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「お前のように、ものごとの裏と表を理解しないような奴は、誰からも相手にされはせぬ。うまくやれなければ、仕事を失うぞ」
自分の管轄の農民から賄賂を受け取り、その分年貢を手加減してやる役人がいる。
俺はこんなにもうけた、と胸を張る同僚を、吉之助は凄い顔をして睨んだ。その顔をあざけられた。
「何をそう、むきになっているのか。いい加減、大人になれ」
とまで、言われた。
吉之助はとうとう、その同僚と口を利かなくなった。例え全ての役人仲間から馬鹿にされようと、自分には到底、そんなことはできないと吉之助は思っている。
それにしても、この農民の貧しさは酷いものだ。
もともとこの土地は痩せている。こんな苛酷な地面を耕し、なんとか作物を作っては、搾り取られるのだ。
年々、税率は上がる。貧しさにあえぐ民の中には、家族の中の女子供を売りに出す者さえ出た。そうまでしなくては、年貢を納めきれないのだ。
吉之助は、農村を見廻り、その年の作柄を見極める立場である。
しかし、今年のような悲惨な状況では、藩から提示された年貢を割り振ろうにも、どう工夫したって、無理が出る。
直属の上司の迫田は、こんな無理難題を突き付けられても平然としている。否、平然としているように見える。
迫田の人徳は、吉之助がよく知っている。
農民の貧困ぶりを目の当たりにし、なんとか彼らのためになることができないかと考えている人である。
「少し、お話をしたいです」
吉之助は迫田に言った。
迫田は頷くと、「では、うちに来なさい」と言った。吉之助が何を話し合いたいか、だいたい察したのだろう。
人の耳が立つ場所で喋る内容ではない。
いったん帰宅して、夜に迫田の元に向かうこととなる。
吉之助は家に帰る。夕暮れ時にはまだ早く、甲突川のほとりでは、小さな子供らが走っているのが見えた。
「吉之助さんだア」
男の子たちは指さし、立ち止まる。
吉之助が手を振ってやると、わっと笑ってまた駆け出した。
あれくらいの時が、一番良い。
自然、頬が緩む。
下加治屋町は貧しい集落だが、しっかりと纏まり、子供らもきちんと育てられている。
郷中教育は各集落で為されているが、特にこの下加治屋町は、きっちりと、上から下へと教えが引き継がれている。優れた郷中は下加治屋町の誇りなのだ。
稚児と呼ばれる子供らを指導するのは、元服した青年たちだ。これを二才と呼ぶ。思春期となった長稚児たちは、良いと思った二才の家に集い、教えを乞うのである。
吉之助は、下加治屋町の二才頭である。
この郷中の教育を取り仕切る立場である。
下の者を指導する立場の二才らには、武芸を第一に嗜む、体を鍛える等、規律が定められており、下加治屋町の郷中は特にその規律が厳しい。
守らないことは恥である。
その規律の中に、「弱い者をいじめるな」というものがあった。
吉之助は弱い者いじめが嫌いである。
弟たちの中で、少しでもそういった悪さを見たならば容赦はしない。普段は仏のように穏やかな兄なのに、下のきょうだいや、他所の子供をいじめたと知るや否や形相を変える。
そのくせ、自分は何をしているのかと、吉之助は自問自答を繰り返している。
年貢を割り振る仕事は、必要なものだ。重大な責務である。
だが、年貢を割り振られた農民たちは、どうしたって苦しむ。吉之助の脳裏には、あの、大雨の夜に一泊させてくれた農家のことが焼き付いているのだ。
大事な牛だったろう。
丹精込めて育てたことが、一見して分かるほど良い牛だった。
ぐっと拳を噛み締めて立ち止まっていた。河原の子供らは、もういない。家に帰ったろうか。
川水が流れてゆく。
ぽたり。
大きな粒が落ちてくる。空は薄暗く、雲は黒かった。
ぽた、ぽた。
草の葉に雨は落ちる。葉は重みに耐えているが、次第に雨水が溜まり、ゆるゆると葉が曲がる。
ああ、そうだ。
吉之助は雨が目に入るのも構わずに、草を眺めた。
重みに耐えかねた草は、どうなる。
折れ曲がり、二度と上を向くことが叶わなくなるか。
それとも。
細い草は雨水を溜めてしなる。吉之助は思わず息を詰めてその様を見守る。
(いっそ、雨が降り続き、草が重みに耐えうる限界まで降りやまねば時代は変わるだろうか)
百姓が、百姓自身のための時代を手に入れることが、叶うだろうか。それとも、潰れ、二度と立ち上がることすらできなくなるだろうか。
分からぬ。
ふと、気配がした。
近所で一番貧しい家の、小さな子供である。川で遊んだ帰りだろう、顔を泥だらけにし、腰から下を泥水で汚して立っていた。
「濡れるよ」
と、子供は自分こそ濡れているくせに、そう言った。
何と言ってやろうか、と吉之助の気が草から逸れた時、「ぱたん」と微かな音を立て、水が跳ね返った。
子供に袖を引かれながら吉之助は我に返る。
朽ちて倒れそうだった草は、重たい水の玉を跳ね返した。草は大きく揺れ、しっかりと立ち直ったのだった。