黒い狼
腹心の予想に反して隣は平穏であった。
何故なら騒乱の対象が、睡魔に負けていたからである。
どうやら自分を待ちかねて、ソファーで眠りについてしまったらしい。
肘掛けに凭れるようにして寝ているその細い身体に腕をまわし、抱え上げて寝台に運ぶ。
寝台に横たえるときにレインは少し眉を寄せたがそのまま瞳は開かず、スヤスヤ寝ている。よほど疲れているのだろう。
(無理もないな…)
何もかも勝手の違う場所で、いきなり大仕事を頼まれているのだ。況してや失敗すれば命がないと思っているのだから。
立ち聞きするつもりはなかったが、クリスがあの赤毛の護衛を呼びに来た時に、ふと耳を済ましてしまった。
彼女は見事な推理でこの件の真相を見抜いていたと言える。ただひとつ王の気持ちを除いては。それも仕方のないことだ。自分が残虐王と呼ばれる理由は承知している。しかし。
(王は恐ろしい人よ)
そう彼女は呟いた。赤毛の護衛を、愛しげに呼んだその声とは別の、凍った声音で。
(当然だ…俺は、そうやって生きてきた)
ジークはそのまま寝台に腰かけて、レインの顔に掛かる栗毛を払ってやる。
少しだけ触れた肌は、柔らかく温かくて離れがたかった。
眠る顔は、普段のはりつめた表情からは想像できないほど安らかで幼く、それは覚えている幼き日の彼女の面影と重なる。
(私、ジークの瞳が好きだわ)
そう言われて、彼女の瞳のほうがよっぽど綺麗だと思った。明けていく空の、とても綺麗な菫の瞳。気づいたときには既に、手の届かないところにいた人。
(私はあの人を許さない)
思い出すのは、白くなるほどきつく握りしめた手と、怒りにそして憎悪に燃える紫の瞳。
故郷を焼き付くす業火を見下ろして、それでも彼女は美しかった。
そしてその日を境に、彼女は姿を消した。彼の、そしてジークの元から。
だから、レインの肖像画を見たとき息が止まるかと思った。彼女に生き写しのその顔、何よりその菫の瞳は見間違えようがなかった。そして調査の結果、自分の直感は裏付けられた。
(あのとき、アイリ様は既に、レインを授かっていた…それでもあの方の元を去った…)
何故かを問うことは出来なかった。
既に彼女は亡くなっていたから。
あらためてレインの寝顔を見下ろす。
昨日も思わず頬に触れたとき、ぼんやりと紫の瞳が開いて。
(…グラン?)
と、違う男の名前を言われた。
アイリそっくりの顔にそう言われて、普段は抑えている感情が沸き上がった。唐突な怒りは激しくて、彼女を無茶苦茶に泣かせたくて、傷つけたかった。そうして彼の名を彼女に刻み込みたかった。
(全く…どうかしてる)
しかも思いがけず、色めいた声をあげられて、危うく最後まで突っ走るところだった。
(まだ、始まったばかりなのにな…)
タメ息をついて、ふと気配に目を向けると、そこには漆黒の身体に青い瞳の狼が佇んでいた。それは、静謐でどこか哲学者のような、自然界にはない獣の姿で。
「…珍しいな」
彼はいつもふらりと現れる。彼はそれ自体が王であるが故に何者にも傅かない。たとえ契約上の主であるジークであっても。
その圧倒的な青い瞳がレインに向いているのをみて、ジークは寝台から立ち上がる。それがこの黒狼に対する礼儀だと思ったから。
ジークが離れるのを待って黒狼はそっとレインのそばに近づく。そして寝台から出ている手をちろりと舐めた。その海のような青い瞳には揺るぎない愛情が感じられる。無理もない。
この黒狼は元の主である彼の気持ちも受け継いでいるのだから。
「お前は…この娘が好きなのだな」
ジークは思わず呟く。その声に、ひたと黒狼はジークを見つめる。
穏やかなその瞳からジークは目を反らす。その瞳が問いかけてくるから。
"では、お前はどうなのか?"
片方で突き放しながら、もう片方で引き寄せているこの状況で、ジークは自分の気持ちにまだ名前がつけられなかった。そしてそれに名前を与えてはいけないことを、彼は知っていた。
彼女がかつて誉めてくれた湖水の眼差しで、眠る乙女を見守るしかない黒髪の青年を、同じ瞳をもつ狼は静かに見つめていた。




