占い師の悩み
夏谷さんは、予定より少し早く現れた。
「……こんばんは」
私の顔を見るなり、どこか迷いを抱えたように、小さく笑った。
「ちょっとだけ……相談というか、気になることがあって」
彼はそう言って、席につくと、しばらく言葉を探すように黙っていた。
「……片思いの相手、花さんのことなんですが、なんとなく元気がない気がして……」
その言葉に、私はわずかに目を細めた。
“ちゃんと彼女を見ていた”人の言葉だ。
「もしかしたら、花さん、好きな相手と何かあったのではないかと思ったんです。」
彼がそう言った瞬間、
私の胸の奥に、ぴたりと“ひとつの像”が浮かび上がった。
——痩せた指、伏し目がちの瞳、
どこか人の顔色ばかり窺っているような、気の抜けた笑みを浮かべた“彼”。
あの日、カフェのカウンター越しで、
花さんがちらりと目で追っていた、あの男性の姿。
私は、タロットに手を伸ばし、何も言わずにシャッフルを始めた。
彼女の“心の真ん中”にあるものを視るために。
一枚目:「悪魔」
二枚目:「吊るされた男」
三枚目:「カップのナイト・逆位置」
その瞬間、まるで胸の奥に小さな鈍痛が走るような感覚があった。
カードは、答えをすでに知っている。
「……彼女は、いま、“好き”な相手がいます」
私は静かに告げる。
「でも……その相手は、“ちゃんと返してくれる人”ではありません」
「……返してくれる、って?」
「彼女の気持ちを、まっすぐに受け止めて、応えるつもりのある人じゃないということです」
私は「カップのナイト・逆位置」を指でなぞった。
「……言葉は優しいし、時に紳士的に振る舞う。でも、その好意は浅くて……
自分が寂しいときだけ近づいてくるような、そんな存在」
夏谷さんは、眉をわずかにひそめた。
「……じゃあ、遊ばれてるってことですか?」
「ええ、たぶん、彼女自身も気づいてる。
だけど、心が“やめられない”んです。信じたくない。……“あの人じゃないと”って思い込んでしまってる」
私は「吊るされた男」に視線を落とす。
「……彼女は、想いを手放せずにいます。
傷つくことが分かっていても、“ここにいたい”と思ってしまっている」
「……そうなんですね。」
夏谷さんの声が、かすかに掠れていた。
「“悪魔”のカードが最初に出たんです」
私はそう言って、一枚目を指差した。
「執着、依存、魅了。彼女が今、心を縛られているのは、“好きだから”だけじゃない。
——自分の価値を、あの人に証明したいんです。
“私を選んでくれるかどうか”で、自分の存在を確かめようとしてしまってる」
彼は、じっとカードを見つめていた。
しばらくして、彼がぽつりと呟いた。
「……なんか、あの人のこと、勝手に“大丈夫”だと思ってたんですよね」
視線はまだ、テーブルの上のカードに落とされたまま。
でもその声は、たしかに、誰かを想う人の声だった。
「ほんとは……誰かにそんな風に扱われてるの、見たくなかった」
小さな、けれど確かな言葉だった。
「……でも、言えないですよね。そういうことって」
彼が目を伏せたまま、少し苦笑いを浮かべた。
私は、一枚だけカードを引き足した。
——「星」
その穏やかな光を放つカードを見て、私は言った。
「……ゆっくりでいいんです。
言葉じゃなくて、“いること”で示せばいい。
それが、彼女の心の景色を少しずつ変えていくと思います」
彼は小さくうなずいた。
「つらいときに、そばにいてあげてください。」
私は、夏谷さんに微笑んだ。
「……あの、もう一つ、聞いてもいいですか?」
「ん……なんでしょう?」
ふいに、彼が言った。
「あなたは、どんな恋をしてきたんですか?」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
手元のカードを触れていた指先が、そっと止まる。
冗談めかして返すこともできた。
笑ってごまかすことも、たぶんできた。
でも——できなかった。
その問いは、まっすぐで、どこか優しすぎたから。
「……どうして、そんなこと聞くんですか?」
問い返した声は、自分でも驚くほど静かだった。
心の奥を探られるときの、無防備な声だった。
