この世界の終わりに
「肉が食いてーな」くたびれたソファの上で佐藤はそう呟き、容器を握り液体食物を口に流し込んだ。スパイスの効いたチキン風味のゼリー状の液体が喉を通っていく。ひどい味だ。
栄養摂取だけを目的とした液体食物ばかり食べていては、体の健康的には問題がないのだが、気持ちが憂鬱になる。
安価で大量に生産できる液体食物が開発された時、世界的な食糧難が解決され、多くの命が救われることになった。佐藤もこれがなければ、だいぶ前にのたれ死んでいたに違いはないのだが、あまりもの味気なさに、食すたびに嫌味が出る。
「仕事をすれば良いのでは」天井のスピーカーから機械音声が流れてくる。家庭用人工知能の改良版であるビーコンだ。昔の知り合いが開発したものを譲り受けることになった。
「そんなことはわかってるんだよ、ビーコン。それでもなお働きたくないと言うのが、人間の心情じゃないか」これだから人工知能は困るよ、と軽口を付け足そうとしたが、以前そのようなことを言った際にとんでもないことになったので辞めておいた。
佐藤は液体食物が入っていた容器を、二メートルほど離れたゴミ箱に放り投げた。容器はゴミ箱の縁に当たり、コンクリートの床に落ちた。天井から伸びてきたアームがそれをゴミ箱に捨てた。
「電気代、ガス代、水道代の支払い期日が迫っていますよ。銀行残高、仮想通貨残高を合わせても、一万二千円。予想支払料金は五万五千円なので、働かないとまずいですね。せめて私のための電気代ぐらいは払ってもらわないと」
「そんなに少なかったとは」仕事仲間に教えられた仮想通貨に振り込んだ金は、紙屑にも満たない値段になってしまった。何が三十倍は固いだ。ラングのホラ吹き野郎が。
「俺が最後に働いたのは?」
「三ヶ月前の二一三八年十一月八日です」
「そんなに前だったっけ?」
「はい。強盗の賞金首を捕まえた時ですね。賞金は180万でした。そのうちの100万が未納の税金に消えて、80万弱は生活費にカジノと仮想通貨、肉に消えました」
佐藤は頭を掻きむしった。これはいよいよ働くしかない。働いて元手を作り、それをカジノか仮想通貨に投入する。当たれば儲け物。外れればそれまで。明日の命が保障できない生活で、小さな金を未来にとっておく必要はない。佐藤にとっての人生とは行き当たりばったりの漂流のようなものだ。悲観的な訳ではない。ただ、その時その時のことを考えているだけだ。
「ピーコン、現在の賞金リストを表示してくれ」佐藤は天井を仰ぎ見てそう言った。
「承知しました」
目の前に、空中ディスプレイが表示される。現在の賞金首リストだ。このリストは警視庁がアップしたもので、誰でも見ることが出来る。
「200万付近で絞り込みをかけて」
画面が一瞬薄くなり、再びリストが表示された。
「そこから女を」
「もう抜いてあります」
「さすがだね」いくら賞金首とはいえ、女を殴ったり、女に銃を向けたりするのは気分の良いものではない。佐藤はフェミニストではないし、立派な騎士道精神を持ち合わせている訳でもない。たとえ、明確な主義主張がなくても、なんとなく受け入れられないものが人にはある。
「そこから直近で事件を起こした順番にも」
「並び替えてあります」
「完璧だ」事件から時が経っていると、賞金首がもう死亡している場合や、捜索のための痕跡が見つからないことが多い。賞金首を追っていたら、死体に遭遇するなんてことは一度や二度ではない。死体は、この気温だとあっという間に腐ってしまう。腐敗した人間の匂いは、一度嗅いだらもう二度と嗅ぎたくないものだ。それに、身元が分からなくなるレベルで腐った遺体では、警察は賞金を出さない。もちろん、金がかかるDNA鑑定や、歯形の鑑定などは行わない。もしも、腐敗した遺体で賞金を得たいと考えるなら、それらの手続きを何から何まで自費で行わなければならない。そして、そこまでして遺体が賞金首のものではないことなどざらにある。それらの理由で、佐藤は昔の賞金首を追わない。
佐藤はリストの中の一人に目をつけた。中東系の男だ。
「一番上の行の左から三人目の情報をちょうだい」
