第1章:孤独な魂たち
四月の午後、新緑の若葉が窓辺で踊っている。高樹遼は教室の最後列、窓際の席でノートに意味不明な図形を描いていた。授業は現代文だったが、先生の声は遠くから聞こえる雑音のようにしか感じられない。
またあの「声」が聞こえ始めていた。
「なぜここにいるの? なぜ学ぶの? なぜ生きるの?」
遼の頭の中に響く問いかけは、彼が物心ついた頃から続いていた。最初は母親に尋ねてみたことがある。「ぼく、なんで生まれてきたの?」と。母は困った顔をして「神様があなたを授けてくださったのよ」と答えたが、それは遼にとって何の解決にもならなかった。神様がいるなら、なぜそんなことをしたのか。なぜ遼を選んだのか。新たな疑問が湧くばかりだった。
ノートには数学の公式ではなく、螺旋状の図形や無限記号のような曲線が描かれていく。それらは遼の内面を表現する唯一の手段だった。言葉では表せない何かが、線となって紙の上に現れる。
「高樹君」
突然名前を呼ばれて、遼は顔を上げた。佐藤先生が心配そうな表情で彼を見つめている。
「教科書の72ページを音読してもらえますか?」
遼は慌ててページをめくった。クラスメイトたちの視線が痛い。彼の描いていた奇妙な図形を見た女子生徒が「気持ち悪い」と小声で囁くのが聞こえた。遼は淡々と本文を読み始めた。夏目漱石の『こころ』の一節だった。
「私はその時始めて先生を恐ろしい人だと思いました」
朗読しながら、遼は主人公の心境に共感していた。理解されない孤独、人間関係への不安。百年以上前の小説なのに、まるで自分のことを書いているようだった。
授業が終わると、遼は急いで保健室に向かった。毎日この時間に薬を飲まなければならない。抗不安薬と睡眠導入剤。医師の診断は「思春期特有の不安症」だった。しかし遼は、自分の症状が単なる病気ではないと感じていた。
保健室のベッドで薬を飲んでいると、廊下でクラスメイトたちの声が聞こえた。
「やっぱりあいつ、頭おかしいんじゃない?」
「薬飲んでたよね。絶対ヤバい奴だって」
「近づかない方がいいよ」
遼は表情を変えることなく薬を飲み干した。もう慣れてしまっていた。彼らが自分を理解できないのは当然だ。遼自身も、自分のことがよく分からないのだから。
放課後、遼は一人で家路についた。住宅街の角で、唯一の友人である田中健太に呼び止められた。
「おい遼、今日も一人で帰るのか?」
健太は中学からの友人で、遼の「変わった面」を理解してくれる貴重な存在だった。背が高くて明るい性格の健太は、クラスでも人気があった。そんな健太が遼と友達でいてくれることが、遼には不思議でならなかった。
「うん。君は部活があるでしょ?」
「今日は早く終わったんだ。一緒に帰ろうぜ」
二人は並んで歩き始めた。健太の家は小さな定食屋で、いつも美味しそうな匂いが漂っている。温かい家族の空気に満ちた健太の家が、遼は少し羨ましかった。
「なあ遼、最近どう? また例の『声』聞こえてる?」
健太だけが、遼の症状を「例の声」と呼んでくれた。病気扱いせず、まるで個性の一部のように受け入れてくれる。
「うん、聞こえてる。今日は特に強かった」
「何て言ってるんだ?」
「存在することの意味を問いかけてくる。なぜ僕たちは生まれてきたのか、なぜ死ななければならないのか……そんなこと」
健太は少し考え込んだ後、いつもの調子で答えた。
「俺には分からないけど、お前がそういうこと考えるのって、何か意味があるんじゃないか? 普通の人は考えないようなことを考えられるって、ある意味すごいと思うぜ」
「ありがとう、健太」
「何のために生きてるかなんて、俺は深く考えないな。家族が笑ってて、美味いもん食えて、友達がいれば、それで十分幸せだよ」
健太の答えはシンプルで、それゆえに力強かった。遼は時々思う。もしも自分が健太のように素直に生きられたら、どんなに楽だろうと。
家に着くと、母親の雅子が心配そうに迎えてくれた。
「お帰りなさい、遼。今日は学校どうだった?」
「普通だよ」
遼はいつもの答えを返して自分の部屋に向かった。父親の正夫は新聞を読みながら、時々遼の様子を窺っていた。両親の愛情は痛いほど分かる。でも、その愛情がかえって遼を苦しめることもあった。愛されているのに、なぜこんなに孤独なのか。
夜が更けると、遼は祖父の形見である古いラジオのスイッチを入れた。深夜2時からの「オールナイト・ジャパン」が始まる。DJの山田康介の声だけが、遼にとって理解してくれる大人の声に聞こえた。
