俺の“好き”の気持ち、取らないでください
あとは、夏谷さんの予約だけになってしまった。
予約時間までは、もうほんの少し。
手元のカードに指を添えてみても、落ち着かない鼓動だけが静かに響いてくる。
やっぱり、ダメだ。
深呼吸をしても、うまく気持ちが整わない。
……でも、逃げるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせたそのとき——
扉の向こうから、ノックの音がした。
控えめだけど、迷いのない音。
その響きだけで、誰なのか分かってしまう。
私はゆっくりと立ち上がり、扉へ向かう。
そして、いつものようにドアを開けた。
そこには——
やっぱり、彼がいた。
「こんにちは。一ノ瀬さん」
変わらない声。
でも、その笑顔はほんの少しだけぎこちなくて、
視線が、一瞬だけ泳いだのが分かった。
私もまた、いつも通りには振る舞えなかった。
「……昨日ぶりですね」
言った瞬間、喉の奥が少しだけ痛くなる。
彼のまぶたが、わずかに揺れた。
「……あ、やっぱり……見てましたよね。昨日のこと」
彼は目を伏せながら、苦笑のように言う。
私は椅子をすすめ、彼も静かに腰を下ろす。
——いつも通りの光景のはずなのに。
空気が違って感じられる。
「今日は……何を占いますか?」
問いかけた声が、少しだけ掠れた。
自分でも驚くほど、平静を装えていないのがわかる。
いつもなら、彼の占いたいことなんて、言われる前に感じ取れていた。
でも今日は、なぜかまったく“視えない”。
まるで、自分の感覚のチャンネルがひとつ、ズレてしまったようだった。
しばらくの沈黙のあと、彼はぽつりと言った。
「……占ってくれませんか? 俺の、この先の恋愛」
静かな声。
でも、そのひとことが、胸の奥にまっすぐ刺さった。
「……いいですよ」
私は短く答え、手元のタロットに指を伸ばす。
混ぜようとした瞬間だった——
「……一ノ瀬さん」
不意に名前を呼ばれて、
私の指から力が抜けた。
私の手から滑り落ちたタロットカードが、床に散らばった。
慣れた動作で、それを拾おうと身をかがめた、その瞬間。
ふいに、誰かの手が、そっと私の手を止めた。
声はなかった。
けれど、その触れ方がすべてを物語っていた。
柔らかくて、でも強い。
止めたいという、確かな意志だけが、そこにあった。
私は、その手のぬくもりに驚いて顔を上げた。
夏谷さんが、黙ったまま、まっすぐ私を見ていた。
数秒の沈黙があって——
彼の唇が、ようやくゆっくりと動いた。
「……もう、俺の“好き”の気持ち、取らないでください」
その言葉は、静かだった。
けれど、心のどこか深くに、まっすぐに届いた。
「……っ」
息が、少しだけ詰まった。
私の手は、彼の手の中で、もう動けなかった。
私は、その言葉を受け止めきれずに、目を伏せた。
けれど、彼の手はまだそこにあって、
逃げ道を——いや、逃げる理由を、奪っていた。
「……本当はあの日、カフェで聞いてたんです」
彼の声は低く、でもまっすぐだった。
「一ノ瀬さんが……
“自分の恋の芽を摘んでる”って、そう話してたの。あの子と」
彼は、悲しそうな目で私を見つめた。
「……さすがに気づきますよ」
少し笑うように、でもその声は震えていた。
「俺、一ノ瀬の笑顔が好きだったんです。
なのに、話し終わるたび、俺の中からあなたの思いが消えるんです……
それでまた、一ノ瀬さんの笑顔を見るたびにまた好きになって、それでまた消えて。
まるで、俺の想いが、毎回少しずつ摘まれてるみたいだった」
彼の指先が、私の手をゆるく包む。
「......そんなに迷惑でしたか?」
私は、呼吸の仕方を忘れていた。
胸の奥が、何かでいっぱいになって、動けなかった。
何も言えなかった。
けれど——その手を、私はもう、払いのけることができなかった。
「……迷惑なんかじゃないです」
私はようやく、息を整えながらそう言った。
彼の手の温もりが、じんわりと手のひらに染みてくる。
「でも——」
言葉を切ると、私はゆっくりと彼を見つめた。
「……あなたが、花さんに向けて咲いていた“花”、どれだけ綺麗だったか、わかってましたか?」
夏谷さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「最初から、羨ましいと思ってたんです」
喉の奥が、少しだけ痛んだ。
「誰かに、あんなふうに思われて……
あんなふうに、大切にされて……
本当に、素敵なことだなって、ずっと思ってました」
彼は、何も言わなかった。
ただ、手だけは離さず、私の話を聞き続けていた。
「本当につい最近まで、咲いてたんですよ? その“花”。
占いなんてしなくても、分かるくらいには……綺麗だった」
私は、小さく笑った。
でもその笑みには、ひとつも明るさなんてなかった。
「でも、今はもう……それがない」
そっと目を伏せる。
「だから分かるんです。
たぶん……ちゃんと終わったんだなって。
きっと、花さんとの想いに、あなたは向き合って、精算できたんだなって」
言いながら、胸の奥に鋭い棘が刺さっていく。
「だけど、だからこそ……」
