汚いおっさんと人を食った話
口の中で、トンカツの肉汁がじゅわっと広がる。カツサンドならではの豊かな味わい。
パンの甘味、ソースの濃厚な旨味が溶け出し、舌の上で肉と絡み合っている。
一体、何の肉が使われているのか不明だけれど。
今世紀の食糧問題を解決すべく、人間を食糧にしようという温故知新の提案が、世界中でブームになっているのは周知の事実だが、ここネオ東京でもその常識は変わらない。グローバル化の流れに逆らわない、美しい流れであった。
汚職した役人は炊き出しの材料にされるのが当たり前。豚汁の具材となって、自己犠牲のお手本を示すのが慣例だし、それは成果を出せなかった国会議員、悪徳警官、経営者、労働者も例外ではない。皆、食肉加工されてスーパーの店頭に並び、人々の飢えを満たしてくれるので、生産的な罪の償い方である。この素晴らしいシステムが、世界中で導入されるのも無理からぬこと。あらゆる動物性タンパク質の摂取が、人間の中で完結するようになって早十年。日本海や東シナ海、南シナ海のお魚さん達は絶滅の危機から救われ、地球環境はかつてなく浄化されたともっぱらの噂だ。
そんなご時世、だだっぴろい学食の一角に、不景気な面をした少年が一人。
明治時代の文豪にも似た、この世を呪うような暗い目つきと、線の細い顔立ちが特徴的である。
強いて言うなら、オカマを掘られていそう。
名前を、ヨシオという。
「部長……」
「美智子……可愛いわよ」
視界の端で、色気づいた女学生どもがイチャイチャしている。硬い木板に当たった尻肉が、スカートの布を扇情的に盛り上げていた。片方は一年生の間で人気が高い、黒髪ロングの水泳部部長。日焼けした太股が、ミニスカートから艶めかしく突き出ている。
夏服のブレザーがよく似合う、涼しげな横顔だった。彼女と抱き合うのは、思い人と同じブレザーを来た女子生徒だ。さっぱり切り揃えられたおかっぱの前髪、童顔気味の丸い顔。地味な少女の頬は、恋情に赤く染まっていた。見つめ合う二人の女学生の唇が、ゆっくりと近づく――衆人環視の中。変態そのものの思考と、哲学的命題に惑う瞳が、同性間の不純交遊を見咎める。
いわゆる、百合という奴。
ああ、人的資源の無駄遣いだ。正直、見ていられない。
しかし悲しいかな、学食のど真ん中、何故かテーブルの上で盛り始めているので、嫌がおうにも目立つ。レズだのゲイだのヘテロだの、一切合切の区別なく迷惑行為というべきであろう。発情期の雌はこれだから困る。
まったく度し難い。少年は深々と溜息をつくなり、右手に握ったコップの中の麦茶を飲み干す。百合の濃厚な絡みを観察していたせいか、すっかりぬるくなっていた。堪らなく暑い。彼は、学生服の第一ボタンを外してエロい息を吐く。
怒声が聞こえた。
「駄目だ、息をしていない! うどんが気管に……」
「へへっ、これで次の中間テストの順位が上がるな!」
「てめえ!」
場所は学生に開放されている食堂。昼食にありつかんとする学生の群れ、群れ、群れ。
労働に疲れたサラリーマンもかくやという顔色のまま、レールに乗った人生(権力を行使し、他人を食肉加工場へぶち込むこと)を望むガリ勉たちが、化学式を口ずさみうどんを啜る。有り体にいえば、地獄だ。うどんを喉に詰まらせようものなら、周りの学生の手によってとどめを刺される。
開け放たれた扉の外側へ目をやると、いつも通りの食糧調達の最中だった。食肉加工マシーンに見つかった不良学生が、黒いゴミ袋に詰め込まれて調理室に引きずり込まれていた。
過酷な生存競争から目を背け、ヨシオはすぐ右の先輩へ声をかけた。
「先輩、宗教やってましたよね。何とかなりませんか、あれ」
隣の席でカツカレーとカツ丼を貪り食い、冷たい水をガブ飲みする男が、顔を上げた。
身長一八〇センチ、人間離れした広い肩幅。人類よりもオランウータンに近い顔面形状。まさしく、この世に生まれ落ちたハーフブリードだ。しかも彼にいじめを行った人間は、例外なく、肛門を三〇センチほど拡張され発見されている皆、絶命していた。
