以外の人々は席に座っているではありませんか。私は、このままでは倒れてしまう、と思ったので、すぐさま教室を出てから、駆け足で家に帰ることにしました。背後から男の声で、おい、と聞こえたのでしたが、風を切る音の方が心地良かったのです。


ある程度学校から離れると、動物の足音しか聞こえなかったことに気づき、やっと安心しました。へたへたと歩きながら、ヨシちゃんを殺そうか、それとも教室内の人たちを殺戮しようか、誰も殺さないかを迷っていました。人殺しは、してみたい!とは思わないのですが、しても構わないと思っています。ただ、後の事を考えると面倒だし、かと言って見つからないように事前に計画を立てるのも、そこまでして殺したいと思う人間は今までは出会ったことがなかったのでした。よって今回もそうでした。実は早く家に帰って、絵でも書きたかったのが本心だったのです。今、目の前で、交通事故が起き、女の人が血を吹き飛ばしながら飛んで行ったのも気にしないくらい、一刻も早く家に帰りたかったのでした。


家に着くと、お父さんが既に帰っていました。


「なあんだ?今日は随分早いじゃない?」


「そうね、入学式だけだものね。」


嘘をつくといつも心が痛いのです。人殺しは自由ですが、意味の無い嘘は良くないと言う持論でした。私は10歩もかけないほどの大股で部屋に入り、勉強机の前の椅子に座ると、引き出しの2番目から縫い針を抜き、スカートを捲り、右の太腿の付け根にぢくぢくと刺しました。よくリストカットをするような人はいるのですが、私は痛そうで、とても出来ないなと思い、代わりに一度だけ興味本位でこんなことをしてみましたら、癖になる快感で、これなら出来るなあ、と思ってから、嫌なことがあると、いつもこの様に、気が済むまで刺すのです。


10と、5、6、ほど刺すと、痛みに耐えていた気力と、さっきまで走ってきた体力の疲労が、わあっ、と背中から覆ってきたので、それに任せて机に突っ伏したのが、その日の最後でした。




****




弟のマサは、3年前から、全裸で手足を縛られ、口にガムテープをしなければ、お父さんが発狂してしまうのです。何故だったかな?3年前の記憶だけ、丁度、見当たらないのです。産まれてから物心がついた後から3年前まではよく覚えているし、3年前から今までも、よく覚えているのです。3年前までは、お母さんも生きていました。記憶の途中に赤黒い(もや)みたいなものがあってから、いつしかお母さんが死体で、マサが居て、縛られていました。でもそれが当然であると認識はしていましたし、お父さんも3年前以前も、それ以降も、変わらないから、尚更当然であるのです。


縛られるマサも、生きているお母さんも、死体のお母さんも、すべてが当然なのです。特に疑問も無いのです。お父さんはお父さんのまんまだし、ヨシちゃんだってヨシちゃんのまんまなのでした。


起きると朝の5時でした。右脚の付け根はまだ痺れていたので、昨日の嫌なことも少しは和らぐ朝となりました。結局は今日も学校なのです。部屋を出ると、まず和室に向かい、マサの様子を見に行きました。マサは裸のまま、正座の状態で部屋の隅で寝ていました。私はそれを起こさないように、そっと、縛っているロープを解き、少し外を歩くことにしました。今日は木曜日でした。


さすがに早朝とあってか、外は人一人歩いていませんでした。野良犬は遠くから、ばあっ、と、ひとつ、吠えているのが薄っすらと聞こえました。昨日の交通事故のところは、コンクリートの上に血が迸っているのでした。ヨシちゃん、もう起きてるかなあ、なんて考えながら歩いていると、向かいから私と同じ高校の制服を着た、男がやってきたのです。私は咄嗟に、顔を伏せてしまいましたが、よく考えれば私は制服を着てないし、奴が同じクラスメイトかどうかも定かでは無いことにより、大したことではないな、と思えたのが結果でした。そんな結果とは裏腹に、奴が私の隣を過ぎる刹那、あ、と奴が溢した気がしました。私は少しだけ高鳴っていた胸が一瞬止まった気がして、バケツをかぶった様に汗をかいたのでした。


