運命の相手
背は高めで、すらりとしている。
黒のジャケットに白いシャツ。全体に無駄のない、落ち着いた装いだった。
派手さはまるでないのに、目を引く。
静かな気配の中に、何か強さのようなものがあるせいかもしれない。
黒髪は少し伸び気味で、額に軽くかかっている。
目元は涼しげで、長いまつ毛が影を落としていた。
白すぎない肌には、どこか野外の空気を知っているような、自然な赤みが残っている。
けれど、それ以上に気になったのは——
その視線の奥に、うっすらと沈んでいる影だった。
ただ、あの視線には、うまく言葉にできない違和感があった。
何かを引きずっているようでいて、どこか遠くを見ているような——
気のせいかもしれない。
でも、その目を見たとき、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
「こんにちは」
私はいつもどおりの調子でそう声をかけ、軽く頭を下げた。
彼も、少しだけ照れたように会釈を返してくる。
そのしぐさに、少しだけ緊張がにじんでいた。
「どうぞ、おかけください」
促すと、彼は控えめな動きで椅子に腰を下ろす。
背筋をまっすぐに伸ばしたまま、しばらく視線を定められずにいる。
私はカードに触れず、ゆっくりと問いかけた。
「今日は、どういったご相談でしょうか?」
彼の視線が、一瞬だけ揺れた。
そして、ほんの少しだけ呼吸を整えるような間を置いて——口を開いた。
「実は……好きな人がいるんです」
彼は、少し照れたように笑ったあと、すぐに目を伏せた。
私はうなずく。
特に言葉は挟まず、続きを待つ。
「もう、ずいぶん前から好きで……」
「でも、その人には好きな人がいて」
“恋人”とは言わなかった。
けれど、その言葉の濁し方で、だいたいのことは察せられた。
そのあと、少しだけ沈黙が落ちる。
彼は小さく息を吐き、視線をテーブルのタロットの方へと落とした。
「ちゃんと、諦めなきゃいけないのかもしれないって、頭では思ってるんですけど……
気持ちって、そんなに都合よく切り替えられないですね」
その言い方は、自嘲とも、苦笑ともつかない色をしていた。
私は、静かに目を合わせ、そっと頷いた。
「なるほど……好きな人が、いらっしゃるんですね」
それから、タロットにそっと手を添えて問いかける。
「差し支えなければ……お名前とご年齢を伺ってもよろしいですか?
それから、お相手の方のことも、わかる範囲で構いません」
「……夏谷春人、25歳です」
彼は少し緊張したように言い、視線を合わせてくる。
「相手は……桜井花さんっていう人で。行きつけのカフェの店員さんです。
歳は……たしか、22歳くらいだったと思います」
言いながら、どこか申し訳なさそうに目を伏せる。
——ああ。
たしかに、それは“まだ近づいていない”恋なのだと思った。
私は、軽くうなずいた。
「わかりました。では、そのお気持ちを心に置いて——カードを切らせていただきますね」
彼が小さくうなずくのを確認して、私はタロットの束にそっと手を添える。
指先に意識を集中させると、空気の密度が少しだけ変わった気がした。
——少し、熱い。
手のひらに、わずかにこもるような温度を感じる。
こういうときは、感情が強く流れ込んでいる証拠だ。
カードをゆっくりと切っていく。
音はほとんど立たない。
ただ、テーブルの上に静かに、淡々と並べていく。
——「恋人(逆位置)」「死神」「吊るされた男」
カードを見た瞬間、
ほんの一瞬、視界の奥に“映像”のようなものが走った。
カフェのカウンター。
制服姿の桜井花さんが、笑顔を浮かべて立っている。
目の前には、若い男性客。
彼は花さんに何か冗談を言ったのだろう。
花さんは口元を押さえて、楽しそうに笑っていた。
仕事中とは思えないほど、ふたりの距離は自然だった。
言葉のやりとりも、表情の動きも、