「多田マイケル。28歳。移民の父と日本人の母の間に生まれました。両親は既に死去。職場である工場の社長を殺害し、現金百万円ほどを盗み、現在も逃亡中です」
佐藤は事件の概要にさっと目を通す。計画性や残虐性は感じられない。こいつなら特に苦労することはないだろう。
「よし、こいつにしよう」
「承知しました。では、多田マイケルに関する情報を収集しておきます」
「よろしく」佐藤はソファから立ち上がると、天井に埋め込むように付けられた鉄のバーの下まで移動し、懸垂を始めた。
トレーニングは、怠惰に見える佐藤が欠かさない習慣の一つだ。こういう仕事をしていたら、自分の体という一番の武器を磨かない選択肢はないし、それを怠った人間が死ぬのも見てきた。それに、トレーニングは、佐藤にとっての瞑想でもあった。思考を放棄し、筋肉の伸縮と関節の動き、呼吸の乱れに意識を落として行く。その深度は時間と共に下がっていく。懸垂、腕立て、片足スクワット、腹筋、逆立ち。それらを、秩序がある様に見えて無秩序な順番で繰り返していく。回数のカウントも行われず、ただ肉体との対話だけを行う。呼吸が乱れ、汗が床に流れ落ちる。一滴。二滴。乾きによる痛みが、喉に現れる。深度が限界に達したタイミングで、佐藤は動きを止め、床に横たわった。冷たい床を背にしながら、乱れた呼吸が脳の中でリズムを刻み、そのリズムが緩やかになって行くのを待つ。リズムが落ち着いたタイミングで、佐藤は立ち上がり、浴室に行って汗を流した。
濡れた体を拭いていると、ビーコンから声がかかった。
「多田マイケルに関する情報を集め、デバイスに送信しておきました」
「ありがとう」佐藤はタオルで濡れた黒い髪を雑に拭きながら、礼を言った。
ドライヤーで髪を乾かし、ジーンズに白いTシャツという出立ちで佐藤は部屋を出た。
2月だというのに、外の気温は35度を肥えていた。しばらく雨が降っていないので、砂埃が舞っている。佐藤はポケットからハンカチを取り出して、鼻と口を覆った。
通りを歩く人はほとんどおらず、露天商が何人か死んだように座っている。空の色も相舞って終末のような雰囲気が醸し出されていた。いや、実際に終末は近いのかもしれない。地球の温暖化は止まらないし、紛争が世界各地で起きている。間違った方向に進みすぎた人類は、その方針を信じるしか無くなってしまった。貧乏人は今を生きるのに精一杯だし、金持ちはいかにして自分の金を使い切るかに苦心している。
佐藤は通りに面したクリーニング屋の中に入った。
古い店内に入るとすぐにカウンターがあり、カウンターの奥には沢山の服が吊るされていた。スチーマーの匂いがする。
「ガストン、俺だ」佐藤は店の奥に声をかけた。店の奥で人の動く気配がした。
「おお、久しぶりだな。生きてたのか」そう声がすると、奥から大柄の南米系の男が出てきた。頭は丸めてあり、左目には薄く傷がある。プロレスラーのような体型で、白いTシャツははち切れんばかりだ。
「なんだ、質入れか。お前の持っている服じゃたいした額にはなんねえぞ」
「違うよ。仕事だ」佐藤はそう返し、「いつものを頼む、後払いで」と続けた。
「怠け者がとうとう働く気になったか。今度からは先払いできるうちに働き始めるんだな」ガストンはそう言うと、店の奥に消えていった。
このご時世、クリーニング屋だけで稼げるわけはなく、武器商人がガストンの裏の顔だ。元々、海外で傭兵をやっていた伝手で、武器の入手経路を持っている。
佐藤は店に吊るされた服を見る。スーツが多く並び、奥にはドレスもある。また、結婚式でもあるのだろうか。二ヶ月ほど前、街中でひっそりとした結婚式が開かれていた。カジノ帰りの佐藤は幸せそうな笑みを浮かべる新郎新婦を横目で見ながら、空っぽのポケットに手を突っ込んで歩いていた。
「結婚式か?」佐藤は店の奥に呼びかけた。
「ああ、来週にあるみたいだ。お陰様でなんとか食って行けてるけど、このご時世によくやるよな」
「このご時世だからこそやるのかもな」
「まあ、確かにな」
生きていくのにやっとの世界だから、幸せが必要なのだ。それがなければ、生きているだけだ。
