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9/13

元カレとの清算

苺ツアーの数日後、彼からLINEが届いた。


——「よかったら、飯でもどう?」


迷ったけれど——結局、私は「行きます」と返事をした。

そして今、目の前には炭火があって、横にはその“元カレ”がいる。


ジュウ、と肉が焼ける音が、静かに響く。


無言でトングを動かす彼——聡の横顔を見ながら、私はコップの水を口に運んだ。

炭火の熱が、じんわりと片側の頬にあたたかさを伝えてくる。


「……ちゃんと、焼けてる?」


私がそう言うと、彼はふっと顔を上げて、わずかに眉を上げた。


「うん。任せてくれてるんだろ?」


「信頼してるから」


「……光栄です」


そう返した彼の笑い方は、昔と変わらなかった。

でも、その輪郭はどこか落ち着いていて、少しだけ“大人の顔”に見えた。


「で、最近はどんな仕事してるの?」


私が聞くと、聡はトングを一度休めて、少し考えるように目線を落とした。


「んー……地味だけどさ。コード書いたり、バグ潰したり……まあ、エンジニアやってる」


「へえ。なんか、意外かも」


「だろ? 俺もそう思う。高校のとき、パソコン壊す側だったのに、今は直す側っていう」


彼は笑いながら、手元の肉をひっくり返す。その声には、少しだけ疲れが滲んでいた。

けれど、それを超えていくような、地に足のついた充実感があった。


「……でも、向いてたんじゃない? そういう細かいところ、昔から無駄に几帳面だったし」


「“無駄に”ね」


「うん。ちゃんと“無駄に”って付けた」


聡は苦笑して、ちょっとだけ首をすくめた。


「……でも、たまに思うんだ。君の占いも、案外当たってたなって」


「え? 何て言ったっけ、私」


「“向いてる仕事は、人の後ろで静かに動く役割です”って。……地味だけど、支える側の方が性に合ってるって言ってた」


「……覚えてたんだ、それ」


「なんとなくね。……あの頃のことって、意外と忘れないもんだよ」


その言葉に、ふたりのあいだを、ほんの少し懐かしい風が通り抜けた気がした。


焼き上がった肉の香ばしい匂いが、テーブルのあいだをふわりと漂っていく。

彼はそれをひとつ皿に移して、私の方へそっと差し出した。


「……ほら。ちゃんと焼けたよ」


トングを置く音が、やけにやさしく響いた。


「ほら、冷める前に。これ、今日一番の焼き加減だと思う」


「ほんと? ……じゃあ、信じてみようかな。今日だけは」


「お、それは光栄だな。今日限定でも」


そんなふうに軽口を交わしながらも、

どこか“終わったあとにだけ残るやさしさ”みたいなものが、

テーブルに静かに漂っていた。


私は、そっと肉をひと口頬張る。

脂の甘さと、ほんのり焦げた香ばしさが口に広がって、自然と表情がやわらぐ。


「……うん、おいしい」


「だろ?」


聡は少し得意げに笑った。


「焼き方、上達してる。あの頃より、ずっと」


「そりゃあ、大人になったからね」


その言葉に、私は少しだけ目を細めた。


——“あの頃”って、自然に言ったんだ。


いまの聡の中にも、あの時間が、ちゃんと残っているのかもしれない。

そんなふうに思えた。


聡はグラスの水を飲み干して、テーブルにそっと置くと、

ふいに視線を落とした。


「……ねえ」


「ん?」


「……最近、好きな人……い――」


その言葉は、途中でふっと止まった。

聡自身が、気づかないうちに噛んでしまったみたいに。


私はあえて聞き返さず、

手元のグラスの水をゆっくりと揺らしながら、静かに待った。


けれど、聡はそれ以上何も言わなかった。

ただ、「あ、いや……なんでもない」とだけ、小さく呟いた。


少しの沈黙のあと、今度は私の方が口を開いた。


