この気持ちは育てない
結婚式のあと。
式場の近くにある、小さなカフェに入った。
土曜の午後にしては人も少なく、窓際の二人席は思いのほか静かだった。
注文を済ませて席につくと、どちらともなく、ふぅ……と息を吐く。
それだけで、緊張がほどけていくのがわかった。
「……ねぇ、変な話していい?」
カップを両手で包んだまま、梨沙がぽつりとつぶやいた。
「今日ね、ちゃんと“おめでとう”って言えたの。ほんとに心から。……笑ってる自分が、不思議だった」
私は黙って、彼女の言葉を待った。
「SNSで結婚報告を見てから、ずっと……苦しかったの。忘れたいのに、忘れられなくて。思い出すたび、泣いて、怒って……でも結局、何も変わらなかった」
彼女の声は穏やかだった。
まるで長い冬を抜けたあとの、春の空気のように。
「でもさ……あなたに“お願い”してから、なんか……スッて、心が軽くなったの」
カップの中のミルクティーを見つめながら、梨沙は静かに笑った。
「まさか、“好き”って気持ちが、そんなふうに消えるなんて……思ってなかったよ」
「……消えたわけじゃないよ。今は、静かになってるだけ」
私はそっと視線を落としながら、そう答えた。
梨沙は小さくうなずいたあと、ふと目を細めて言った。
「あなたに……そんな力があるなんて、ほんとに思わなかった」
私は何も言わずに、ただ微笑んだ。
でもその笑顔は、たぶんほんの少しだけ、揺れていたと思う。
「怖かったよ、最初に言われたときは。“芽が見える”って言われても、正直ちょっと意味がわかんなくて……え?ってなったし」
そう言って、梨沙は口元に少しだけ照れたような笑みを浮かべた。
「ほんとに……救われたよ」
私は、カップの縁に指を沿わせながら、そっと「……よかった」とだけ言った。
その瞬間、ふっと空気がゆるむ。
梨沙も、どこか安心したように息を吐いた。
でも次にこぼれた言葉は、ほんの少しだけ、重たかった。
「……ねぇ、あなたってさ。自分の気持ちにも使えるの? その力」
私は、カップの中で小さく揺れたミルクの波紋を見つめたまま、言葉を失った。
「もし、使えるなら……ずるいよね」
「“好きになる前に摘める”ってことでしょ? そしたら、誰にも傷つかずにいられる」
梨沙の声は、優しくて、でもどこか寂しそうだった。
「でもそれって、誰にも恋できないってことじゃん」
私は、何も答えられなかった。
そのとき。
視線の端で、ふと人の動きを感じた。
隣の席に、さりげなく座っていた一人の男性が、こちらに目を向けていた。
——夏谷さん。
目が合った。
彼はほんのわずかに目を見開いたあと、すぐに柔らかく微笑んで、小さく会釈した。
私は何も知らないふりで、同じように頭を下げる。
「どうしたの?」
梨沙の声に、我に返る。
「……ううん、なんでもない」
言いながら、私は視線をテーブルに落とした。
けれど胸の内は、波打っていた。
タロットをめくるときと似てる。
カードに触れた瞬間、何かが走るあの感じ。
今日の朝、自分でシャッフルしたタロットの最後の一枚を思い出す。
——《運命の輪》。
思わず、手の中のカップを強く握っていた。
あのカードは、“偶然のようで、必然の出会い”を意味していた。
流れが切り替わる予兆。物語の転換点。
私は確かに、朝、引いていた。
自分のために引いたはずなのに、まさか、今日、この場所で夏谷さんに会うなんて。
「ねぇ、行こっか?」
梨沙の声に、私はうなずいて席を立つ。
その瞬間——
「結月さん……?」
振り返ると、さっきまで隣の席にいた夏谷さんが、立ち上がっていた。
まさか、声をかけられるとは思わなかった。
「……お久しぶりです」
「……あの、夏谷さん……クリーム、口元に」
「え? ……あ」
彼は慌てて紙ナプキンで口元をぬぐった。たしかに、飲んでいたラテのフォームが、うっすら唇の端に残っていたらしい。
その仕草がなんだか可笑しくて、私はつい、ふふっと笑ってしまった。
「……すみません、恥ずかしいところを……」
夏谷さんは少しだけ頬を赤らめながらも、つられて笑った。
「……助かりました。でも……」
「ん?」
「さっきみたいに、笑うんですね。……なんか、ちょっと、意外で」
「え? どういう意味ですか、それ」
「うん。お店では、いつも少し距離があるというか……“視えてる人”って感じで、ちょっと神秘的だったから」
私は思わず、口をとがらせる。
「それ、褒めてます?」
「もちろん。……でも今日の笑い方は、もっと普通の、身近な感じで。……なんていうか、ちゃんと“人間”なんだなって、思って」
「ちょっと、ひどくないですかそれ……」
「いや、いい意味です。」
夏谷さんは、ふっと目を細めたまま、少しだけ首をかしげるように私を見つめた。
「……あの、ひとつだけ言っていいですか?」
「はい?」
「……もっと、自分にも優しくしてくださいね」
その声は、驚くほどまっすぐで、やわらかかった。
私は一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「え……?」
「たぶんですけど、結月さんって、人のために頑張りすぎるところ、あると思うんです。だから……ちゃんと、自分のことも、休ませてあげてくださいね」
静かなその言葉が、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいく。
「じゃあ……また、どこかで」
そう言って、夏谷さんは微笑んだ。
そして、やさしい空気のまま、カフェの出口に向かって歩いていった。
その背中を見送りながら、私は――
気づいてしまった。
胸の奥で、小さな“芽”が光っていることに。
暖かくて、やわらかくて、
ほんのささやかだけれど、確かにそこにある感情。
……駄目だ。
私はそっと胸元に手を置いた。
この芽は、まだ小さい。
だから、まだ今なら――
私は目を閉じて、静かに息を吐く。
……ごめんね。
芽が、音もなく、ふっと消えた。
それでもその場所には、かすかに、ぬくもりだけが残っていた。
ああ、ほんとは。
ほんとは、こんな風に自分の気持ちを扱っちゃいけないのに。
でも私は、
自分の“好き”を摘んでしまった。
まるで、それが当然のことみたいに。