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3/13

夏谷さんの恋

あれから、一週間。


私は変わらず、事務所で書類を捌き、電話に出て、決まりきった日々を過ごしていた。


占いは、あくまで副業のようなもの。

それでも、不思議と、あの“名前”だけは、ふとした拍子に頭に浮かぶことがあった。


夏谷春人さん。


真っすぐな目をしていた。

あのとき、何も言わなかったけれど、

“あのカード”に私の名前が映ったことが、どうにも心に残っていたのだ。


そんなことを考えながら、昼休み、私は少し歩いてみることにした。


いつもと違う道を選んで、小さな通りを抜ける。

暑すぎず、涼しすぎない、心地いい風が吹いている。


「あ……」


ふと、視界の先に、こぢんまりとしたガラス張りのカフェが現れた。


落ち着いたウッド調の外装。

入り口の黒板には、チョークで手書きされた「本日のランチセット」──


なんとなく。ほんとうに、なんとなく。

足が、その扉の方へ向かっていた。



店内は思ったよりも広くて、どこかあたたかい空気が漂っていた。


私はカウンターには座らず、窓側のテーブル席に腰を下ろす。

やがて、やわらかな足音とともに、店員がメニューを持って現れた。


その手を受け取った瞬間、私はなぜか、視線を上げてしまっていた。


彼女は、背筋の伸びた女性だった。


落ち着いた口調で「こちらがランチのおすすめです」と告げるその声は、柔らかく響いていた。

笑うと少し、眉尻がゆるむのがわかる。

その自然な仕草に、私は思わずまばたきを忘れる。


髪は、丁寧にまとめられたストレート。

メガネの奥の瞳も穏やかで、

彼女のまとう空気には、どこか“居心地の良さ”があった。


一瞬で理解した。

この人が、桜井花さんだ。


映像で見えたあの光景。

タロットのカードの向こうに走った、“未来”の残像。


——ここだったのだ。


店の名前も知らなかった。場所も、覚えがない。

それなのに、今、私はこの席に座っていて。

彼女は、変わらぬ笑顔でランチの注文を取っている。


「ドリア……お願いします」


声がかすかに震えそうになったが、どうにか誤魔化せた。


「はい。少々お時間いただきますね」


花さんは優しく微笑んで、すっと立ち去っていった。


しばらくすると、頼んでいたドリアが運ばれてきた。


熱々のホワイトソースに、香ばしく焼けたチーズの香り。

ドリアは、思っていた以上に丁寧に作られていて、口に運ぶたび、心が少しほぐれていく。


あのざわめきも、少しずつ薄れていく。

……そう思っていた、そのときだった。


「いらっしゃいませ」


花さんの、少しだけトーンの上がった声。


私は何気なく顔を上げて——

一瞬、呼吸が止まりそうになった。


夏谷春人さんだった。


入口のガラス越しに差し込む光が、彼の輪郭をふわりと縁取っていた。

変わらず黒のジャケット。すっきりとした白いシャツ。

整った身なりに、どこか疲れたような、でも澄んだ目が印象的だった。


彼は、軽く頭を下げてから店内へ入ってくる。

そして、まるで迷いなく、カウンター席の一番端に腰を下ろした。


花さんがそちらへ歩み寄っていく。

彼は、席に深くは座らず、背筋を伸ばしたまま、メニューを受け取る。


ほんの短いやりとりだった。

けれど、そのわずかな会話の中に——私は気づいてしまった。


彼の視線が、ただ、優しかった。


笑うでもなく、媚びるでもなく、

過度な期待も、諦めも、どこにも滲んでいない。


ただ、まっすぐで、穏やかで、温かい。

人を、人として、大切に見るような、そんな目だった。


……あんな視線を向けられたら、きっと誰でも少し、心が揺れる。


私は手の中のフォークを見つめたまま、ふっと息を吐く。


“いいな”


