恋の芽を摘む力
昼休み、給湯室。
お湯を入れたマグカップを持ったまま、私はふと横を向いた。
「……あ、結月ちゃん」
そこにいたのは、同僚の河合梨沙だった。
ポットの前でインスタントスープの袋を開けながら、いつものように笑う。
「さっきの会議、地味に疲れたね〜。あの資料、いつ作ってたの?」
「昨日の夜、半分眠りながら」
「やっぱり……すごいよねぇ、あのスピード感。分けてほしいくらい」
軽く笑い合いながら、紙コップの中にお湯を注ぐ。
……そんな、ありふれたやりとりだった。
でも。
ほんの少し、目元に違和感があった。
口角はいつも通りだったけれど、笑っているようで、目が笑っていなかった。
指先の動きが、いつもよりわずかにぎこちない。
そして、言葉の終わり際の“間”。
普通の人なら、気づかない。
でも私は、どうしても見逃せなかった。
「……なにか、あった?」
冗談めかした調子でそう訊ねると、
梨沙は一瞬きょとんとしたあと、ふっと目線を落とした。
「……バレるの、早いよ」
静かにこぼれたその言葉に、私は何も言わず、隣に立つ。
「……SNS、開かなきゃよかったな」
その声は、小さくて、壊れそうだった。
「さっきね、好きだった人が結婚したって投稿してて……」
「写真つきで、すっごく幸せそうだった。」
梨沙の手が、スープのカップを包み込むように力を込める。
「もう、忘れたいのに……忘れられないの」
私は、そっとマグカップを棚に置いた。
すぐに言葉を返さなかったのは、
彼女の“いま”を、ちゃんと感じたかったから。
「……ずっと、引きずってたんだね」
その言葉に、梨沙は小さくうなずいた。
彼女の手が、紙コップを包むように握りしめられていた。
目元の笑みはすっかり消えて、声のトーンも低い。
「ずっと幼馴染で片思いしていたの。」
私は、そっと隣に立ったまま、彼女の顔を見つめる。
「……つらかったね」
梨沙はかすかにうなずいて、でもすぐ、ほんの少しだけ顔を上げた。
「でも……こんなんじゃ、だめだよね」
「式、来週なの。彼の。呼ばれてて。……普通に出席するつもりだったのに」
「……そっか」
「行くって決めたの、後悔してない。ちゃんと区切りつけたいし……“おめでとう”って、ちゃんと言いたいの」
「でもね……たぶん、私、ちゃんと笑えないと思う」
「それが、いちばん怖いの」
言葉の終わりに、梨沙の声が震えた。
私は、そっとマグカップを棚に戻しながら言った。
「……梨沙。もし、今の気持ちをほんの少しだけ、静かにできる方法があるとしたら……」
彼女は、驚いたようにこちらを見た。
目を大きく見開いて、言葉を探すように、何かを問いかけそうになった。
私は、微笑まなかった。
ただ、真っ直ぐに視線だけを向けた。
「全部を消すわけじゃない。忘れろってことじゃなくて……もう、その痛みに、ひっぱられなくなるくらいに」
梨沙は、しばらく黙っていた。
紙コップの中で、スープが湯気を立てている。
その湯気を見つめるように、まばたきもせず、息だけが浅くなる。
「……そんなこと、本当に、できるの?」
その声は、震えていた。
でも、それは疑いじゃなかった。
信じてしまいたいという、祈るような声だった。
私は、少しだけ視線を落とした。
そして、小さな声で言った。
「……誰にも言ったことないんだけどね」
梨沙は静かにこちらを見つめている。
私はその視線から逃げなかった。
「人の“心”って、たまに形が見えるときがあるの。……それは、芽みたいなものなの」
「誰かを想ってるとき、ふわって、胸の奥に小さく、やわらかく光ってる。ほんの少しだけど、ちゃんと命を持ってるみたいに、そこにある」
梨沙は、まばたきもせずに聞いていた。
「それが、恋の芽。……もっと育っていけば、やがて花になる。うまく咲くかどうかは分からないけど、少なくとも、その芽があるってことは、“誰かを愛している証拠”なの」
「……芽」
私はうなずく。
「私にはね、その芽を……摘むことができるの」
私は、少しだけ微笑む。
「誰かに使ったことはない。今までは、自分にだけ。……いつの間にか好きになりそうになったときとか、傷つくのが怖かったときとか。そういう時だけ」
言葉にしながら、自分でも気づく。
どこか、悲しい使い方しかしてこなかったことに。
「……でも、梨沙が、どうしてもって言うなら。できなくはない」
「ただ、これは“終わり”じゃない。芽が生えなくなるわけじゃないから……」
「またいつか、心があたたかくなったときに、ちゃんと芽は出てくる。恋も、愛情も。……ただ、今の“それ”だけを、一度、静かにするだけ」
梨沙は、しばらく沈黙していた。
湯気が、少しずつ薄くなる。
その中で、ぽつりとこぼれた。
「……やってもらえるかな」
「怖いけど……でも、それより、このまま心が動けないままの方が、ずっと怖い」
「自分でも、もう、何に泣いてるのか分からないくらいで……」
私はそっと、梨沙の手に自分の手を重ねる。
そのぬくもりの奥に、言葉にできない“何か”が確かに息づいていた。
——これは、もう「芽」なんかじゃない。
長い時間をかけて、心の中に育ってきたもの。
何度も思い出して、傷ついて、それでも消えずに残っていた——
「……梨沙の“好き”はね、ちゃんと、咲いてたよ」
私は、静かに言葉を紡いだ。
「立派な花になってた。きっと、自分でも気づかないくらい、大切に育ててたんだと思う」
梨沙は、わずかに目を伏せた。肩が小さく揺れた。
「……それを、私がやれるとしたら……ほんの少しだけ、今だけ、静かにすることができる。
完全に忘れさせるわけじゃない。花を、根から引き抜いて捨てるんじゃない」
私はそっと、胸元に手を置く。
「必要なときだけ。たとえば、式場で微笑めるように。
ちゃんと“おめでとう”って言えるように——そのための、準備みたいなもの」
梨沙は目を閉じて、深くひとつ息を吐いた。
「それって……また、咲くの?」
私は一瞬だけ言葉を迷い、けれど、正直に答えることにした。
「……うん。咲くと思うよ」
梨沙は目を伏せたまま、微かに眉を寄せた。
「たぶんね……また、同じ人に」
私は、そっと言葉を継ぐ。
「……わかった。お願い」
その声には、覚悟のようなものがあった。
私は小さく深呼吸して、目を閉じる。
彼女の中で、咲き続けていた想いの花に、静かに意識を向けた。
それは切ないほど綺麗だった。
誰にも触れられず、ただ静かに、心の奥で咲き続けていた花。
私は、そっとその花びらを包み込むようにして——
痛みごと、優しく、摘み取った。