「いつものだ」奥からやってきたガストンが、カウンターの上に箱を置いた。
「ありがとうガストン」佐藤は箱の中身を確認せずに、箱を右脇に抱えた。
「仕事が終わったら、金を払いにくるよ」
「しつこい様だが、ゴム銃なんてやめろ。いつか後悔するぞ」
「俺にはこれくらいで充分なんだよ。良いハンデさ」
「佐藤。俺も国や金持ちたちの方針には嫌気がさすがな、、、現場にいる人間に必要なのは殺傷力のある武器だよ」
「心配してくれるのかい?」
「お前が金をちゃんと払ってくれるかおな」
「俺が死んだら、あの部屋とビーコンをやるよ」
「あいつ、お前以外の言うことろくに聞かないだろ」
「ガストンの言うことなら聞くさ」佐藤はそう言って左手を軽く上げると、入口のドアを開けて出ていった。
「ったく、死にたがりが、、、」ガストンはガラスドアの向こうに映る佐藤の背中にそう呟いた。
佐藤は電車の座席に座り、ビーコンがデバイスに送信した情報を眺めていた。
多田マイケル。最終学歴は中学。中学を卒業後に、すぐに建築現場の作業員として働き始め、1年ほど経って退職。その後は内装屋や、配達員、派遣業など職を転々としている。その間に傷害事件を起こしたが不起訴になっている。二年前から現在の職場で働き始めている。現在の住所になっている千葉の集合住宅は、警察がすでに確認している。ビーコンの資料には、部屋の写真まで添付されていた。六畳もない小さい部屋からは、雑然とした生活感を感じた。整頓されているわけではないが、物が少ないのでそこまで散らかっている印象を受けない。
移民による治安悪化の問題。いや、正しくは金のない人間による治安悪化の問題。当時の人々は主語を大きくしすぎて、その実態を捉え損ねた。
金に困った人間が犯罪に手を染めること、そして金に困っている移民が多くいたこと。移民側にも日本の慣習や文化といったものを蔑ろにする者や、性犯罪などの凶悪事件を起こした人間がいたのは確かだった。しかし、それは沢山いる移民の中の一部の人間であり、日本人の中にもそういった人間はいる。冷静な人はそう考えることができるが、多くの人は冷静ではなかった。
移民への嫌悪は、ネットを通じて拡散されていった。嘘か真実か分からない情報の中から、人々は自分が信じたいものを信じた。情報の真偽なんてものはどうでも良かったのだろう。ただ、自分の主張を固めてくれるものだけを摂取し続けた。
扇動的な政治家も現れた。その人の政治家としての気質がどうであれ、過激な反移民政策を掲げればある程度の票数を獲得することができた。
結果として、人々は正すべき場所を間違えた。移民がいるから治安が悪化するのだと。そして、移民の排斥に動いた。日常的な彼らへの差別にとどまらず、リンチ行為すら行なわれた。誰が正式な日本国民であるかどうかは、外見によってのみ判断された。
移民側も黙っていたわけではなかった。暴力には暴力で対抗するものもいた。大規模なデモ運動を起こした人々もいた。移民と日本人の間の溝はどんどん深まっていった。
そして、2080年に決定的な事件が起こった。祝日だった金曜日に、移民側と排斥側のデモが衝突した。結果として、鎮圧に動いた警察官、移民側、排斥側、そして何の関係もない民間人を含む、四十人以上が死亡する事件が起きた。いわゆる血の金曜日。
この事件から、今まで移民に対して特別な差別意識を持っていなかった人々も移民に対して敵意を持つ様になった。反面、移民側を擁護する日本人も多く出てきた。事件が原因で移民の現状についての特集が多く組まれたこと。事件の鎮圧に向かった警察が、移民に対してだけ発砲を行ったこと。有名な経済学者がライブ配信で、停滞した日本経済における移民の必要性を訴えたこと。などが大きな要因として挙げられている。みんなG D Pが大好きだった。
結果として、反移民派も移民派も、それぞれの数を増やすだけとなった。移民が日本に入ることを禁じられることもなければ、移民の生活を決定的に向上させる法案が通ることもなかった。