もうそこに、小さな世界ができあがっているように見えた。
——ああ。
これは、報われない恋だ。
カードがそう告げるよりも先に、
その光景が、私の中で“確かな未来”として沈んでいた。
私は、カードから目を離して、ゆっくりと彼を見つめた。
私はその並びを見て、呼吸をひとつ浅くした。
恋人の逆位置。
関係の不均衡、すれ違い、そして“思いが通じない”こと。
死神は、終わりと再生を告げる。
吊るされた男は、報われない献身と、手放せない執着。
……この恋は、難しい。
私は、視線をカードから彼へと移す。
彼はまだ黙ったまま、こちらをじっと見ていた。
「……ごめんなさい」
私はそう言ってから、言葉を選びながら続ける。
「今のままでは……その想いは、届かないかもしれません」
彼は目を伏せて、ほんの少し、笑ったように見えた。
「やっぱり……そうですよね」
その声は、思っていたよりも優しかった。
静かで、どこかあきらめに近い安堵がにじんでいた。
「……少しだけ、情景が見えました」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
言うべきか迷ったけれど、彼の目を見たとき、言葉が自然とこぼれていた。
「カフェで……花さんが、お客さまと楽しそうに話していました。
笑っていて、とても自然で、心からくつろいでいるような顔で」
一瞬の会話。けれど、そこには確かに温度があった。
「……たぶん、花さんのほうが、そのお客さまに好意を持っているんだと思います。
ほんの短い会話でしたけど、なんとなく、伝わってきました。
彼女の表情や声のトーンが……少しだけ、特別でした」
しばらく黙っていた彼が、ふっと短く息を吐いた。
そして、小さく笑って言った。
「……すごいですね。やっぱり、友人から聞いた通りだ」
私は少しだけ首をかしげる。
「最初は、正直“占いなんて”って思ってたんです。
でも……こうして実際に話してみたら、妙に納得してしまってる自分がいて」
その言葉には、自嘲も感心も、どこか混ざり合っていた。
「……ありがとうございます。ちゃんと、聞けてよかったです」
彼はそう言って、深く頭を下げた。
私は、静かにうなずいた。
でも、その奥で、胸のざわつきはまだ消えていなかった。
彼は静かに目を伏せたまま、言葉を探しているようだった。
その姿には、まだどこか、終わりを受け入れきれない気配があった。
私はカードにそっと手を戻す。
そして、やわらかな声で問いかける。
「……もしよろしければ、この先の恋の流れを見てみましょうか?」
彼が顔を上げる。
「花さんとのことも含めて。
今の想いが、この先どう動いていくのか……その可能性を、一緒に見てみる。
そういう占いも、できますよ」
私は淡く笑ってそう言った。
一方的な“当たる・当たらない”じゃない。
彼の心が、どう進んでいくかをそっと照らす──そんな占い。
彼は、ほんの一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと頷いた。
「……お願いします」
私は、カードの束に両手を添える。
今度は、先ほどよりも少しだけ深く、呼吸を整えた。
さっきとは違う種類の空気が、部屋に満ちていくのを感じる。
彼が、ほんの少しだけ気持ちを未来へ向けたからだ。
それだけで、空気の流れはわずかに変わる。
私はカードを静かに切っていく。
手のひらに、さっきとはまた違う温度が残る。
——今度は、冷たい風が、胸の奥を抜けていった。
私はゆっくりと、三枚のカードを並べる。
「運命の輪」「星」「女教皇」
……そして、もう一枚。
「太陽」
その並びを見た瞬間、頭の奥に自分の名前が“よぎった”。
唐突に。しかも、はっきりと。
私。
まるでカードたちが、そう言っているかのように、
そのイメージが、静かに、けれど否応なく、胸の中に流れ込んでくる。
——私が、“彼の未来”に現れる?
