カリフォルニアの灰色熊 世界ヘビー級王者 ジム・ジェフリーズ(1875-1953)
ジェフリーズはクラウチングスタイルを効果的に活用したヘビー級ボクサーの先駆である。当時のヘビー級の中では大男の彼がわざわざクラウチングスタイルというのは奇妙な気もするが、コーベットやフィッシモンズ、ジャクソンのようなテクニシャン相手の場合、追い回すより相手の打ち気を誘ってスタミナを消耗させる作戦の方が理にかなっているということなのだろう。愚鈍な大男然としているだけに、彼らのパンチの格好の的に見えたかもしれないが、頑強なジェフリーズが前かがみになって急所をガードすれば、効果的な一打を決めるのは困難だったはずだ。結果、いたずらにスタミナを消耗して皆枕を並べて討ち死にしてしまった。ジェフリーズは見かけよりずっとシャープだったのだ。
ジム・ジェフリーズは史上初めて無敗のまま引退した世界ヘビー級チャンピオンである。もし、カムバックして醜態をさらすことがなければ、引退時には史上最強の声も高かっただけに、今日でも無敗王者の一人としてその名はヘビー級史に燦然と輝いていたに違いない。
たった一度の敗北、それも惜敗ではなく一方的な敗北となると、そのふがいない負け方が、これまで築き上げた輝かしい実績をくすんだものにしてしまうことはよくあることだ。比較的最近の日本人の例で挙げると、年度のパウンド・フォー・パウンドのトップ10にランクされるほどの安定王者だった内山高志や山中慎介の一方的なKO負けがそうだ。
相手が特に危険視されていた挑戦者というわけでもなかったぶん、その意外なまでの打たれ弱さが、彼らの評価を随分と割り引いてしまった点は否めない。
若い時分、「カリフォルニアの灰色熊」の異名を取ったジェフリーズは、ホームタウンであるサンフランシスコでは「地元の誇り」として絶大な人気があったが、生まれはオハイオ州のキャロルで、六歳の時に両親とともにサンフランシスコに転居してきた。
十六歳ですでに一八〇センチ九〇キロを超える巨漢になっており、鉱山労働者を皮切りに様々な力仕事に従事する中で、筋肉隆々の肉体を作り上げた。肉体労働のかたわら、陸上競技、レスリング、ボクシングとあらゆるスポーツに親しんでいたが、何をやっても一流であったことから、やがてプライズファイトの声がかかるようになった。
デビュー当時のジェフリーズは、ボディビルダーのようにたくましい肉体から放たれる強打で売り出したが、一八九七年、世界戦を控えたジム・コーベットのスパーリングパートナーに招かれた当初は科学的ボクシングの先駆者の高度なテクニックに翻弄され、自慢の強打もほとんど空回り状態だった。
とはいえ、世界ヘビー級チャンピオンのパンチを毎日何ダースも浴びながらも、戦意を失うことなく常に前に出てゆく闘争心と打たれ強さだけは相当なもので、キャンプも終盤になると「あれでコーベットの十分の一でも巧妙さを身に付けたら、案外コーベットの方が打ちまくられるのではないか」という声が取材記者の間でちらほらと聞かれるほどジェフリーズの評価は高まってきた。
キャリア初期のジェフリーズは、粗野で好戦的な突貫ファイターというイメージが先行していたがゆえに技術的には見るべきものがなく動作も鈍重と思われがちだったが、実はかのジョン・L・サリヴァンが「これほど早く動けるヘビー級は見たことがない」と激賞したほど俊敏で、運動神経は抜群だった。
スパーリングで一方的に打たれたのは、たまたま相手が当時の重量級きってのスピードとテクニックの持ち主であったからで、目利きの記者たちは、このムキムキの大男が見た目以上に反射神経が優れていることに気がついていた。
100ヤードを11秒で駆け抜ける俊足ぶりもさることながら、走り高跳びで一七七センチも跳ぶ身体のバネは、歴代ヘビー級王者の中でも傑出している。背面跳びやベリーロールがない時代、この数字は実にジェフリーズが生れる十年前の世界記録に相当するものだ。
つまり、この時点までのジェフリーズはボイラー作りの仕事で鍛え上げた筋力頼みのシンプルなパワーボクシングしか出来ず、優れた体幹を生かしきれていなかったということである。ところが、カーソンシティでの連日のスパーリングでコーベットと対峙しているうちに、少しずつその動きにも慣れ、パンチを繰り出すタイミングも良くなってきたのだ。
彼自身もその手応えを十分感じていたのだろう。顔面を醜く腫れ上がらせてサンフランシスコに帰ってきたときには、攻防の技術のスキルアップを実感できたことに小躍りして喜んでいたという。
