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「嫉妬もしない女は可愛くない」と婚約破棄されたので、嫉妬深い公爵様に弟子入りしました

掲載日:2026/09/05

「私以外の女性を見ないでください」



 そう言って袖をつまむと、ジーク様は紅茶を飲み損ねた。


 咳き込んでいる。


 王宮で大臣を黙らせるときも眉一つ動かさないという公爵が、口元を押さえ、耳を真っ赤にしている。



「……今のは、いかがでしたか」


「何が」


「嫉妬の伝え方です。先生」



 私たちは恋人ではない。


 お稽古中である。


 二十一歳の伯爵令嬢、フィオナ・ベルクは、先月、婚約を破棄された。


 私のことである。


 元婚約者のアルマン様には、別に好きな女性ができたらしい。



「君は嫉妬もしない。可愛げがないんだよ」



 というのが、私を捨てる際のお言葉だった。


 初めてではない。


 彼がほかの女性へ花を贈ったとき、嫌だと言ったことがある。


 束縛するな、と叱られた。


 二人で出かける約束を忘れられ、泣いてしまったこともある。


 面倒な女だな、とため息をつかれた。


 だから私は、何も言わなくなった。


 すると今度は、嫉妬もしない女は可愛くないのだという。


 ずいぶん難しい試験だった。


 しかも出題者は、私の前で新しい恋人の肩を抱きながら、不合格を告げてきた。


 その日の夜、父はアルマン様の父であるロセル侯爵へ会いに行った。


 戻ってきた父は、婚約が正式に解消されたとだけ言った。


 それから、一緒に焼き菓子を食べた。


 父はいつもの倍、私へ菓子皿を寄せてくれた。


 悲しいかと聞かれたら、少し悲しかった。


 けれど、何が悲しいのか、自分でもよく分からない。


 アルマン様と結婚できなくなったことなのか。


 それとも、泣くのを我慢した自分が、なんだか馬鹿みたいだったからなのか。


 私より先に怒ったのは、友人のエディット様だった。



「そういう男にはね、靴の中へ小石を入れるのよ」


「見つかったら取り出されます」


「小さいのを、いっぱい」


「具体的ですね」



 伯爵夫人であるエディット様は、私をお茶へ招くたび、少しずつ復讐案を増やした。


 私は笑った。


 笑えるのが嬉しくて、それからようやく、言いにくかったことを打ち明けた。



「私、次に好きになった方にも、何も言えなくなったらどうしようと思うのです」


「フィオナ」


「嫌だと言うと嫌われるでしょう。でも、黙っていても嫌われてしまいました。どのくらいなら言ってもよいのか、分からなくなって」


「相手によるわ」


「そこを、もう少し詳しく教えていただきたいのです。できれば実際に」


「実際に?」


「舞踏も刺繍も、お稽古すれば少しは上手になりました。恋愛だけ、何も習わずに上手にしなさいと言われても、困ります」



 エディット様は、しばらく私を眺めた。


 それから、たいへん面白いことを思いついた顔になった。



「嫉妬に詳しい男なら、知っているわ」


「本当ですか」


「うちの弟」


「ジーク様が?」



 ローデン公爵ジーク様。


 二十六歳。


 黒髪に青い瞳の美丈夫で、独身。


 王宮では氷の公爵と呼ばれているが、私には、やけに苦い紅茶を好むエディット様の弟、という印象のほうが強い。


 二年前から、ときどきお茶の席でお会いしていた。



「とても落ち着いた方ではありませんか」


「外ではね」


「嫉妬するのですか」


「それはもう。聞いているこちらがうんざりするほど」


「意外です」


「本人に聞いてごらんなさい」



 次のお茶会に現れたジーク様は、私のお願いを聞いて、姉を見た。


 エディット様は、たいへん上品に焼き菓子を食べていた。



「私に、嫉妬を教えてほしいと」


「はい。とてもお詳しいと伺いました」


「姉上」


「嘘は言っていないでしょう」


「余計なことは、ずいぶん言ったようですね」



 ジーク様は眉間を押さえた。



「君は、アルマンとやり直したいのか」


「いいえ」



 これはすぐに答えられた。



「今度は私の話を聞いてくださる方がいいです。でも、その方の前でも我慢してしまったら、もったいないでしょう」


「……そうだな」


「ですから、お稽古に付き合っていただけませんか」


「私で練習すると?」


「ご迷惑ですか」



 彼は長いこと、私を見ていた。


 やがて、息を吐いた。



「迷惑ではない。ただ、嫉妬をわざと起こさせるために、ほかの女性を口説くようなことはしない」


