零すことなど許されない
そいつは祭りでもないのにひょっとこのお面をつけていた。
蝉さえまだ鳴いていないのに。
ああ、目尻が熱い。
「祭りはまだやっていないよ」
目をこすって僕が言う。
「知っているよ」
ひょっとこは答えた。
「じゃあなぜそんなもの、かぶっているの」
ぼくはお面を指差した。ひょっとこはその顔を保ったまま平然と答えた。
「かぶっているんじゃない。これは俺の一部なんだよ」
ほらね、とひょっとこはお面に手をかけ、引っ張った。
お面はビクともせずにそこに居座ったままだった。
「周りの景色は見えているの?」
「当たり前だ。でなきゃ真っ直ぐに歩けないだろ」
「そうか」
「そうだ」
僕はそれに興味津々であった。
食い入るようにお面を見つめる。
そうか、そうなのか。
「止せよ。俺は見世物じゃない」
両の頬を軽く抓られた。
じわりじわり痺れる頬に手を当て、僕は口を尖らす。
「見たくもなるさ。今の時期そんなお面つけているなら良い見世物だよ」
「おいおい、言って良いことと悪いことがあるんだ。そこらへんはちゃんと弁えな」
ひょっとこは肩をすくめ呆れたようにぼやいた。
気に障ることを言ってしまったみたいだった。
僕は少し反省する。
「ごめん、少し反省した」
「少しかよ」
ひょっとこのお面は相も変わらず間抜けなままだが、その奥でかすかに笑い声が聴こえた気がした。
「ねぇ」
僕が聞く。
「なんだ」
「そのお面はどうすれば外れるの?」
「…知りたいか?」
「うん」
ひょっとこは顎に手を当て、軽く考えるフリをする。
僕はひょっとこに会う前からずっと無表情だったから、たぶん今も無表情なのだと思う。
それ以前に僕は表情など作れるほど優れた人間ではなかったから。
「他の奴に寄生させればいいんだよ」
それだけだ。
ひょっとこは言った。
きせい、きせい、単語がひらがなで巡って、やがて漢字に変換される。
「他の人に身代りになってもらうってことだね」
「ああ、その通りだ。かくいう俺も、身代りにされたわけなんだが」
ひょっとこは顔に手を当て、お面を引き抜こうとする。それでもお面は微塵も動く気配など無かった。
ふと、ひょっとこを見続けていた僕の目の前に影が出来る。
それが前にいた男の手だと気づくのに少し時間がかかった。
がしっ
顔面を強く鷲掴みされた。
みしみしと嫌な音が耳に響く。
けれども不思議と痛みはなかった。
僕が身代りにされるのだろうか。はたまた顔を握りつぶされてしまうのかな。などとぼんやり考える。
僕の思考回路の十分の一は停止中なので、脳はほぼ寝ているといってよかったのだけど。
それでも一つ言えることは、僕は、身代わりになるわけにはいかないのだ。
つらつらと薄っぺらの脳みそで考えていれば、いつの間にかあの嫌な音が消えていた。
飛ばしていた思考を無理やり現実世界へ引き戻す。
目をぱちくりさせて前を向けば、そこにはひょっとこがいた。
「阿呆なのかお前」
「うーん、キミが言うならそうなのかもしれない」
呆れたようにひょっとこが言う。しまいにはおでこに手を当てため息をつく始末である。
「いま、なんで俺が、お前に寄生させなかったか分かるか?」
「さてね」
否、わかっているけどね。
「俺は、誰も俺と同じ思いをしてほしくないからだよ」
僕は何も言わない。相変わらずの無表情のまま彼を見ている。
「俺は、お前を恨んじゃいないよ」
彼は言った。
「呆れるね」
僕は言った。
「ああ、まったくだ」
今度こそ彼は笑った。
それに自分で内心驚くくらいの空しさが、僕の心の裏側に落ちてきた。
「僕は僕を恨んでいるよ」
「それは無駄なことだ。止めておけ」
僕は言う。彼は否定した。
「なら僕を恨めばいいよ。それは、僕のだ」
すっ、と彼に張り付くお面に手を伸ばす。
ぱしんっ、と乾いた音がしたと思えば、伸ばしていた手をはたかれてしまっていた。
「痛いじゃないか。なにをするのさ」
「阿呆」
彼はもう一度、阿呆、と言った。
「俺はこの現状を悲しいとも恨めしいとも思っていない。そもそも何を悲しんで恨めばいいんだ」
「それが可笑しいんだよ」
「どこが?」
「キミが可笑しいの」
空いた穴は埋まらないよ。僕は愚痴る。
じゃあ尚更だ。彼が首を振る。
「俺らは互いにどこか欠陥しているらしいから、それを生かしていけばいいと思うわけだ」
「馬鹿じゃないの?」
「そう言うお前は阿呆だけどな」
「…キミに言葉で勝とうなんて思ってないからいいんだけど、やっぱり憎たらしいや」
「俺は何も感じない。オーケー?」
「僕は何も表現できない。オーケー」
ならいいんだ。彼はくるりと回って、歩みを進めた。僕はそれを止めない。
(止められるのなら、すでにしてる。それができないのは、)
「僕に、止める権利など無いからだ」
「ああ、よく分かってるじゃないか。そうだね、お前は俺を止めちゃならない」
足を止めずに彼はぶっきらぼうに言い放った。そしてついでのように言葉を続ける。
「…あと、悲しそうな顔なら出来んのな、お前」
「!」
振り返ったひょっとこの裏側に、キミの素顔を久しぶりに見た気がしたよ。
僕は喉まで来たそれを押しこんだ。
「じゃあな、達者で。もう会うことはないだろうよ」
「…できれば、もう二度と会いたくないな」
僕は目をつむった。
辺りは真っ暗になる。頭の中で三秒数え、目を開けた。
そこにひょっとこはいなかった。
「こんな僕でも、キミという存在を殺してまでも生きたかったんだよ」
最後まで目尻が熱かった。
こういう話はどのジャンルに分別されるのでしょう…




