自転車泥棒は大変なものを盗んでいきました
自転車泥棒と言えば、置き傘泥棒と双璧を成すよくある盗難事件である。どちらの事件も被害者にとっては迷惑この上ないが、大抵の場合は犯人が見つかることはない。恐ろしいのは犯人が被害者の徒歩圏内や自転車圏内にいる可能性が高いことだろう。隣人ともいえる人物が、善人者面をしながら悪事を働く。これほどの恐怖はない。
とはいえ、私のような日々、球体関節人形を作り続けている人間には縁がないことだ。素材がある限り家のなかで延々と作業を続ける私が、外に出ることはひと月に一度あるかどうか、というところである。だが、外で真面目に働いている知人には切実な問題らしい。
「そーいうわけで、私は盗まれた自転車が見つかるまでの一週間を歩いて職場に通ったわけ。三十分よ。三十分も朝早く起きて、職場に行くの。朝の貴重な三十分を歩くだけに使うの、無駄な時間だと思わない?」
ひとの家で缶ビール片手にソファで自転車泥棒に対しての文句をいうことは無駄ではないのか、と聞きたい気もするが古い知り合い――井出いちごである。それぐらいは許そう。私は人形の髪を切りそろえてゆっくりと井出のほうに振り返った。
「まぁ、考え方次第じゃない? 盗まれた自転車は一週間で帰ってきた。良かったじゃない。やんちゃな高校生に盗まれて真っ黒に塗られてハンドルが横じゃなくて上向いてたりしたら乗れたもんじゃなかったし」
私は、人形を机の上において離れて眺めてみる。やや前髪が右に傾いている気がする。
井出の自転車が盗まれたのは今から二週間ほど前のことだ。彼女の職場である総合病院で事件は起こった。夜勤のために職場に自転車で乗り付けた井出はいつものように自転車に鍵をかけた。それから十時間後、仕事を終えた彼女は忽然と自転車が消えていることに気づいた。夜勤明けで気の立っていた彼女は、気炎を上げて最寄りの駐在所に向かうと盗難届を出した。
それから一週間後、彼女の自転車は職場から少し離れたマンションで見つかったらしい。幸いなことに自転車に傷らしい傷はなく、すぐにでも乗れる状態だったらしい。
「ヤンキー仕様になってたら困るけど、腹立つじゃない!」
缶に残っていたビールを喉に流し込むと、彼女はコンビニ袋から別の缶を取り出してプジュといい音を立てた。私はコンビニ袋を覗き込むとビールしか入っていないことにやや気を落としながら、キッチンの冷蔵庫から日置桜と書かれた日本酒の一升瓶を取り出してマグカップに注ぐ。やや黄色みがかった液体がやや甘い香りを発する。本来なら燗のほうがいいのだが、面倒なので気にしない。
「私は、私がビール好きじゃないことをいつまでも覚えてくれない知り合いのほうが腹立つけど」
部屋に戻って長い髪をはさまないように椅子に腰かける。
「えっ、そうだっけ? ビールはいいわよ。琥珀色の夢が詰まってる」
「はいはい、なら日本酒にはお米の神様が詰め込まれているわ」
「いや、そうじゃないのよ。変なのよ。自転車が何もなく無事帰ってきたってことが」
無事なら良いことじゃないか。世の中には殺人事件や強盗だっておきている。この辺りでも下半身を露出させてブレイクダンスを踊る変態がでたり、若い女性がいきなり切りつけられて髪を失う事件やお年寄りに「いま何年ですか? 二〇一三年!? そんな。僕は過去にタイムスリップしてしまったのか」と言って金をせびるタイムスリップ詐欺が横行している。
酔っ払いは中身がこぼれるのではないかと私が心配になるほどの勢いで缶を突き出した。
「無事ならいいじゃない。困ることないじゃない。それとも盗難保険で新しい自転車を買ったの?」
「ちがーう。自転車の鍵が壊されてなかったの」
「鍵が壊されててほしかったの? 変わった趣味ね」
マグカップをあおって私は呆れた顔をつくった。
「そんなわけないでしょ! 私は鍵も壊さず自転車を持っていけるのが変だって言ってるの」