思わず、そんな言葉が、胸の内にこぼれた。

あんなふうに誰かを見つめて、

あんなふうに見つめ返される——


それは、想いの深さとか、報われるかどうかなんて関係ない。

ただ、それだけで、羨ましいと思ってしまった。


彼女が、じゃない。

あの目線を受け取ることのできる誰かが、ただ、羨ましいと感じた。


——まったく。

なんなんだろう、この気持ちは。


私は、ドリアの皿の端に視線を落としたまま、内心で小さくため息をつく。


タロットなんか、引かなければよかった。

……そんなこと、ふと、思ってしまった。


「太陽」なんて。

あんなに真っ直ぐで、確かな未来のカードなんて。


あんなものを見せられたから、

私は今こうして——


“意味”を探してしまっている。


偶然、同じカフェに入っただけ。

ただ、それだけのことだったはずなのに。


「運命の輪」「星」「女教皇」——

そして、「太陽」。


あのとき頭に浮かんだ、自分の名前。

あんな結果が出たから。

そんな“予兆”を見たせいで。


私は、彼を目で追っている。

彼の言葉の調子に耳を澄まして、

その視線の温度に、勝手に胸をざわつかせている。


……ほんとうに、嫌になる。


私はフォークを握る手に、少しだけ力が入った。


タロットなんて——

あれがなければ、こんなふうに意識することもなかったのに。


でも。


……これは、恋じゃない。


人として好ましいと思った、ただそれだけ。

誰かの想いに真摯に向き合える人。

傷ついていても、人に優しさを向けられる人。


ちょっとだけ、うらやましいと思っただけなんだ。

そう、自分に言い聞かせるように、視線を皿に戻しかけた——そのときだった。


視線の端で、ふと、動きがあった。


カウンター席。

花さんが注文を取って立ち去ったあと、

夏谷さんが、こちらにゆっくりと顔を向けたのだ。


私と、目が合った。


一瞬だけ、彼の表情に驚きの色が浮かぶ。


でもすぐに、それが照れたような、ばつの悪そうな笑顔へと変わった。

たぶん、彼自身も気づいていたのだろう。

この場所に私がいて、こちらからはすべて見えていたことを。


私は、視線をそらさずに、小さくうなずいた。

笑顔は浮かべなかったけれど、

——ええ、知っていましたよ。

そんな“仕事の顔”で応える。


彼は少しだけ戸惑ったように席を立ち、

手にメニューを持ったまま、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


「……ばれちゃいましたか」


彼が、私の向かいの席に腰を下ろしながら、苦笑交じりに言う。


私はドリアの皿の向こうから、静かに彼を見つめて言った。


「……まあ、そうですね」


ほんの少しだけ、口元に影を落としながら。


彼は少し気まずそうに、けれど静かに笑った。


「……あの、焦らず長期戦のつもりなんですよ」

「……占い師さんの言われた通りに」


私の目が、一瞬だけ揺れる。

それは彼の中で、もう“決意”になっていたのかもしれない。


私は、少しだけ頬をゆるめて返す。


「……いいと思います。焦ってもうまくいくことって、あまりないですから」


「はい」

彼はまっすぐにうなずいたあと、少し周囲を見回して、照れたように言った。


「……今日は、プライベートなんですね」


「ええ。普段は、会社で事務をしてるんです。いまは昼休憩で」


「そうだったんですね……なんか、すみません」


「別に構いませんよ。一人で寂しく食べていたので、助かりました。」


私はそう言って、さりげなくフォークに視線を戻した。


「……あ、そういえば」

彼が思い出したように口を開く。

「まだ、お名前……お聞きしてなかったですね」


私は手を止めて、少しだけ息を吸った。


「……名前、ですか」


彼の視線はまっすぐで、軽くも重くもない、ただ、誠実な問いだった。


私は目を合わせたまま、小さく微笑んだ。


「……一ノ瀬です。一ノ瀬結月」


そう名乗ると、彼は小さくうなずいた。


「一ノ瀬さんですね。」


お名前お伺い出来て嬉しかったです。


「お昼のお時間お邪魔しました。じゃあ、僕も戻ります」


「ええ。……ごゆっくり、どうぞ」


「ありがとうございます」


そう言って、彼はもとの席に戻っていく。


その背中を見送りながら、私は再びフォークを手に取った。


午後、いつものパソコンの前に戻って、

入力作業を始めながら、私はふと思う。


──花さん。


その表情のどこかに、私には見えてしまったのだ。


まだ言葉にも仕草にもなっていない、けれど、

内側ではもう確実に育っている“想い”の気配。


これは「芽」ではない。

「気づいていない予感」でもない。


すでに、恋は始まっている。


たとえるなら、つぼみがほころびかけている状態。

日々の会話や視線のすれ違いの中で、そっと育ち、

きっともう、彼女自身も心のどこかでは気づいている。


誰かを大切に想っていることに。

名前を呼ばれるたびに、少しだけ鼓動が変わることに。

その人の笑顔に、言葉に、触れたくなる気持ちに。


──ただひとつ、確かなのは。


その想いの相手は、夏谷さんではないということ。

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