「嫉妬もしない女は可愛くない」と婚約破棄されたので、嫉妬深い公爵様に弟子入りしました
「私以外の女性を見ないでください」
そう言って袖をつまむと、ジーク様は紅茶を飲み損ねた。
咳き込んでいる。
王宮で大臣を黙らせるときも眉一つ動かさないという公爵が、口元を押さえ、耳を真っ赤にしている。
「……今のは、いかがでしたか」
「何が」
「嫉妬の伝え方です。先生」
私たちは恋人ではない。
お稽古中である。
二十一歳の伯爵令嬢、フィオナ・ベルクは、先月、婚約を破棄された。
私のことである。
元婚約者のアルマン様には、別に好きな女性ができたらしい。
「君は嫉妬もしない。可愛げがないんだよ」
というのが、私を捨てる際のお言葉だった。
初めてではない。
彼がほかの女性へ花を贈ったとき、嫌だと言ったことがある。
束縛するな、と叱られた。
二人で出かける約束を忘れられ、泣いてしまったこともある。
面倒な女だな、とため息をつかれた。
だから私は、何も言わなくなった。
すると今度は、嫉妬もしない女は可愛くないのだという。
ずいぶん難しい試験だった。
しかも出題者は、私の前で新しい恋人の肩を抱きながら、不合格を告げてきた。
その日の夜、父はアルマン様の父であるロセル侯爵へ会いに行った。
戻ってきた父は、婚約が正式に解消されたとだけ言った。
それから、一緒に焼き菓子を食べた。
父はいつもの倍、私へ菓子皿を寄せてくれた。
悲しいかと聞かれたら、少し悲しかった。
けれど、何が悲しいのか、自分でもよく分からない。
アルマン様と結婚できなくなったことなのか。
それとも、泣くのを我慢した自分が、なんだか馬鹿みたいだったからなのか。
私より先に怒ったのは、友人のエディット様だった。
「そういう男にはね、靴の中へ小石を入れるのよ」
「見つかったら取り出されます」
「小さいのを、いっぱい」
「具体的ですね」
伯爵夫人であるエディット様は、私をお茶へ招くたび、少しずつ復讐案を増やした。
私は笑った。
笑えるのが嬉しくて、それからようやく、言いにくかったことを打ち明けた。
「私、次に好きになった方にも、何も言えなくなったらどうしようと思うのです」
「フィオナ」
「嫌だと言うと嫌われるでしょう。でも、黙っていても嫌われてしまいました。どのくらいなら言ってもよいのか、分からなくなって」
「相手によるわ」
「そこを、もう少し詳しく教えていただきたいのです。できれば実際に」
「実際に?」
「舞踏も刺繍も、お稽古すれば少しは上手になりました。恋愛だけ、何も習わずに上手にしなさいと言われても、困ります」
エディット様は、しばらく私を眺めた。
それから、たいへん面白いことを思いついた顔になった。
「嫉妬に詳しい男なら、知っているわ」
「本当ですか」
「うちの弟」
「ジーク様が?」
ローデン公爵ジーク様。
二十六歳。
黒髪に青い瞳の美丈夫で、独身。
王宮では氷の公爵と呼ばれているが、私には、やけに苦い紅茶を好むエディット様の弟、という印象のほうが強い。
二年前から、ときどきお茶の席でお会いしていた。
「とても落ち着いた方ではありませんか」
「外ではね」
「嫉妬するのですか」
「それはもう。聞いているこちらがうんざりするほど」
「意外です」
「本人に聞いてごらんなさい」
次のお茶会に現れたジーク様は、私のお願いを聞いて、姉を見た。
エディット様は、たいへん上品に焼き菓子を食べていた。
「私に、嫉妬を教えてほしいと」
「はい。とてもお詳しいと伺いました」
「姉上」
「嘘は言っていないでしょう」
「余計なことは、ずいぶん言ったようですね」
ジーク様は眉間を押さえた。
「君は、アルマンとやり直したいのか」
「いいえ」
これはすぐに答えられた。
「今度は私の話を聞いてくださる方がいいです。でも、その方の前でも我慢してしまったら、もったいないでしょう」
「……そうだな」
「ですから、お稽古に付き合っていただけませんか」
「私で練習すると?」
「ご迷惑ですか」
彼は長いこと、私を見ていた。
やがて、息を吐いた。
「迷惑ではない。ただ、嫉妬をわざと起こさせるために、ほかの女性を口説くようなことはしない」
「それは私も嫌です」
