側妃の試験
何処かで、泣き声が聞こえた気がした。
すごく小さかった頃の、クリスティアンの泣き声。
血はつながってなくとも可愛い弟に、手を伸ばした。
大丈夫、といつものように柔らかな金の髪を撫でようとして、その妙に現実的な感覚にレインは夢から覚めた。ぱちっと目を開けば見慣れたようで、どこか違う弟の姿があった。
美少女顔が台無しになるくらい、目と鼻を赤くしている。
「ク、クリス?」
「あ、姉上!」
感極まった弟に抱き締められながら、レインは混乱する。
(あれ?さっきまで王妃様と庭にいて…それでここは…陛下の部屋でっ、てことは王宮なのよね?)
「クリスは何故ここに??それにその格好は??」
いつの間にか髪は伸びて、しかもマリーナのようなお仕着せを着ているクリスに、レインは首をひねる。
そんなレインに、クリスがすこし赤面しながら説明してくれる。本人は不本意らしい。
(まぁ変な趣味に目覚めなくてよかった)
「陛下が姉上の護衛として、グランと私をやとってくれたんです。私は…一応侍女として、潜り込んでおけと言われまして…その支度に手間取らなければ、姉上の一大事にも間に合ったのですが…申し訳ないです」
「そんなことないわ。来てくれて、とても嬉しい」
そしてレインはふと眉をひそめた。
国許から来るといった侍女はクリスだった。
そのために、王は後宮ではなく自分の居室を、レインに提供したのだろうか。
(護衛として男を紛れ込ませても、言い訳のたつように男子禁制の後宮を避けた…?)
しかし一介の側妃にそこまでするだろうか。
心を砕くだろうか。もしかしたら。
(もしかしたら…人質なのかしら…)
見た目はどうあれ、相手は残虐王なのだ。迂闊に信じればこちらの身が危うい。
(でも…あの人には悪意を感じない…)
王の真意を計りかねて考え込む姉に、躊躇いがちにクリスが、声をかけようとしたその時。
バターンという音ともに勢いよく、扉が開け放たれたので、びっくりしてレインとクリスは思わず、お互いの手を取り合った。
そこには、今にも泣きそうな侍女を従えた、仕立ての良いドレスを纏う、スレンダーな美女が立っていた。
少しつり上がった豪奢なエメラルド色の瞳がレインを捕捉すると、ツカツカとヒールを鳴らして近寄ってくる。
少しくすんだ色の金髪が歩みに合わせて、ふわふわと揺れていた。
「貴方ね、陛下が直々にお迎えに上がったという、田舎貴族とやらは?」
その言葉に、"後宮虎の巻"の一文が浮かぶ。そしてちらっとみた彼女の父親も。
(父親に似ず美人で猪突猛進)
どうやら、この人は。
「その通りですわ。ヒルデガルドさま」
レインの言葉は"当り"のようで、ヒルデガルドはその形のよい眉を少しあげて、腕を組んだ。
「頭は悪くないようね。さっきもいち早く曲者に気づいて、王妃様を遠ざけたのは合格だったわ。でも!無事を確かめずに、倒れたのはマイナスだわ!」
「……はい?」
突然始まった講評に、レインの頭に?マークがとぶ。ヒルデガルドは、庭での出来事を知っているようだ。
(こんなに早く、噂を聞き付けてくるわけない…ということは…)
レインの疑いを肯定するかのように、不遜な令嬢は頷いた。
「ちょっと、試験をしたまでですわ。貴方が王妃様に敵対する気なら、全力で叩き潰しましたけど、今のところそんなつもりもないようですから…見逃してあげますわ」
つんと顎をあげて、澄ますヒルデガルドに、怒るタイミングを逸してしまい、レインはただ苦笑する。
「それは…一応合格、ということなんでしょうか?」
「いちおうですわよ!王妃様がいうからしかたなくですわ!」
「お嬢様…!王妃様からちゃんと謝るように言われたじゃないですか?」
相変わらず泣きそうな侍女が、後ろから諌める声の"王妃"の部分にピクリと肩を揺らし、ヒルデガルドは小さく咳払いして、レインをきっと睨んだ。