彼女にしては珍しく鋭い指摘だ。自転車泥棒というのは、持ち主が鍵をかけていない場合を除いて何らかの方法で鍵を開錠しなければならない。その中でもっとも簡単なのは鍵を壊すことだ。だが、彼女の場合は自転車も鍵も無事な状態だった。つまり、犯人は鍵を壊す以外の方法で外したということになる。
「どういう鍵をつけてたの?」
私は彼女に質問しつつも先ほどまで作っていた人形の前髪の傾きが気になり続けていた。切り詰めて短くなるならもう一度、髪を貼るところからやり直そうか。どうしようか。思案する。
「これよこれ」
彼女は人の悩みなど分からないというようにポケットからとりだした鍵をこちらに投げた。手のひらで一回、空中でもう一回すり抜けて、床の寸前で私は鍵をキャッチした。私の長い髪が床に触れかかる。手に平に包まれた鍵を眺める。よくあるシリンダー錠の鍵だ。ギザギザのついたなかなかの長さだ。これをピッキングで開錠するのは骨が折れるに違いない。
「これか。残念。ダイヤル錠なら開けて見せたのに」
「はぁ!? あんたそんなことできるの?」
あんたとはひどい言われようだ。私はやや傷ついた砂漠のハートを押さえていう。
「誰でもできるよ。全部のパターンを回せばいいんだから」
ダイヤル錠はいくつかのダイヤルを一定の規則通りに合わせることで開く。つまり、試行の回数というのは有限なのである。そのうえ、ピッキングのような得意な技術もいらない。時間があればいくらでも開けられるだろう。
「そんなの不審者でしょ!」
「あ、でもきっとそんなに時間はかからないと思うの。ダイヤル錠をつけた人間も開錠するとき面倒だからある程度、合わせたままいくつかのダイヤルだけを回してるはず。なら、試行はもっと少ない数でできる」
私が言い切ると井出は呆れた顔で私を見ると「あんた、いつもいかれてるわよ」と言ってビールに口をつけた。いかれている? 私が? そんなこと考えたこともなかった。
「ダイヤルは開けられてもそのシリンダーだと無理でしょ? だから私は思うの。犯人は自転車に乗らず、持ち上げて持ち去ったか。車に積んで持っていったんだって」
なるほど。たしかにそれなら鍵をあけるひつようはない。
しかし、自転車泥棒って歩くのが面倒なときに自転車借りるか、という気持ちで行う犯罪だと思っていた。乗らないのに持っていくというのは犯行の動機が大きく変わってくる気がする。
「そんな高級な自転車だったの? フレームは軽量カーボン。変速は二十四段階無限軌道。ハンドルは本革張り。シートはお尻に優しい丸穴あきみたいな」
「なにそのイカれた自転車。高いと言えば高いけど、がっつりのロードバイクみたいのじゃないわよ。それでも十万円くらいだけど」
なかなかのお値段である。壁に並べたドールを目で追いかけて「この子と同じくらいか」と紺の小袖姿のドールに目配せをする。私の部屋の半分はドールたちに埋め尽くされている。買ったもの。作ったもの。未完成で止めてしまったもの。それぞれであるが、それらはこれからも増えていくだろう。
「それなら無傷で盗ってきて、ネットで売ろうって気にもなるかも」
「だけど、おかしいのよ。私の自転車の近くには同僚の人でもっと高級な奴があったの。それこそウン十万円する奴。それをスルーして私の自転車を盗むか?」
「高級すぎて売りにくいんじゃない?」
「高級ならパーツ単位で売れるのに?」
確かに自転車丸ごとで売りに出すと足がつきやすいかもしれない。だが、バラバラにしてパーツで売れば、分かりにくくなるに違いない。
「井出、頭いいね」
「あんたみたいにイカれてないから」
「……つまり、井出は犯人が自転車を盗んだ動機が分からないって言いたいわけね?」
私が問いかけると井出はやっと言ってることを理解してくれたのねと。言いたげに頷いた。だが、そうならそうと言ってくれれば良いのだ。
