王妃の茶会
「…はぁ…」
今日何度めかのため息をついて、レインは半刻前から、"後宮虎の巻"の同じページを見つめていた。
そんな主を見つめて、マリーナもまた気づかわし気だ。
因みに王に対する有らぬ疑いは、いまだに解けてない。
「そんなに気が進まないようでしたら、王妃様にお日にちを変えていただいてはいかがですか?」
そっと声をかけてくれるマリーナに、レインは笑って頭を振る。
「そういう訳じゃないのよ」
問題は体調ではなく、情報量の少なさなのだ。
シリーンと王については恋愛小説仕立ての力作だったのに、他の側妃については一、二行なのだ。例えば王妃に次ぐ第一側妃のヒルデガルド・アインスバッハについてはこんなかんじ。
(父親に似ず美人だが、猪突猛進…王妃ラブって王のまちがいじゃないの?)
まぁユージィーンが、後宮の面々を詳しく把握しているなら、そもそもレインの出番はなかった訳で、釈然としないながらも、気をとりなおすことにする。
とにかく一刻も早く終わらせて、領地に帰らなくてはならない。
これから繁忙期のあちらでは手はいくらあっても足りないのだ。
決意とともにパタンと厚い本を閉じると、ちりと首筋をレースが掠めて、レインはびくっと肩を揺らす。
鏡に向かって初めて気づいてから意識せずにはいられないそれ。
なんとか手元のドレスのなかから、なるべく喉元が隠れるようなデザインにしたのだが。
それでも出てしまった首もとには、幅広のレースを結んだもののーなんだか、常に意識してしまう結果になり、かえって落ち着かなかった。
(それもこれも全部、陛下のせいなんだから!)
苛立たしげに、拳を握りしめたとき。
「レイン様…そろそろ…」
侍従長が控えめに呼びかけるのに頷いて、レインは一つ息を吐く。
(落ち着いて…一つ一つ確実に)
色を染めるのと同じ。注意深く見て、ちょうど良い色を見極めるのだ。
「行ってらっしゃいませ」
見送ってくれるマリーナに頷いて、部屋を後にする。
(私ならできる…やってみせる)
後宮に続く扉はすぐだった。
王の為の宮なのだから当たり前だが、その近さに意外な気がした。
(こんなに近いなら、私もここでよかったのに)
「王妃様からは、天気が良いのでお庭に案内するように、と申し付けがありました。なんでも貴方が歓びそうなものがあるとか」
侍従長のその言葉に、首をかしげる。
「王妃様は私のこと、ご存知なのかしら?」
その言葉に心なしか、侍従長は胸を張る。
「あのお方は特別なお力のある方ですから、すべてのことが分かるのです」
隠しきれない敬慕の念に、改めてここが王妃の宮であることを理解する。
(残虐王を魅了する女の人だもんな…)
一体どんな人なのか、物思いに耽っていたせいで、その声にきづいた時にはすぐそばにレインより女の人にしては背の高い人がいた。
薄い斜のかかった赤い布で覆われている身体は、少しだけ丸みを帯びていて、その人が女の人であることを窺わせる。
そして、その姿が夫である人以外に肌を見せることを嫌う、神聖帝国の装いであることに気づいて、レインは目を丸くした。
(シリーン王妃様…!)