コーベットのマネージャーが飲み込みの速さに驚いたほど学習能力の高かったジェフリーズは、ヘビー級の強豪ジョー・チョインスキーと引き分けて自信をつけると、一八九八年三月にはかつてサリヴァンが対戦を拒み続け、コーベットでさえ引き分けるのがやっとだったピーター・ジャクソンを三ラウンドでKOし、一躍次期チャンピオン候補と目されるようになった。
すでに三十七歳になり半ば引退同然だったとはいえ、十数年間敗戦を知らなかったレジェンドをボディブローで足を止めておいてから連打でストップに追い込んだジェフリーズは、これがプロ十戦目に過ぎなかった。
西海岸で一気に知名度を高めたのを機に、いよいよニューヨークに進出することになった。本場で売り出すのなら思いっ切り派手に、というわけで、なんと八月五日のお披露目興行では一日に二人と十回戦を行うことにしたのだが、この自信過剰な企画は大きく当てが外れてしまう。
最初に対戦したボブ・アームストロングとの試合で、一ラウンドに頭部に放ったパンチで早くも両拳を痛めてしまい、かろうじて判定勝ちを拾うのがやっとという有様で、二戦目に予定されていたスティーブ・オコンネルとの試合はキャンセルせざるを得なくなったのだ。
評判倒れに終わったジェフリーズは、すごすごとサンフランシスコに引き揚げたが、逆にこのふがいない試合を見物していた世界チャンピオン、ボブ・フィッシモンズが「ジェフリーズなど大したことはない」と思い込んでくれたのは幸いだった。なんと一年後のフィッシモンズの初防衛戦の相手にジェフリーズが指名されたのだ。
一八九九年六月九日、コニーアイランドでの世界タイトルマッチは、この試合で初披露したジェフリーズのクラウチングスタイルに戸惑ったフィッシモンズが二ラウンド早々ダウンを喫する波乱の幕開けとなった。
しかし、そこは試合巧者のフィッシモンズ。次第に劣勢を挽回し、中盤は両者ともに相譲らぬ打撃戦を展開したが、三十六歳の老雄はついにスタミナ切れし、十ラウンドと十一ラウンドに続けさまにダウンを奪われ、万事休した。
同年十一月三日の初防衛戦の相手トム・シャーキーは、前年に二十ラウンドの激闘を演じた自他共に認める最強のライバルだった。
一七三センチと小柄ながらビルドアップされた上腕から繰り出される強打は、ヘビー級の大男たちをものともせずになぎ倒してゆき、デビューから十九連続KO勝ちを記録している。二十五勝無敗五引分(二十三KO)という素晴らしい成績で迎えたジェフリーズとの無敗対決では、ほとんどの試合を前半で片付けてきたシャーキーが、持久戦に持ち込まれた挙句に、微妙な判定を落としたが、その実力は全くの互角というのが一般的な見方だった。
それほど危険な相手と虎の子のタイトルを懸けて戦うことになったのは、第一戦の判定に納得がゆかず憤懣やるかたないシャーキーを気の毒に思ったのか、人の良いジェフリーズが「トム、俺がチャンピオンになったら、一番先にお前と対戦するよ」と約束していたからである。
実力が伯仲した両者による二十五ラウンドにわたる派手な殴り合いの結果、またしてもジェフリーズが僅差の判定を拾ったが、中盤までのシャーキーの攻勢を取るか、終盤のジェフリーズの反撃を取るかで観客、専門家ともに意見が真っ二つに割れ、今日でも決着がついていない、
試合直後はシャーキーに賭けていた大勢のファンが「サイラー(レフェリー)をぶち殺せ!」と殺気立ち、プロモーターが警官を呼ぶ騒ぎとなった。
二人揃って「生涯で一番辛かった試合」と回顧したこの激戦、ジェフリーズは鼻柱を砕かれ、シャーキーは肋骨四本を骨折する重傷で試合後病院に直行した。
一九〇四年八月二十六日、地元サンフランシスコで六度目の防衛戦に臨んだジェフリーズはこの試合を有終の美で飾って引退するつもりだった。骨のある連中をあらかた一掃してしまい、すでにヘビー級史上最強という評価も確立した以上、もはやリング上で証明することは何もないように思われていたが、プロで十勝一敗のキャリアしか持たない男を最後の相手に選んだのには大きな訳があった。
挑戦者のジャック・マンローは、エキジビションマッチでジェフリーズをKO寸前に追い詰めたこと
もある因縁の相手だったのだ。
話は二年前の一九〇二年にさかのぼる。
無敗の王者ジェフリーズは、チャンピオンになって以来、素人飛び入りのエキジビションマッチで小遣い稼ぎをしていた。これはジェフリーズを相手に四ラウンド戦い、KOされなければ千ドルを進呈するというもので、各地で大人気の興行だったが、これまで千ドルをせしめた者は一人もいなかった。