「それは私も嫌です」


「嫌なことを嫌だと言う練習なら、付き合える」


「ありがとうございます、先生」


「その呼び方はやめてほしい」


「では、師匠」


「悪化したな」



 こうして私は、公爵様に弟子入りした。


 そして一回目のお稽古が、冒頭の大惨事である。


 エディット様の応接室で、相手がよそを見ていたらどうするか、試してみることになったのだ。


 ジーク様が壁の絵を眺めたので、私は袖をつまんだ。


 恋愛小説で読んだ台詞も添えた。


 結果、先生が紅茶に負けた。



「お手本の台詞を、そのまま使うのはよくなかったでしょうか」


「そのままで、それか」


「『ほかの人を見ないで』より丁寧にしてみました」


「丁寧さの問題ではない」



 ジーク様は水を飲んだ。


 私は壁の絵を見上げる。


 描かれているのは、先代公爵の愛馬だった。



「そもそも女性ではありませんでしたね」


「そこは気にしなくていい」


「馬に嫉妬するのは難しいです」


「無理にしなくていい」



 先生は少し疲れていた。


 エディット様だけが、扇で顔を隠して震えていた。



「借りた言葉ではなく、君が今、本当に言いたいことは?」


「……あります」


「言ってごらん」


「そのレモンのお菓子を、私にも分けてください」



 ジーク様は自分の皿を見た。


 私の皿には、一口大の小さなものだけが載っている。


 エディット様が、うっかり私の好みを忘れたわけではなかった。


 私が自分で、それを選んだのだ。


 アルマン様とお茶を飲むとき、大きな菓子を食べると、はしたないと笑われた。


 だから、つい小さなものを取ってしまう。



「もちろん」



 ジーク様は使用人に頼んで、私の分を持ってこさせた。


 半分ではなく、一つ。


 私の皿の上に、つやつやした黄色いクリームの山ができた。



「多すぎた?」


「いいえ」


「それはよかった」



 フォークを入れた。


 薄い砂糖が、ぱり、と割れる。


 酸っぱくて、甘い。


 おいしかった。


 思っていたより、ずっと。



「君は、それが好きだったね」


「覚えていらしたのですか」


「以前ここで食べたあと、料理人に作り方を聞いていただろう」


「あれは二年も前です」


「卵白を何度泡立てても失敗すると、真剣に相談していた」


「そこまで覚えていらっしゃるのですか」



 ジーク様は少し口を閉じた。



「印象に残っていたので」



 私はもう一口食べた。


 口元が勝手に緩んでしまう。



「……それだ」



 先生が、低い声で言った。



「今の顔のままでいてほしい」


「菓子くずがついていますか」


「違う」


「では、どうして」


「可愛いからだ」



 フォークが皿の上で鳴った。


 今度は、私の顔が熱くなった。


 先生は咳払いをする。


 エディット様は二人を交互に眺め、何も言わずに紅茶を飲んだ。


 私はこの日、嫉妬より先に、褒め言葉に返事ができないことを知った。



 次のお稽古は、一週間後。


 エディット様夫妻に付き添っていただき、春の市へ出かけた。


 広場で人形芝居を見ていたら、ジーク様に会釈をする女性がいた。


 明るい巻き毛の、美しい方だった。


 彼女は挨拶のあと、一緒に歩こうと誘ってきた。



「これから、向こうの花屋を見ますの。公爵様もいかが?」


「今日はフィオナ嬢と来ていますので」


「皆様ご一緒でも」


「彼女は、まだ芝居の続きを見ている」



 女性は私を見て、あら、と笑った。


 嫌な笑い方ではなかった。



「では、お邪魔しては悪いわね」



 彼女が去ってから、私はジーク様に尋ねた。



「ご一緒しなくてよかったのですか」


「君は行きたかった?」


「いえ。人形の王様が、まだ井戸に落ちたままでしたので」


「私もあの王の安否が気になる」



 彼はそう言って、私の隣へ戻ってきた。


 王様は無事に助け出された。


 主役の娘に礼を言う途中で、今度はズボンが落ちた。


 私は笑った。


 隣からも、低い笑い声がした。


 ジーク様はこんなふうにも笑うのだと、そのとき知った。



「さっき、少し心配でした」



 帰り道、私は打ち明けた。



「花屋へ行くのが?」


「先生が、あちらの方と行ってしまうのが」


「行ってほしくなかった?」


「はい」


「それを、そのとき言ってくれたら嬉しい」


「言わなくても、残ってくださったでしょう」


「そうだな」



 彼は小さく笑った。



「聞きたかっただけだ。私が」