まさか王妃自らが出迎えにくるとはおもわず、レインは焦った。
そんな彼女には頓着せず、王妃は薄い布地ごしに微かにみえる形の良い唇を歪めた。
涼やかな声は耳に快く響く。
「やっと気づいたか、エレインは耳が遠いのかとおもったぞ!」
唯一、見える琥珀色の瞳は生き生きと輝き、みるものを捉えて離さない不思議な魅力に満ちていた。
「お、王妃様、自らお出迎えなど!そんなはしたない真似をされては、エレイン様がビックリしてお出でです」
侍従長の言葉に、王妃の眉がしゅんと下がった。
「レインは私に会えて、嬉しくないのか?」
このしょんぼりした仔犬みたいな人を、嫌える人がいるわけがない。
思わずレインは王妃の細い手をガッチリつかみ、激しく首をふった。
「こんな可愛い王妃様を、嫌いになるなんて…とんでもないことです!」
その言葉に、王妃の琥珀色の瞳が、嬉しそうに細められる。
次の瞬間、王妃の細い体がレインの腕に飛び込んできた。
「私とジークの為に来てくれてありがとう」
耳元に素直な声音でそう言われて、レインは思わず泣きそうになった。初めてここに来て与えられた労いの言葉。
望まれて、ここに居るという証の言葉に。
(この方を守りたい…)
そう思わせる何かが、目の前の人にはあった。
庭先で抱き合う王妃と寵姫の姿に、使用人たちが慌てるのを横目に王妃の体を離し、レインはあらためて彼女に膝をついた。
「微力ながら、全力をもって、お仕えさせて頂きます」
その言葉に王妃は、向日葵のような笑顔をレインにくれた。
ひと悶着あって、ようやく落ち着いたテーブルには、既に香りの良い紅茶のポットと小さなお菓子が並んでいた。
供を連れずにレインと手を繋いで帰ってきた主人に驚くこともなく、侍女は流麗な仕草で給仕してくれる。
「ありがとう、ディアナ」
「毎回ですから…慣れもしますわ。シリーン様も15なのですから、もう少し落ちついてくださいな」
主にやんわりと釘を指したあと、レインに少し済まなさそうな顔をみせて、ディアナは紅茶を淹れてくれる。
「ビックリされたでしょう?王妃様は、どの方にもこんな感じで、ほとほと手を焼いておりますの。レイン様もお気に召さないことはドンドン仰って下さいね!」
嘘の見えない本音に、レインは思わず微笑み返す。
そして困る、と言いながら彼女が、どれ程この主に誇りを抱いてるのかが、その瞳に伺えて。
「私のようなものに…勿体ないことです」
思わず返した言葉に、弾かれるようにシリーンが瞳を上げる。
「そんな言い方はよくないな。私は好きじゃない」
すべてを見透かすような琥珀の瞳に、目が離せなくなる。月のようにさえざえと輝いて明るいのに、どこか影を内包する底知れない瞳でもある。
(この人は…どこか王に似ている)
もしかしたら。
(裏と表が反対なだけなのかもしれない…)
そんな自分に、レインは首を振って否定する。
(誰でも疑ってかかるのは、よくないわね…)
この優しさに裏があるとは思えなかった。
「はい。王妃様…気を付けます」
途端に、シリーンの瞳が不機嫌そうに歪む。
「その呼び名は嫌いだ。シリーンと呼んで欲しいな」
(なんだろう…やっぱり陛下に似てる)
また、吹き出してしまいそうになるのを堪えて、レインは改めて呼びなおす。
「ではシリーン様。私のことは…陛下からお聞き及びですね?」
込み入った話になりそうな気配を察したのか、ディアナは護衛を伴って少し席を外してくれた。
こちらから見えないところで、見守ってくれるのだろう。気づかいに感謝して、レインはディアナに軽く頭を下げた。
レインに会わせて、王妃の瞳も険しくなる。
「私の先般の事件を調べてくれるものだ、と聞いた。後宮に自由に出入りするために、側妃に迎えるとな」
シリーンは少し言葉をきって、小首を傾げた。
「ジークからも事件のことは聞いてないか。ユージィーンは…しないよね。彼本業以外、ずぼらだから」
くすくす笑ってシリーンはお茶を飲む。
口元の薄絹は外れ、すっと通った鼻筋と桜色の唇が見えた。
その作り物めいてみえるほど整った面に、レインは思わず嘆息した。
(陛下が夢中になるのもわかるわ…)
しかし見とれてばかりもいられない。
気を取り直して質問を再開する。
「どんな事件でしたのか、お聞かせ頂ければと思いまして…」
いいよどむレインに頓着せず、シリーンはカップを手で包み込むようにしながら、小首を傾げる。
一つ一つの所作は幼いのに、容姿は完成された大人のものというアンバランスさが、シリーンに妖しい魅力を与えていた。
「んー…平たく言うと、こーんな晴れた日に外でお茶してたら、毒が入ってたみたいなんだよね」
そこまで言ってレインの不思議顔に気づいて、シリーンは言葉を付け足す。
「私は一応、王族だからね…幼少から毒には慣らされているんだ」
淡々と話す王妃を見ながら、レインは背筋が寒くなる思いだった。
(なんて世界なんだろう…)
「いれたのは侍女の一人だったんだけど、みつかるまで折り込み済みだったのか、自分も毒を煽って意識不明だよ。まぁ起きても地獄だから、目が覚めない方が幸せかもね」
