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刑徒の恩送り  作者: 鯖欄
第一章

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1話 反撃の狼煙

登場人物

監獄の囚人女性、主人公 セーレ

刑務官の青年 マーク

カーン監獄長と刑務官一同他

「あの日、自由と平和を夢見た少女だった私。

 戦争という名で、能力を駆使しながら瞳に映るのは、決まって誰かの血と肉片。

 贖罪を探して祈りを続けるも、人殺しの日々に明け暮れ、そして負けた。

 どうして、私は最後まで、何も知らなかったのだろう。

 後悔したって、もう三年も前の話だ」後に残されたのは、女性囚人の後悔。そして、その頬を伝う一雫だけ。


 誰も近づかぬ荒れ地にその建造物は聳(そび)えていた。ここはカーア・ラーン監獄。百年の歴史を刻む、地上最悪の牢獄である。入獄時に見た鬼の紋章が刻まれた特徴的な鉄門。人々はそれを地(・)獄(・)門(・)とも呼んだ。

 誰もが言う。ここに足を踏み入れた者で、生きて帰った者はいない、と。

 夜になっても、それは変わらなかった。壁の内側から低い唸り声が聞こえた。知らない誰かの罪を悔いる声、怒りに満ちた叫び、そして絶望に溶ける嘆息(とうそく)。

 看守たちはそれを囚(・)人(・)の(・)子(・)守(・)唄(・)と嘲笑った。だが、誰も笑ってはいなかった。この監獄では、囚人も看守も、皆が何かに囚われているのだ。その空気は、独房棟の一角にも伝染した。

「また、聞こえる」

 目に光を失った白髪の女が、薄闇の中で背を壁に預け、髪は肩口で絡まり、唇は乾き、肌は月光のように蒼白い。

 彼女はその日も、ぽつりと呟いた。

「退屈だわ」毎日、同じ言葉。

 誰に聞かせるわけでもない、独り言。だがその声の底には、静かな狂気だけを孕んでいた。

 

 いつもの昼間。監獄では年に一度のお遊戯会と呼ばれる催しが行われていた。看守のみ参加、強制的な娯楽行事である。

 廃れた壁に張り付けられた粗末なダーツボード。そこには一から二十までの数字が雑に貼られていた。

「では次、三号房のマーク!」

 無精髭を生やした小太りのベテラン看守が、青年看守のマークを呼んだ。マークが、ため息をつきながら前に出る。

 青年といっても、周囲の看守たちは皆、日に焼けた肌をしていたが、マークの肌はそれに比べて幾分白かった。そして、刑務所勤めも三年目。マークは笑えない冗談と、息の詰まる規律にうんざりしていた。

「こんな茶番、やってられ……」

 マークが言いかけた途端、背後から腕をねじ上げられる。年が離れた同僚の仕業だ。場の空気が一瞬で凍りつくようだった。同僚の年長看守が、耳元でボソボソと囁く。

「おい、上の命令は絶対だ。二度と軽口を叩くな」

 カーア・ラーンでは、三年前の言(・)論(・)戦(・)争(・)以来、たった一つのルールが絶対となっていた。

「命令には、理由を問うな」と脳裏に焼きついた言葉に、マークは怒りを抑え、再びボードを見据える。

 右手に握ったダーツを、思い切り投げた。鋭い音を立てて、矢は一番の数字に突き刺さた。

「……一番房の囚人は、誰だ?」

 周囲の看守たちの空気がざわめく中、古参の看守が、口の端を歪めて笑った。

「知らない方が身のためだ。だが……」わざと間を置いて、彼は囁いた。

「一番房の女だ。恐ろしく、美しい女だ」

 それ以上、誰も口を開かなかった。なぜかマークの胸に、得体の知れぬ澱みだけが残った。

 

 看守たちが、騒ぐ声も聞こえない一番房。分厚い鉄扉の向こうに、白髪囚人の彼女はいた。手錠と足枷をされたまま、暗闇の中でじっと座っている。

 目隠しをされ、何も見えない。ただ、耳だけが異様に研ぎ澄まされていた。足音、鉄格子の軋み、遠くの咳払い。それらすべてを聴き分け、彼女は時間を測る。唯一の楽しみは、食事に添えられるスープの香りを味わうこと。その味が日々少しずつ変化していくことを、彼女は知っていた。

「まずい」スープの香りが変わる、調理人が替わったのだ。

「今日かしらね」足音も違う、今夜は看守の配置まで変わっている。そして今夜は、月が満ちる。彼女は口元に微かな笑みを浮かべる。長い沈黙の果てに、声が漏れた。

「……もうすぐね」まるで、自分に言い聞かせるように。

 その声は、冷たい牢の壁に吸い込まれ、小さく反響する。

 この場所に来て、三年。無数の夜を越えて、彼女は待ち続けていた。唯一の機会、月が満ちる夜を。

 地上の誰も知らない。その夜、カーア・ラーン監獄に最初の裂け目が刻まれる。この地獄に風穴を開ける、彼女の反撃の狼煙が上がることを。

 沈黙の果てに、世界がひび割れ始め、月光は、鉄と血を淡く照らしていた。

「……やっとだ。力が溜まるのを感じる」

 若い女の声を掻き消すように、ドブネズミが闇夜に這い回り、チューチュウと鳴く。床はタイル張りでひんやりと冷たい。至る所に隙間風が吹き込み、冬なら寒すぎて寝ることさえままならない。ここはA級犯罪者が収監される無期懲役刑の監獄だった。


 看守の青年マークは月明かりに照らされ、かすかに揺れる人影が見える。

(美人の女性囚人か……ツイてるな。おっと、看守の仕事モードを意識せねば)

