恋の芽を、そっと摘む
帰り道、同僚の結月ちゃんと並んで歩いていた。
タロットで出た「塔」のカードが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
それは、“崩壊”や“大きな怪我”を示すカード。
だから今日は、なんとなく、彼女のそばにいた。
「今日はありがとうね、付き合ってもらって」
結月ちゃんは、夕暮れの風に髪を揺らしながら、くすっと笑った。
その笑顔が、ほんの少し柔らかくなっているように見えた。
「……なんか、前より顔色いいよね」
私がそう言うと、彼女はちょっと恥ずかしそうに頬をかいた。
「え、ほんと? もしかして……恋してる顔かも」
「えっ、まさか」
私は驚いたふりをしながら笑う。
「……まさか、じゃないよ」
結月ちゃんは、歩幅をゆるめながらぽつりと続けた。
「前は“好きになっちゃいけない”って思ってたけど……もう、思っちゃってるんだもん。しょうがないよね」
「……しょうがないね」
私も笑ってうなずいた。でも、胸のどこかが、きゅっとした。
「……でも、叶えようとは思ってないよ」
「え?」
「ううん、なんかね。不思議と、そういう感じじゃないの。
“どうにかなりたい”っていうんじゃなくて……ただ、好きな気持ちをちゃんと自分の中に持っておきたいなって、そう思うの」
その横顔には、どこか穏やかな強さがあった。
まるで、無理に手を伸ばすことなく、それでも花を見つめ続けるような。
「……だから、迷惑かけたりもしないし、変に頑張ったりもしない。
でも、心の中にその気持ちがあることで……なんかね、ちょっとだけ、自分がまっすぐになれる気がするんだ」
私は、思わず立ち止まりそうになった。
(叶わなくても、“好き”って気持ちは——消さなくてよかったんだ)
(誰かを想う気持ちを、なかったことにするより、そっと大事にする方がずっと強い)
——そうだね。
私も、そう思う。
やっぱり、無理になくしていいものじゃない。
ほんの少し、風が吹いた。
結月ちゃんの横顔が、夕焼けに染まって見えた。
その瞬間だった。
「わっ……!」
不意に、彼女の身体がぐらりと傾いた。
歩道橋の段差にヒールが引っかかったのだ。
私は、反射的に腕を伸ばした。
「危ない……!」
結月ちゃんの腕をしっかりと支える。
ぐらついたバランスを、なんとか立て直すことができた。
「……ふぅ、びっくりしたぁ」
そう笑う彼女の横で、私は胸をなでおろす。
「これで、未来は変わった」
心の中で、そっと思った——そのとき。
ドンッ。
背後から、強い衝撃。
駅へと急ぐ男が、スマホを見ながらぶつかってきたのだ。
一瞬、体が宙に浮いた。
足元が空を蹴る。
歩道橋の手すりの向こうに、夕空が広がっていた。
「あ……」
見慣れた景色が、ぐるりと反転する。
頭の奥に焼きついていた“未来の映像”と、
いま目の前に広がっている光景が——
ぴたりと重なった。
病院のベッドの上。
骨には異常なし。軽い打撲と、念のための検査入院。
医者の言葉を聞いて、私はほっと息をついた。
結月ちゃんが、ベッドのそばで目に涙をためながら、何度も頭を下げる。
「ほんとに、ごめんね……わたしが足引っかけたから……」
「違うよ、結月ちゃんは悪くないって。ほんとに大丈夫」
私は笑って言う。けれど、松葉づえを握る手には、まだ少しだけ力が入っていた。
その隣に、ひとりの男性が立っていた。
——夏谷さんだった。
「たまたま通りがかったんです。駅から見えて……慌てて駆けつけたんだけど、間に合わなくて」
「いえ、来てくださってありがとうございます。ご心配おかけしてすみません」
私が頭を下げると、夏谷さんは少し困ったように笑って、小さく首を振った。
「……無事で、本当によかったです」
結月ちゃんも、「ほんとに、ほんとによかった……」と何度も言いながら、涙を拭いた。
しばらく静かな空気が流れたあと、
ふいに、夏谷さんの低い声が背後から届いた。
「……もし、よかったら。送りますよ」
私は、顔を上げて彼を見る。
「無理にとは言いませんけど、一人で帰るのはさすがに危なそうですし」