吸い込まれそうなほど美しい笑みで、さらりと残忍な台詞を漏らしながら、シリーンは紅茶を飲み、手をつけていないレインを見て軽く微笑む。
「大丈夫、これは毒見済みだよ。ジークが過保護でね」
「心配にもなりましょう。また狙われる可能性もあるのですから!!」
思わず語気をあらげたレインを、面白そうにみて、シリーンは首をかしげる。
「レインは、不思議な所で怒るね」
「…陛下も王妃様も、ご自身を大事にされてないのですもの…!」
怪我をしていても、けして手当てをさせてくれない獣のように。
最後には背を向けられる。
強い獣だって、傷を負えば痛いだろうに。
死を願われる程の強い悪意に対峙して、心が全く傷つかないことは…ないだろうに。
レインの言葉に困ったように、シリーンは目を逸らす。ピッタリの言葉を探すように。
「大事にしてないわけじゃないんだけど…ん~私自身について言えば…ジークが絶対に守ってくれることを知ってるから、かな。他力本願で申し訳ないけど」
にこりと微笑んでシリーンは、レインと目を合わせた。
その琥珀の瞳に、王に対する絶対的な信頼をみて…何故か胸が騒ぐ。
(王妃様のお気持ちはとうに分かっていた筈なのに…もちろん陛下の気持ちもだ)
あれは演技でしかない。
あの優しさも眼差しも、全てはこの人のものなのだ。
自分の考えに沈むレインをよそに、シリーンは眉を寄せて真剣に考え混んでいたが、ふとタメ息をもらす。
「うーん…自分では、側妃ともうまくやってつもりだし、ジークは相変わらずだから、彼をワザワザ怒らせてやろうなんて恐れ知らずは、そういないはずだからね」
シリーンはお手上げというように、肩を竦めてみせる。
「でもまぁ、相手の本音は分からないからね。側妃たちには、こんど紹介するからゆっくり話してみて」
「分かりました」
ひとまず王妃と話せただけでも、収穫だった。
物憂げにタメ息をついて紅茶を飲むレインに、シリーンがウズウズといった感じで、口を開く。
好奇心にキラキラ輝く瞳は、誰かに似ていて嫌な予感しかしない。案の定。
「レインさあ、ぶっちゃけ聞いてもいい??その首のって…キスマーク?私、はじめてみたんだけど、近くで観察しちゃだめ??どうやってつくのか知りたい知りたい!!」
身を乗り出してくるシリーンを押さえつつ、レインは思わず首筋を隠す。
「だ、ダメです!シリーン様には早いです!」
「え~もう15だもん!色々知ってるよ~。ジークも手が早いよね。枯れてるのかと思いきや…ププっ」
「何もされてません!!シリーン様は、ご存知でしょう?!」
真っ赤になるレインを面白そうに見つめて、シリーンはお菓子をぱくっと摘まんだ。
「なぁーンだ、やっぱりヘタレか。ホント世話が焼けるよね…」
小さなシリーンの呟きは、顔の熱を下げるのに忙しかったレインには聞き流された。
「と、ところで私に見せたいものがあるとか…」
話がまた蒸し返されては堪らないので、レインは必死でシリーンの興味を反らす。
「あ、そうだった!こっちこっち!」
いきなり立ち上がり手を引かれる。
着なれないドレスの裾が縺れて転びそうになりながら、シリーンについていく。
少し遅れて付いてくる護衛を確認して、しっかりと足をふみなおすと、突然鮮やかな黄色が広がった。
「これ!レインが欲しがってたってきいたからこっちにも植えてもらったの。どう?気に入った??」
一面の紅花を前に得意満面で笑うシリーンに。
「…すごく気に入りました。ありがとうございます」
なんだか涙がでそうになりながら、レインはシリーンに頭を下げる。そして満面の笑みを返す。
「何本かもって帰りたいので、摘んでも良いですか?」
「勿論。ハサミを借りよう。庭師はいる?」
シリーンの声に、少し遅れて歩み寄ってきた初老の男が、にっこり微笑んで近づいてくる。
「はい。ここにおりますよ。なにか御用ですか?」
声の主がシリーンだったことに気づいて、慌てて平伏する老人に微笑んで、シリーンが手を差しのべようとするのを、レインは横から制した。そっと自分の後ろにシリーンを庇う。
じわりじわりと背筋に嫌な汗が流れる。そして庭師と名乗る老人を見据える。微かな黒い靄をまとう彼を。
「…庭師というのは嘘ですよね?あなたは誰なの?」
レインの誰何の声に、初老の男の肩がピクリと反応してー次の瞬間、なにか鋭利なものが自分に向けられたのを感じた。
凄まじい気迫に、体を動かすことすらできなかったが、間一髪間に合った護衛に短剣は刺さる前に叩き落とされる。
激しい目眩にたっていられず、思わず膝をつく。
「レイン?!」
必死で呼び掛けるシリーンに微かに頷いて、護衛に捕縛されて去っていく老人を見届けてレインは意識を手放した。
フェードアウトしていく視界に、一羽の黒い鳥がよぎっていく。
(あ、れは…からす?)
哀しげにこちらを見るそれに、訳もなく悲しくなりながら、レインは意識を手放した。




