夏谷さんの恋
あれから、一週間。
私は変わらず、事務所で書類を捌き、電話に出て、決まりきった日々を過ごしていた。
占いは、あくまで副業のようなもの。
それでも、不思議と、あの“名前”だけは、ふとした拍子に頭に浮かぶことがあった。
夏谷春人さん。
真っすぐな目をしていた。
あのとき、何も言わなかったけれど、
“あのカード”に私の名前が映ったことが、どうにも心に残っていたのだ。
そんなことを考えながら、昼休み、私は少し歩いてみることにした。
いつもと違う道を選んで、小さな通りを抜ける。
暑すぎず、涼しすぎない、心地いい風が吹いている。
「あ……」
ふと、視界の先に、こぢんまりとしたガラス張りのカフェが現れた。
落ち着いたウッド調の外装。
入り口の黒板には、チョークで手書きされた「本日のランチセット」──
なんとなく。ほんとうに、なんとなく。
足が、その扉の方へ向かっていた。
店内は思ったよりも広くて、どこかあたたかい空気が漂っていた。
私はカウンターには座らず、窓側のテーブル席に腰を下ろす。
やがて、やわらかな足音とともに、店員がメニューを持って現れた。
その手を受け取った瞬間、私はなぜか、視線を上げてしまっていた。
彼女は、背筋の伸びた女性だった。
落ち着いた口調で「こちらがランチのおすすめです」と告げるその声は、柔らかく響いていた。
笑うと少し、眉尻がゆるむのがわかる。
その自然な仕草に、私は思わずまばたきを忘れる。
髪は、丁寧にまとめられたストレート。
メガネの奥の瞳も穏やかで、
彼女のまとう空気には、どこか“居心地の良さ”があった。
一瞬で理解した。
この人が、桜井花さんだ。
映像で見えたあの光景。
タロットのカードの向こうに走った、“未来”の残像。
——ここだったのだ。
店の名前も知らなかった。場所も、覚えがない。
それなのに、今、私はこの席に座っていて。
彼女は、変わらぬ笑顔でランチの注文を取っている。
「ドリア……お願いします」
声がかすかに震えそうになったが、どうにか誤魔化せた。
「はい。少々お時間いただきますね」
花さんは優しく微笑んで、すっと立ち去っていった。
しばらくすると、頼んでいたドリアが運ばれてきた。
熱々のホワイトソースに、香ばしく焼けたチーズの香り。
ドリアは、思っていた以上に丁寧に作られていて、口に運ぶたび、心が少しほぐれていく。
あのざわめきも、少しずつ薄れていく。
……そう思っていた、そのときだった。
「いらっしゃいませ」
花さんの、少しだけトーンの上がった声。
私は何気なく顔を上げて——
一瞬、呼吸が止まりそうになった。
夏谷春人さんだった。
入口のガラス越しに差し込む光が、彼の輪郭をふわりと縁取っていた。
変わらず黒のジャケット。すっきりとした白いシャツ。
整った身なりに、どこか疲れたような、でも澄んだ目が印象的だった。
彼は、軽く頭を下げてから店内へ入ってくる。
そして、まるで迷いなく、カウンター席の一番端に腰を下ろした。
花さんがそちらへ歩み寄っていく。
彼は、席に深くは座らず、背筋を伸ばしたまま、メニューを受け取る。
ほんの短いやりとりだった。
けれど、そのわずかな会話の中に——私は気づいてしまった。
彼の視線が、ただ、優しかった。
笑うでもなく、媚びるでもなく、
過度な期待も、諦めも、どこにも滲んでいない。
ただ、まっすぐで、穏やかで、温かい。
人を、人として、大切に見るような、そんな目だった。
……あんな視線を向けられたら、きっと誰でも少し、心が揺れる。
私は手の中のフォークを見つめたまま、ふっと息を吐く。
“いいな”
思わず、そんな言葉が、胸の内にこぼれた。
あんなふうに誰かを見つめて、
あんなふうに見つめ返される——
それは、想いの深さとか、報われるかどうかなんて関係ない。
ただ、それだけで、羨ましいと思ってしまった。
彼女が、じゃない。
あの目線を受け取ることのできる誰かが、ただ、羨ましいと感じた。
——まったく。
なんなんだろう、この気持ちは。
私は、ドリアの皿の端に視線を落としたまま、内心で小さくため息をつく。
タロットなんか、引かなければよかった。
……そんなこと、ふと、思ってしまった。
「太陽」なんて。
あんなに真っ直ぐで、確かな未来のカードなんて。
あんなものを見せられたから、
