プロローグ
何が起こったのだろう。
「いったぁ…」
湊太は右手で首の後ろを押さえ、左手で腹と背中を交互にさすりつつ目を開けた。
いつもの自分の部屋。今日は同級生でゲーム仲間の秀人と、ゲーム三昧の予定だったのに。
椅子に座っていたはずが、後ろに吹っ飛ばされた。強打した腹と背中が痛い。吹っ飛ばされた際に後頭部も打った気がしたが、床に落ちていたクッションに助けられた。若干首の方に負担がかかった気がするので、むち打ちが出るかもしれない。
横に目をやると、秀人も腰を抜かしたように床に座り込んで何かを見上げている。
理解が追い付かない。
どこから現れたのか、部屋の真ん中には見知らぬ少女が立っていた。少女と言っても、恐らく年上…に見える。金髪のポニーテール、碧眼にそばかす。デニムのショートパンツから伸びる足は長く、どう見ても日本人じゃない。そして、スニーカー…人の家で、土足である。
「stand up!」
少女はずかずかと近づくと、二人の腕を掴んだ。
『はろろーん、コンタとヨーコだよう!平日午前とか、変な時間の生配信だけどー…おー!結構見てくれてるね、アリガトー!』
ちょっとたどたどしい日本語で「海外から日本に移り住んだ夫婦」設定の人気ライバーの配信が始まった。二人ともビジュアルが良いのと、いつも仲良く楽しそうにゲームする姿が好印象で、フォロワー数も多い。
『みんなガッコとかお仕事さぼって見てんのー?怒られちゃうよー!でもでも、気になってるよねー。来週配信予定の【ランディングファイターオンライン】のアプデ情報。ちょっとゴニョゴニョな権限?特権?まあ何でもいいや。お偉いさんから先行でベータ版プレイさせて貰えたのよー』
秀人は配信を聞きながら、出かける準備をしていた。何の特権だか知らないが、色々なゲームの最新情報がこの二人から出てくることも多いので、フォローしているのだ。
しかしこのタイミングでアプデ情報とは。聞きたいところだが時間がない。
「兄ちゃん、今日出かける予定ある?このジャケット借りていい?」
秀人は玄関先のクローゼットからファー付きブルゾンをハンガーにかかったまま引っ張り出すと、リビングでスマホを手にゴロゴロしている大学生の兄に聞いてみた。
「いーよ、今日バイトもないし。あ、配信そのまま流しといて」
「いいけど…お母さん帰ってきたら止めといてくれよ?」
不安そうに顔をしかめた秀人に、兄の優人は軽く笑いながら
「分かってるって。俺も怒られんのイヤだもん」
と弟を見ずに答えた。
『生配信は無理だったのよー。まだナイショだったから、ゲーム会社でご招待だったのよー。他の有名配信者もご招待、結構イタヨネー』
『プロゲーマーも何人かイタヨネー。『アンドラダイト』の涼サマイタヨネー、実物超可愛かったね~!』
『え、僕より?』
『もー、妬かないの!ダイジョブ、コンちゃんはカッコイイのよー!』
『ウフフ…で、プレイしたのを録画って形で。配信していいものだけ映像貰って来たから、全部じゃないけど、生解説でお見せするよ~!』
ノロケは要らないのだが。
「うああ~!気になる!でも…あああ!そろそろ出るわ」
スマホで時間を見ながら秀人が玄関へ向かうと、後ろから優人の声が追いかけてきた。
「ん?バスか?」
「いや、チャリで行く」
「うっわ、元気だな。昼メシは?」
「湊太んちで食う。お母さんには昨日言っといた」
「ならよし。気をつけて」
「あーい、行ってきます」
元気よく出ていく弟の背中を見送ると、部屋にはテーブルの隅に置かれたノートパソコンから楽しげに響く配信の音声だけが残った。
優人は大きく息を吸い込むと、かなり大きなため息をついた。
時々変なこだわりが出る母親は、毎回家族を巻き込むので頭が痛い。
最近は、食に対してのこだわりがマイブームで、ネットで齧った知識で変な食材を仕入れてくるので、今から二人きりで食べる昼食がちょっと憂鬱だった。母と自分だけの昼飯なんて、昨夜の残り物だけでも十分だと思うのに、朝から一体何の買い出しに行ったのか。優人はもう一度大きくため息をついた。
―――出て行った秀人が正解だったかもな。
その時、スマホが短い通知音を鳴らした。秀人からのメッセージだ。
『今一階エレベーターホール。でかい買い物袋2つ』
どうやら、マンションの入り口で帰ってきた母親とすれ違ったらしい。