「嫌なことを嫌だと言う練習なら、付き合える」
「ありがとうございます、先生」
「その呼び方はやめてほしい」
「では、師匠」
「悪化したな」
こうして私は、公爵様に弟子入りした。
そして一回目のお稽古が、冒頭の大惨事である。
エディット様の応接室で、相手がよそを見ていたらどうするか、試してみることになったのだ。
ジーク様が壁の絵を眺めたので、私は袖をつまんだ。
恋愛小説で読んだ台詞も添えた。
結果、先生が紅茶に負けた。
「お手本の台詞を、そのまま使うのはよくなかったでしょうか」
「そのままで、それか」
「『ほかの人を見ないで』より丁寧にしてみました」
「丁寧さの問題ではない」
ジーク様は水を飲んだ。
私は壁の絵を見上げる。
描かれているのは、先代公爵の愛馬だった。
「そもそも女性ではありませんでしたね」
「そこは気にしなくていい」
「馬に嫉妬するのは難しいです」
「無理にしなくていい」
先生は少し疲れていた。
エディット様だけが、扇で顔を隠して震えていた。
「借りた言葉ではなく、君が今、本当に言いたいことは?」
「……あります」
「言ってごらん」
「そのレモンのお菓子を、私にも分けてください」
ジーク様は自分の皿を見た。
私の皿には、一口大の小さなものだけが載っている。
エディット様が、うっかり私の好みを忘れたわけではなかった。
私が自分で、それを選んだのだ。
アルマン様とお茶を飲むとき、大きな菓子を食べると、はしたないと笑われた。
だから、つい小さなものを取ってしまう。
「もちろん」
ジーク様は使用人に頼んで、私の分を持ってこさせた。
半分ではなく、一つ。
私の皿の上に、つやつやした黄色いクリームの山ができた。
「多すぎた?」
「いいえ」
「それはよかった」
フォークを入れた。
薄い砂糖が、ぱり、と割れる。
酸っぱくて、甘い。
おいしかった。
思っていたより、ずっと。
「君は、それが好きだったね」
「覚えていらしたのですか」
「以前ここで食べたあと、料理人に作り方を聞いていただろう」
「あれは二年も前です」
「卵白を何度泡立てても失敗すると、真剣に相談していた」
「そこまで覚えていらっしゃるのですか」
ジーク様は少し口を閉じた。
「印象に残っていたので」
私はもう一口食べた。
口元が勝手に緩んでしまう。
「……それだ」
先生が、低い声で言った。
「今の顔のままでいてほしい」
「菓子くずがついていますか」
「違う」
「では、どうして」
「可愛いからだ」
フォークが皿の上で鳴った。
今度は、私の顔が熱くなった。
先生は咳払いをする。
エディット様は二人を交互に眺め、何も言わずに紅茶を飲んだ。
私はこの日、嫉妬より先に、褒め言葉に返事ができないことを知った。
次のお稽古は、一週間後。
エディット様夫妻に付き添っていただき、春の市へ出かけた。
広場で人形芝居を見ていたら、ジーク様に会釈をする女性がいた。
明るい巻き毛の、美しい方だった。
彼女は挨拶のあと、一緒に歩こうと誘ってきた。
「これから、向こうの花屋を見ますの。公爵様もいかが?」
「今日はフィオナ嬢と来ていますので」
「皆様ご一緒でも」
「彼女は、まだ芝居の続きを見ている」
女性は私を見て、あら、と笑った。
嫌な笑い方ではなかった。
「では、お邪魔しては悪いわね」
彼女が去ってから、私はジーク様に尋ねた。
「ご一緒しなくてよかったのですか」
「君は行きたかった?」
「いえ。人形の王様が、まだ井戸に落ちたままでしたので」
「私もあの王の安否が気になる」
彼はそう言って、私の隣へ戻ってきた。
王様は無事に助け出された。
主役の娘に礼を言う途中で、今度はズボンが落ちた。
私は笑った。
隣からも、低い笑い声がした。
ジーク様はこんなふうにも笑うのだと、そのとき知った。
「さっき、少し心配でした」
帰り道、私は打ち明けた。
「花屋へ行くのが?」
「先生が、あちらの方と行ってしまうのが」
「行ってほしくなかった?」
「はい」
「それを、そのとき言ってくれたら嬉しい」
「言わなくても、残ってくださったでしょう」
「そうだな」
彼は小さく笑った。
「聞きたかっただけだ。私が」
横顔を見上げると、耳が少し赤い。
私は自分の指を握った。