 横顔を見上げると、耳が少し赤い。


 私は自分の指を握った。


 それから、彼の上着を少しだけ引いた。



「帰る前に、もう一か所、一緒に寄っていただけますか」


「どこへでも」



 返事が早かった。


 私は笑いそうになり、唇を噛んだ。



「まだ、行き先を申し上げていません」


「あとで聞く」


「たいへん遠いかもしれませんよ」


「では、馬車を呼ぼう」



 彼と一緒にいると、お願いをする前の、あの嫌な緊張がなかった。


 頼みすぎたかな、と心配するより先に、次は何を一緒に見ようかと考えてしまう。


 焼き栗を買って、半分ずつ食べた。


 ジーク様は私の頼みを断らなかったが、自分の希望を隠す人でもなかった。



「次も、私を誘ってほしい」


「お稽古ですか」


「市でも、散歩でも」


「先生はお忙しいでしょう」


「忙しい日に断る役目まで、君が引き受けなくていい」



 私はうつむいた。


 何と答えればいいか分からないとき、菓子を食べるふりができるのは便利だ。


 けれど焼き栗は、もう一つも残っていなかった。



「では、次も一緒に来てください」


「喜んで」



 その返事が聞きたくて、私は次の約束をした。



 お稽古を始めて三週間が経った頃、ロセル侯爵家から手紙が届いた。


 アルマン様ではなく、そのお父上から、改めての謝罪だった。


 私は父と一緒に読んだ。


 アルマン様の新しい恋人は、彼と口論になったらしい。


 ほかの女性と親しくしないでほしい。


 約束を守ってほしい。


 自分の嫌がることを、わざとしないでほしい。


 最初は愛されている証だと喜んでいたアルマン様が、次第にうんざりした顔をするようになったという。


 結局、二人は結婚の話が始まる前に別れた。



「会って話したいと、本人は言っているそうだ」



 父が言った。



「私は会いたくありません」


「分かった」



 それで、その話は終わった。


 父はしばらくしてから、別のことを尋ねた。



「今度の日曜日は、ローデン公爵と出かけるのか」


「はい。エディット様もご一緒です」


「楽しそうだな」


「まだ出かけていませんけれど」


「もう、楽しそうにしている」



 私は頬を押さえた。


 父は、何も言わずに笑った。



 それでもアルマン様と再会する機会は、思ったより早く訪れた。


 エディット様の屋敷で開かれた、小さな夜会でのことだった。


 ロセル侯爵家は彼女の夫と親交があり、招待客に含まれていたのである。


 アルマン様は私の姿を見つけると、以前のように片手を上げた。


 私は会釈だけを返す。


 少し前の私なら、その手のほうへ歩いていっただろう。


 今夜は違う。


 ジーク様がどこにいるのか、まだ見つけられていなかった。


 彼は遅れて来ると聞いていた。


 私は早く、新しいドレスを見せたかった。


 裾の広がる、水色のドレスだ。


 おとなしい色ばかり選んでいた私が、仕立屋で一番に指さしたものだった。



「フィオナ。少し話せないか」


「今は、お待ちしている方がいます」


「ローデン公爵だろう?」


「はい」


「妙な噂を聞いた。彼に、男への甘え方を教わっているとか」



 顔が熱くなった。


 私がエディット様に相談しているところを、知人に聞かれたことがある。


 伝わる途中で、随分違う話になったらしい。



「気持ちの伝え方です」


「同じことだ。そこまで努力してくれたなら、僕も考え直していい」


「何をですか」


「僕たちのことを」



 アルマン様は、少し得意そうだった。



「公爵の前で練習したなら、もう分かるだろう。僕にも可愛く妬いてくれればよかったんだ」



 私は彼の顔を見た。


 たぶん、前より上手に話せるようにはなった。


 けれど、それは彼が望む返事をできるという意味ではなかった。



「私、あなたに嫉妬したことはあります」


「……そうだったか?」


「あなたが別の方を観劇へお連れになったとき、私も一緒に行きたかったと申し上げました。覚えていませんか」


「あれは、付き合いで」


「知っています。あのときも、そうおっしゃいました。そのあと、面倒な女だと」



 アルマン様が口を閉じた。



「ですから次からは、言いませんでした」


「それは、君が物分かりよく――」


「我慢しただけです」



 思ったより、大きな声が出た。


 近くで話していた方々が振り返った。


 私は扇を握り直す。



「泣けば面倒で、泣かなければ可愛くない。私、どちらでも叱られました」