「なんでもないです。」


と予想外の低い声が返ってきたので、私は逆に、空回りしてしまい、変に笑いながら早足で去るのが精一杯でした。しばらく歩いてから、右足の小指に違和感を覚え、適当に履いていたサンダルを脱ぎ、後ろからそれを見ると、棘が刺さっていたのか、ほんの僅か、血だまりが滲んだ後があったのでした。




****




結局その日は仕方なく学校へ行くことにしました。なんとなく、ヨシちゃんのことは避けて、一人で学校へ行きたかったのでした。ボー、と歩いていたら、学校にすぐに着いてしまいました。授業は朝の9時からなのですが、学校に着いたのは実に、7時半でした。あまりにも早かったため、生徒は誰一人として居ませんでしたが、教室は開いていたのです。前の黒板を見ると、初日のためか、一人一人の名前と席の場所が書いてありました。私の名前を探し、閑子の椅子に座りました。誰も居ないし、もし人が居ても、昨日のことがあってか、誰一人として顔を見たくないのでした。よって、私はそのまま顔を机に埋めることになりました。


ふと、机の中で意識を取り戻すと、真っ暗でした。真っ暗でしたが、それは腕でした。自らの腕によって囲まれた陣地外では、ザワ、ザワ、と音が飛び交うのでした。それぞれの音が不協和を奏で、私は頭痛と吐き気に襲われながら、なぜ来てしまったのだろう、と、冷静だったのでした。決してこの腕の陣地からは身を(頭を)乗り出さないと志し、不快感に耐えながら、私は机に、埋まれ!沈め!と、願うばかりでした。すると突然、私の陣地の外壁を、叩く者が現れたのです。最も鉄壁である背後を丸みを帯びた中国刀で、強く、緩やかに、どすり、と刺すのです。私の外壁は、案外脆く、すぐに仰け反ってしまいました。声も出さずに振り返ると、そこには、男が座っていました。


「やっぱり、あんたやないか。」


その予想外の低い声は、すぐに潜在的な地獄を叩き起こしました。


「あ、ぁあ!……どうも。」


とりあえず、口はそのように動きました。


「昨日、あんたが飛び出してから、前の席ぽっかり空いてるんや。そりゃ、覚えやすいったらな。おおきに。」


「そっかあ!あはは!」


おそらく、私は、ほぼ泣き顔だったと思われます。


「俺は羽倉っちゅうねん。よろしくな。」


「うん!よろしくね!」


この際、どんな顔で言ってるかなんて気にしてられません、せめて明るい言葉を装飾させたかったのでした。


私はその時、初めて真正面から、男というものの顔を見ました。それは意外と、ヨシちゃんやマサとかと、なんら変わりない、人間だったのです。


……』




****




ここまで聞いたあたりで、眠りについてしまった。いや、もしかしたら聞いていたのかもしれないが、今になって思い出そうしたときに、ここから先の物語は霧のように濁っているから、意識は半分ほど枕に埋もれていたのかもしれない。しかし、改めて物語を思い出すと、続きが気になってしまい、次の日、その次の日は、一睡も出来ないほどであった。


物語への関心が絶頂に達したのは、その次の日の夜だった。2日も寝ていない所為か、枕には(とりつ)いたように身を任せた。午後8時、物語が気になりながらも、睡魔には勝てず、そのまま布団に包み込まれてしまった。

目が醒めると、夜中の2時の、一歩手前であった。すうっと眠気は去り、同時にラジオを引っ張り出し、スイッチを入れると、ツマミはそのままだったため、同じチャンネルに繋がった。しかし先日の物語は流れておらず、コマーシャルが只管(ひたすら)に流れていたのだ。諦めて寝ようと思い、仰向けに体制を変えると、ラジオからぴったり2時を告げられた。すると男の低い声でこう言った。


