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第2章:運命的な邂逅

 五月の深夜、月は雲間に隠れていた。遼はいつものように河原を歩きながら、古いラジオに耳を傾けていた。今夜の「オールナイト・ジャパン」では、リスナーからの恋愛相談が話題になっていた。


「山田さん、僕は17歳の男子高校生です。好きな人がいるけれど、どうやって気持ちを伝えればいいか分からなくて……」


 DJの山田康介が優しい声で答える。


「愛ってね、不思議なものです。論理では説明できない。でも確実に存在する。科学者たちは愛を脳内化学物質の作用だと説明するけれど、それだけでは説明しきれない何かがある。愛を信じることから始まるんじゃないでしょうか」


 その瞬間、遼の頭に強烈な「声」が響いた。


「愛って何? なぜ人は愛を求めるの? 愛は存在するの? それとも幻想なの?」


 いつもとは違う種類の問いかけだった。存在に関する問いではなく、愛に関する問い。しかも、声の質感が微妙に違っていた。まるで自分以外の誰かの声のような……。


 遼は困惑しながら歩き続けた。河にかかる古い橋に差し掛かった時、橋の上で泣いている少女を見つけた。


 薔薇は橋の欄干に寄りかかり、川の流れを見つめながら静かに涙を流していた。今夜も家族の冷たい雰囲気に耐えられなくなって、外に出てきたのだった。両親は仕事の話で言い争いになり、薔薇の存在など眼中にないようだった。


「また転勤の話? 薔薇がやっと慣れたところなのに」


「仕事なんだから仕方ないだろう。薔薇も慣れてるじゃないか」


 母親の美和も父親の健一も、薔薇の気持ちを考えようとはしなかった。慣れてるから大丈夫、という安易な判断。でも薔薇は慣れてなどいなかった。毎回の転校で、心の一部を置き去りにしていた。


 橋の上で川を見つめながら、薔薇の頭にいつもの「声」が響いていた。


「なぜ人は愛すると言いながら、相手を傷つけるの? 愛って結局、自分勝手なものなの?」


 その時、後ろから声をかけられた。


「大丈夫?」


 薔薇が振り返ると、古いラジオを持った同世代の男子が心配そうに立っていた。


「あ……えっと、大丈夫です。ただ、この川がどこに流れていくのか気になって」


 遼は薔薇の目を見て、何かを感じ取った。同じ種類の深い孤独を湛えた瞳。同じような痛みを抱えている目だった。


「飛び降りるつもりじゃないよね?」


「まさか。そんな勇気もないし……それに、まだ答えを見つけてない」


「答え?」


 その瞬間、信じられないことが起こった。二人の頭に同時に、全く同じ「声」が響いたのだ。


「なぜ二人はここで出会ったの? これは偶然? それとも必然?」


 遼が驚いて薔薇を見ると、薔薇も同じように驚いた表情を浮かべていた。


「今の……聞こえた?」遼が恐る恐る聞いた。


「声? 問いかけ?」薔薇が答えた。


「君にも聞こえるの?」


「あなたも? 私、ずっと一人だと思ってた」


 二人は橋の上で向かい合った。月明かりが二人の顔を青白く照らしている。


「僕は高樹遼。君は?」


「白河薔薇」


「薔薇……綺麗な名前だね」


「ありがとう。あなたの声、優しいのね」


 遼は薔薇に自分の症状について話し始めた。幼い頃からの問いかけの声、精神科への通院、周囲の人々の視線。薔薇も自分の体験を語った。愛への疑問、家族の関係、転校を繰り返す孤独。


「僕の場合、存在することそのものが分からない。なんで僕たちは生まれてきたんだろう。なんで死ななければならないんだろう」


「私は愛への疑問なの。両親を見てて、愛って本当にあるのかなって。恋愛小説やドラマで描かれる愛は、現実とは違うような気がして」


 二人が話している間、不思議なことが起こっていた。周囲の雑音――川の流れる音、遠くの車の音、虫の鳴き声――がすべて消えていく。まるで二人だけの空間ができたかのように、深い静寂が訪れた。