まさか。そんなはず、ない。
私は目を閉じ、気を落ち着けようとする。
けれど、その間にも、頭の奥では自分の名前が何度も反響していた。
「……どうでしたか?」
彼の声が、柔らかく私の意識を引き戻す。
私は目を開けて、カードを見つめたまま、答えを探す。
並んだ四枚は、どれも強く、まっすぐだった。
曖昧さのない、確信に満ちたような構成。
「……ええ。とても……いいカードが出ました」
それだけで言葉を止めた私に、彼が少しだけ笑う。
「……それって、“希望がある”ってことですか?」
私は頷く。けれど、口には出さなかった。
——“私のこと”など、言えるわけがなかった。
私の声は、思っていたよりも澄んでいた。
「……あなたの気持ちは、これから少しずつ変わっていくと思います」
私は一枚一枚に目を落としながら、ゆっくり言葉を継いだ。
「今はまだ、花さんへの想いが大きいかもしれません。
でも、ふとしたきっかけで、あなたの目線が“別の方向”へ向く瞬間が訪れます」
視線を彼に戻す。
「そのとき、あなたは迷うかもしれません。
でも、その相手は……あなたの誠実さを見て、ちゃんと受け止めてくれる人です。
きっと、あなた自身が“救われた”と感じられるような、そんな出会いになります」
彼は、カードの言葉をしばらく噛みしめるように黙っていた。
そしてふと、小さく口を開いた。
「……でも、やっぱり、少しだけ聞きたいんです。
“もし花さんとうまくいくとしたら”って。
可能性、まだ……あるんでしょうか」
その声には、かすかな迷いと、どうしても手放しきれない願いが滲んでいた。
私は静かにうなずく。
「……わかりました。
もう一度カードを引いてみましょう。
“あなたと、桜井花さんの関係が、これからどうなっていくか”」
彼の視線が、少しだけまっすぐになる。
その眼差しに、私はそっとタロットに手を添えた。
空気がまた、ほんのわずかに変わる。
今度は、さっきとは少し違う熱を帯びている。
——これは、彼の“願い”に対する問いだ。
私はカードを丁寧に切り、三枚を引いた。
「節制」「恋人」「世界」
一瞬、息を呑みそうになる。
美しく、やわらかく、でも力強い組み合わせだった。
「……不思議ですね」
私はゆっくりと口を開いた。
「今のままだと難しいかもしれません。
でも、もしあなたが、焦らずに向き合っていけば——
花さんとの関係は、少しずつ変わっていく可能性があります」
彼が、目を見開く。
「節制は、静かなバランスと調和。
恋人は、感情の交差。
そして世界は……完成と到達を意味します」
私は目を伏せ、静かに続けた。
「それが何を意味するのかは、あなたの選び方次第です。
でも、道が閉ざされているわけじゃない。
それだけは、確かです」
彼が席を立ったのは、それから少しあとだった。
丁寧に頭を下げ、「今日はありがとうございました」と静かに言った彼の声は、
最初にここへ来たときよりも、わずかに軽くなっていた。
私は「どうぞ、お気をつけて」と微笑み返し、
彼の背が雑居ビルの階段の向こうに消えるのを見送った。
部屋の扉が閉まり、静けさが戻る。
ふぅ、と息を吐き、私はテーブルの上に目を落とした。
まだ片づけていないタロットのカードが、そこに並んでいる。
「……節制」「恋人」「世界」
整ったその並びは、まるで祈るような美しさだった。
あれほどの展開が出るなんて、正直、驚いている。
私はカードの端に指を置きながら、そっとまぶたを閉じる。
その奥に、再び“あの瞬間”が浮かぶ。
——未来のカードを引いたときに、頭をよぎった、自分の名前。
花さんでもなく、他の誰でもなく。
彼の未来に、現れたのは私だった。
もちろん、それを伝えることはしなかった。
そんなことを言っても、混乱を招くだけだ。
今の彼にとって、大切なのは“自分の気持ち”に正直であることだと、私は知っている。
だから私は、あのカードに意味を持たせなかった。
それに、“芽”が出たわけじゃない。
あくまで、これは未来の話。
気配があったとしても、それはまだ、ほんの微細な揺れにすぎない。
でも——
「……かっこよかったな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた声が、
部屋の静けさに溶けていく。
私は少しだけ頬をゆるめて、カードを一枚ずつ片づけ始めた。