それから、彼の上着を少しだけ引いた。
「帰る前に、もう一か所、一緒に寄っていただけますか」
「どこへでも」
返事が早かった。
私は笑いそうになり、唇を噛んだ。
「まだ、行き先を申し上げていません」
「あとで聞く」
「たいへん遠いかもしれませんよ」
「では、馬車を呼ぼう」
彼と一緒にいると、お願いをする前の、あの嫌な緊張がなかった。
頼みすぎたかな、と心配するより先に、次は何を一緒に見ようかと考えてしまう。
焼き栗を買って、半分ずつ食べた。
ジーク様は私の頼みを断らなかったが、自分の希望を隠す人でもなかった。
「次も、私を誘ってほしい」
「お稽古ですか」
「市でも、散歩でも」
「先生はお忙しいでしょう」
「忙しい日に断る役目まで、君が引き受けなくていい」
私はうつむいた。
何と答えればいいか分からないとき、菓子を食べるふりができるのは便利だ。
けれど焼き栗は、もう一つも残っていなかった。
「では、次も一緒に来てください」
「喜んで」
その返事が聞きたくて、私は次の約束をした。
お稽古を始めて三週間が経った頃、ロセル侯爵家から手紙が届いた。
アルマン様ではなく、そのお父上から、改めての謝罪だった。
私は父と一緒に読んだ。
アルマン様の新しい恋人は、彼と口論になったらしい。
ほかの女性と親しくしないでほしい。
約束を守ってほしい。
自分の嫌がることを、わざとしないでほしい。
最初は愛されている証だと喜んでいたアルマン様が、次第にうんざりした顔をするようになったという。
結局、二人は結婚の話が始まる前に別れた。
「会って話したいと、本人は言っているそうだ」
父が言った。
「私は会いたくありません」
「分かった」
それで、その話は終わった。
父はしばらくしてから、別のことを尋ねた。
「今度の日曜日は、ローデン公爵と出かけるのか」
「はい。エディット様もご一緒です」
「楽しそうだな」
「まだ出かけていませんけれど」
「もう、楽しそうにしている」
私は頬を押さえた。
父は、何も言わずに笑った。
それでもアルマン様と再会する機会は、思ったより早く訪れた。
エディット様の屋敷で開かれた、小さな夜会でのことだった。
ロセル侯爵家は彼女の夫と親交があり、招待客に含まれていたのである。
アルマン様は私の姿を見つけると、以前のように片手を上げた。
私は会釈だけを返す。
少し前の私なら、その手のほうへ歩いていっただろう。
今夜は違う。
ジーク様がどこにいるのか、まだ見つけられていなかった。
彼は遅れて来ると聞いていた。
私は早く、新しいドレスを見せたかった。
裾の広がる、水色のドレスだ。
おとなしい色ばかり選んでいた私が、仕立屋で一番に指さしたものだった。
「フィオナ。少し話せないか」
「今は、お待ちしている方がいます」
「ローデン公爵だろう?」
「はい」
「妙な噂を聞いた。彼に、男への甘え方を教わっているとか」
顔が熱くなった。
私がエディット様に相談しているところを、知人に聞かれたことがある。
伝わる途中で、随分違う話になったらしい。
「気持ちの伝え方です」
「同じことだ。そこまで努力してくれたなら、僕も考え直していい」
「何をですか」
「僕たちのことを」
アルマン様は、少し得意そうだった。
「公爵の前で練習したなら、もう分かるだろう。僕にも可愛く妬いてくれればよかったんだ」
私は彼の顔を見た。
たぶん、前より上手に話せるようにはなった。
けれど、それは彼が望む返事をできるという意味ではなかった。
「私、あなたに嫉妬したことはあります」
「……そうだったか?」
「あなたが別の方を観劇へお連れになったとき、私も一緒に行きたかったと申し上げました。覚えていませんか」
「あれは、付き合いで」
「知っています。あのときも、そうおっしゃいました。そのあと、面倒な女だと」
アルマン様が口を閉じた。
「ですから次からは、言いませんでした」
「それは、君が物分かりよく――」
「我慢しただけです」
思ったより、大きな声が出た。
近くで話していた方々が振り返った。
私は扇を握り直す。
「泣けば面倒で、泣かなければ可愛くない。私、どちらでも叱られました」
「叱ってなどいない。少し注意を」