ところがこの年の十二月にモンタナ州ブッテで行われたエキジビションでは大番狂わせが起きた。
当時鉱山で働いていたマンローはまだプロデビューから二年目の駆け出しだったにもかかわらず、リング上でチャンピオンを愚弄するような言葉を口走り、しきりに挑発した。
グリーンボーイ相手に口喧嘩をしてもはじまらない、と冷静さを装っていたものの、どうにも腹の虫が収まらないジェフリーズは開始のゴングが鳴るや、猛然と突進していった。
全てはマンローの筋書き通りだった。待ち構えていたマンローがすくいあげるような右スイングを一閃すると、カウンター気味にこれを浴びたジェフリーズはまるで雷の直撃を受けた巨木のように地響きを立ててマットに倒れ込んだ。
よろよろと立ち上がったものの、目の焦点が定まらず、散々に打ちまくられたが、かつて世界チャンピオンの連打にも音を上げなかった超人的なタフネスだけは相変わらずで、かろうじてKOだけは免れた。
四ラウンド持ちこたえたマンローにまんまと千ドルをせしめられてしまったジェフリーズは、この時の屈辱を忘れず、ずっと復讐の機会を伺っていたのだ。
ベストコンディションに仕上げて臨んだこの試合、ボディから顎への返しのブローで試合開始早々マンローに片膝をつかせたジェフリーズは、焦らずじっくりと挑戦者を追い詰めていった。
一ラウンドをなんとか持ちこたえたマンローがコーナーで息も絶え絶えにあえいでいるのをじっと見つめるジェフリーズは、シニカルな微笑みを浮かべていた。もはや勝負は誰の目にも明らかだった。
恐怖で金縛りにあったように手が出なくなったマンローは、二ラウンド四十五秒にストップされた。すでに顔面は血まみれで猛獣に襲われた男のようだった。
この試合を裁いたレフェリー、エディ・グレーニーが「今宵のジェフリーズは、私がこれまで見た中では最高のボクサーだ。彼を倒せるような男がいったいどこにいるというのだ」と最大級の賛辞を送ったように、ジェフリーズは全く衰えを見せることもなく、キャリア絶頂期においてリングを去っていった。おつむがかなり薄くなってはいたが、まだ二十九歳だった。
ジェフリーズの引退宣言から五年後、ヘビー級の絶対王者として君臨していたのはジャック・ジョンソンだった。両の拳で人種差別と戦うジョンソンは黒人たちの英雄であり、保守派の白人にとっては殺しても殺し足りないほどの憎悪の対象だった。
リングの上では白人をぶちのめし、私生活ではとっかえひっかえ白人女性をモノにしてしまうジョンソンは、黒人種の優越性を白人種に見せつけているかのように挑発的で、巷ではジョンソンを倒すホワイトホープの登場を今か今かと待ち望んでいたが、それに叶うような白人のヘビー級は現れなかった。
そこで担ぎ出されたのが、往年の無敵王者ジェフリーズだった。
作家のジャック・ロンドンらが中心となってジェフリーズのリング復帰を画策し始めた頃、当の本人は時折レフェリーとして人前に姿を見せる以外は農場経営に忙しく、体型も力士のように肥満し、とてもリングに上がれるような状態ではなかった。
もちろん勝てる自信など全くない元王者は、当初は全く取り合わなかったが、十万ドルという報酬の魅力には勝てなかった。最後の防衛戦ですら取り分が二万ドル弱だったことを考えると、ジョンソン戦の報酬は法外だった。
一九一〇年七月四日、ネバダ州リノで行われたジョンソンの防衛戦はプロモーターのテクス・リカードが『世紀の対決(The Battle of the Century)』と銘打ったビッグイベントで、ファイトマネーの他にボーナス、映画放映権など計三十万ドル以上が両選手に支払われた。賭け率は十対七でジェフリーズ有利と出ていたが、これは全盛期の印象による買いかぶりと白人たちの期待の表れだった。
試合は全くジョンソンのペースで、五〇キロもの減量を強いられたジェフリーズはスピードもスタミナもなく、十五ラウンドにストップされた。ジョンソンが全力で倒しにかかれば序盤でKO決着がついていたほど、両者の実力差は明らかだった。
敗者ジェフリーズは「自分の全盛期でもジョンソンには勝てない。おそらく千年かかっても勝てないだろう」と勝者を称えたが、このことからジェフリーズは現役王者時代、ジョンソンに勝てないことがわかっていたから対戦を避け続けた、というストーリーが生まれたばかりか、防衛戦の相手が全て白人であったことを楯に取られ、白人至上主義者の片棒を担いでいたかのように見られるようになったのは気の毒だった。