「深夜の皆さん、今夜も一人で過ごしていますか? 一人は寂しいけれど、一人だからこそ見えてくるものもありますよね。今夜は『孤独について』というテーマで、皆さんからのメッセージを紹介していきます」
遼はラジオに耳を傾けながら、祖父から受け継いだ古いカメラを手に取った。キャノンのAE-1。フィルムカメラの重量感が手に馴染む。祖父も写真が好きで、生前は「写真は真実を写すんじゃない。心を写すんだ」とよく言っていた。
遼は家を出て河原に向かった。深夜の散歩は彼の日課だった。人気のない河原で夜空を撮影する時だけ、心が静かになった。
満天の星空を見上げながら、遼は宇宙に向かって問いかけた。
「君たちも一人なの? それとも繋がってるの? 僕みたいに孤独を感じることがあるの?」
星々は答えてくれない。でも遼は感じていた。どこかで同じように夜空を見上げて、同じような問いを抱えている人がいることを。
カメラのファインダー越しに見る世界は、いつもと少し違って見えた。より鮮明で、より意味深く見えた。まるで宇宙が何かを語りかけているようだった。
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同じ夜、同じ街の図書館で一人の少女が本を読んでいた。白河薔薇、16歳。彼女もまた、頭の中で響く「声」に悩まされていた。
「なぜ人は愛するの? 愛って本当にあるの? それとも錯覚?」
薔薇の問いは愛に関するものだった。幼い頃から両親の冷え切った関係を見て育った彼女にとって、愛というものの実在は大きな疑問だった。
薔薇が読んでいたのはハイデガーの『存在と時間』だった。16歳の高校生には難解すぎる内容だったが、難しい本を読んでいる時だけ、頭の中の「声」が静かになった。
「白河さん、また遅くまで残ってるのね」
図書館の司書、田村さんが心配そうに声をかけた。薔薇は転校を繰り返していたが、どの学校の図書館でも司書の方々は彼女を気にかけてくれた。
「すみません。もう帰ります」
「あまり難しい本ばかり読んでいると、頭が疲れちゃうわよ。たまには小説なんかも読んでみたら?」
薔薇は微笑んで頷いたが、本当のことは言えなかった。小説を読むと、登場人物たちの恋愛に関する描写が頭の中の「声」を刺激してしまうのだ。
図書館を出ると、薔薇は家路についた。コンビニの前で雑誌を立ち読みしている高校生のカップルを見かけた。二人は楽しそうに笑い合っている。薔薇は彼らを見つめながら考えた。
あの笑顔は本物なのだろうか。それとも演技なのだろうか。愛し合っているように見えるけれど、それは錯覚ではないのだろうか。
薔薇のマンションは高層階にあった。両親は共働きで、いつも遅く帰ってくる。今夜も薔薇一人だった。冷蔵庫に貼ってあるメモには「薔薇へ お弁当代です。体に気をつけて 母」とだけ書いてあった。
薔薇は自分の部屋で哲学ノートを開いた。彼女の思索を記録したノートには、愛に関する様々な考察が綴られていた。
『愛について:
両親は愛し合っていたから結婚したはず。でも今は? 愛は消えるもの? それとも最初からなかった? 恋愛小説やドラマで描かれる愛は理想化されすぎていないか? 現実の愛とは何が違うのか?』
ペンを持つ手を止めて、薔薇は窓の外を見た。同じマンションの向かいの部屋では、家族が楽しそうに夕食を取っている様子が見えた。温かい光に包まれた家族の姿が、薔薇には遠い世界の出来事のように感じられた。
薔薇の部屋の机の上には、祖母の写真が飾られていた。哲学者だった祖母から「薔薇」という名前をもらった。祖母は生前、薔薇によくこう言っていた。
「薔薇ちゃん、人生の大切な答えは、本の中にあるんじゃないの。人と人との関係の中にあるのよ」
でも薔薇にとって、人との関係こそが最も困難なものだった。転校を繰り返し、深い友情を築く前にいつも別れが来た。それが彼女をますます本の世界に向かわせた。
その夜、薔薇は家を出て近くの橋まで歩いた。川の流れを見つめながら、彼女も宇宙に向かって問いかけた。
「愛って本当にあるの? もしあるなら、なぜこんなに分からないの? なぜこんなに孤独なの?」
川は静かに流れ続けていた。その流れを見つめながら、薔薇は感じていた。どこかで同じような疑問を抱えている人がいることを。同じような孤独を感じている魂がいることを。
二人はまだ知らなかった。同じ街で、同じような「声」に悩まされている相手の存在を。量子物理学で言うところの「量子もつれ」のように、二つの魂は既に見えない絆で結ばれ始めていた。