 遼は初めて本当の静寂を感じていた。頭の中の「声」が完全に静まっている。薔薇も同じだった。生まれて初めて、頭の中が完全に静かになっていた。


「不思議……」薔薇が小声で呟いた。


「何が?」


「頭の中が静かなの。いつもなら問いかけの声でうるさいのに、今は完全に静まってる」


「僕も同じだ。君と話していると、『声』が聞こえない」


 二人は見つめ合った。そして同時に理解した。自分たちは何かとても重要な出会いを体験しているのだということを。


 遼のポケットの中で、ラジオがまだ小さく音楽を流していた。山田康介の声が聞こえてくる。


「深夜のリスナーの皆さん、今夜は運命的な出会いについてのメッセージを多くいただいています。量子物理学では、一度相互作用した二つの粒子は、どんなに離れていても瞬時に影響し合うという『量子もつれ』という現象があります。人と人の出会いにも、そんな神秘的な繋がりがあるのかもしれませんね」


 薔薇が遼を見た。


「量子もつれ……私たち、もしかして……」


「うん。きっと何かが始まったんだ」


 二人は橋の上でしばらく話し続けた。遼は薔薇に写真の話をし、薔薇は遼に哲学書の話をした。話せば話すほど、二人の間の距離が縮まっていく。


「今度、君の写真見せてもらえる?」


「もちろん。君の読んでる本も教えて」


「きっと難しすぎてあなたには分からないと思うけど……」


「大丈夫。分からないなりに、君の考えを理解したい」


 夜が明け始めた頃、二人はそれぞれの家に帰ることにした。


「また会える?」遼が聞いた。


「会いたい。でも……」薔薇が躊躇した。


「でも?」


「あなたがクラスメイトに変に思われたりしない? 私、変わった子だって言われるの」


「僕も変わった子だって言われる。でも気にしない。君と会えることの方がずっと大切だ」


 薔薇の顔に初めての本当の笑顔が浮かんだ。


「ありがとう、遼」


「ありがとう、薔薇」


 別れ際、薔薇が振り返った。


「遼、私たちって何なんだろう? どうして同じような『声』が聞こえるの?」


「分からない。でも意味があると思う。僕たちが出会ったことには、きっと深い意味がある」


 遼が家に着いた時、母親の雅子がまだ起きていた。


「遼、どこに行ってたの? 心配したのよ」


「散歩してた。今日はちょっと特別な夜だった」


「特別?」


「うん。大切な人に出会ったんだ」


 雅子は息子の表情を見て驚いた。遼の顔に、今まで見たことのない輝きがあった。長い間閉ざされていた心の窓が、少し開かれたような表情だった。


「その人って……」


「友達だよ。本当の意味での、初めての友達かもしれない」


 薔薇も家に着くと、まだ口論を続けている両親の声が聞こえた。でも今夜は不思議と気にならなかった。心の中に温かいものがあった。初めて理解してくれる人に出会えた喜び。


 薔薇は哲学ノートに向かった。


『今夜の出来事について:

遼という少年に出会った。彼も私と同じように、頭の中で「声」が聞こえるらしい。彼の問いは存在について、私の問いは愛について。でも不思議なことに、一緒にいると「声」が静まる。これは何を意味するのだろう?

量子もつれという現象があるそうだ。一度相互作用した粒子は、離れていても瞬時に影響し合う。私たちの魂も、そんなふうに繋がっているのだろうか?』


 その夜、遼と薔薇は同じ時刻に眠りについた。そして同じ夢を見た。広大な宇宙空間で、無数の星々が美しく輝いている夢。その中で、二人は手を繋いで宇宙の深淵を見つめていた。


 夢の中で、宇宙から優しい声が聞こえた。


『ようやく見つけ合えたね』


 翌朝、二人は同時に目覚めた。そして同じ夢を見たことを、なぜかお互いに確信していた。


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