話し合いやデモは何の解決も産まず、時だけが流れた。しかし、その時の流れが、移民に対する差別を緩和した。最も大きな原因は、多くの人々が貧困に喘ぐ様になったからだ。
移民の安い労働力、人口増加による才能ある人物が誕生する回数の増加は、国を再び発展させた。GDPは世界3位。過去の日本人がこの数字だけを知ったら、安心するのだろうか。
成長は世代を追うごとに深刻な格差を与えた。裕福な家に生まれた子供がさらに裕福な家庭を築く。この循環が固定化された。貧しい家に生まれた人間が、この循環に割って入ることは世代を追うごとに難しくなっていった。格差が広がり、貧困家庭が増えるにつれて、GDPは上向き、治安の悪化が進んでいった。移民だけでなく、多くの日本人が犯罪に手を染める様になった。強盗、強姦、放火、殺人。ドラック。日本人は自分たちが当事者になって初めて、移民ではなく、貧困が治安悪化の主な原因であることを悟った。
ふと鼻に煙草の匂いを感じた。日本人の若い男の二人組が、優先席のあたりで煙草をふかしていた。顔の表情を見るに、薬物中毒者の様だった。目の焦点が揺れ、口元に締まりがなく、薄い紫色の顔をしていた。
「世も末だな」かつての日本人がこの姿を見たら衝撃を受けるだろうと思いながら、佐藤は目を閉じた。
「ここか」佐藤は土手の上から川辺に目をやった。お世辞にも綺麗とは言えない川が流れていて、岸にはテントやブルーシートで急拵えされた住居が並んでいた。
ビーコンが監視カメラの映像を漁って、多田が二日前からこの付近に潜伏していることは分かっていた。そして、居場所のない男は大概にしてホームレスの溜まり場にいる。
河原の人間の数はざっと見ただけでも、50は超えてそうだ。ホームレスを捕まえて話を聞きたいところだが、彼らは身内に対しては口が堅い。特に同じコミュニティ内であるとなれば尚更だろう。
土手を降りている最中に何人かが佐藤の方を見たが、すぐに目を逸らした。関わり合いたくないのだろう。
佐藤は周りに目をやった。移民系の顔は多いのだが、多田らしき人物は見当たらない。
麻雀やチェス、将棋、あと見たことのないボードゲーム。それらを楽しんでいる集団があり、小さな商店の様なものを出している男もいる。おそらく、物々交換をおこなっているのだろう。こういう場所にいる人間は、案外楽しそうにやっていることが多い。彼らをそうさせているのは、競争からの完全な脱落なのか、はたまた人生に対する開き直りなのかは分からない。けれど、表の淵にしがみついている人々より、彼らの方が良い表情をしているように見えるのは確かだ。
佐藤はそこらを歩き回ってみるが、各々が楽しんでいる姿を見るだけで、多田らしき人物は見当たらなかった。
そんな佐藤に住民は目をやるが、話しかけてくることはない。まるで、いないもののように扱っていた。
埒が開かないので、佐藤はトタンの日除けの下で団扇を仰いでいる老人に近づいて声をかけた。
「なあ、爺さん。ここ最近、中東系と日本のハーフの男がここに合流してないか?」
老人は団扇を扇ぐのをやめ、覗き見るように佐藤の顔を見た。
「ここには毎日人が出たり入ったりしてんだよ。そんなやついちいち覚えていねえよ」
「そう言わず、顔だけでも見てくれよ。ほらこいつなんだけど」佐藤はそう言って、デバイスに表示した多田の顔を見せた。
「お前さん、賞金稼ぎだろ。カタギの人間じゃねえな」老人は多田の顔をちらりと見た。
「賞金稼ぎはカタギの仕事だよ。国が認めてる」
「いかれた国さ。人殺しを職として認め、報酬を払うなんて」
「俺も同意見だよ。間違いなくイカれてる」佐藤は肩をすくめた。
「賞金稼ぎには協力できねえよ。ここまで落ちたって、俺には人間としてのプライドがあるんだ」
日に焼け、皺が刻まれた顔の中にあるその目は、老人の強い意志を表していた。
「仲間を売りたくない気持ちは分かるが、こいつは人を殺してる」佐藤の言葉を聞いて、老人の目が一瞬大きく開いた。
「そんなこと、よくある世の中だろうよ。殺しの理由が分からない以上、いくら人殺しでも、殺させる訳にはいかねえんだよ。そんなことをしたら、後味が悪い」