『……


「排水溝の中の恋」





****




もう随分と落葉が転がり始めた頃、羽倉はいつものように、私の隣を歩くのでした。ヨシちゃんが夏に死んだショックは、羽倉と話すうちに和らいでいきました。夏を過ぎてもなお、こいつの考えていることは理解できませんが、話をしているうちに唯の人間になっていったのはよく分かります。


「今日放課後、お前んち行って良いか?」


そういえば出会ってから、こいつとはまともに遊んだことが無いなあと思い、何も考えずに二つ返事で良しを言ってしまいました。男というのは未だによく分かりませんが、この隣を歩く男はヨシちゃんと同じで、何も考えずに一緒にいることができる唯一の人間になってきました。だから私の家に遊びに来る、なんてことはヨシちゃんと一緒に美術館に行くものと、なんら変わり無いのでした。


その日、学校はいつも通り、人と喋ることもせずに、ヨシちゃんも居ないので、黙々と席に座って終わりました。羽倉は授業以外の時間はいつも何処かへ行っているので、それほど言葉も交わさないのです。しかし授業がすべて終了し、帰ろうとすると、羽倉は妙に気分が高まっていて、私の腕を掴みながら、子供のように催促をするのでした。私は正直、半分そのことを忘れていたため、ああ、そうだったな、と思いながらも、とぼとぼと引っ張られるまま歩きました。道の途中、羽倉は、家にはゲームはあるのか、どんな家なんだ、家族は居るのか、などと聞いてきましたが、適当に流しながら答えました。しかし、その中でも、母親は何してるんだ、と問われた時、私は当然のように、いつも家に居るよ、と答えましたが、羽倉はその回答に対して、少し不満気でした。どうでも良かったのですが、不思議と、不満気だったのです。家に着くと、羽倉は、なんだ、普通の平屋なんだな、と零しました。その言葉を聞き、私も、なんだ、私の家は普通の平屋なんだな、と気付きました。家の戸を、ぱらぱら、と開けると玄関にはお母さんの靴しかありませんでした。すると羽倉は突然、お邪魔します、と大きな声で言うのです。私は少し驚きましたが、そういえばこいつには、お母さんが死んだことを言ってなかったな、と思い出しました。だったら仕方ないか、とため息交じりの苦笑をしてしまいました。


「マサ、まだいないな。」


「弟君のことか。見てみたかったんやけど。しゃあないな。」


見てどうするんだろう、と思いながら居間に入ると、羽倉は食卓に目を移し、不思議そうな目をしました。


「なんや、あのミイラ。誰かの趣味なんか?」


真っ先にお母さんのことを言っていました。人の親をミイラ呼ばわりするなんて、度胸あるな、と思い、少し低い声で、お母さんの死体、と言いました。すると羽倉は何故だか驚いた表情を見せ、


「本当か?」


と聞いてきました。何を言っているのだろうと思い、半笑いで、当たり前じゃん、と言うと、羽倉は少し黙って、その後、おまえの部屋に行こう、と言いました。相変わらず、こいつの考えていることは分かりません。


私の部屋に着くと、いきなり床に正座をして、こちらを見上げてきました。


「どうしたの、羽倉。」


「いや、あのさ、おまえの母ちゃんはなんで死んだんや?」


なんで、と問われても、死んでるから、としか思い浮かばなかった。


「ううんと、死んでるから。」


「ずっと死んでるんか?」


「いや、たしか3年前からかな。」


「3年前、何があったん?」


「そんな昔のこと、覚えてないよ。」


「……そうか。」


なんでなんだろうな。当然にお母さんは死んでるんだから、そんなことを考えることは時間の無駄でしかない気がしました。すると突然、羽倉はいつもの笑顔に戻りました。そのまま立ち上がり、私を真っ直ぐに見て、こう言いました。