私は今こうして——
“意味”を探してしまっている。
偶然、同じカフェに入っただけ。
ただ、それだけのことだったはずなのに。
「運命の輪」「星」「女教皇」——
そして、「太陽」。
あのとき頭に浮かんだ、自分の名前。
あんな結果が出たから。
そんな“予兆”を見たせいで。
私は、彼を目で追っている。
彼の言葉の調子に耳を澄まして、
その視線の温度に、勝手に胸をざわつかせている。
……ほんとうに、嫌になる。
私はフォークを握る手に、少しだけ力が入った。
タロットなんて——
あれがなければ、こんなふうに意識することもなかったのに。
でも。
……これは、恋じゃない。
人として好ましいと思った、ただそれだけ。
誰かの想いに真摯に向き合える人。
傷ついていても、人に優しさを向けられる人。
ちょっとだけ、うらやましいと思っただけなんだ。
そう、自分に言い聞かせるように、視線を皿に戻しかけた——そのときだった。
視線の端で、ふと、動きがあった。
カウンター席。
花さんが注文を取って立ち去ったあと、
夏谷さんが、こちらにゆっくりと顔を向けたのだ。
私と、目が合った。
一瞬だけ、彼の表情に驚きの色が浮かぶ。
でもすぐに、それが照れたような、ばつの悪そうな笑顔へと変わった。
たぶん、彼自身も気づいていたのだろう。
この場所に私がいて、こちらからはすべて見えていたことを。
私は、視線をそらさずに、小さくうなずいた。
笑顔は浮かべなかったけれど、
——ええ、知っていましたよ。
そんな“仕事の顔”で応える。
彼は少しだけ戸惑ったように席を立ち、
手にメニューを持ったまま、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「……ばれちゃいましたか」
彼が、私の向かいの席に腰を下ろしながら、苦笑交じりに言う。
私はドリアの皿の向こうから、静かに彼を見つめて言った。
「……まあ、そうですね」
ほんの少しだけ、口元に影を落としながら。
彼は少し気まずそうに、けれど静かに笑った。
「……あの、焦らず長期戦のつもりなんですよ」
「……占い師さんの言われた通りに」
私の目が、一瞬だけ揺れる。
それは彼の中で、もう“決意”になっていたのかもしれない。
私は、少しだけ頬をゆるめて返す。
「……いいと思います。焦ってもうまくいくことって、あまりないですから」
「はい」
彼はまっすぐにうなずいたあと、少し周囲を見回して、照れたように言った。
「……今日は、プライベートなんですね」
「ええ。普段は、会社で事務をしてるんです。いまは昼休憩で」
「そうだったんですね……なんか、すみません」
「別に構いませんよ。一人で寂しく食べていたので、助かりました。」
私はそう言って、さりげなくフォークに視線を戻した。
「……あ、そういえば」
彼が思い出したように口を開く。
「まだ、お名前……お聞きしてなかったですね」
私は手を止めて、少しだけ息を吸った。
「……名前、ですか」
彼の視線はまっすぐで、軽くも重くもない、ただ、誠実な問いだった。
私は目を合わせたまま、小さく微笑んだ。
「……一ノ瀬です。一ノ瀬結月」
そう名乗ると、彼は小さくうなずいた。
「一ノ瀬さんですね。」
お名前お伺い出来て嬉しかったです。
「お昼のお時間お邪魔しました。じゃあ、僕も戻ります」
「ええ。……ごゆっくり、どうぞ」
「ありがとうございます」
そう言って、彼はもとの席に戻っていく。
その背中を見送りながら、私は再びフォークを手に取った。
午後、いつものパソコンの前に戻って、
入力作業を始めながら、私はふと思う。
──花さん。
その表情のどこかに、私には見えてしまったのだ。
まだ言葉にも仕草にもなっていない、けれど、
内側ではもう確実に育っている“想い”の気配。
これは「芽」ではない。
「気づいていない予感」でもない。
すでに、恋は始まっている。
たとえるなら、つぼみがほころびかけている状態。
日々の会話や視線のすれ違いの中で、そっと育ち、
きっともう、彼女自身も心のどこかでは気づいている。
誰かを大切に想っていることに。
名前を呼ばれるたびに、少しだけ鼓動が変わることに。
その人の笑顔に、言葉に、触れたくなる気持ちに。
──ただひとつ、確かなのは。
その想いの相手は、夏谷さんではないということ。