検視によれば、素手での犯行らしい。
類人猿との異種交配が噂される男、松田先輩である。
「女学生の百合なんて、だいたい片割れが遊びで解散だぜ? あと二年も待てば、
遊び気分の方とガチレズの痴話喧嘩で愉快なことになるってわけよ。楽しみだなあ、ええ?」
グチャグチャと汚い咀嚼音。彼の口腔で噛み潰されるトンカツの肉が、豚肉である確率は約三分の一。人肉を加工した疑似豚肉――厚生労働省も認める"健全食料"――ならまだいいが、ヘロインや覚醒剤で脳までおかしくなったジャンキー学生の成れの果ての公算も大きい。勿論、学食の食肉加工で健康的に処理されているので、ただちに影響はないのだが。
「で、そうじゃなかった場合は?」
「本物の愛情はいつだって祝福されるべきだと思うぜ。それが、自分にとってどんな意味を持とうとな」
ニヤニヤ笑いを洩らしながら言われても説得力に欠ける。
仮に朝八時のヒーローみたいなことを言っても、ひどい侮蔑にしか聞こえないはずだ。
我ながら先輩への崇敬が足りない後輩である。皆、十人十色の自殺方法で派手に死んでくれれば、俺にとって有意義なんだけどなあ、とヨシオは思う。
「言っておくが、おれはあらゆる人種を差別しない。
おれにとって愉快なら何だって大歓迎だからな。もっと争え屑共」
「博愛主義者の俺には想像もつきません、松田先輩」
「お、おう」
何故か、どん引きされていた。
やはり新種の人類である松田と、清廉潔白な日本国民たるヨシオの間には深い断絶が横たわっているようだ。良識溢れる文化人たるヨシオは、うんうんと頷いてみせる。
不気味な珍獣を見るかのように眼を丸くしていた先輩が、難儀そうに口を開く。
「宗教っていってもな。うちは寺社仏閣でも一神教でもないぜ?」
「胡散臭いカルトなんですよね」
「……お前、おれ以外の前でそういうこというなよ」
「大丈夫です、相手は選んでます」
お前がクソ野郎だってことはわかった、と呟く松田。彼は嫌そうな顔で原材料不明のカツ丼を掻っ込むと、げふぅと下品なゲップをして、隣の後輩を見やる。その顔は笑っていない。
「お前、あのレズカップルの片割れに惚れてるな?」
何も言えなかった。胸の奥で燻る、寝取られめいた屈折した感情を前に、ヨシオの息子はアルデンテだったのだ。今すぐ立ち上がるわけにはいかない。彼のそんな複雑な心境が伝わるわけもなく、松田先輩は重々しく頷いた。
「午後、ちょっと屋上に来い」
何故か、昨日借りてきたポルノムービーを思い出すヨシオだった。
本能的に借りたタイトルだった。深夜に再生してみたところ、濃厚な筋肉の絡みを目にしただけだった。彼は今月の小遣いを無駄にしたのだ。今度は、穴と棒の純潔まで奪われてしまうのだろうか。
◆
普通、学舎の屋上は施錠されているのが普通だ。何せ、食肉加工マシーンから命からがら逃げてきた学生が逃げ込むかもしれないし、彼らが飛び降り自殺でもしたら食糧資源の無駄遣いである。このように徹底されたコスト意識が、世界をふんわりした優しさで包み込むのだ。
ともあれ、決まり事は破られるためにあった。真新しい南京錠が、その犠牲者だった。
松田先輩の類人猿並みの握力に屈し、ぐにゃりと曲がって鉄屑に変わる錠。開け放たれた扉の向こうは、青々と広がる一面の晴天だ。夏の壮大な景色に意識を奪われつつ、ヨシオは自分の命の心配をしていた。午後の授業をサボる、というのは命懸けの作業である。今日日、企業献金を欠かさない企業幹部とて、一歩間違えば美味しいロースハムになってしまうのが常識なのだ。
当然、何の後ろ盾もない学生が不良行為に手を染めれば、どうなるのかは目にみえていた。
「大丈夫なんですか、先輩」
「目撃者は消せばいいだろ」
ヨシオの額を冷たい汗が伝い落ちる。やはり肛門を数十センチも拡張され、腰の骨を粉砕された死体は、松田の犠牲者らしい。これは不味い。下手な受け答えをすれば、自分も加害者不明の惨殺死体になってしまうのではないか。この期に及んで自己保身しか考えていないところに、ヨシオ少年の澄みきった純粋な人間性が垣間見えていた。