「もう、教えていただかなくて結構です」
声が震えた。
怖かったからではない。
あのとき言えなかった言葉が、いっぺんに出てきそうだった。
「あなたは、嫉妬が見たかったのではありませんよね」
「何を」
「私が泣くほどあなたを好きだと、確かめたかったのですよね」
すぐそばで、誰かが息を止めた。
アルマン様の耳が赤くなった。
以前なら、怒らせたと思って謝っていた。
今夜の私は、謝りたくなかった。
「フィオナ。君は変わったな」
「はい」
「公爵に教わったのか」
「いいえ。今のは、私の言葉です」
彼は私の背後を見た。
そこで初めて、ジーク様が来ていたことに気づいた。
公爵は私の肩へ勝手に触れたり、私の代わりに怒鳴ったりはしなかった。
ただ、私に聞いた。
「ここにいてほしい? それとも、二人で話したい?」
「いてください」
彼は頷いて、隣に立った。
それだけで、扇を握る手の力が抜けた。
アルマン様が何か言いかける。
「僕は別に、彼女を傷つけるつもりで――」
「戻る気はありません」
私は、その言葉が終わるのを待たなかった。
「もう一度、我慢する練習をしたいわけではありませんので」
少し離れたところにいたロセル侯爵が、息子を呼んだ。
アルマン様は父親と私を交互に見て、やがて、ぎこちなく頭を下げた。
彼が去ると、ジーク様が私の顔をのぞき込む。
「大丈夫か」
「はい。少しだけ、外の空気を吸いたいです」
「一緒に行こう」
差し出された腕へ、私は迷わず手を添えた。
屋根のあるテラスには、ほかにも何組かの男女がいた。
ジーク様は私を椅子へ座らせ、冷たい果実水を持ってきてくれた。
私は一口飲み、ようやく肩の力を抜いた。
「先生」
「今夜くらいは、名前で呼んでほしい」
「ジーク様」
「うん」
「ありがとうございました」
「君が言ったんだ。私は隣にいただけだよ」
「いてくださって、嬉しかったのです」
彼はまた、黙った。
この人は肝心なところで返事が遅い。
けれど、赤くなった耳が見えるので、待っているあいだも不安にはならなかった。
「今日のドレス、とても似合っている」
「本当ですか」
「広間へ入って、すぐに君が分かった」
「水色にしてみたのです」
「よく似合う」
「それはもう伺いました」
「何度でも言いたい」
私は果実水の杯を持ち上げた。
口元を隠せるだけの大きさがあって、助かった。
そこで、近くの柱の向こうから、ご婦人方の話が聞こえてきた。
「ローデン公爵には、南方の侯爵家からも縁談が来ているそうね」
「お相手は大変お美しい方ですって」
「そろそろ、お決めになるのかしら」
杯を持つ指が止まった。
ジーク様は独身だ。
私のお稽古に付き合ってくださるからといって、これからも独身でいるわけではない。
考えれば、当たり前のことだった。
私は杯を置いた。
もし、彼が結婚したら。
市で買った焼き栗を、半分ずつ食べるのは、その奥様だ。
誰かが話しかけてきても、芝居の続きを見るために残ってもらえるのも、その奥様。
彼が苦い紅茶を飲んで顔をしかめる、妙な癖を見られるのも。
「フィオナ?」
胸が痛くなった。
アルマン様に会ったときとは、まったく違った。
あの人から離れたくて痛かったのではない。
目の前の人に、離れてほしくなかった。
「お稽古は、もう終わりですか」
「……終わりにしたい?」
「私に、決める権利があるのですか」
「もちろん」
「ですが、ご結婚なさったら、困りますでしょう」
ジーク様は柱の向こうを見て、戻ってきた。
「その縁談は、断った」
「そうですか」
ほっとした。
こんなにほっとしてよいのかというくらい、息が楽になった。
けれど、次の縁談は来るだろう。
その次も。
私は膝の上で両手を握った。
「今の、嫉妬だったと思います」
「……そうか」
「胸がぎゅっとなって、さっきの方々のお話を、聞きたくありませんでした」
「うん」
「先生が、どなたかと朝ご飯を召し上がるのが嫌でした」
ジーク様が動かなくなった。
「朝ご飯?」
「夜会なら、私も招かれるかもしれません。でも朝は、ご家族だけでしょう。寝ぐせがあったり、まだ少し眠そうだったりする先生を、私の知らない方だけが見られるのは嫌です」
ひどく欲張りなことを言っている。