私は彼の手に、指を少しだけ絡めた。
「夏谷さんが、私に向ける“芽”を、摘むことがそんなに罪でしたか?」
彼は、少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくりと息を吐いてから、静かに言った。
「……花さんへの気持ちは、本物でしたよ」
その言葉には、嘘がなかった。
「でも——だからって、
一ノ瀬さんへの気持ちが“偽物”だったわけじゃないです」
私の胸が、かすかに震えた。
「俺、ずっと自分の気持ちが“間違い”だと思ってたんです。
まだ花さんのことを想ってたのに、
なのにあなたの笑顔を見るたび、
どうしようもなく惹かれていく自分がいて……」
彼の声は、静かだったけれど、切実だった。
「あなたが、ちょっと無茶してるときも……
人に優しすぎて、自分のことを後回しにしてるときも、
なんでこんなに気になるんだろうって、
なんで、放っておけないんだろうって……ずっと思ってました」
言葉が、胸にじんと染みていく。
「……でも、その気持ちが育つたびに、
気づいたときにはまた、消えてる。
話し終わったあとには、俺の“好き”が、なくなってる」
彼はまっすぐ、私の目を見た。
「……そんなの、罪じゃないですか。
俺の中でこんなにも大切な想いだったのに、
まだ芽吹いたばかりで、傷つけたわけでもないのに……
咲かせる前に、何度も何度も、静かに抜かれる」
「それが、どれだけ苦しいか……一ノ瀬さん、わかりますか?」
彼の声が、かすかに震える。
一瞬、彼は言葉を止めた。
けれど、視線は外さなかった。
私は何も言えずに、ただ彼を見つめ返すしかなかった。
彼の中に咲いた“想い”を、
ずっと、守りたくて、摘んでしまった私。
でも、彼の言う通りだった。
まだ咲いてもいない花を、
咲かせることすら許さなかったのは——
誰より、私だった。
その想いがどれほど美しかったかなんて、
きっと、私が一番知っていたのに。
夏谷さんは、そっと視線を落とすように言った。
「……一ノ瀬さんは、俺のこと、どうも思ってないのかもしれないけど」
彼の声は、少しだけ震えていた。
「でも……それでも、好きな気持ちを奪うのは、違いますよ」
私の胸の奥が、きゅう、と小さく音を立てる。
その瞬間、何かが堰を切ったように、目元から涙が零れ落ちた。
「……どうも思ってない、わけじゃないんです」
声が掠れて、言葉が途中で詰まりそうになる。
でも、それでも伝えなきゃいけない気がした。
「本当は、最初から……夏谷さんに向けられる“目線”の相手が、羨ましかった」
彼は、少し驚いたように私を見る。私は、震える声のまま、続けた。
「でも、怖かったんです。
だって……私が羨ましいと思った、その“花”は……
ずっと夏谷さんの中で、大事に育てたものだから」
「その人のために咲いてたから……だから、手を伸ばしちゃいけないって思ってた」
涙が頬をつたって落ちる。
夏谷さんは、私の言葉を、ひとつひとつ噛みしめるように聞いていた。
けれど私は、どうしても彼の顔を見られなかった。
これ以上、自分の心を覗かれるのが怖くて。
そのとき——
「……俺の方、見てください」
彼の手が、そっと私の頬に触れた。
あたたかくて、ほんの少し、震えていた。
その手に導かれるように、私はおそるおそる顔を上げた。
そして、目が合った。
そこには——
誰かを大切に想うときにしか見せない、深く澄んだ眼差しがあった。
まっすぐに、ただ私だけを見ている、やさしい目。
その奥に、ゆっくりと咲いた花が見えた気がした。
あまりにも綺麗で、心の奥がひどく揺れた。
「……っ」
また、涙がこぼれた。
止めようとしても、止まらなかった。
「……好きですよ」
彼の声が、静かに降ってくる。
「……一ノ瀬さんのことが、好きです」
その言葉は、まるで誓いのように、真っ直ぐだった。
「俺のこと……ちゃんと、見てください」
私の中で、何かが崩れた。
ずっと目をそらしてきた。見ないようにしてきた。
だけど今、彼の想いがこんなにも真摯にぶつかってきて、
もう、逃げる場所なんてなかった。
私は、小さく息を吸って——
そっと、彼のシャツの裾を、指先でつまんだ。
ほんの少しだけ、でも確かに「ここにいたい」と願うように。
「……っ」
言葉が喉で詰まる代わりに、服をぎゅっと握った。
その瞬間だった。
夏谷さんの腕が、ふわりと、でも迷いなく、私の身体を包んだ。
優しくて、あたたかくて、柔らかくて。
だけどそれ以上に——
「よかった……」
彼の胸から、ほっとしたような、小さな吐息がこぼれた。
私は、その胸元に顔をうずめた。
泣き声が漏れないようにするためだったのに、
そのぬくもりが、優しすぎて、
今まで摘んできたすべての感情が、溶けていくようで。
ぎゅっと抱きしめ返す腕は震えていたけれど、
それでも、ようやく咲けた想いが、ここにある気がして——
私は、泣いた。
言葉よりも、涙のほうが、きっと想いを伝えてくれる気がしたから。
そして夏谷さんは、何も言わず、
ただ、抱きしめ続けてくれた。
そして私は、彼の腕の中で、ようやく自分の恋を――摘まずに、咲かせることができた。