松田先輩は気のいい男なので、彼の緊張を掻き消すように笑ってみせた。
爽やかな類人猿の笑み。
「まあ、うちの崇めてる神を呼び出せばイチコロだぜ?」
そして、ヨシオの答えを待つことなく妙な呪文を唱え始めた。
どうやら普段から屋上を邪教の儀式に利用していたらしく、やたらスピーディにことは進んだ。
時間にして僅か一〇秒。
「え、、ちょ、待って!?」
呆然としていた少年が、我に帰ったときにはすべてが手遅れだった。
突如、ピンク色のいやらしい煙が立ちこめ始め、少年の叫びは最後まで言わせて貰えなかったのだ。もくもくと視界を埋め尽くす煙を前に、ヨシオはゲホゲホと咳き込み、してやったりと笑っている大男を睨み付ける。涙目だった。
「カップルを別れさせる究極の邪神――」
こちらの気も知らず、煙の向こうで蠢く"何か"に、疲れた笑顔を向ける松田先輩。
煙が晴れていく。底抜けに蒼い空の下、ヨシオが目にしたこの世ならぬもの、神は人型であった。
ぬちゃっ、ぬちゃっ。湿っぽい足音を響かせ、歩行する度に柔らかな贅肉が上下に揺れている。
蒸し暑い日本の夏に対応し、肥え太った肉塊から湿っぽい汗が噴き出し、こちらの鼻孔を刺激してくる。その存在はでっぷりと贅肉で太り、処理していない体毛でいっぱいの、脂ぎった中年男性だった。
「――汚いおっさん!」
敬う気が皆無の邪教だった。しかも恋愛的な意味でまるで期待できない存在だ。
むしろ寝取ったり寝取られたりするときに活躍しそうだった。汚いおっさんはブリーフ一丁の姿で、全身を覆う脂肪を伝い落ちる汗を拭おうともしない。彼が一歩、足を踏み出す度に、屋上の床が生ぬるい悪臭に包まれていくのが嫌でもわかった。
はっきり言おう。
「変態じゃないか!」
「御利益は確かだぜ。謎の催眠能力持ってるし」
何故、松田先輩が食肉加工場に送られていないのか、ヨシオは理解する。
おそらく、彼に近づいた捜査の手は、この不可思議なおっさんによって忘却されてしまったのだろう。そのとき二人のやりとりを見守っていた汚いおっさんが、自身の唇をぺろりと舐めた。
何か言いたげな彼の意思を尊重し、ヨシオと松田は発言を促してみることにした。
「違うよ。おじさんは小さい子に好かれやすいだけなんだよ、ぶひっ」
本人に言わせると、催眠だの洗脳だのという卑劣な手段は持っていないのだという。
ただ、若い女の子に好かれやすいだけなのだと主張している。
台詞まで薄汚かったため、思わず後退るヨシオ。
「うわあ」
「汚いおっさん様、ロリコンだったのかよ」
松田は若い女の子が好きなので、害虫を見るような目で自身の奉じる存在をねめつけた。
可憐に咲き誇るであろう、大輪の花の蕾へ手を出す輩は死ねばいいのだ。
ある意味、女好きの鑑である。
「む、むしろ幼稚園児まで行けるんだな」
「ペドは理解しがたいものがありますね――」
ヨシオは、自分の信じる正義を言い切った。
「女は五〇からが本番ですよ」
「ストライクゾーンが広すぎるぞ、後輩。何故それで同級生に惚れた」
「彼女が五〇過ぎになるまで一緒にいたいんですよ」
「深いな……」
松田にとって、深すぎて理解できないことだけが救いである。
これ以上踏み込むと藪蛇のような気がしたので、後輩の横恋慕を叶える手段を話し合うことにした。といっても、屋上の真ん中で、松田が作戦を説明するだけだ。汚いおっさんは、目の前に美少女が来るまでやる気が出ないし、ヨシオはこの邪神について素人なのだ。
無駄に面倒見がいい松田は、それゆえに先輩と呼ばれるのだった。
「まず、汚いおっさんを野に放つ。事前に目標をインプットしておけば、速やかに目標といい仲になる」
「ふむふむ」
「それで終わりだ。カップルは破局する。恋人に裏切られ心の隙を突き、お前が新たな彼氏になる」
ひどい段取りだった。
口にしてから後悔したらしく、松田はオランウータンそっくりの顔を顰めて前言撤回。