「うわあ…怖」
優人は慌てて起き上がると、ノートパソコンを閉じて弟の部屋に運んだ。そして、何食わぬ顔でリビングに戻るとソファに寝転んだ。
その日は、とても暖かい日だった。
3月も終わりに近い。秀人は何とも言えない自由な気持ちで自転車を走らせていた。
高校受験、合格発表、制服の注文と雑事は終わった。入学前なのに宿題が出されたのは想定外だったが、それを除けば「解放された!」というフワフワとした気持だった。
家を出たのは11時前。今日は久しぶりに友人の神木湊太の家でゲーム三昧の予定だ。昼食は湊太が「焼きそば作るけど食う?」と言ってくれたので、喜んで飛びついた。
道中のコンビニで手土産代わりにスナック類何点かと、「貢ぎ物」の焼きプリンを1つ買って…。
「さて、気合入れるか」
自転車に跨ると、顎の下まで長く伸びた髪を耳にかけた。
目の前には、住宅が並ぶ小高い山に続く、登り坂が待っていた。
来客を告げるチャイムが鳴った。湊太は壁で点灯した来客のモニターにちらりと目をやり、
「シュート来た」
とつぶやき、IHヒーターの火を止めた。友人の吉沢秀人は「ひでと」が正しい読み方なのだが、友人は全員「しゅうと」と呼んでいる。サッカー強そうなあだ名だな、とよく言われるが、実際のところ彼は運動全般かなり苦手だ。湊太の目から見た秀人は「広範囲オタ」である。
「はいはーい」
玄関を開けると、死にそうな顔でぜーぜーと肩で息をしている秀人がいた。
「え?チャリで来た?まじかー」
けらけらと笑う友人に対し、
「いや、バス代使うくらいなら夕湖さんへのプリンに使うだろ」
と返しつつ、秀人は先ほど買ったスナック類を手渡す。
「お、やったサンキュ。まあ入れよ」
招き入れてくれた友人をよくよく見ると、湊太の明るい茶色の髪はぼさぼさの寝ぐせ頭のまま、そして中学時代の体操服のジャージ上下着用スタイルだ。普段から無造作ヘアで通しているヤツだが、今日は無造作が過ぎる。
「客が俺だけだからってそのカッコは油断しすぎじゃね?」
文句を言いつつ、秀人はスニーカーを脱いで揃える。一応来訪先に失礼にならないよう気を使い、兄のおしゃれブルゾンを着てきた秀人は納得いかない。
「部屋着にはベストじゃん?着心地サイコーだし」
「ユリカも来るってなら着替えたか?」
「いや。あいつにはこのジャージ分かんないだろ。まあ、寝ぐせくらいは直したかも?」
ユリカ、白石由梨香はゲーム仲間である。3年前、中学受験で同じ中高一貫校を受験したが、受かったのは由梨香だけだった。先日の高校受験で二人は雪辱を果たし、やっと同じ高校へ進めることになったのだ。つまり一人だけ別の中学に行った由梨香は、この中学のジャージは知らないだろうと湊太は高をくくっているらしい。
「あー…まあ、そうか…いや、でもダメだろ」
実際のところ湊太も秀人も、3人の中では由梨香が1番ゲームの能力が高いと思っている。彼女の遠距離からのエイムは、素早さ正確さが半端ない。思い切りの良さも怖いくらいだ。今日も来ないか誘ったのだが、「風邪か花粉症か分からん、鼻水止まらんから無理」と断られてしまった。今日は彼女だけ自宅から参戦する予定だ。
湊太が来客用スリッパを出した時、奥の部屋から湊太の母・夕湖が出てきた。
「ヒデ君いらっしゃーい。今日は宿題の日?」
「いやいやまさか。あ、これどうぞ」
秀人はわざとらしく恭しい動作で、先ほどコンビニで買ったもう一つの袋をを夕湖に差し出した。袋の中を確認した夕湖は
「まー嬉しっ。ありがと、了解よ~」
と言いながらくるりとUターンし、部屋へ戻っていった。これで買収成功である。
「あ、かーちゃん。もうすぐ焼きそば出来るから」
「りょーかーい」
ドアの陰から手だけひらひらと振って、湊太の母は姿を消した。
「ええ息子さんやなあ」と思わずつぶやいた秀人に対して「だよなあ?」と湊太は人懐っこい笑顔を見せた。
豪邸、と言っても過言ではないくらい湊太の家は大きい。しかし簡素で、どこか古い学校の校舎のような趣きがある。
玄関から入ってすぐの真正面にある階段だって、一般家庭の倍くらい横幅がある。トレーニングジム並みの設備が整ってる地下室もあるらしいが、秀人には縁のない部屋なので入った事はない。