「なあ、閑子。キスってしたことあるか?」


と、その言葉に、ふと、マサの顔が思い浮かんだのです。そういえば今日、マサにご飯をあげる日だったな、と思いながら、


「そうね、弟となら。」


「そうかあ、それなら、おまえとのファーストキスは無理やな。」


「ファーストキスって?」


「なんや、閑子、知らんのか。男と女っちゅーのはな、ファーストキスから始まんねん。」


そうだったのか、と思い、そう思うと、それを知らずに今までこいつと一緒に歩いていたのがなんだか恥ずかしくなってきました。


「じゃあ、私たち、まだ何も始まってなかったのね。今すぐ羽倉の分のファーストキス、しよう。」


焦りが顔に出てしましました。でも男については、まだ何も分からなかったため、ここで知ることができて良かったなと感じました。でも今考えると、マサともキスから始まっていた気がしたし、お父さんも私が生まれた時はキスをした、と言っていました。やはり男と女には、こういった不思議な壁があるのだな、と改めて思い直しました。


「よし、じゃあ、キス、するぞ。」


なんだか羽倉は緊張しているようでした。私は一刻も早く、この恥じらいから抜け出したいと思ったので、即座に羽倉にキスをしました。マサと同じように、舌を羽倉の舌の裏に這わせ、その後上の歯茎の裏まで這わせました。マサにはいつも食べ物と共にキスをしていたため、少し虚無的な気がしましたが、それほどマサと変わりはありませんでした。


キスが終わると、羽倉は顔を赤くしながら、


「ファーストキスで、舌を入れるやつがあるか。」


と怒鳴りました。それも分からなかった私は、さらに恥ずかしくなり、ごめん、と小さい声で謝りました。しかし、これで羽倉とはしっかりとした関係になった、と思うと満足で堪りませんでした。そう思っていると、羽倉は怒りが収まったのか、また喋り始めたのです。


「男と女っちゅーのはな、互いに運命の人を1人だけ決めなければあかんねん。お前は運命の人、居らんのか?」


「運命の人?その人とは何をするの?」


「運命の人とはな、自分が死ぬまで、もしくは相手が死ぬまで、ずっと一緒に居て、子孫を残さなきゃならんのや。」


「だったら、今まで一緒に居たし、マサだなあ。」


「ちゃうねん、家族は運命の人にはなれへんねん。」


「どうして?」


「神様がそう言ったんや。もしさ、閑子。お前が運命の人を家族以外で決めてないのなら、俺でもいいか?」


「まあ、私が家族以外で人間だと認めてる男は、羽倉しかいないし、そうなっちゃうのかな。」


「なんやそれは。でもそうか…そうやな。じゃあ俺らは、運命の男女で、運命の人やな。」


私は本当に何も知らなかったんだな、と痛感しました。誰かを人間と認めて、さらにそれが男であり、家族以外でなければならない人を見つけなければならないのだということを、なぜお父さんやヨシちゃんはそれを教えてくれなかったのだろう。もしかしたらヨシちゃんは知らないかもしれないから、あっちに行ったら教えてあげようとも思いました。なんだか羽倉は私の知らないことをたくさん知っているし、こいつから教わることは楽しくて仕方がないなと感じました。この人類の原理の話が本当なら、もっともっと知りたいことがたくさん浮かび上がるので、私はぞくぞくして堪りませんでした。そんな感情を押し殺しながら、まず第一の疑問をぶつけることにしました。


「子孫は、どうしたら残せるの?」


「それはな、愛し合うんや。」




****




“愛し合う”


と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?


