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10/13

恋の芽を、そっと摘む

帰り道、同僚の結月ちゃんと並んで歩いていた。

タロットで出た「塔」のカードが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。

それは、“崩壊”や“大きな怪我”を示すカード。

だから今日は、なんとなく、彼女のそばにいた。


「今日はありがとうね、付き合ってもらって」

結月ちゃんは、夕暮れの風に髪を揺らしながら、くすっと笑った。


その笑顔が、ほんの少し柔らかくなっているように見えた。


「……なんか、前より顔色いいよね」

私がそう言うと、彼女はちょっと恥ずかしそうに頬をかいた。


「え、ほんと? もしかして……恋してる顔かも」


「えっ、まさか」

私は驚いたふりをしながら笑う。


「……まさか、じゃないよ」

結月ちゃんは、歩幅をゆるめながらぽつりと続けた。


「前は“好きになっちゃいけない”って思ってたけど……もう、思っちゃってるんだもん。しょうがないよね」


「……しょうがないね」

私も笑ってうなずいた。でも、胸のどこかが、きゅっとした。


「……でも、叶えようとは思ってないよ」


「え?」


「ううん、なんかね。不思議と、そういう感じじゃないの。

“どうにかなりたい”っていうんじゃなくて……ただ、好きな気持ちをちゃんと自分の中に持っておきたいなって、そう思うの」


その横顔には、どこか穏やかな強さがあった。

まるで、無理に手を伸ばすことなく、それでも花を見つめ続けるような。


「……だから、迷惑かけたりもしないし、変に頑張ったりもしない。

でも、心の中にその気持ちがあることで……なんかね、ちょっとだけ、自分がまっすぐになれる気がするんだ」


私は、思わず立ち止まりそうになった。


(叶わなくても、“好き”って気持ちは——消さなくてよかったんだ)


(誰かを想う気持ちを、なかったことにするより、そっと大事にする方がずっと強い)