佐藤は小さくため息をついた。一般的に、賞金稼ぎに対して抱くイメージは人殺しだ。それを良いと捉えるか悪いと捉えるかは人によって異なるが。
「爺さん、俺は賞金首を殺さない。ポリシーなんだ」
「信じてやれると思うか。腰にそんな物騒なものぶら下げてるじゃねえか」老人は顎で佐藤の腰を差した。
「確かに、信じてもらえるとは思えないな」佐藤はそう言うと、腰の銃を老人に差し出した。
老人は怪訝な表情を浮かべた。
「弾を見てみな」
老人はマガジンを開けて中を見た。人生のどこかで、銃を扱ったことがあるのだろう。その手つきは慣れたものだった。
「なんだこれは?」
「ゴムだよ」
「見ればわかる。なんでこんなものを持ってるんだ」
「さっきも言ったけど、ポリシーだよ。人を殺したくない」
老人は佐藤に銃を返した。
「じゃあ、なんで賞金稼ぎなんてやってるんだ」
「生きていく糧がないだけだよ」佐藤は銃を腰に戻した。
老人は佐藤の目を数秒見ると口を開いた。
「ここをまっすぐ橋の下まで行ったところに、赤いビールケースがある。そこのすぐ後ろにこいつの住んでる家がある」
「ありがとう。いつか礼をしに来るよ」
「ホームレスととしてならいつでも歓迎してやる」
「それなら、そんなに時間は掛からなそうだ」佐藤はそう言って少し笑った。老人も顔に少し皺を作った。
目当ての場所はすぐに見つかった。赤いビール瓶のケースはよく目立つ。その後ろにブルーシートを屋根にした小屋があった。
佐藤は腰の銃に手を伸ばそうと思ったが、すぐにそれを辞めた。
佐藤はブルーシートの隙間に目をやった。モバイル充電器に接続された扇風機が首を動かしていた。
佐藤は中に向かって声をかけた。
「多田か?」
中から応答はない。貴重な電力を無駄にするとは思えない。十中八九居留守だろう。佐藤は耳を澄ました。扇風機の音の中に、衣擦れの音が微かに聞こえた。
佐藤はブルーシートに手をかけて、一気にそれを跳ね除けた。同時に痩せた男が体勢を低くして突っ込んできた。あまりに単調で勢いのないタックルを、佐藤は軽く右に動いてかわし、左足を男の足に引っ掛けた。男は小さく声を出すと、ものの見事に転倒した。慌てて立ち上がり逃げようとした男の腰を、佐藤は手で押さえつけた。
「殺さないでくれ!」男は逃げるのを諦め、後頭部を守るように両手で押さえた。
「殺さねえよ。多田か?」
男は頭を押さえたままゆっくりと頷いた。
「よし、俺は佐藤だ。相手だけに名乗らせるのはフェアじゃないからな」佐藤は周りを見回した。ホームレスたちが、横目でこちらを見ていた。
「ここで話すのもなんだ。場所を変えよう」佐藤は多田のベルトをつかむように上に引き上げた。痩せている多田は簡単に引き上がった。
佐藤は男の顔を確認した。髭が生え、少し痩せてはいるが、手配書の顔と一緒だった。
佐藤は耳につけているイヤホンを二度タップした。
「捕まえましたか?」ビーコンの声が聞こえる。
「ああ、オートパイロット可能な車を一台こっちに回してくれ」
「承知しました。5分ほどでそちらに着くと思います」
「ありがとう。帰ったらパーティーだ」
「極上の液体食物を用意しておきます」
「趣味の悪い冗談はやめてくれ」佐藤は笑ってそう言い、通話を切った。
ビーコンが用意してくれた車は、五分もせずに佐藤の元に走ってきた。佐藤は多田の両手を結束具で縛り助手席に座らせると、自分は運転席に乗り込んだ。
佐藤は警察までの道のりをナビに入力し、オートパイロットをオンにした。静かな駆動音がし、車が自動で動き出す。
「車は久しぶりか?」佐藤は隣にいる多田に訪ねた。
多田は小さく頷いた。
「今からお前を警察に突き出す。お前は捕まり、俺は金を貰う。文句はあるか?」
多田は首を振り、いやと小さく言った。佐藤は多田を観察した。先ほどまでの怯えは消えていた。その代わりに、人生で蓄積したものか、この数週間で蓄積したものかはわからないが、疲労が全身から滲み出ているのがよく分かった。
「なんで殺したんだ?」
多田は佐藤の質問には答えなかった。ただ黙って助手席側の窓から外を見ていた。