私は正直に言うと、何も思い浮かべることが出来ません。それは人を愛したことが無いからでしょうか。それとも、誰かから愛されたことが無いからでしょうか。いえ、私は弟を愛していますし、お父さんからも愛されていることは分かります。しかし、“愛し合った”ことが無いのだと思いました。弟から愛されたこともあったし、お父さんを愛しているのも変わり無いので、相互的な愛というのは感じたことはあるのですが、同時に、お互いに、同等な愛をぶつけ合ったことは無いのだなと、改めて感じました。それは、まさに勝負のように、優しさをも忘れてしまうほどの愛のぶつけ合い。そんなことは一切経験などしてこなかった人生でした。ですから、何をどうしたら“愛し合う”のかも、一切分からないのです。


「どうしたらいい?」


「何がや。」


「だから、その、どうしたら愛し合う、ってことになるのよ。」


「どう、って言われてもな。」


そこで羽倉は少し黙りました。照れているのか、困っているのか、よく分かりませんでした。


「お前は、俺のこと好きか?」


その質問は昔、ヨシちゃんにもされた気がしたので、同じように答えました。


「好きだよ。普通に。」


「俺もな、お前のこと好きなんや。」


なんだか、その答えは予想外だったし、ヨシちゃんは確か、そのときは「そっか、よかった。」と答えたから、尚更どうしたら良いのか分かりませんでした。


「なんつうか、その真っ直ぐで、純粋なところが、好きなんや。」


この言葉によって、私は真っ直ぐで、純粋であるということに初めて気づかされました。そしてそれを認めてくれた気がして、こいつと一緒にいたら、自分が何者なのかが知ることが出来るのではないかと考えました。


「なんか、嬉しい、その言葉。」


「せやろ。もっと言って欲しいやろ。」


「うん、もっと言って。」


「愛し合うっつうのはな、こんな話ししながら裸で抱き合うもんなんや。」


「裸で抱き合う?なんでそんなことするの?」


「まあ、やってみれば分かるやろ。」


と羽倉が言うと、自分の制服のブレザーのボタンを外し始めたのです。私も“愛し合う”というものが一体何なのか分からなかったので、一先ず、言われた通りに制服を脱ぐことにしました。スカートのジッパーを下ろし、スカートを脱ぐと、羽倉が少し驚いた表情を見せました。


「その脚の付け根のアザ、どないしたんや?」


「あぁ、これ。気持ち良いんだよ。縫い針で刺すとね。」


「あ…そ、そうか。」


と言うと上裸の羽倉はいきなりそこへ顔を寄せてきました。


「何?」


「よく見せて。」


間近でジロジロとそれを見ると、指で摩り始めました。


「痛っ。」


まだ少し痛みが残っていたため、摩られると少しだけチクチクとした痛みがありました。


「すまん、痛かったか。」


羽倉はすぐに手を引き、摩ることをやめると、上目遣いでこちらを見た。


「痛かったけど、いつももっと痛いから。それが気持ち良くてしてるから、もっと強く触ってもいいよ。」


私はいつもの針のときと同じ感覚だったので、そう言いました。すると羽倉は、指先で摩っていたのを、次は(てのひら)で摩り始めました。いつもより痛くないのですが、掌の熱と、じわりと広がる痛みが、妙に心地良く、とても落ち着いた気がしました。


「これ、下ろしていいか?」


そういった羽倉の手は、既に下着に掛かっていました。


「なんで?」


「いや、その方が触りやすいやろ。」


確かにそう思いました。そう思ったら、早くその心地を味わいたくなり、私は自分で下着を脱ぎました。すると羽倉は、掌で摩ることを辞め、次に口を近づけ、舌で舐め始めました。まだ閉じきっていない傷に、唾液が染みて、ひりひりと痛みました。それがさらに心地良く、ずっとそうしていて欲しいと思いました。