湊太の母方の祖父…つまり夕湖の父が亡くなる直前に、祖母一人だけになるこの家に湊太一家4人が引っ越してきたのは半年ほど前、夏休みの終わり頃だ。
「自分の部屋が貰えたのはいいんだけど、坂がきっついわー」
と常々言うほどの、まあまあな坂の上にある。
しかしビジネス用の光回線が引かれていて、Wi-Fiも50台同時接続が可能というビジネス用のものが入っているので、オンラインゲームをする身にとっては贅沢な環境である。
昨年末に出場したU-16(16歳以下)のゲーム大会で予選通過できたのは、このラグと無縁の環境のお陰だったのは否めない。どんなに坂がキツくても、秀人がここまで来たいと思える理由である。
「きつね夫婦の配信見た?あ、どこで食う?下のほうが片付け楽だから助かるけどな、俺が」
と笑いながら、湊太はもう1階の長い廊下を先導している。秀人は「お前んちホントおもろいな」と返しつつ、
「配信はゲーム動画出る前に家出たからほとんど見てねーよ。下で食べるはいいけど…夕湖さんはどーすんのさ」
と湊太の母が消えたドアを横目に、部屋の前を通り過ぎた。
「多分、部屋で食べるんじゃね?なんか忙しそうだし」
と湊太は背伸びをしつつ答える。
「まあ、持ってってやるか」と言う湊太に、「本当に良くできた息子さんやなあ」と秀人は笑いながら涙をぬぐう仕草をした。
春休みは比較的湊太が昼ご飯を作ることが多いらしく、「宿題の気分転換にもいいし」と言っている以上、別に親から無理にやらされているわけでもなさそうだ。
以前「パスタも小麦粉から作ってみたい」などと言っていたので、料理自体好きなようだが、「おいおい、何目指してるんだ?」と秀人は思わず突っ込んでしまった事もあった。
廊下の突き当りは広いリビングダイニングで、右側の奥がキッチン、左手は日当たりのいいサンルームとリビングになっている。サンルームの手前には観葉植物とキャットタワーが置いてあり、木々で巧みに隠されているが、奥の方に洗濯物が干せるほどの空間があるらしい。
秀人たちが部屋に入ると、キャットタワーの上では猫が3匹、緊張感のない思い思いのポーズで寛いでいた。彼らのうち一匹だけがちらりと頭を上げてこちらを見たが、すぐにうとうとと目を閉じた。
キッチン手前のダイニングテーブルには箸とコップが用意されていた。湊太が出来立ての焼きそばを3つの皿に盛り付けると、2皿は秀人がテーブルに運ぶ。3つ目はトレイに載せると、湊太は夕湖の部屋にダッシュで運んで戻ってきた。
「スープかなんかいる?インスタントだけど」
「いやいや、そこまで気ぃ使うなって。やきそばで十分」
さっき見たゲームの最新情報の話、湊太の妹の朝海が春から同じ高校の附属中学校に入ることや、高校に入ったら部活はどうする、髪型どうするなど、他愛もない話をしながら昼食をとっていると、二人のスマホが同時に通知音を響かせた。
「ユリカから?」
秀人は焼きそばにがっついたまま、スマホを見ようとはしない。
「うん。1時半頃からログインするって」
「まだ時間あるな。先に別のやっとくか~?」
「え?宿題?」
「いや、ねーわ」
秀人は一応ポーズとして宿題は持っては来ているが、やる気などさらさらない。
「あ、そうだ、見せたいものがあるんだった。ごちそーさまっ」
湊太はぱんっと手を合わせ「ごちそうさま」をすると、皿を片付け始めた。
「フツーにうまかった、ご馳走様。今母親が変な料理に凝ってるから、こういうのがホントありがたいわ」
秀人も皿をキッチンまで下げる。
「あー、テキトーに水だけ漬けといて」
と言いながら、フライパンにわずかに残った焼きそばを皿に盛り、ラップをかけて冷蔵庫に片付ける湊太があまりにも手慣れていたので、秀人は「主婦か」と突っ込んでしまった。
湊太の部屋は2階の一番奥の部屋だ。
二人で話しながら移動していたが、湊太は急に夕湖の部屋の前で止まり
「かーちゃん食べ終わってるなら下げとくけど?」
と声をかける。すると待ち構えていたように
「おー、ありがと、ご馳走様」
とトレイを持った夕湖がドアを開けた。
ドアの隙間からちらりと見えた部屋には左右にデスクがあり、どちらにも複数台のモニターが見えた。秀人は初めて見たが、とんでもない電脳空間である。
「わり、シュート。先に部屋行っといて」
トレイを受け取った湊太はリビングへ戻っていった。