佐藤も運転席側の窓から外を見た。車は橋の上を走っていた。河川敷にあるホームレスたちの集落はまだ確認することができた。
「何か飲ませてくれないか」多田が窓の外を見ながら言った。
「何が飲みたいんだ?」
多田は少し考えるように下を見た。
「コーラ。刑務所の中じゃ飲めないだろうから」
「確かに、そいつはなかなかお目にかかれないかもな」佐藤はナビを操作し、近くのコンビニに行き先を設定した。車が自動でそこに向けて走り出した。殺風景な街並みが広がっていた。
佐藤は口を開いた。佐藤は、沈黙に耐えるということが昔から苦手だった。
「昔の日本には、飲み物の自動販売機が至るところにあったらしい。モールの中だけじゃなく、町中に。信じられないよな。それが成り立つ社会があったんだ。今じゃそんな商売は成立しない。あっという間に何もかも盗まれちまうだろうから」
佐藤がここまで言ったところで、多田が口を開いた。
「そんな世界に生まれたら、俺でも幸せになれたと思うか?」
「どうだろう。幸せになるのは難しいからな」
車は信号を左に曲がった。フロントガラスには砂埃が溜まってきていた。
「少なくとも、この世界では難しかった。生きていくのに精一杯で、生きる代わりに大切なものを犠牲にし続けてきた。ただ生きていくことしかできなかった」
「そうか」佐藤は多田の方をちらりと見た。多田はまだ顔を外に向けていた。
「子供の頃、国に帰れと言ってくる奴らがいた。今も居るがな。俺は日本人だ。見た目は日本人じゃないかもしれないが、この国で生まれた。外国へなんて行ったこともない。そんな俺はどこに帰れば良いんだ」
そこまで言うと、多田は佐藤の方を見た。
「あんたは見たところ日本人だろ」
「ああ」
「恵まれてるな」
「それは間違いない」佐藤は、自分が日本人に生まれたメリットを十分に活用しているとは思っていなかったが、そう口にした。活用はしなくとも、恩恵は受けた。少なくとも道を歩いている時に罵声を浴びせられたりはしなかった。
「人生は幸せか?」
「最悪ではない。生きる目的も意味も何もないが、楽しいと思うこともたまにはある。まあ、悲観するほど悪くはない」
「良いな」多田はそうつぶやくとヘッドレストに頭を置き、目を瞑った。
コンビニの看板が見えてきた。車が減速し、バックで駐車場に泊まった。流れるようにスムーズな動きだ。オートパイロットが導入されてから、交通事故の半数が減ったのも納得だ。全ての車への導入が義務付けられたら、事故を望まない限り、起こすことは難しくなるだろう。
「コーラを買ってくる。他に何かいるか?」
「煙草が欲しい」目を瞑りながら多田が答えた。
「紙でよければ俺のをやるが」
「紙が良い。ありがとう」
「逃げても良いぞ。すぐまた捕まえるが」佐藤はドアノブに手をかけ、後ろを振り返った。
多田は少しだけ笑った。
入り口で顔認証を通し、コンビニの中に入る。防犯と、冷房目当てでコンビニに溜まり続ける客の対策として取り入れられたものだ。
店内は涼しく清潔な状態だった。店内には、中年の男が一人いるだけだった。
佐藤はコーラを二本手に取り、それをセルフレジに持っていった。セルフレジの特殊な台の上にコーラを置く。商品が自動的にスキャンされ、金額が表示された。佐藤はデバイスを操作し、電子コインで決済を行なった。
店を出て駐車場に停めた車を見ると、多田はまだ中に座っていた。
佐藤は車に歩み寄り助手席のドアを開けた。
「暑いが外で吸おう。このレンタカーは禁煙だから」
多田は小さく頷くと車の外に出てきた。佐藤は多田の手首につけた拘束具を外してやった。
「逃げるかもしれないぞ」
「そしたらすぐに捕まえる」佐藤は少し笑った。
佐藤は多田にコーラとタバコを渡した。
「ありがとう」
「いいや」佐藤は多田が咥えた煙草に傷のついたジッポで火をつけた。
多田はうまそうに煙草の煙を吐き出した。佐藤も自分の煙草に火をつけた。しばらく2人はだまって煙草を吸っていた。口の中に入った砂埃を吐き出し、コーラを飲んだ。
「こっから後10分ぐらい走らせたら警察署がある」
「よくある話だ」多田はコーラの蓋を開け、一口飲むと、小さくゲップした。