——そうだね。

私も、そう思う。

やっぱり、無理になくしていいものじゃない。


ほんの少し、風が吹いた。

結月ちゃんの横顔が、夕焼けに染まって見えた。


その瞬間だった。


「わっ……!」


不意に、彼女の身体がぐらりと傾いた。

歩道橋の段差にヒールが引っかかったのだ。


私は、反射的に腕を伸ばした。


「危ない……!」


結月ちゃんの腕をしっかりと支える。

ぐらついたバランスを、なんとか立て直すことができた。


「……ふぅ、びっくりしたぁ」

そう笑う彼女の横で、私は胸をなでおろす。


「これで、未来は変わった」

心の中で、そっと思った——そのとき。


ドンッ。


背後から、強い衝撃。


駅へと急ぐ男が、スマホを見ながらぶつかってきたのだ。


一瞬、体が宙に浮いた。

足元が空を蹴る。


歩道橋の手すりの向こうに、夕空が広がっていた。


「あ……」


見慣れた景色が、ぐるりと反転する。

頭の奥に焼きついていた“未来の映像”と、

いま目の前に広がっている光景が——

ぴたりと重なった。


病院のベッドの上。

骨には異常なし。軽い打撲と、念のための検査入院。

医者の言葉を聞いて、私はほっと息をついた。


結月ちゃんが、ベッドのそばで目に涙をためながら、何度も頭を下げる。


「ほんとに、ごめんね……わたしが足引っかけたから……」


「違うよ、結月ちゃんは悪くないって。ほんとに大丈夫」

私は笑って言う。けれど、松葉づえを握る手には、まだ少しだけ力が入っていた。


その隣に、ひとりの男性が立っていた。

——夏谷さんだった。


「たまたま通りがかったんです。駅から見えて……慌てて駆けつけたんだけど、間に合わなくて」


「いえ、来てくださってありがとうございます。ご心配おかけしてすみません」

私が頭を下げると、夏谷さんは少し困ったように笑って、小さく首を振った。


「……無事で、本当によかったです」


結月ちゃんも、「ほんとに、ほんとによかった……」と何度も言いながら、涙を拭いた。


しばらく静かな空気が流れたあと、

ふいに、夏谷さんの低い声が背後から届いた。


「……もし、よかったら。送りますよ」

私は、顔を上げて彼を見る。


「無理にとは言いませんけど、一人で帰るのはさすがに危なそうですし」


「あ……でも……」

私が戸惑って視線を泳がせると、すぐそばにいた結月ちゃんと目が合った。

彼女は一瞬だけ私を見つめ、それから小さく笑って、ゆっくり首を横に振った。


「ううん。私は……今日はちょっと寄るところあるから。

だから、送ってもらいなよ。ほんとに……助けてくれて、ありがとうございます」


「結月ちゃん……ありがとう」

私は彼女に小さく頭を下げて、それからもう一度、夏谷さんに向き直る。


「……じゃあ。お願いしても、いいですか?」


「もちろん」

夏谷さんは、静かにそう言って、私の横に並んだ。


——ゆっくりと、歩き出す。

病院の廊下に、松葉づえの音が小さく響いていた。


松葉づえで歩く私のペースに、

彼は何も言わず、自然と歩幅を合わせてくれていた。


「……本当に、あんなところで転ぶとは思わなかったです」

苦笑混じりにそう言うと、夏谷さんは小さく笑った。


「運が悪かったですね。人通りも多かったし……あんな勢いでぶつかるなんて」

その声には、責める色もなく、ただ少しだけ申し訳なさそうな響きがあった。


「いえ、全然。こっちこそ……お騒がせしちゃって、すみません」

私も、笑って返す。


夕方の風が、ゆっくりと吹き抜ける。

少し冷たいけれど、どこか静かで、やさしい空気だった。


しばらく、ふたりで無言のまま歩く。

だけどその沈黙は、重たくはなかった。

むしろ、どこか心地よくて。


ふいに、夏谷さんがぽつりと言った。


「……もしかして、わかってたんですか?」


「え?」


「さっきの、お友達が……怪我するかもしれないってこと」


その問いに、私は一瞬だけ足を止めそうになった。

でも、すぐに顔を戻して、小さく笑う。


「……まあ、少しだけ。カードに“塔”が出てたから」


「塔……?」


「“大きな変化”とか、“崩れる未来”とか、そういう意味があるんです。事故とか、怪我とか……」


夏谷さんは、しばらく黙っていた。

歩道の縁石を見つめるようにして、それから静かに口を開く。


「……あんまり、自分を犠牲にしてまで助けないでください」


その言葉に、思わず息を呑んだ。


「え?」


「誰かの未来を守るために、あなた自身が傷つくのは……見ていて、正直つらいです」


夏谷さんの声は淡々としていた。

でも、その奥にあるものが、しっかりと胸に届いた。


「……私、そんなふうに見えてました?」


「はい。ずっと」


私は、少しだけ下を向いた。


優しさは、刃にもなる。

それを、初めて他人の口から告げられた気がした。


「でも……私は占い師だから」


そう言うと、夏谷さんは、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「占い師である前に、あなたはあなた自身でいてください。

そうじゃないと、あなたの“未来”がなくなってしまう」


その言葉は、とても静かだったのに、

どこかで心の芯をつかまれたような気がした。


私は、思わず彼の顔を見た。


「……あなたには、ちゃんと笑っていてほしいんです。

理由はわからないんですけど。笑顔を見ていたいって思うんです。」


その言葉に、心の奥が、かすかに揺れた。

まるで、そっと手を伸ばされたような感覚。


こんなふうに、人に言われるのは久しぶりだった。

誰かが私の笑顔を望んでくれること。

それが、こんなに胸を熱くするなんて。


だけど——だからこそ、気づいてしまう。


ああ、やっぱりこの人の中に、

私に対する、芽が生まれて育っている。


優しさが、熱に変わり始める前の、まだやわらかい気配。

私は、それを見てしまった。

そして次の瞬間には、反射のように思っていた。


——この芽、摘まなきゃ。


だって、夏谷さんは、花さんと幸せになってほしいから、、、。


だから、今のこのやさしさが“恋”になってしまう前に、

私は静かに、その芽を抜く。


「……ありがとうございます」


私は、そう言って微笑んだ。

心が鳴るのを、じっと黙ってやりすごしながら。


前は、摘めなかった。

今回、摘んでしまったのは、やっぱり私の弱さだった。

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