「……自分で言ってみて何だが、人間のクズの発想だな。まともに告白した方がいいぞ」
じゃあ何で召喚したんだよ、と喉まで迫り上がった言葉を飲み込む。何せ相手は、多分に勢いで動いてる感のある松田先輩である。それに、ここまでお膳立てされて後に引けるほど、ヨシオは器用な生き物ではない。
「先輩、知っていますか。人間は幸せを求める生き物なんですよ」
ヨシオは爽やかな笑みをこぼした。
「――洗脳から始まる恋もあると思います」
勿論、常識を弁えている松田はどん引きした。
「すげえ、レイプ犯の戯れ言並みだ」
「じ、自分に正直なのはとってもいいことなんだな」
汗ばんだ指でブリーフを撫でつけながら、中年太りを体現したおっさんが頷く。
段々と汗が気化して冷えてきたらしい。汚いおっさんは寒そうに震えていたが、二人とも、汚いおっさんに衣服を貸そうとはしなかった。ここにいるのは、愛し合う少女達を引き裂き、己の欲望の毒牙にかけんとする悪鬼と、手段を選ばぬ邪神崇拝者なのだ。
当然ながら、読んで字のごとく汚いおっさんに優しくはない。
ともあれ、無駄に乗り気になったヨシオの存在により、汚いおっさんを使った作戦会議はしめやかに閉じられようとしていた。可愛い女の子と付き合えると知り、御機嫌でステップする中年太りの肉塊を横目に、ヨシオは浮かれていた。これでようやく、叶わぬ恋が実現する――人間のクズの鑑であった。しかし彼を現実に引き戻すのも、この非現実的イベントを引っ提げてきた張本人だった。不意に、松田が真剣な声で呟く。
「でもいいのか。ぶっちゃけ、おっさんが二人とも食っちゃう可能性も大きい」
ヨシオは石像のように固まった。
それを早く言えよ、と言うべき場面だったが、想定外の悪夢に硬直する少年にその余裕はない。
悪気のない表情のまま、オランウータンとの交配が確実な松田先輩が、最後の引き金を引いた。
「つまり、確実にあいつと穴兄弟に――」
瞬間、ヨシオが一歩足を前に踏み出す。足の動きと腰の捻りが連動し、やや後ろに引き絞られた右拳が、躰の前進に併せて繰り出された。肉体の移動を、そのまま直進運動に変えて放たれる拳打。その破壊的な一撃が、汚いおっさんの腹に深々と突き刺さった。
ぶひょっ。およそ人間のものとは思えぬ、汁っぽい奇声を上げておっさんが吹き飛ぶ。
屋上のフェンスに激突した贅肉の塊が、ぶるんぶるんと豪快に震えた。
「人間をなめるなぁあああ! 化け物!」
「お前が人類代表とかぞっとしない冗談だぞ」
松田先輩の冷たい突っ込みを尻目に、とどめを刺そうと身構えるヨシオ少年。
その眼前で、汚いおっさんが立ち上がる。腹の贅肉が衝撃を前進に分散した上、吹き飛んで見せたことで運動エネルギーも躰の外に逃していたのだ。
危なげない足取り――ほとんど無傷に近いおっさんは、腹肉をぶるぶる振るわせている。
「どぅふふ、まずは君のファーストキスから奪うべきみたいだねえ」
ヨシオはぞっとしながらも、硬く拳を握って身構えた。
見よう見まねで放った空手もどきの一撃だが、案外、自分には才能があるのかもしれない。
この戦いが終わったら、空手道場に入門しよう。そして、いつか、正々堂々と告白するのだ。
「やってみろ、見ず知らずの人間を食い物になんかさせない!」
急に心を入れ替えたヨシオに対し、汚いおっさんの肉欲が叩きつけられる。
タックルであっさり少年を押し倒した汚いおっさんが、いやらしい笑みを浮かべた。
「ふふふ、おじさんは男の子もいけるんだよ!」
「うわああああああっ!」
三分の二の確率で豚肉ではないカツサンドを食いつつ、汚いおっさんと組んずほぐれつの白兵戦を繰り広げる後輩を見守る。なるほど、中々、悪くない午後の過ごし方だな、と頷く松田。
ふと、口中の肉に違和感を感じた。大昔、普通の豚肉を食べたときには感じなかった風味。
調味加工液では消せない悪臭は、雑食の動物のものだ。
「――あっ、これ人肉だわ」
まったく、人を食った話もあったものである。