「叱ってなどいない。少し注意を」


「もう、教えていただかなくて結構です」



 声が震えた。


 怖かったからではない。


 あのとき言えなかった言葉が、いっぺんに出てきそうだった。



「あなたは、嫉妬が見たかったのではありませんよね」


「何を」


「私が泣くほどあなたを好きだと、確かめたかったのですよね」



 すぐそばで、誰かが息を止めた。


 アルマン様の耳が赤くなった。


 以前なら、怒らせたと思って謝っていた。


 今夜の私は、謝りたくなかった。



「フィオナ。君は変わったな」


「はい」


「公爵に教わったのか」


「いいえ。今のは、私の言葉です」



 彼は私の背後を見た。


 そこで初めて、ジーク様が来ていたことに気づいた。


 公爵は私の肩へ勝手に触れたり、私の代わりに怒鳴ったりはしなかった。


 ただ、私に聞いた。



「ここにいてほしい? それとも、二人で話したい?」


「いてください」



 彼は頷いて、隣に立った。


 それだけで、扇を握る手の力が抜けた。


 アルマン様が何か言いかける。



「僕は別に、彼女を傷つけるつもりで――」


「戻る気はありません」



 私は、その言葉が終わるのを待たなかった。



「もう一度、我慢する練習をしたいわけではありませんので」



 少し離れたところにいたロセル侯爵が、息子を呼んだ。


 アルマン様は父親と私を交互に見て、やがて、ぎこちなく頭を下げた。


 彼が去ると、ジーク様が私の顔をのぞき込む。



「大丈夫か」


「はい。少しだけ、外の空気を吸いたいです」


「一緒に行こう」



 差し出された腕へ、私は迷わず手を添えた。



 屋根のあるテラスには、ほかにも何組かの男女がいた。


 ジーク様は私を椅子へ座らせ、冷たい果実水を持ってきてくれた。


 私は一口飲み、ようやく肩の力を抜いた。



「先生」


「今夜くらいは、名前で呼んでほしい」


「ジーク様」


「うん」


「ありがとうございました」


「君が言ったんだ。私は隣にいただけだよ」


「いてくださって、嬉しかったのです」



 彼はまた、黙った。


 この人は肝心なところで返事が遅い。


 けれど、赤くなった耳が見えるので、待っているあいだも不安にはならなかった。



「今日のドレス、とても似合っている」


「本当ですか」


「広間へ入って、すぐに君が分かった」


「水色にしてみたのです」


「よく似合う」


「それはもう伺いました」


「何度でも言いたい」



 私は果実水の杯を持ち上げた。


 口元を隠せるだけの大きさがあって、助かった。


 そこで、近くの柱の向こうから、ご婦人方の話が聞こえてきた。



「ローデン公爵には、南方の侯爵家からも縁談が来ているそうね」


「お相手は大変お美しい方ですって」


「そろそろ、お決めになるのかしら」



 杯を持つ指が止まった。


 ジーク様は独身だ。


 私のお稽古に付き合ってくださるからといって、これからも独身でいるわけではない。


 考えれば、当たり前のことだった。


 私は杯を置いた。


 もし、彼が結婚したら。


 市で買った焼き栗を、半分ずつ食べるのは、その奥様だ。


 誰かが話しかけてきても、芝居の続きを見るために残ってもらえるのも、その奥様。


 彼が苦い紅茶を飲んで顔をしかめる、妙な癖を見られるのも。



「フィオナ?」



 胸が痛くなった。


 アルマン様に会ったときとは、まったく違った。


 あの人から離れたくて痛かったのではない。


 目の前の人に、離れてほしくなかった。



「お稽古は、もう終わりですか」


「……終わりにしたい?」


「私に、決める権利があるのですか」


「もちろん」


「ですが、ご結婚なさったら、困りますでしょう」



 ジーク様は柱の向こうを見て、戻ってきた。



「その縁談は、断った」


「そうですか」



 ほっとした。


 こんなにほっとしてよいのかというくらい、息が楽になった。


 けれど、次の縁談は来るだろう。


 その次も。


 私は膝の上で両手を握った。



「今の、嫉妬だったと思います」


「……そうか」


「胸がぎゅっとなって、さっきの方々のお話を、聞きたくありませんでした」


「うん」


「先生が、どなたかと朝ご飯を召し上がるのが嫌でした」



 ジーク様が動かなくなった。



「朝ご飯?」


「夜会なら、私も招かれるかもしれません。でも朝は、ご家族だけでしょう。寝ぐせがあったり、まだ少し眠そうだったりする先生を、私の知らない方だけが見られるのは嫌です」