―――相変わらず凄い家だな、色々と。
そんなことを思いながらのんびり歩いていると、階段につく頃には湊太が追い付いてきていた。
「またかーちゃんがパソコン買い変えたからさ、古いの貰って入れ替えたんだわ。今日から初号機シュートに使ってもらおうと思って」
古いの、と言ってもおそらく買って2年も経っていないPCだろう。それもかなり高性能の。
仕事上必要なのだろうが、それを横流ししてもらえる環境は羨まし過ぎる。
「え、2号機爆誕か?じゃあお前の部屋今パソ4台?」
「そーなっちゃったね」
今までは2台のPCが湊太の部屋にあったのだが、チーム戦の際はこの家に集まり、由梨香はいつも湊太のサブPC、通称「0号機」を使い、秀人は自分のノートPCを持ちこんでいた。
「ただ、モニターは足りてない。さすがに4台は置き場所無理だわ~」
「あーそうか、そりゃそうだなー…」
最後に秀人がこの家に来たのは年末だったか。
湊太の現在の部屋は、元々は子供の頃の夕湖の部屋だったそうだ。部屋の正面と、右側に腰高の窓が2面。右側の窓の下、入り口ドアのある壁との角に、祖父から夕湖に引き継がれて使われていたという無骨などっしりした木の机と、その奥に湊太の小学生入学時に買ったという、いわゆる「学習机」が並んでいて、それぞれの上に大きめなPCのモニターが載っている。
「どこかのアニメで見た感じの部屋なんだよな。縮尺おかしいけど」
マンション住まいの秀人の部屋に比べると、余裕で3倍は広い部屋だ。だが、青い猫型のロボでも出てきそうな間取りの部屋なのだ。
「来るたび言うよな、それ」
うんうんと頷きながら、湊太が笑った。
そして左側には押し入れ、と思いきや引き戸の奥は小さめなベッドルームがある。
湊太の祖父は、ここを押し入れにして、そこをベッド代わりに使えばいいと考えていたらしいが、祖母に「湿気がこもるからやめなさい」と怒られて諦めたという。
生きていたなら会ってみたかったと思う、聞けば聞くほど面白エピソード満載の人だった。
そしてもう一台…
「ユリカ専用機、机貰ってるじゃん」
部屋の真正面の窓より左側に、簡素な白いデスクが発生している。そこに件の大会で準優勝したときに賞品として貰った、高性能ゲーミングPCと24インチの巨大ディスプレイが鎮座していた。
準優勝の最大の功労者だった由梨香にこそ、このPCは渡すべきだったのだが、
「置き場ないし、うちの回線じゃこの子生かしきれないじゃん」
と言われて、湊太宅で預かることになったのだ。
「0号機、どこ行った?」
秀人としては由梨香がいない日には使わせてもらっていた、そして今日も使うつもりだった旧マシンの扱いが気になった。湊太としても初めて貰ったPCで思い入れが強いと言っていただけに、部屋から消えているのはちょっと寂しい。
「とりま、クローゼットで休眠中。データきれいにしたら、朝海行きかな。でもあいつにPC渡すの、俺は反対なんだよな…」
湊太の妹の朝海が、PCを欲しがっているらしいが、兄としては反対のようだ。
そして、入口に近い方の無骨デスクの上に、初めて見るPCが置かれていた。黒い筐体のあちこちに赤いラインが入っていて、2号機という名にふさわしい色だな、と秀人は思った。
そして奥の机の上に湊太の旧愛機、通称「初号機」が移動している。
今後、秀人がこの家でゲームをするときは、これが秀人専用機になる。
「初号機、起動していい?」
奥の机に向かい、とりあえず座ってみる。お下がりのお下がりだが、高性能なのは知っている。新しいPCを貰ったようなわくわく感が湧いてきて、ちょっとそわそわする。
「どーぞどーぞ。半月くらい起動してないからアプデあったかも゛!っ!」
湊太が変な声を出した。「も゛ってなんだよ、も゛っ…て…」
振り返ると、右に座っていた湊太がいない。
ドンっという音がして、後ろに湊太が椅子ごと転んでいた。
「いったあ…引き出しが急に…なに?」
「え?何?何で…」
見ると、湊太の座っていた方の机の引き出しが開いている。中身は…見えない。暗闇のようで、その手前に白い靄のようなものが揺らめいているようにも見える。
不意にそこから、にゅっと手のようなものが現れた。いや、間違いなく人間の手だ。その手が引き出しの縁を掴んだかと思うと、もう片方手が出てきて、やはり引き出しの縁を掴む。