「痛いか?」


「痛いけど、ずっとそうしてて。」


「閑子、好きや。」


そう言うと羽倉は私をベッドへと引きずり込み、それからはずっと、傷を舐められ続けました。




いつの間にか眠りに落ちていた私は、目を開けると、私の股の間では羽倉が眠っていました。羽倉を退けて、その辺にあった下着を履いていると、羽倉も目を覚ましました。


「おう、おはよう。」


夜なのにそんなことを言うと、羽倉は急に真面目な表情になり、こう続けました。


「いいか、よく聞け。」


「何?」


「お前はな、“普通”やない。お前は異常や。だがそれはお前が普通だと思ってしまうくらい、お前は純粋や。異常なほど純粋や。せやから俺は、そんなお前が好きやから、俺も、俺の中の普通を、俺の中の異常にして、お前の“普通”に少しでも近づくから、それを分かって欲しいんや。お前はこれから自分が異常なことに気付き始めるけど、その時は俺に言って欲しい。そして俺をもっと好きになって、いつか俺がお前を好きなくらい、お前が俺を好きになることを望むからな。」


真面目なことを言われたことは分かったが、話の半分は言っている意味がよく分かりませんでした。ただ、この瞬間、私にはこの人が必要だと、直感しました。羽倉は家に帰り、1人、部屋に残された私は、舐められた傷を、左手の中指で摩りました。




過去、忘れた過去よ


あなたを思い出すことなかれ


現在、振り返る今よ


どうして過去があるのか


どうしてそこにはあなたがいるのか


思い出せぬ記憶と


思い出したくない過去が


現在を一方的に通り抜けて


未来から降る雨のように


私を常々から遠去けるの?


屍からは


何も始まらない





****




「なあ閑子、あの男は彼氏か?」


最初はお母さんを見ていながら聞いていたため、お母さんが喋ったのかと思いました。しかし、ご飯を口へ運びながら言ったのは、お父さんでした。


「そんな感じかな。だとしたら何?」


「あんな男はなァ、顔が気に食わん。マサとよく似ている。」


そんなことを言われてみても、私は羽倉の顔を変えることはできないのです。


私が箸を置き、ご馳走様、をすると、今夜もまたマサにご飯をあげます。今夜は無言で、縛られていました。なんとなく、口移しではなく、ご飯を箸で、マサの口へ運びました。


「お姉ちゃん、どうして今日はキスをしてくれないの?」


「それは、あなたが大切な弟だからよ。」


目隠しをしたマサの表情は見えませんでしたが、その後の無言のマサを見ると、私は少し羽倉に会いたくなりました。私が入学してから、もうすぐ半年が経とうとしていました。




羽倉と共に、また今日も私の家へ向かっている途中、羽倉は突然立ち止まりました。


「すまん、俺、帰るわ。」


私は今日も快感に溺れたくて、昨日はいつもより深く、足の付け根に傷を仕込んでおいたため、その言葉を全力で止めたかったのでした。


「嫌よ。今日も愛し合うんだから。」


「お前のその言葉、スッカラカンやな。」


もし私のこの言葉に、意味がないとすれば、私はもう、自分を見失ってしまうと思いました。


「俺さ、もっとお前に愛されたいわ。だから、俺のこと、もっと知ってくれ。教えるから。」


「私があんたのこともっと知れば、また愛し合えるの?」


「そうやな。もし、それで、閑子が本当に、俺を受け入れてくれるならな。」


私は目の前の快楽を、只管(ひたすら)に求めたかったために、そんなことはどうでも良いと思っていました。


「少し、そこの公園で座ろうか。」


そういうと、彼は初めて、私の前を歩くのでした。




公園のベンチに腰掛けると、羽倉は、やっと口を開きます。


「お前さ、お前の母ちゃんが死んだの、なんでか分かるか?」


「そんなの、分からないよ。それより早く、羽倉を知りたいのよ。」


「待てや。お前の母ちゃんに、俺を知る原因があるんや。」


「私のお母さんに?」


「実は俺の父ちゃんはさ、3年前に死んでるんや。それで、お前の母ちゃんも、おそらく3年前に死んだんや。その理由はな…」


そこまで聞いて、私はとてつもなく吐き気が込み上げ、その場で吐いてしまいました。何故かは分かりませんが、頭の中のほぼ中心が肥大して、眼球や頭蓋骨を、内側から圧迫するような感覚でした。しかし、私は早く快感を得たいがために、その話を聞き続けることにしました。羽倉は私の背中を摩りながら、また話すのです。