「あ……でも……」
私が戸惑って視線を泳がせると、すぐそばにいた結月ちゃんと目が合った。
彼女は一瞬だけ私を見つめ、それから小さく笑って、ゆっくり首を横に振った。
「ううん。私は……今日はちょっと寄るところあるから。
だから、送ってもらいなよ。ほんとに……助けてくれて、ありがとうございます」
「結月ちゃん……ありがとう」
私は彼女に小さく頭を下げて、それからもう一度、夏谷さんに向き直る。
「……じゃあ。お願いしても、いいですか?」
「もちろん」
夏谷さんは、静かにそう言って、私の横に並んだ。
——ゆっくりと、歩き出す。
病院の廊下に、松葉づえの音が小さく響いていた。
松葉づえで歩く私のペースに、
彼は何も言わず、自然と歩幅を合わせてくれていた。
「……本当に、あんなところで転ぶとは思わなかったです」
苦笑混じりにそう言うと、夏谷さんは小さく笑った。
「運が悪かったですね。人通りも多かったし……あんな勢いでぶつかるなんて」
その声には、責める色もなく、ただ少しだけ申し訳なさそうな響きがあった。
「いえ、全然。こっちこそ……お騒がせしちゃって、すみません」
私も、笑って返す。
夕方の風が、ゆっくりと吹き抜ける。
少し冷たいけれど、どこか静かで、やさしい空気だった。
しばらく、ふたりで無言のまま歩く。
だけどその沈黙は、重たくはなかった。
むしろ、どこか心地よくて。
ふいに、夏谷さんがぽつりと言った。
「……もしかして、わかってたんですか?」
「え?」
「さっきの、お友達が……怪我するかもしれないってこと」
その問いに、私は一瞬だけ足を止めそうになった。
でも、すぐに顔を戻して、小さく笑う。
「……まあ、少しだけ。カードに“塔”が出てたから」
「塔……?」
「“大きな変化”とか、“崩れる未来”とか、そういう意味があるんです。事故とか、怪我とか……」
夏谷さんは、しばらく黙っていた。
歩道の縁石を見つめるようにして、それから静かに口を開く。
「……あんまり、自分を犠牲にしてまで助けないでください」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
「え?」
「誰かの未来を守るために、あなた自身が傷つくのは……見ていて、正直つらいです」
夏谷さんの声は淡々としていた。
でも、その奥にあるものが、しっかりと胸に届いた。
「……私、そんなふうに見えてました?」
「はい。ずっと」
私は、少しだけ下を向いた。
優しさは、刃にもなる。
それを、初めて他人の口から告げられた気がした。
「でも……私は占い師だから」
そう言うと、夏谷さんは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「占い師である前に、あなたはあなた自身でいてください。
そうじゃないと、あなたの“未来”がなくなってしまう」
その言葉は、とても静かだったのに、
どこかで心の芯をつかまれたような気がした。
私は、思わず彼の顔を見た。
「……あなたには、ちゃんと笑っていてほしいんです。
理由はわからないんですけど。笑顔を見ていたいって思うんです。」
その言葉に、心の奥が、かすかに揺れた。
まるで、そっと手を伸ばされたような感覚。
こんなふうに、人に言われるのは久しぶりだった。
誰かが私の笑顔を望んでくれること。
それが、こんなに胸を熱くするなんて。
だけど——だからこそ、気づいてしまう。
ああ、やっぱりこの人の中に、
私に対する、芽が生まれて育っている。
優しさが、熱に変わり始める前の、まだやわらかい気配。
私は、それを見てしまった。
そして次の瞬間には、反射のように思っていた。
——この芽、摘まなきゃ。
だって、夏谷さんは、花さんと幸せになってほしいから、、、。
だから、今のこのやさしさが“恋”になってしまう前に、
私は静かに、その芽を抜く。
「……ありがとうございます」
私は、そう言って微笑んだ。
心が鳴るのを、じっと黙ってやりすごしながら。
前は、摘めなかった。
今回、摘んでしまったのは、やっぱり私の弱さだった。