「そうそう。乗れないのに盗んで、売りもしないでマンションの駐輪場に放置するなんて変でしょ? だから、頭のイカれたあんたの意見を聞きに来たってわけ」
そう言って彼女は二本目のビールを空にして三本目の口を開けた。よくそんなに炭酸を含んだものばかり飲めるものだと、私はマグカップを口につける。冷から常温に戻ってきたからか日本酒の匂いがより甘く華やかになった。
「乗れない。売れない。自転車を盗む理由なんて一つだけじゃない」
私は人差し指を伸ばして井出の顔をまっすぐに突き付ける。
「えっ? 私?」
「そりゃ井出の自転車なんだからそうに決まってるよね。犯人は自転車が井出の持ち物だから盗んだ。犯人は何らかの事情で井出に自転車に乗ってほしくなかった」
「はぁ? 私が自転車に乗らないとどうなるっていうのよ」
「そうね。実は自転車が盗まれた日、井出は交通事故で死ぬことになっていた。だけど、井出の知り合いの誰かがそれを阻止するために未来からタイムスリップしてきた。これなら、鍵が壊されてない理由も簡単だよね。死んだ井出の遺品から持ってくればいい。そして、未来の誰かのおかげで井出は今も生きているわけ。ただ、井出が生存したことで世界は二つに分岐した。井出の死んだ世界と生きている世界。そして、私たちはそれを正しく理解できない。確かにこれは恐怖だわ」
私は面白い推理ができたと微笑んだが、井出はそれが気に入らないらしくこちらを睨んでいる。最近はやっているタイムスリップ詐欺もふまえていいと思うのだが何が不満なのだろう。
「あんた真面目に考えなさいよ。私は割と真剣に悩んでるの」
その割にはビールが進んでいる気がするのですが、という言葉が喉から出て唇あたりまでつきあがってくる。私は両手で口を押さえて言葉を封殺する。
「SF的でいいと思うんだけどなぁ……。あ、井出さ、最近仕事って忙しい?」
「忙しいわよ。あんたみたいにお人形を作っていれば生きていけるわけじゃないし」
失礼な言い草だ。私の人形制作だってなかなか時間と想像力を使うのだ。素材だって変なものは使えないし、使いたくもない。できるだけ人に近く、それでいて人でないものを作るのだ。
「井出が自転車を盗まれたあと、こんなこと言われたことない? 『もう少ししたら私も仕事終わるよ。待っててくれたら車で送るけどどうする?』って」
「……ある」
「そして、あなたは言葉の主を待つために残業をする」
「それが理由?」
「そう。その人は仕事が忙しいから井出に帰って欲しくなかった。だから、あなたの交通手段を奪って、自分から与えた。完全なマッチポンプだけど完璧だよね。歩いて三十分が車なら五分くらい。ちょっと残業してでも待とうかなって思ってしまう」
井出の顔が一気に歪む。思い当たる節があったのだろう。
「うわぁ、腹立つ。完全にやられた」
彼女は半分以上残っていたと思われるビールを一気に飲み干すと「帰る」と言って嵐のように去っていった。私は彼女の背中を見送ると息をついた。そして、作りかけの人形に目をやった。やはり、髪が気になる。近いうちにまた素材を揃えて作り直そう。こういうものは妥協してはいけないのだ。
私は自分の腰まで伸びた髪を後ろでまとめる。
次に刈りに行くのは井出の病院から離れたところにしなければ。今回は悩みどころだった。人形の髪を探しているときに、ちょうどいい髪をした女性がいたのがあの病院の近くだった。さらに間が悪いことに彼女が近くを通る時間帯が井出の通勤時間帯にぴったり合っていた。
もし、私が彼女を襲っているときに井出が通りかかれば、井出は確実に私だと気づくだろう。私の長い髪は遠目からでも分かるだろう。だから、私は彼女の自転車を盗んで適当なマンションに置いておいた。それだけで人の生活リズムは変わる。
些細なことだ。
私は最高の人形を作りたい。そのためには些細なことは許してもらいたいものだ。