「社長からの給料が3ヶ月未払いだった。社長に直談判しに行って、口論になり殺しちまった。殺すつもりはなかった。それで怖くなって逃げた。それだけだ」
「金は取ってないのか?」佐藤は訪ねた。
「取る金なんてなかったよ。大方、奥さんがうそでもついたんだろ。あの男は俺らの給料も自分ちの金も、何もかも女に注ぎ込んじまったんだから」
「吉原か?」
「ああ。毎晩あそこに出かけては若い女を買っていたらしい」
「よく飽きないな」
「あそこには今、女が次々と入ってきてるからな。一晩に一人なんてペースじゃないだろ」
佐藤は顔を顰めた。
「そろそろ行くか」
多田は大きく息を吐くと、煙草を灰皿に押し付けた。
「ああ。もう十分だ」
「お前が金を取ってないってのは、一応警察に言っておく。まあ期待はするな」
「ありがとな。何から何まで」
「捕まえた人間に対する言葉じゃないな」佐藤は苦笑した。
「いいや。あんたが俺を捕まえに来なかったら、いつか賞金稼ぎの奴らに殺されてたさ」
「刑務作業は厳しいぞ」
「俺がこっちでやってた仕事と刑務作業じゃ大した差はないよ。勝手に飯が出てくるから楽なくらいだ」
佐藤は苦笑し、車の助手席のドアを開けた。
「乗れよ。安全運転で連れて行ってやる」
「お帰りなさい」
部屋に戻った佐藤をビーコンが迎えた。机の上には食事が用意してあった。生姜焼きに、新鮮な野菜のサラダ、白米に味噌汁。固形の食物をしばらく食べていない佐藤には、食卓が眩しかった。
「ただいまビーコン。料理ありがとう」
「いえいえ、あなたのお陰で私のアームの動きもスムーズになりましたし」ビーコンはそう言って、佐藤に潤滑スプレーを見せてきた。
「これ、少し前から広告でよく見ていたので気になっていたのですよ。いや素晴らしい。素晴らしいアームの動きです」
「それは良かった」佐藤は流しで手を洗い、椅子に座った。生姜焼きの良い香りが漂ってきた。
「いただきます」佐藤は手を合わせる。
「召し上がれ」
佐藤は生姜焼きを口に入れる。少し甘めのタレと、生姜の風味、肉の旨味が口の中に広がった。
「最高だよ」佐藤は天井に向かって親指を突き立てた。
「それは何よりです。私は今からアームの性能をテストするので、話しかけないで下さいね」
その後は黙って食事を続けた。佐藤の箸が食器にあたる音と、ビーコンがジェンガを一人で高く積んでは倒す音が部屋に響いていた。
食事が終わり、佐藤が食器を洗っていると、ビーコンが声をかけてきた。
「コーヒーを淹れますか?」
「ああ、頼むよ」酒が嫌いな佐藤は、食後にコーヒーを飲むことを好む。
ビーコンが豆を削り始める。凝り性なビーコンは、コーヒーをバリスタマシンで淹れることを嫌い、自分で丁寧に淹れる。
佐藤は濡れた手を布きんで拭き、ソファに腰掛けた。本を読もうとも思わなかった。
「あなたは仕事の後、いつも疲れていますね」沸いたお湯を、ゆっくりと注ぎながら、ビーコンが言った。
「仕事の後は、誰だって疲れるものだよ」
「精神的にそこまで疲れる仕事についた時、人は転職を考えるものです」
「確かにそうかもね」佐藤は苦笑した。
「求人広告でも集めておきましょうか」
「三十半ばで、職歴に賞金稼ぎがあるやつを雇う職場では働きたくないかもしれない」
「それもそうですね」
「コーヒーです」天井から伸びたアームが佐藤にコーヒーカップを差し出した。
「ありがとう」佐藤はカップを受け取った。良い香りが心を少し落ち着かせた。
「いただきます」と天井に向かって言い、一口啜った。熱い液体が喉を通っていく。
「今日も最高に美味しいよ」
「今日はフランスの有名バリスタ、ロベール・レオの淹れ方を参考にしました。いつもとの違いは分かりましたか?」
「ああ、なんだか芳醇な香りがするよ」佐藤は適当に答える。
「今度ガストンを連れてきてください。彼ならコーヒーの味を理解していますから」ビーコンは少し怒った調子で言った。
「分かったよ。ガストンも喜ぶ」佐藤はそう言って、もう一口コーヒーを飲んだ。
なんだか、本を読みたくなってきた。