顔が熱い。
けれど、もう途中でやめられなかった。
「私、お稽古に来たのに」
「うん」
「先生のことが、好きになってしまいました」
声が小さくなった。
そこだけは、どうしても上手に言えなかった。
ジーク様は片手で自分の口を覆った。
目を閉じ、開けて、私を見る。
「……今のは、何かで読んだ台詞ではない?」
「そんな場面のある小説は、まだ存じません」
「練習でもない?」
「違います」
私はうつむいた。
「困りますよね。先生には、好きな方がいらっしゃるのでしょう。嫉妬なさるくらい」
「いる」
「そう、ですか」
「いま、私の朝食の相手になりたいと言ってくれた」
顔を上げた。
ジーク様が、私だけを見ていた。
「君だよ。ずっと」
「ずっと、というのは」
「二年前、姉の家で君があの菓子を食べていた頃には、もう」
「卵白を泡立てられなかった頃ですか」
「そう。失敗した菓子まで全部食べた話を、君はひどく楽しそうにしていた」
彼が笑った。
「また笑わせたくて、姉の家へ行く日を増やした。でも君には婚約者がいたから、茶を飲んで帰った」
「それで紅茶がお好きに?」
「いや。今でも、あそこの茶は苦すぎると思っている」
「私もです」
二人で笑った。
笑いながら、目が熱くなった。
「君が婚約を解消されたと聞いたとき、ほっとした。会いに行く前に、姉が君を連れてきた。それが、嫉妬を教えてほしいという相談で」
「すみません」
「謝らなくていい。ただ、困った」
ジーク様は私の手を見た。
「袖を引かれるたび、私にだけしてほしいと思った。一緒に来てと言われれば、ほかの予定を忘れそうになった。君がここで覚えたことを、いつか別の男にするのかと思うと――」
そこで彼は、ため息をついた。
「私は教師に向いていない」
「でも、おかげで上手に言えました」
「そうだね。私のほうが、ずっと我慢できていなかった」
彼は私の手を取った。
指先が、少し熱い。
「好きです、フィオナ。練習ではなく、私と恋をしてほしい」
「はい」
「いいのか。嫉妬深いぞ」
「知っています。専門家にお願いしたのですから」
彼が声を出して笑った。
私は手を握り返す。
「私も、たぶん嫉妬します」
「聞かせてほしい」
「面倒だと、おっしゃいませんか」
「何も言わずに帰られるほうが、よほど困る」
「では、今、一つ」
「どうぞ」
私は彼の上着をつまんだ。
最初のお稽古の日と同じように。
「私以外の女性を見ないでください」
今度は、小説から借りた言葉ではなかった。
ジーク様は私の手に口づけた。
「ずいぶん前から、そのつもりです」
私は、彼の口元を見た。
ほんの少し迷ってから、もう一つお願いをした。
「そちらではなくて」
「……どちらへ?」
「先生は、分かっていらっしゃいますよね」
その夜、エディット様に見つかるまで、私たちはテラスから戻らなかった。
半年後。
私たちの婚約披露の席には、エディット様と、たいへん機嫌のよい父が並んでいた。
父はジーク様と乾杯するたび、私の子どもの頃の話を一つ増やした。
料理人はレモンの菓子を、最初から私の前へ大きく切り分けてくれた。
私はもう、小さいほうを選ばなかった。
アルマン様がどうしているかは、詳しく知らない。
一度だけ届いた花は、手紙と一緒に送り返した。
今は、私の隣で少しだけ不機嫌になっている婚約者のほうが気になる。
「どうなさったのですか」
「君の従兄殿は、話が長い」
「久しぶりに会いましたので」
「分かっている」
「ジーク様」
「うん」
「お手本ですか」
彼は私を見た。
私は笑い、彼の指へ自分の指を絡める。
「大丈夫です。最初の一曲は、あなたと踊ります」
「二曲目は?」
「あなたと」
「三曲目は」
「少し座って、お菓子を食べたいです」
「では、私が取ってくる」
もう一度、笑った。
可愛い女になるためのお稽古は、とうに終わっている。
今は、好きな人にしてほしいことがあったら、自分で言う。
彼が別のほうを見れば、その袖を引く。
すると公爵様は、少しも氷らしくない顔で、必ず私を振り返ってくれる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。