「……そういえば、あのときさ。なんでだったの?」


思ったよりも、自分の声は静かだった。

責めたわけでも、怒りでもなくて。

ただ、ずっと胸の奥に残っていた疑問を、

ようやく今になって投げかけただけの声音。


聡は、トングを皿の端に置いたまま、私を見ずに言った。


「……あんなふうに、突然だったからさ。

正直、何が悪かったのか……ずっと分からなかった」


私は、喉の奥が詰まるような感覚になって、すぐには答えられなかった。

けれど、聡はそれを急かすことはしなかった。


「でも……君の目、すごく決まってたから。

止めたらいけないなって、思ったんだよ」


「……」


「正直、俺……ずっと考えてた。

何か、大きな間違いをしたのかなって。

気づかないうちに、君を傷つけたのかなって」


私は、箸をそっと置いて、目を閉じた。


——あのとき。


私には、“見えてしまった”。


まだはっきりとはしていなかったけれど、

聡の中に芽生えかけていた“好き”の気配。


それは、私に向けられたものではなくて——

きっと、別の誰かに向かう光の兆しだった。


私は、目を閉じたまま、小さく息を吸った。

あのとき、私の中に芽生えていたのは、“不安”だった。

聡の心のどこかに、私じゃない誰かが咲きそうな気がして——

いや、実際には、何もなかったのかもしれない。


でも、“見えてしまった”んだ。

そう“感じてしまった”瞬間に、私は、

自分から静かに身を引いた。


「……してないよ。別に、悪いことなんて」


ようやく口にできたその言葉は、

炭がはぜる音にかき消されそうなくらい、かすかだった。


聡が、ゆっくりと顔を上げて私を見る。

その目に、責める色はなかった。


「じゃあ、なんでだったの?」


「……怖かったの」


「……怖い?」


私は、小さく笑った。

その感情を今さら言葉にすることが、

少しだけ、こそばゆかった。


「見えちゃうんだよね。……そういうの。

このままいったら、きっといつか、私は置いてかれるんだろうなって」


「……」


「……あのとき、ほんとは誰かいたわけじゃないよね?」


聡は、まっすぐにうなずいた。


「いないよ」


その言葉は静かで、でも迷いがなかった。


「いなかったし……仮にいたとしても、

君が“そう思った”だけで、俺に何も言わずに離れたなら——

……それ、俺のせいじゃないよな?」


私は、うなずくことも、否定することもできなかった。

ただ、胸の奥で、何かがふっとほどけていく音がした。


「……今だったら、ちゃんと話せたのにね」


「そうだな」


聡の声は、穏やかだった。

その静けさの中に、ほんの少しだけ、寂しさが滲んでいた。


「でもさ、今だからこうやって、また飯食えてるってのもあるし」


そう言って、聡はまた網に肉をのせた。

脂がはじける音が、やけにやさしく聞こえた。


私は、トングを持つ彼の手元を見ながら、

ゆっくりと言葉を落とした。


「……“好きな人いる?”って、さっき言いかけたでしょ?」


その瞬間、聡の眉がぴくりと動いた。

でもすぐに、少し照れたように笑った。


「言ってないよ……って言いたいけど、ばれてたか」


「うん。ばれてた」


「そういうとこ、変わってないね。……見抜くの早い」


「職業柄、ね」


ふたりして笑ったあと、少しだけ沈黙が落ちた。

でも今度のそれは、苦しくなかった。

ただ、ちょうどよかった。


「……また、会おうよ」


聡が、ぽつりと呟いた。


「今度は、昔話じゃなくて……ちゃんと“今”の話、しよう」


私は、その言葉の温度を確かめるように、箸を取り上げた。

でも——その瞬間、心の奥がきゅっと痛んだ。


あたたかくなったはずの空気のなかで、

私の指先だけが、なぜか冷たかった。


(……でも、もうやり直せないよ)