「お前の母ちゃんが死んだ理由は、ただ一つ。俺の父ちゃんが殺したんや。」


その言葉を聞くと、私は3年前、何があったか、(もや)がかかっていた部分が、蒸発していくようでした。そこで私は生まれて初めて、お母さんが死んだことを理解しました。


「羽倉。思い出した。あの時、羽倉も居た。そして私に弟なんて居なかった。マサは羽倉の弟だ…。」


「そうやな。お前から聞いた時、マサ、ちゃんと生きてて良かったと思ったわ。」


そう、あの時、私のお父さんは、羽倉の父から、お金を借りていて、その関係でナイフを持った羽倉の父は、私の家に押しかけてきたのでした。羽倉とマサもそこに居ました。羽倉の父は、怒りに任せて、私のお母さんを刺し殺しました。そこで私のお父さんはおかしくなっちゃったのです。マサの腕を無理矢理引っ張った後、羽倉の父を、蹴り飛ばし、真新しい果物ナイフで滅多刺しにしたのでした。お父さんは涙を流しながら、お母さんの名前を何度も叫びながら、ゲラゲラと笑っていたのを、よく覚えています。それを見たマサは、恐怖から、私のお父さんの言うことを聞くことになりました。羽倉の父は、私とマサとお父さんのみんなで、私の家の庭に埋めました。お母さんの死体は椅子に座らせ、お父さんは生きていると思い込むのでした。羽倉は逃げた後からのことは分かりませんでした。


私は全てを思い出しました。羽倉を目の前にして、そして羽倉によって、全てを思い出しました。自然と涙が落ちて、羽倉と目が合わせられなくなりました。


「ごめんね。羽倉。私、もう生きられない。マサを返すし、お父さんのことを殺して、私も死ぬ。だから許して。」


「そういうことやない。俺はそれでもお前が好きなんや。お前のお父さんは憎いし、マサは返して欲しい。でもお前に死なれたら、俺は困る。」


言っていることが分かりませんでした。それは私が処女で、他人と感情が違うからでしょうか。私が特殊だからでしょうか。私はその場を、逃げ出しました。




家に着くと、マサとお父さんは居ました。マサは縛られて、お父さんは死体の隣でテレビを見ていました。全てが混沌で変。これを普通だと思った自分を今から殺してやると思いました。薄暗い和室に入り、マサの近くへ行きました。そして、マサの口のガムテープを剥がしました。


「マサ、私と今から逃げよう。こんな家、間違ってる。」


「姉ちゃん、どうしたの?そんなことしたら、お父さんが怒っちゃうよ。」


もう駄目だと思いました。ロープを解き、マサの手を取り、玄関へと向かいました。


「おい、閑子、どこへ行く。」


地鳴りのような声が響きました。


(うるさ)い。私、羽倉から全部聞いて思い出したよ。お父さんは一生、ミイラと暮らしていろ。」


それを言うと、お父さんは一瞬固まり、一度台所へ戻ると、上の棚から、チェーンソーを取り出しました。バイクが人を轢くような音をたて、座るお母さんを、縦に切り裂きました。それはまるで発泡スチロールのように簡単に切れました。


「マサ、逃げて!」


私が叫ぶと、マサは肌色の塊のまま、家を飛び出しました。それを追いながらお父さんはチェーンソーを振りかぶりましたが、マサに届きませんでした。しかし振ったあとの先が、私の右手の小指を飛ばしました。私は何も、痛いなどの感情は無く、冷静でした。その光景を見たお父さんは、何故か泣き出して、崩れていました。私はその隙を見て、マサに続いて家を飛び出しました。


