第5章:試練の始まり
七月の終わり、夏休みが始まったばかりの頃だった。薔薇は図書館で本を読んでいる時、突然激しいめまいに襲われた。立ち上がろうとすると膝がガクガクと震え、鼻血が止まらなくなった。
司書の田村さんが駆け寄ってきた。
「薔薇ちゃん! 大丈夫?」
「すみません……ちょっと貧血かもしれません」
「救急車を呼びましょう」
「いえ、大丈夫です……」
しかし薔薇の顔は青白く、明らかに普通の貧血ではなかった。田村さんは薔薇の両親に連絡し、すぐに病院に搬送された。
病院での詳しい検査の結果、医師から告げられた診断は急性リンパ性白血病だった。薔薇の母親の美和は、医師の説明を聞いて言葉を失った。
「先生、治るんですよね?」美和が震え声で聞いた。
「治療方法はあります。ただし……」医師は言葉を選んだ。「進行が早く、厳しい状況であることは確かです」
薔薇は意外にも冷静だった。
「先生、正直に教えてください。私、死ぬんですか?」
「薔薇! そんなこと聞くものじゃありません」美和が慌てた。
「お母さん、私は知りたいの」
医師は薔薇の目を見つめて答えた。
「最善の治療を行えば、寛解の可能性はあります。しかし……余命は、おそらく一年程度と考えていただいた方が良いでしょう」
薔薇は静かに頷いた。
「分かりました。ありがとうございます」
その夜、遼は薔薇の母親から連絡を受けて病院に駆けつけた。薔薇の病室に入ると、彼女はベッドの上で窓の外を見つめていた。
「薔薇……」
「遼、来てくれたのね」薔薇が振り返った。「座って」
遼は薔薇の隣に座った。薔薇の手は以前より細くなっていた。
「聞いたよ……白血病って」
「うん。でも不思議と怖くないの」
「怖くない?」
「だって、私たち答えを見つけたでしょう? 愛とは何か、存在とは何か。宇宙が私たちに教えてくれた」
遼の目に涙が浮かんだ。
「でも薔薇、僕は君を失いたくない」
「私も遼といつまでも一緒にいたい。でも……」薔薇は遼の手を握った。「私たちの愛は死によって終わるものじゃない。宇宙的な愛だもの」
その時、薔薇の母親の美和が病室に入ってきた。美和の目は涙で赤く腫れていた。
「薔薇……お母さん、仕事ばかりで、あなたのこと何も見てなかった」
「お母さん……」
「今更だけど、あなたを愛してるの。どうしたらいいか分からなかったけど、ずっと愛してる」
薔薇は母の涙を見て、初めて理解した。愛は完璧ではない。下手で、不器用で、間違いだらけ。でもそれでも愛は確実に存在していた。
「お母さん、私も愛してる。お母さんなりに、精一杯愛してくれてたのは分かってた」
美和は薔薇を抱きしめた。生まれて初めての、本当の母娘の抱擁だった。
父親の健一も仕事を早めに切り上げて病院に来た。
「薔薇、お父さんも君を愛してる。不器用で表現が下手だけど、君は僕の誇りなんだ」
薔薇の家族は、初めて本当の意味で一つになった。死という現実を前にして、愛が偽装を脱ぎ捨てて現れた。
遼は病室を出て廊下で泣いた。なぜ薔薇が死ななければならないのか。せっかく答えが見つかりかけていたのに。
河原に向かい、遼は夜空に向かって叫んだ。
「宇宙! 聞いてるんだろ! なんで薔薇を死なせるんだ! 答えろ!」
しかし返事はない。美しい星空が静かに輝いているだけだった。
健太が遼を見つけて話しかけた。
「遼、薔薇ちゃんのこと聞いた……辛いよな」
「健太……僕、どうしたらいいか分からない」
「分からなくていいんじゃない? 俺も分からない。でも、薔薇ちゃんと一緒にいることはできるだろ?」
健太の素直な言葉が、遼の心を少し軽くした。そうだ、薔薇と一緒にいられる時間を大切にしよう。
翌日から、遼は毎日病院に通った。薔薇の体調の良い時は一緒に本を読み、写真を見せ、星空について語り合った。
薔薇は病床で哲学ノートを書き続けていた。
『死について:
怖い。でも同時に、これまでの問いへの答えが見つかりそう。死は終わりじゃなく、宇宙への回答なのかもしれない。私が学んだ愛について、宇宙に伝える時が来たのかもしれない。』
『愛について:
お母さんの不器用な愛、遼の深い愛、お父さんの無言の愛、健太さんの友情、田村さんの優しさ……愛は完璧じゃないけれど、確実に存在する。そして愛は死を超える。』
ある夜、薔薇の容態が急に悪化した。遼は病室で薔薇の手を握りながら、宇宙に向かって祈った。
「宇宙、聞いてくれ。薔薇の命を延ばしてくれとは言わない。でも教えて。僕たちの愛は無意味なのか? 死んだら全部終わりなのか?」
薔薇も朦朧とする意識の中で語りかけた。
「宇宙……私たちの問いへの答えは見つけられた? 愛は存在するって、伝えられた?」
その時、久しぶりに宇宙の声が響いた。
『君たちは素晴らしい答えを見つけてくれた。愛は存在する。不完璧で、有限で、時に理解できないものだけれど、確実に存在する。そして愛こそが、私が自分自身を理解する鍵だった』
『薔薇、君の死は終わりじゃない。君が見つけた愛の答えは、宇宙の一部となって永遠に響き続ける』
『遼、君の存在への問いも意味があった。君たちが出会い、愛し合うことで、存在することの意味が明らかになった』
薔薇の容態は一時的に安定した。医師も驚くような回復を見せた。
「先生、これは奇跡ですか?」美和が聞いた。
「医学では説明できない現象です。でも確かに改善しています」
薔薇は遼に言った。
「遼、私たちにはまだやるべきことがある」
「何を?」
「私たちが見つけた答えを、必要な人に伝えること」