焼き肉の香りが、ふわりと流れる。

その向こうで、聡がふと笑って、こっちを見た。

私は、ほんの少しだけ、笑い返す。


でも——

心の奥底では、まだ忘れられない感触が残っていた。


あのとき、自分の手で引き抜いた、“ひまわり”の根のぬれた手応え。

乾いた土じゃなかった。

まだ、水を含んでいた。

——まだ、咲いていたのに。


私は、自分から終わらせた。

愛されたまま、好かれたまま。


なのに——

“自分にはその光が眩しすぎる”って、勝手に怯えて。

彼のまっすぐを、怖いものだと決めつけて。


「……ごめんね」


気づけば、その言葉が唇からこぼれていた。

聡がこちらを見て、少しだけ驚いたような顔をする。


私は笑った。

少し泣きそうだったけど、それでもちゃんと前を向いていた。


「昔の話、してごめん。

でも……聞いてくれて、ありがとう」


それが——

やっと言えた、私の“今”だった。


「……ありがとうな」


彼がぽつりとそう言った。

視線は皿の縁に落ちたまま。

でも、声だけはまっすぐだった。


「俺、やっと前を向いて進める気がする」


「……そっか」


私は、小さく笑った。

ほっとしたような、でも胸の奥が少しきゅっとなる、そんな笑み。


「ちゃんと……言ってくれて、ありがとな」


「……うん」


「ずっと、理由も分からなくて、何に納得したらいいかも分からなかった。

でも今日、こうして話せて……

あのときの自分の気持ちが、やっと形になった気がした」


彼は一度だけ、私を見た。

目が合って、それからふっと視線を逸らす。

その照れくささが、昔の彼のままだった。


「あとさ……」


「ん?」


「俺は、ちゃんとお前のこと、好きだったよ」


少しだけ息を整えるようにして、彼は言葉を続けた。


「……もう昔のことだけど、

その気持ちだけは、大事にしてた。

ずっと。勝手に、ずっと……大事にしてたんだ」


私は、黙って彼を見つめた。

その目は、まっすぐじゃなかった。

でも——だからこそ、そこに嘘はなかった。


「だから……」

彼が、小さく笑った。

けれどその笑みには、どこか痛みが滲んでいた。


「その気持ちまで、“なかったこと”にはしたくないんだ。

……もう、自分の中から消したくない」


静かだった。

でも、その静けさが、かえって深く胸に届いた。

どこか柔らかい場所を、やさしく、けれど確かに叩かれたようだった。


——彼は、過去をちゃんと抱えて、前を向こうとしている。

“好きだった”という想いさえ、切り捨てずに持っていたいと、願ってくれている。


私は、そっと視線を落とした。

喉の奥が、つんと痛んだ。


聡の中で咲いていた“ひまわり”のことを、思い出す。

あのとき——

まだ真っすぐに私を見てくれていた、その花を。

私は、自分の手で、折った。


「……私、あのとき」


声が震えそうだったけれど、

逃げずに言葉をつなげた。


「咲いてたのに……その花、摘んじゃったんだよ。

怖くて。

まっすぐに好かれるのが、

それにちゃんと応えるのが、怖かった」


彼は、何も言わなかった。

でも、それでよかった。

私は初めて、自分の過ちをちゃんと口にできたのだから。


「ほんとに、ごめんね」

静かに、でもしっかりとそう言った。


「大事にしてくれてた“気持ち”を……あのとき、信じてあげられなかった」


手のひらに、まだ“あの根の感触”が残っている気がした。

濡れて、柔らかくて、でも確かに、命があった。


その記憶は、ずっと自分の中で——

罪のように居座っていた。


でも今なら、ちゃんと認められる。

そして、彼の気持ちを“なかったこと”にしないために。

私自身が、もう一度きちんと向き合わなければいけなかった。


「……ありがとう。

ずっと、大事にしてくれて」


私は、彼の目を見て、言った。


「……ごめん、なんか、なに言ってるか分かんないよね」


照れ隠しのように苦笑しながら言うと、

聡は少しだけ口角を上げて——

でも、茶化さずにちゃんと返してくれた。


「……いや。

なんとなく、わかるよ」


その“なんとなく”に、たくさんの思いやりが詰まっていた。

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