彼は少し戸惑ったように眉を寄せながらも、まっすぐに私を見て言った。
「……気になったんです。ただの興味かもしれないけど。
……あなたが、どんな恋をして、どんな風に誰かを見てきたのかって」
「……私の恋なんて、たいした話じゃありませんよ」
「……聞かせてくれませんか?」
「それ、占いの依頼としてですか?」
そう返すと、彼はふっと笑った。
その笑いには、からかいも駆け引きもなくて——ただ、まっすぐだった。
「……いいえ。
これは、俺の、ただの……興味です」
私はそっと視線を落とす。
テーブルの上に並べかけたカードの角に、指先が触れた。
でも、その先へ手を動かすことができなかった。
「……怖いんです」
ぽつりと零れたその言葉に、私自身が驚いていた。
本当は、こんなこと、誰にも言ったことなんてなかったのに。
でも、今日の私は、たぶん少しだけ、脆くなってる。
元カレとの再会で、過去が波のように押し寄せて、
心のどこかが、まだ乾ききらないまま、ざらついてる。
そして夏谷さんは、その波を受け止めるように、黙ってそこにいてくれた。
だから私は——言葉にしてしまったのだと思う。
「……人の“好意”とか、“未来”とか。
見えないはずのものなのに、なんとなく分かってしまうことがあるんです。
ほんの少しの空気の濃さとか、声の温度とかで……」
そこで一度、息を呑んだ。
苦笑のように、小さく息を吐いて続ける。
「たぶん……普通の人より、少しだけ敏感なんです。
それで、余計なことまで分かってしまうから……
自分が恋をするのが、少しだけ……怖いんです」
彼は、黙って聞いていた。
私の顔ではなく、“言葉”そのものを、まっすぐ見ているようだった。
「だから……先に進むのが、怖くなるんです」
吐き出すような声は、ほんの少しだけ震えていた。
「期待されるのも怖いし……
未来が見えてしまって、そこに自分がいないって気づくのが、もっと……怖い」
「……なるほど」
夏谷さんは、息をゆっくり吐きながらそう言った。
すぐに何か言葉を返すことも、変に慰めることもしなかった。
ただその沈黙を、無理なくそこに置いてくれた。
私はその“余白”に、静かに呼吸を整えることができた。
「……怖いですよね」
彼はようやく言葉を続けた。
視線は私に向いていなかったけど、それがかえって自然で、優しかった。
「先が見えるって……
きっと他の人が思っているより、ずっと孤独なんだと思います」
「……」
「このまま進んだら、どうなるか。
相手が何を思っているか。
少しだけ分かってしまうからこそ、
自分だけ置いてかれる気がする。
そうなるって分かってても、
“いま進むのが正解”って信じきれないんですよね」
私は、言葉の代わりに小さく頷いた。
彼はそれ以上、何かを押し付けてくるようなことはしなかった。
「でも……“怖い”って言えたの、よかったと思います」
「……どうして?」
問い返すと、夏谷さんは一瞬だけ眉を寄せた。
ほんの小さな“考える間”のあと、言葉を探すように、ゆっくりと口を開いた。
「……一ノ瀬さんって、自分のことにはあまり頓着なさそうで」
「……」
「きっと、人の話はたくさん聞いてきたんだろうなって思うんです。
でも、自分のことを誰かに話す機会って……あんまりなかったんじゃないですか?」
胸の奥に、小さな波紋が広がる。
優しい言葉ほど、どうしてこんなに、真っすぐ刺さるのだろう。
なのに、不思議と痛くなかった。
むしろ、胸の内側がふわっとあたたかくなっていく。
「もし、よかったら……」
彼は少し照れたように笑いながらも、視線をそらさなかった。
「今度は、僕が聞きますよ。
占いじゃなくて、ふつうに。……プライベートでも」
その言葉を聞いたとき、
私のなかで、何かが、そっと——ほどけた気がした。
私の中で、言葉が止まったまま、しばらく黙っていた。
けれど、彼の視線は揺れることなく、ただ静かに、そこにあり続けた。
——この人の中に、
今、咲きかけている“何か”がある。
それはきっと、私に向けられた、小さな“芽”。
いつもなら、摘んでしまっていた。
咲く前に、見なかったことにして。
誰にも気づかれないように、そっと終わらせてきた。
でも今日は——
どうしても、摘めなかった。