 その人影は古びた扉を開け、木の椅子に腰を下ろす。そして鉄格子を一度叩くと、手に持ったトレイを牢の中へ差し入れた。そこには、かぴかぴに乾いたパンと、汚れたコップに注がれた水が載っている。

「ほら、食え」

 牢の中にいるのは、白髪の若い女性。彼女は目隠しをされたまま、マークに尋ねる。

「今日で投獄されて何年になるの?」

「囚人との会話は禁止されている。さっさと食べろ」

「正解は……ここに来て三年でした。どうせ暇なんだし、もっと喋ろうよ。ねぇ、食事を取りたいからこの目隠しを外してくれない?」

「お前はA級犯罪者だ」

「ケチ」

 牢の中には、木製のおまると粗末なゴザが敷かれているだけ。衛生環境は劣悪で、牢内には悪臭が立ち込めている。重労働こそないものの、視界を奪われたままの退屈な日々は、拷問にも等しかった。衣服はボロボロで、歯もろくに磨けず、すでに何本か抜け落ちている。

「その目は危険だ。決して目隠しを外すなよ」

 マークの後ろから、チョビ髭の太った男が現れた。この監獄の所長を務める人物。

「見た目はいいのにな。余計な力なんて持たず、大人しくしていれば、愛人くらいにはしてやったものを」

 この監獄は腐敗しきっていた。暴力、賄賂、売春。もはや何でもありの無法地帯。特にこの所長は、自らの利益のためなら手段を選ばない。労働環境は最悪だったが、ここで働く者たちも他に職を選べるような境遇ではなかった。

「お前は、この女が不審な行動をしないか監視すればいいのだ。いいな?」

「はっ、承知しております」

 チョビ髭の所長は乱暴に扉を閉め、去っていった。牢には再びマークと白髪の女性だけが残される。

「ねぇ、あなたはこんな世の中、おかしいとは思わないの?」

「……さっさと食え」

「なんで、あんな男に従っているの?」

「……」

「あなたは不思議に思ったことはないかしら。なぜ、三年前に言(・)論(・)の(・)自(・)由(・)が禁止されたのか」

「……」

「まったく、あなたはただの豚ね」

「なんだと……?」

 マークは怒りに任せ、牢の鉄柵を拳で叩いた。衝撃で皮膚が裂け、血が滲む。

「黙れ……お前に話すことはない」

「そう」

「俺だって好きでこんな仕事をしてるわけじゃない……」

「あら、大変だったのね」

「あぁ、大変さ。あの所長にこき使われて、低賃金で……やってられねぇよ」

「そう……それで?」

「あの野郎……いや、喋りすぎた」

「ふふ、ありがとう。私はセーレ。看守さん、あなたの名前を教えてくれないかしら?」

「セーレか……まぁ、名前くらいは……マークだ。話は終わりだ、さっさと食え」

 セーレは、かすかに笑った。その笑みは、ただの囚人にしては不釣り合いなほど魅力的に見えた。マークは、一瞬だけ頬を染める。しかし、すぐに表情を引き締め、トレイを回収した。

「……やっと準備が整ったわ」

 セーレがぽつりと呟く。

「ねぇ、この生活にも飽きたの。そろそろ出るわよ。今こそ自由を。Follow me, pig!」

 彼女は妖艶に唇を舌で舐め、しなやかな手つきを見せる。目隠しの下から、不吉な力があふれ出した。

「……何を、した……?」

 マークの体が勝手に動き出す。手にしていた牢の鍵が、意志に反して錠前に差し込まれた。

「さぁ、私の目隠しを取りなさい」

 マークが声を上げようとするが、喉が凍りついたように動かない。手が勝手に動かされ、ゆっくりとセーレの目隠しを外す。

 現れたのは――真紅の瞳を持つ、美しい顔立ちの女性。

「さて、看守さん。あなたはこの牢屋に火を放ちなさい……あぁ、あなたの記憶を読んだわ。他にも、お友達がいるようね?」

 セーレの白髪が、銀髪へと変化していく。と、同時に牢の扉が開き、男たちが四人、部屋へ入ってきた。

「男五人か。十分ね。さぁ、あなたたちの仕事よ! 牢獄に火を放ち、すべての囚人を解放しなさい」

 看守たちは、次々と牢を開け、火を放った。炎が監獄を包む中、セーレは裸足のまま笑いながら歩く。

「聞け、豚共! 今こそ反(・)撃(・)の(・)狼(・)煙(・)を上げる時よ! あなたたちは自由なの。何かに囚われていていいはずがない。私が導く! 私の言葉だけを聞きなさい!」

 従う者の数は、瞬く間に増えていった。所長は錯乱し、立ち尽くす。

「な、何が起きている? 私の監獄が……」

「見つけた」

 悪意に満ちた表情、狩人の目でセーレは獲物を睨んだ。

「……銀髪、赤目……見えざる断罪者、なのか?」

「久々に聞いたわ、その二つ名」

 燃え盛る炎を背に、セーレは微笑んだ。

「さて、私は花火が見たいの。あなた、その薪を持って火の中に飛び込んでくれる?」

 冷たき真紅の瞳で、「飛び込め!」と洗脳の力を強く念じた。

「だ、誰がそんなことを……ぐっ……」

「いいから、行け」

 セーレは冷たく言い放つ。

「あなたの罪は死に値するわ」

「そんな、私は所長だぞ。誰か助けんか」

 燃え盛る収監所に向かい、所長は走り出した。

「さぁ、皆様。勇敢な彼に敬礼!」

 所長を取り囲むように、操られた看守は皆敬礼をする。炎に包まれる所長の悲鳴が断末魔となり、響き渡った。

「さて、名前なんだっけ? 私、人の名前を覚えるの、苦手なのよね」

 燃え盛る火を背に立つ彼女の名は、セーレ。かつて――言論の自由のために戦った者である。

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