「まさか、こーんなに体が弱いとは思わなかっただけよ!あの…ちょっと…は、悪いと思ってるけど…!」
声と共にぽいっと投げ出されたそれは、紅茶の葉のようだった。受け取ったそれを、まじまじと見つめるレインとクリスに、びしっと指を突きつけて、仁王立ちになった彼女が、いい放ったのは…
「それあげるわ!」
そして何故か、赤くなってクルリと踵をかえすと足早に立ち去っていった。
その背中を見送り、唖然としているクリスとは裏腹に、一気に覚醒したレインは、唇を噛み締める。
(成る程…そういうことか)
「クリス、グランを呼んで」
姉の言葉に弟は首を傾げたが、すぐさま毛の護衛を呼びにいった。
クリスに伴われたグランもその乏しい表情に困惑の色を浮かべている。
「外でヒルデガルド様に、目付きが悪すぎると叱られてました」
「…なんだあれは?」
短い語彙で尋ねられ、レインは思わず吹き出してしまう。
「私もよく分からないのよ。でも、悪い人ではなさそう」
「しかし姉上は、あの方に殺されかけたのですよ!」
珍しく荒げた声をだすクリスと、その言葉に水色の瞳に剣呑な光を宿す、幼馴染みの両方を目で制してレインは続けた。
「あの方は、王妃様に言われただけだと思うわ。直接的にか間接的にかは、わからないけど…新しい妃に不安があると言われたら、ヒルデガルド様は察して動くタイプだもの」
その溢れる行動力を、目の当たりにしたクリスもグランも、深く頷かざるをえない。
「そして、王妃様に策を授けるのは…王しかいないと思うの。実際私が、紅花を欲しがってるのを知っていたのは、陛下と宰相さまくらいだもの」
レインは言葉を切る。
次の言葉には覚悟が必要だったから。
「…そして、このからくりに私が気づくように、ヒントもあった。だからこれは…陛下の警告だと思ったの。変なことを考えたら…何時でも消せる、というね」
「あ、姉上…それは、考えすぎでは?姉上は依頼されて、仕事に来ただけです!」
「…レインの仕事場が問題なのか」
グランの独り言のような台詞に、レインは頷いた。
「後宮には、残虐王の弱点がある…そして私は、その方に近づく大義名分があるのだもの。牽制しておいて、損はないでしょう。相手は8才の子どもを手にかけて、平然とできる男よ。情けは期待できないわ」
冷たく言葉で切り捨てながら、レインの心に浮かんでいたのは別の思いだ。
あの隻眼に浮かぶ感情は、優しさと呼んでもよいものもあったのに。
今は心の鎧を固めなくては、不安だった。
(私は誰も信じない…)
「だから貴方たちも、もしかしたら私に対する人質なのかもしれない…だからもし…何かあったら…クリスを頼むわね」
「姉上!そんなこと言わないで下さい」
吸い込まれそうなエメラルドの瞳に、涙を浮かべるクリスに、レインは微笑んで、その涙を拭う。
「常に最悪の事態を想定して、備えることは上に立つものの努めよ。クリスもそろそろ覚えなくてはね」
どこまでも清廉なこの弟を、そのままにしてやりたい気持ちと、領主として立派になってほしい気持ちは、矛盾しているけれどレインの素直な気持ちだ。
この弟には善く生きてほしい。
レインには出来ないことだから。
「わかった」
短い応答に無表情、と赤毛の幼馴染みは相変わらずだが、彼はレインが口にしなかったこともきっと酌んでくれたに違いない。
水色の瞳には優しくレインを労る色があった。たまらず、そのたくましい胸に飛び込んだ。
「グラン…私どこに行くのか不安なの。陛下は…あの方は恐ろしい人だわ」
大きな武骨な手が、レインの頭を撫でてくれるのを感じる。
いつもは安らぎを感じるその動作なのに、レインはどこか比べている自分を感じる。けして優しくはないあの王を。
(王は私を守らない)
それを今回ヒルデガルドを通じて、確認させたのではないだろうか。
ならばレインは強くならなくてはいけなかった。王自身にすら太刀打ちできるほどに。




