第3章:問いかけの深まり
二人が出会ってから一週間が過ぎた。遼と薔薇は毎日のように会うようになった。図書館、学校の屋上、放課後の河原。二人だけの特別な時間が始まっていた。
遼のクラスでは、薔薇との関係について噂が広がっていた。
「えー、遼って彼女いたの?」
「美人だけど、なんか変わってるよね、あの子」
「二人とも変わってるから、お似合いなんじゃない?」
健太が遼に話しかけた。
「おい遼、あの子誰? まさか彼女?」
「友達だよ……たぶん」
「たぶんって何だよ」健太が笑った。「でもお前、最近ちょっと元気になったよな。顔色もいいし、なんか生き生きしてる」
確かに遼は変わっていた。薔薇と出会ってから、世界の見え方が変わった。以前は灰色に見えていた景色に、少しずつ色が戻ってきた。
昼休み、薔薇は遼のクラスを訪れた。薔薇は1年生だったが、年齢の差など関係なかった。二人の魂は同じ深さを持っていた。
「遼、屋上で一緒にお弁当食べない?」
屋上で二人きりになると、薔薇が言った。
「昨夜のこと、夢じゃなかったよね? あの宇宙の夢」
「うん。僕も同じ夢を見た。宇宙で手を繋いでる夢」
「不思議ね。私たち、テレパシーでもあるのかしら」
遼は薔薇に写真を見せた。夜空の星々、河原の風景、街の夜明け。どれも美しい写真だったが、薔薇が最も興味を持ったのは星空の写真だった。
「この写真、すごく深いのね。まるで宇宙が何かを語りかけてるみたい」
「薔薇にもそう見える? 僕もそう感じて撮ったんだ」
薔薇は遼にハイデガーの『存在と時間』を見せた。
「この本、存在について書かれてるの。あなたの問いと関係があるかもしれない」
遼はページをめくってみたが、内容は確かに難解だった。
「分からないところが多いけど……でも、この人も僕と同じようなことで悩んでたんだね」
「そうなの。ハイデガーは『存在とは何か』という根本的な問いから出発してる。あなたの頭の中の『声』と同じ問いよ」
二人が話している間、また例の現象が起こった。周囲の音が消え、深い静寂が訪れる。頭の中の「声」も完全に静まる。
「この静寂……」遼が呟いた。
「私たちにとって、とても大切なものね」薔薇が答えた。
「なんでだろう? なんで君といると『声』が静まるんだろう?」
「きっと答えが見つかりかけてるからよ。私たち、一人では見つけられない何かを、一緒にいることで見つけようとしてる」
放課後、二人は図書館に向かった。薔薇が普段利用している場所だった。司書の田村さんが薔薇を見て微笑んだ。
「あら薔薇ちゃん、今日はお友達と一緒なのね」
「はい。遼、紹介するわ。田村さんは私をいつも気にかけてくださってる」
「はじめまして、高樹遼です」
「遼くんね。薔薇ちゃんがお友達を連れてきたの、初めて見たわ。良かったのね」
田村さんの言葉で、薔薇がいかに孤独だったかが分かった。遼は薔薇の手をそっと握った。薔薇は驚いたが、嫌がらなかった。
図書館で二人は向かい合って座った。薔薇はカミュの『異邦人』を読み、遼は薔薇に勧められたサルトルの『存在と無』を眺めていた。
「この主人公、感情がないように見えるけど、本当は感じすぎて麻痺してるんじゃないかな」薔薇が呟いた。
「僕も同じかも。感じすぎて、逆に感じられなくなってる」
遼が薔薇に聞いた。
「君のお父さんとお母さんは、愛し合ってないの?」
「分からない。昔は愛し合ってたのかもしれない。でも今は……ただ習慣で一緒にいるだけみたい」
「それって悲しいね」
「悲しいというより、虚しい。愛がこんなに脆いものなら、なんで人は愛を求めるんだろう」
その時、薔薇の頭に新しい気づきが浮かんだ。
「でも、あなたといると、少し分かる気がする」
「何が?」
「愛っていうのは、理解されることかもしれない。完全に理解されること。判断されずに、受け入れられること」
遼は薔薇の言葉に深く感動した。
「そうかもしれない。僕も君といると、初めて理解されてる気がする」
夕方になって二人は図書館を出た。健太が迎えに来ていた。
「おい遼、紹介してくれよ」
「健太、こちら薔薇。薔薇、僕の親友の健太」
「はじめまして」薔薇が軽く頭を下げた。
「薔薇ちゃんか。変わった名前だね。でも美人だなあ」
健太の気さくな態度に、薔薇も少しリラックスした。
「健太くんは遼のことをよく理解してるのね」
「理解してるかどうか分からないけど、こいつはいい奴だよ。変わってるけどね」健太が笑った。
三人で健太の家の定食屋に向かった。健太の両親が温かく迎えてくれた。
「遼くん、今日はお友達も一緒なのね。いらっしゃい」
健太の母親の温子が薔薇に声をかけた。
「薔薇ちゃんというの? 素敵なお名前ね」
薔薇は健太の家族の温かさに触れて、少し涙ぐんだ。こんな家族の愛情に包まれた経験がほとんどなかった。