驚きすぎて秀人は思わず「ひゃあ」と叫んでしまった。
何が起きているのか全く理解できず、意味不明に叫びながら椅子から滑り落ち、後ずさった。
湊太は後頭部を打ったのか、引き出しに食らわされた腹パンがきいているのか、首の後ろと腹を抑えながら「あー…」と呻きながらぎゅっと目を閉じているので前を見ていない。
「手…手えっ!」
秀人は何とか状況を説明しようと辛うじて叫んだが、それ以上の言葉が出てこなかった。
「…Sorry?」
両手に続いて、引き出しからひょこっと頭が現れた。
高い位置で無造作に束ねられた金髪で碧眼、ちょっとそばかすありの少女が、引き出しから生首状態で話しかけてきたのだ。
「いや…誰?」
「誰とかどーでもいーわ、いや、良くねーけど!怖い怖い、ちょっと何マジで!」
「誰?」とか呑気な質問をする湊太に若干イライラしながら、それでも相手が理解できる言葉で話しかけてきたことに、秀人は少しだけ安堵していた。
少女は、顔の前でちょこんと真ん中に寄せていた両手を左右に広げ、そのまま勢いよく、壁を跳び越すように引き出しから飛び出してきた。
少女だとは思ったが、立ち上がったその姿は、意外に大きい。シンプルな白い長袖Tシャツに、デニムブルーのショートパンツ、黒のニーハイを穿いた足は、とても長く見えた。
「stand up!」
少女はずかずかと近づくと、二人の腕を掴んだ。
「えー、靴?」
「そこじゃねえー!!」
確かに彼女はスニーカーを履いているが、そこを気にしてる場合か?変に呑気な湊太に突っ込んだ後、秀人は突っ込んだ自分で何か少し可笑しくなって、ふっと笑ってしまった。そのちょっとしたゆるみを、彼女は何か了承したと捉えたのか
「OK? Let’s go!」
二人の腕を引き上げ、一気に立ち上がらせた。
「えー?」
「Go!Go!」
何の説明もない。まあ英語で一気に細かい説明をされても多分理解もできないが。
少女は倒れた椅子を起こすと机の前に戻し、出っぱなしの引き出しをポンポンと叩きながら「カモンっ」と短く呟いた。
「カモンってどこに…?」
「まさかと思うけど引き出しに入れってんじゃないよな?」
やはり、引き出しの中は暗闇だ。「Oh!」と小さく呟くと、少女が引き出しの縁に手をかけ、表面をさらりと撫でた。
途端、ふわっ…と引き出しの霞と奥の闇が晴れて、明るい緑の草原が見えた…気がした。
「OK! Let’s go!」
「いや、ここに飛び込めってこと?どゆ事?」
さっきまでのんびりに見えた湊太が、初めて慌てているように叫んだ。
「そう言ってるように見える…なあ…あれドコなの…」
「えー、あんた誰なんだよ~靴脱げよぉ。でも原っぱなら靴で合ってんのか?もー…」
「いや…でも…引き出しだよな?え、ちょっと待って落ち着け俺。タイムマシンとか無いってー!」
二人とも色々と言うことがおかしくなってきている気もするが、何ら状況を呑み込めないので仕方ない。
もたもた騒いでいるうちに、少女はまず湊太の手を片方ずつ掴み、引き出しの縁を強引に握らせていた。
「ちょっとお~!強引極まりない!やだよー、怖い怖い!」
じたばたと抵抗していると、少女の顔からスーッと笑顔が消えていくのが見えた。ポケットからスマホを取り出すと、2,3回画面をタップする。そのままわずかな間画面を睨んでいたが、少し首をかしげると、しかめっ面のまま湊太の眼前に画面を指し示した。
ひきつった顔で湊太がゆっくりと顔を上げると、少女はすっと一歩下がり、右手はファイティングポーズ、右膝は腹の辺まで斜めに上げてぴたりと止まった。
「…おっ…けー…」
秀人の方を振り返った湊太は涙目で、「…シュートも…来いよ…?」と情けない声を出したと思うと「えいっ」と引き出しに飛び込んでいった。
「え、まじか?なんで?なんで行った?」
主が居なくなった部屋に残されたのは、秀人と少女の二人だ。おそるおそる少女の顔見ると…満足そうに引き出しのほうを見て頷いていた。満面の笑みである。そして顔を上げ、秀人に向き直ると、先ほど湊太にしていたようにスマホの画面をずいっと目の前に差し出した。そこには
『さっさと飛び込め。自分で出来ないなら蹴り落とすぞ』
と、はっきり日本語で書かれていた。