全力で走って逃げながら、私は、入学式の後のことを思い出しました。私は逃げてばかりなのです。その後のことは、どうせ負の方向へしか進まないと分かっていても、逃げてばかりなのです。あの後、学校へ行ったものの、クラス中の視線が怖くて堪りませんでした。唯一のヨシちゃんも死んで、助けてくれる人など居ませんでした。助けを求めていて、でも誰も助けてくれない恐怖から逃げるためにも、クラス中の視線の恐怖の所為にしていたのかもしれません。またこうして走っているのも、きっと、誰も助けてくれないことを、お父さんから殺される恐怖の所為にして、逃げているのだと思います。私は死ぬのが怖いのではなく、この異常な私を認めてくれて、救ってくれる人が居ない事実が怖いのです。この事実を抱えながら死ぬのは嫌だと思いました。その瞬間でした。


「閑子!」


目の前に居たのは羽倉でした。両手を広げて、そこに居ました。私は泣きながら、羽倉に飛び込みました。そういえば、私が、クラスが怖いと思った時にも、目の前に居たのは羽倉だったと思います。


「羽倉、お父さんが…」


「今マサを俺の家に返した。大体分かったから逃げるぞ。」


すると、遠くの背後からバイクのような音が聞こえました。夕方を過ぎた頃でした。




少し離れた公園の、木の陰に隠れました。


「羽倉は、まだ私のことが好き?」


「当たり前だ。」


「良かった。それだけで私は嬉しい。私はもう生きられないよ。死ぬのは怖くないから。」


「お前が死ぬなら、俺も死ぬぞ。」


「それはどうして?」


「お前のことを好きで、お前に人生を捧げると誓ったからや。俺の父さんが殺された時にそう誓った。お前が一人で、誰にも認めてくれなくなったことを知ったからや。」


私の制服のスカートのポケットの中には、少し太めの縫い針がありました。いつも使っているものよりも、一回り太いものです。それを取り出し、羽倉に渡しました。


「これで私の首を刺して。一回じゃ死なないから、いっぱい刺して。」


「良かった。お前がそんなことを言うと思って、俺も持ってきたんだ。」


そう言って、羽倉はポケットから、私と同じくらいの太さの縫い針を取り出し、私に渡しました。


「俺が一つ、刺すごとに、お前も一つ刺せ。そして一緒に死んでいこう。」


私はその言葉に感動して、泣き出しました。


本当に、私は羽倉が好きだと思いました。


「じゃあ、いくぞ。」


ゆっくりと、縫い針は私の喉を通過しました。痛いというよりも、感動が上回り、嬉しくて堪りませんでした。


私も刺すよ、と言おうとしましたが、声が出ませんでした。なので何も言わず、ゆっくりと羽倉の喉を刺しました。羽倉は涙を流しながら笑いました。一つ一つ、針を刺されるごとに、意識が遠のくのが分かります。


思えば私は、青春を経験しませんでした。青春を知らずに、ただ人と物を一緒にして、青春を泥水のように流していました。愛情なんてお母さんが死んでから忘れました。父性など感じず、本当のお父さんなんて居ませんでした。弟も居ませんでした。あの時から私はひとりぼっちの現実から、排水溝の中だけで逃げ回っていました。明るい世界など知らずに泥水だけを見て、流していただけでした。しかし同じ泥水でも、外の世界を教えてくれたのは羽倉でした。私は今、この泥水と共に流れる泥水でしかないと思います。このまま広く大きな川や海へ流れられるかどうかは分かりませんが、初めて、自分も流れることができる泥水であることを、羽倉は教えてくれたのです。


最期の針は、私が先だったと思います。羽倉はその後死んだかどうかは分かりませんが、私はそこで幸せに満ちながら死んだのだと思います。』




これが私の覚えている限りの物語である。









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― 新着の感想 ―
[良い点] 思わず読み耽ってしまいました。 読み応えがあり、次の展開が気になる内容になっていました。 狂っていて、ほんの少しエロくて、でも美しく切なく、精緻な文章でまとめられていて、ガラスのような雰…
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