定食を食べながら、健太が遼に話しかけた。
「なあ遼、最近お前変わったよな。前より明るくなったし、なんか目的ができたみたいだ」
「薔薇に出会えたからかもしれない」
「薔薇ちゃんも遼と友達になって良かったね。遼は変わってるけど、優しいし、深いこと考えるから、話してて面白いと思うよ」
薔薇は頷いた。
「遼は私が今まで出会った人の中で、一番理解してくれる人です」
夜になって薔薇を家まで送る途中、遼が薔薇に聞いた。
「薔薇、君は何のために生きてると思う?」
「今までは分からなかった。でも最近、少し見えてきた気がする」
「何が見えてきた?」
「私たちが出会ったことには意味がある。私の愛への問いと、あなたの存在への問いが合わさることで、何か大切な答えが見つかりそう」
遼は薔薇の言葉に深く共感した。
「僕も同じことを感じてる。一人では見つけられない答えを、君と一緒なら見つけられるかもしれない」
薔薇のマンションに着いた時、薔薇が言った。
「遼、私の家に上がってもらってもいい? 両親に紹介したいの」
薔薇のマンションは高層階にあった。エレベーターで上がっていく間、薔薇は緊張していた。
「私の両親、少し変わってるから……」
「大丈夫。僕の両親も変わってるよ」
薔薇の家に入ると、母親の美和がリビングで仕事の資料を整理していた。
「薔薇、お帰りなさい。今日は遅かったのね」
「お母さん、紹介したい人がいるの。遼くん、私の友達です」
美和は遼を見て驚いた。薔薇が友達を家に連れてきたのは初めてだった。
「はじめまして、高樹遼です」
「こちらこそ。薔薇がお友達を連れてくるなんて、とても珍しいことです」
父親の健一も仕事から帰ってきた。薔薇の友達として遼を紹介された。
「薔薇に友達ができたのか。それは良いことだ」健一が言った。
でも薔薇の両親の会話は事務的で、愛情のこもったやり取りは見られなかった。遼は薔薇の問いの根源を理解した気がした。
薔薇の部屋で二人は話した。
「薔薇の部屋、本がたくさんあるね」
「一人でいる時間が長いから、本が友達だったの。でも最近は……」
「最近は?」
「本よりも、あなたと話している方が楽しい」
薔薇の机の上には、哲学ノートが開かれていた。愛についての深い考察が綴られている。
「すごいな、薔薇。こんなに深く考えてるんだ」
「あなたも写真を通して深く考えてるでしょう? 表現方法が違うだけ」
遼は薔薇の本棚にある本を見回した。ハイデガー、サルトル、カミュ、シモーヌ・ヴェーユ……高校生が読むには難解な哲学書ばかりだった。
「この本たち、全部読んだの?」
「理解できてるかは分からないけど、読んでる。難しい内容の方が、頭の中の『声』が静かになるから」
「君にとって哲学書は薬みたいなものなんだね」
「そうかもしれない。でも最近は、あなたといる時の方が効果的」
夜が深くなって、遼は帰ることにした。
「また明日、会える?」薔薇が聞いた。
「もちろん。毎日会いたい」
「私も。あなたがいないと、また頭の中がうるさくなる」
遼が帰った後、薔薇は哲学ノートに向かった。
『遼との出会いから一週間:
彼といると、世界が違って見える。これまで抽象的だった「愛」というものが、少しずつ具体的になってきた。愛とは理解すること、受け入れること、相手の幸せを願うこと。そして……存在を肯定すること。
遼の存在への問いと、私の愛への問いは、実は同じ根っこを持っているのかもしれない。存在することの意味と、愛することの意味。両方とも、繋がりに関する問いだから。』
同じ頃、遼も日記を書いていた。
『薔薇と出会って一週間が経った。僕の人生で最も充実した一週間だった。頭の中の「声」は相変わらず聞こえるけれど、薔薇といる時は完全に静まる。これは偶然じゃない。きっと何か深い意味がある。
薔薇の愛への問いを聞いていて気づいた。僕の存在への問いも、結局は愛への問いなのかもしれない。なぜ生きるのか? 愛するため。なぜ存在するのか? 愛されるため、そして愛するため。
答えが見えてきた気がする。』
その夜、二人は再び同じ夢を見た。宇宙空間で手を繋ぎ、無数の星々に囲まれている夢。今度は夢の中で会話をすることができた。
「薔薇、聞こえる?」
「聞こえるわ、遼。私たち、夢の中でも繋がってるのね」
「きっと僕たちの魂は、現実以上に深く繋がってる」
「そうね。きっと私たちは……」
夢の中で薔薇が言いかけた時、宇宙から新しい声が聞こえてきた。今度は問いかけではなく、語りかけるような優しい声だった。
『二人とも、よく頑張っているね。答えに近づいてきている』
二人は夢の中で顔を見合わせた。
『あなたたちの問いは、宇宙にとってもとても大切な問いなんだ』
朝、二人は同時に目覚めた。そして確信していた。自分たちは何か特別な使命を担っているのだということを。