実際のジェフリーズは、基本的に肌の色で対戦相手を選ばないというスタンスだったため、ジョンソンやラングフォードをはじめとする黒人の強豪たちから尊敬されている当時としては稀有な白人ボクサーだった。
タイトルがかかった防衛戦の相手こそ黒人を選ばなかったが、ハンク・グリフィンやピーター・ジャクソンといった黒人強豪に圧勝しているように、黒人だからといってファイトを拒んだことはなく、むしろ黒人の強豪ボクサーには敬意を表していたほどだ。
結局のところ、グレートホワイトホープが黒人にタイトルを奪われるのを恐れた周囲が、政治的圧力によってタイトル戦を阻止してきただけのことである。
現役時代、白人たちの圧力でジョンソンからの挑戦に応じることができなかったジェフリーズは、兄の経営する酒場で偶然客としてやってきたジョンソンと出くわしたことがある。その時、ジェフリーズは五千ドルの札束を見せ、「これから地下室で俺とファイトしよう。お前一人がここに戻ってきたらこの金を持っていっていいぞ」と提案したが、ジョンソンはそれに応じず、ジェフリーズへの挑戦を撤回している。
このエピソードから、いざとなると怖気づいたジョンソンよりもジェフリーズの方が強いと見るのは早計かもしれない。とはいえ、両者の共通の対戦相手だったハンク・グリフィンは、ジェフリーズに十四ラウンドKO負けを喫している(あと一戦は無効試合)のに対し、ジョンソンには一勝二引き分けと一度も負けていない。
しかも、後年のジョンソンが挑戦を拒み続けたラングフォードですら、「誰とでも闘う」と公言しながら、ジェフリーズにだけは対戦オファーを出さなかったことを考えると、さすがのジョンソンも、全盛期の灰色熊には絶対に勝てるという自信は持てなかったのではないだろうか。
再起後は油の切れたブリキ人形のような動きだったため、ジョンソンに弄ばれた格好になったジェフリ-ズだが、若き日のオリンピックアスリート級の運動能力を有していた時に対戦すれば、アップライト型のジョンソンは、クラウチングスタイルからのボディブローをガードするのに手一杯で、リノでのウィラード戦のように一方的な攻勢を取り続けることが困難だったはずだ。
ジェフリーズは上背、リーチともにジョンソンより勝っているうえ、ジョンソンは若い頃にベテランのジョー・チョインスキーのボディ連打で沈められた経験があるため、パワー、スピードもチョインスキーの比ではない全盛期のジェフリーズの強打をもってすれば、そのプレッシャーで神経をすり減らしたジョンソンが消耗戦の末にギブアップというシナリオもあながち荒唐無稽とは言い切れないだろう。
ジェフリーズはプロボクサーになる前にボイラー職人として働いていたことがあり、それに由来する「ボイラーメイカー」というニックネームもあった。
今日では「ボイラーメイカー」という職業名を言われてもピンとこないかもしれないが、クラシックカクテルの「ボイラーメイカー」といえば馴染みのある方もいるかと思われる。このカクテルはビールにウイスキーかバーボンを注いで飲むというシンプルなものだが、飲み口がいいわりにあとから身体がカーッと熱くなることから、韓国では爆弾酒と呼ばれている。
ジェフリーズの試合も序盤は一方的に打たれながら逆転KOしてしまうような中盤から終盤にかけて盛り上がる試合が多く、テクニックを主体としたコーベットやフィッシモンズの玄人好みの試合よりもエキサイティングだった。
引退後もショーマンシップが旺盛なジェフリーズは、講演会などで自身の往年の名勝負をシャドーボクシングで再現してみせるのが実に上手かった。肥満体にもかかわらず動きにキレがあり、見る者をうならせたという。
そして最後のお約束が、かつらを外して湯気が立ち上りそうなテカテカの薬缶頭を披露することで、さすがボイラーメイカーだけのことはあった。
ジェフリーズは「自身の全盛期でもジョンソンには勝てなかった」と謙遜したが、ハートをKOできなかったジョンソンが、ハートよりもタフでパンチ力も段違いのジェフリーズに勝つとしたら、20R程度の試合での判定勝ちくらいしか望めないような気がする。つまり、このくらいのラウンド数ならうまくコントロールして逃げ切れるかもしれないが、もっと長丁場になると決してタフとはいえないジョンソンの足が鈍り、ジェフリーズの大振りの一撃を喰らう可能性が高くなると思うからだ。




