08.かえりたい
エドガルドからの面会の伺いに即座に是を返した灯花の前には今、大柄で威圧感があり眼差しは鋭く、けれど優しいばかりの男が座っている。
「大変なことに巻き込まれたな」
「はい……あの、もう話題は広まって……?」
「いや、俺も特殊なルートからの情報だからそこまで広まってはいないな、まだ」
エドガルドは既に『聖女ユイ』の死に関する情報を持っているらしい。彼にしてはどこか歯切れの悪い表現だが、つまり広まりかけているらしいと灯花は察した。
特殊なルートとは何だろうと灯花はほんのり興味を惹かれるが、エドガルドはそのまま話を続けたので姿勢を正して彼の声に耳を傾けた。
「我々はそろそろ領地へと戻る。社交の義理は果たしたし、議会も重要案件は終わっているから問題ない」
「あ……それは、お疲れ様で……」
「だから一緒に帰らないか、トウカ?」
灯花の息が一瞬詰まった。辺境伯領へ帰れる。あのあたたかい場所へ。こんな苦労が報われないつめたい場所ではなく。
だけど灯花は結局王城で何も成し遂げられず、『聖女ユイ』を辺境伯領に連れていくことは永遠に叶わなくなった。そんな自分に居場所はあるのだろうかと灯花は怯え、膝の上に置いた自分の手を見つめるしかなかった。
「私、結局、何もできなくて……」
「頑張っただろう。言葉が随分と流暢になったじゃないか」
「漂流人なのに奇跡も何もないし」
「元々、そんなものを目当てにトウカを保護したわけではない」
「でも」
「ラナが待っている……ずっと心配しているぞ」
それ以上の言い訳はいらないと言わんばかりにエドガルドが灯花の言葉を遮る。
ラナの名を聞いた途端に灯花の涙はこぼれそうになった。この世界に来て初めて会って、ずっと隣で支えてくれた人。故郷の家族にもう会えない灯花にとって姉のような人。
「私、一緒に行ってもいいんですか」
「そう言っている。一緒に来た護衛の奴らを覚えているか? この件のことは何も知らせてないが、お前はいつ戻ってくるのかと聞かれたぞ」
「皆さんが……?」
「ああ、トウカはどうしたい?」
灯花は辺境伯領に帰りたい。
ユイの日記を読んで心が折れてから、灯花はずっとそのことばかり考えていた。
けれど迷惑をかけてまで王城に移り住んだのに、何も出来ずに逃げることなんて許されるのだろうかと、希望を声に出すことを躊躇している。
「わた、しは」
唇を震わせようとしてはためらう灯花を見つめ、エドガルドはじっと待つ。
後見人としての権利を行使すれば、無理矢理にでも連れ出すことは可能だ。奇跡の発現が確認されていないのなら尚更容易だろう。
陽の差す明るい部屋に、灯花の呼吸音だけが響く。その様子を注意深く観察しながら、エドガルドは彼女の決断を待った。
灯花は自らの足で立つことを望んだ、エドガルドはその志を否定したくない。だが、それにより彼女が潰れてしまっては意味がない。正直王城は場所が悪く、再び奮い立つ力を養うためには、彼女自らが落ち着ける場所を選ぶのが一番良い。
「かえ、りたい……私は、あのお邸に、かえりたい、です」
灯花が一度声に出すと、その思いはどんどん溢れてきた。帰りたいこと、ラナにも護衛の皆にも会いたいこと、領主邸の素朴な食事が恋しいこと。王城の食事は、エドガルドのおかげで質が良く凝ったものが供されていたが、どこか寂しかったこと。
灯花がこの世界で一番美味しかったと思う食事は、ラナと言葉を勉強しながら、ふたりで食べたものであった。
「よし、じゃあさっさと準備して帰るか」
「はい、私、帰ります」
エドガルドも肩の力を抜き、努めて明るい声色で灯花を促した。
そんな彼の優しさに触れた彼女の表情は、数ヶ月かけて硬くこわばっていった心と一緒にふわりと解けていった。