 ひどく欲張りなことを言っている。


 顔が熱い。


 けれど、もう途中でやめられなかった。



「私、お稽古に来たのに」


「うん」


「先生のことが、好きになってしまいました」



 声が小さくなった。


 そこだけは、どうしても上手に言えなかった。


 ジーク様は片手で自分の口を覆った。


 目を閉じ、開けて、私を見る。



「……今のは、何かで読んだ台詞ではない?」


「そんな場面のある小説は、まだ存じません」


「練習でもない?」


「違います」



 私はうつむいた。



「困りますよね。先生には、好きな方がいらっしゃるのでしょう。嫉妬なさるくらい」


「いる」


「そう、ですか」


「いま、私の朝食の相手になりたいと言ってくれた」



 顔を上げた。


 ジーク様が、私だけを見ていた。



「君だよ。ずっと」


「ずっと、というのは」


「二年前、姉の家で君があの菓子を食べていた頃には、もう」


「卵白を泡立てられなかった頃ですか」


「そう。失敗した菓子まで全部食べた話を、君はひどく楽しそうにしていた」



 彼が笑った。



「また笑わせたくて、姉の家へ行く日を増やした。でも君には婚約者がいたから、茶を飲んで帰った」


「それで紅茶がお好きに?」


「いや。今でも、あそこの茶は苦すぎると思っている」


「私もです」



 二人で笑った。


 笑いながら、目が熱くなった。



「君が婚約を解消されたと聞いたとき、ほっとした。会いに行く前に、姉が君を連れてきた。それが、嫉妬を教えてほしいという相談で」


「すみません」


「謝らなくていい。ただ、困った」



 ジーク様は私の手を見た。



「袖を引かれるたび、私にだけしてほしいと思った。一緒に来てと言われれば、ほかの予定を忘れそうになった。君がここで覚えたことを、いつか別の男にするのかと思うと――」



 そこで彼は、ため息をついた。



「私は教師に向いていない」


「でも、おかげで上手に言えました」


「そうだね。私のほうが、ずっと我慢できていなかった」



 彼は私の手を取った。


 指先が、少し熱い。



「好きです、フィオナ。練習ではなく、私と恋をしてほしい」


「はい」


「いいのか。嫉妬深いぞ」


「知っています。専門家にお願いしたのですから」



 彼が声を出して笑った。


 私は手を握り返す。



「私も、たぶん嫉妬します」


「聞かせてほしい」


「面倒だと、おっしゃいませんか」


「何も言わずに帰られるほうが、よほど困る」


「では、今、一つ」


「どうぞ」



 私は彼の上着をつまんだ。


 最初のお稽古の日と同じように。



「私以外の女性を見ないでください」



 今度は、小説から借りた言葉ではなかった。


 ジーク様は私の手に口づけた。



「ずいぶん前から、そのつもりです」



 私は、彼の口元を見た。


 ほんの少し迷ってから、もう一つお願いをした。



「そちらではなくて」


「……どちらへ?」


「先生は、分かっていらっしゃいますよね」



 その夜、エディット様に見つかるまで、私たちはテラスから戻らなかった。



 半年後。


 私たちの婚約披露の席には、エディット様と、たいへん機嫌のよい父が並んでいた。


 父はジーク様と乾杯するたび、私の子どもの頃の話を一つ増やした。


 料理人はレモンの菓子を、最初から私の前へ大きく切り分けてくれた。


 私はもう、小さいほうを選ばなかった。


 アルマン様がどうしているかは、詳しく知らない。


 一度だけ届いた花は、手紙と一緒に送り返した。


 今は、私の隣で少しだけ不機嫌になっている婚約者のほうが気になる。



「どうなさったのですか」


「君の従兄殿は、話が長い」


「久しぶりに会いましたので」


「分かっている」


「ジーク様」


「うん」


「お手本ですか」



 彼は私を見た。


 私は笑い、彼の指へ自分の指を絡める。



「大丈夫です。最初の一曲は、あなたと踊ります」


「二曲目は?」


「あなたと」


「三曲目は」


「少し座って、お菓子を食べたいです」


「では、私が取ってくる」



 もう一度、笑った。


 可愛い女になるためのお稽古は、とうに終わっている。


 今は、好きな人にしてほしいことがあったら、自分で言う。


 彼が別のほうを見れば、その袖を引く。


 すると公爵様は、少しも氷らしくない顔で、必ず私を振り返ってくれる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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可愛い! ヒロイン、ずっと可愛い!! 見る目のない男め!
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