私と彼女の災ニャンな朝
今日も、昨日と何一つ変わらない日々が続くと思っていた。
だが、そんな私の思いは無残にも打ち砕かれることとなる……。
私こと芹沢蝶子の朝の日課は、ルームメイトの薪奈フロンを叩き起こすところから始まる。
なにぶん、筋金入りに寝起きの悪い娘だ。自分ひとりで起きれたという試しもない。いくら成績が良いとしても、私生活が致命的にだらしなくては、一人部屋の菊花寮を追放されるのも無理はない。
振り回されることもいまだ多いが、それでも桜花寮の生活ともども彼女との時間にも慣れたはずであるが、問答無用でルームメイトの毛布を引っぺがしたとき、私はすっとんきょうな声を上げてのけぞってしまった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、フロン、あなたそれ……」
声を震わせながら、私は決して有り得ないものに視線を集中させる。
毛布の中でくるまっていたのは紛れもなくルームメイトのフロンだ。背が高く、凹凸のない痩せ形で、薄い褐色のショートヘアは寝癖だろうが平時だろうがお構いなしにはねている。カシミヤのセーターにスパッツという格好でくしゃくしゃシーツの上で身体を丸め、寝顔自体はわりかし可愛らしい。ここまではいつもどおりの彼女の姿である。
だが、彼女の頭とお尻に生えている『それ』は一体どういうことだ?
いわゆるネコ科ネコ属に分類される生き物の耳と断定してしまっていいだろう。それが二つ、褐色ショートからひょっこりと現れており、同じくネコ科ネコ属にそなわっていそうな尻尾が、スパッツの後方を押しのけるようにしてうねっている。昨晩は一心不乱にPCと向き合うフロンをよそに私が先に床に就いていたが、このときには当然、そのようなものはついていなかった。
まさかイタズラでこんなものをつけたとは思えない。そういうイタズラを好む性格ではない。が、とにかく先の読めない娘だから断言は差し控えたい。耳と尻尾の付け根がどうなってるのかしら……と、フロンの前に身を乗り出したとき、猫の耳がぴくりと動き、フロンのまぶたが重たげに開かれる。
「んー……」
間延びした声とともに上半身を起こし、寝ぼけ眼が私の目と合う。起きていながらして意識はまだ夢の沼に浸っているらしい。自身の異変にも気づいていないようで重たげに首を振って、あたりを見回す。何かを探しているようだ。
「どうしたっていうの、フロン?」
「あー……蝶子さーん……。あれ、どこにあるか知りませんかー……?」
「あれって?」
「ほら、あれですよ。ダディからもらった……」
『だでぃ』というのはフロンの父親の呼び名らしい。これくらいで変人と感じていたら彼女とは到底お付き合いできない。記憶をまさぐって、私は一つの回答に行き着いた。
「もしかして、おととい送られてきたっていうアイマスクのこと?」
「はい、そうなんですー……あ、見つかりましたー……」
どうやら、足元を通り越してベッドの端まで吹っ飛んでいたらしい。寝ている間に外れてしまったようだが、どんな寝相をすればあんな遠くまで飛ばせるのだろう……。
それを拾っておデコにつけて「わーい……」と気の抜けた喜び方をするフロン。アイマスクには無駄にリアルな猫の双眸が描かれており、まさか、これをつけたせいで猫耳や尻尾が生えてきたんじゃないだろうなと、有り得ない妄想を抱いてしまう。
「……って、フロン! その耳、その尻尾!」
「みみー……ですか」
眠たげな声で、いわゆる『聞かざる』のポーズをとるフロン。違う、そっちじゃなーい! ヒト科の耳を押さえているフロンに、私は茶色と黒の縞模様になっている尻尾を指差した。
指にうながされてフロンの寝ぼけ眼が尻尾と向き合う。目が合った瞬間、尻尾がまるで『こんにちわ』と言わんばかりにくねくねと揺らめく。普通の少女なら自分の身に降りかかった異常を自覚して大いに慌てるところであるが、このフロンときたら、
「ああー……これは生えちゃってますねー……」
と、妙に感心したような口ぶりで答えるだけである。
私は額を押さえてうめいた。
「……それだけ? こんななって驚いてないの?」
「いえ、じゅーぶんに驚いてますよお。この前ネコさんに『あなたはのんびりしてていいですねえ、私もあなたのようになりたいですよう』と語ったのですが、まさか本当にネコさんの耳と尻尾をくださるなんてー……これは後でお礼を言いませんとー……」
『のんびりしてていいですねえ』ってこの娘が言うのか……。しかも、猫耳と尻尾を望んでいたなんて、ますます私は彼女のことがわからなくなってくる。
私は溜息をついた。
「しかし参ったわねー……。こんな姿を周りに見られたら学校中が大騒ぎになるだろうし」
そのとき、フロンの猫耳と尻尾がピンと跳ねた。眠気が一気に覚めたようで、両眼には妙にセコい光がちらついている。
「そ、そうですよお。このようなおぞましい姿を学校の皆に見せるわけにはいきません。元に戻るまで、私はこの寮部屋で養生をー……」
「……いや、やっぱりフロンは学校に行くこと」
「ええー……」
フロンがうなだれると同時に耳と尻尾が垂れ下がる。このような落胆のしぐさに惑わされてはいけない。解決策はまったく思いつかないし、このルームメイトは気分転換としてふらりと散歩に出る癖があるのだ。それが見られた瞬間、仮病と隠し事がいっぺんにばれてしまう。どうせ知れ渡るというのなら、普通に学校に通わせたほうがかえってマシなのかもしれない。私の精神的負担の軽減のためにも。
朝支度をしている間も、フロンはまだぶつくさと言っている。
「絶対に私は休んだほうがいいと思うんですよ。ぜーったいに。私、この状況についてまったく説明できないですし、そうなれば必然的に蝶子さんに回答を求めてくると思うんですよー……。そうなったら蝶子さん、何と答えるつもりなんですかー……」
「私も知りようがないから正直に答えるしかないわよ。ほら、ぷちシュー。ちゃんと学校に通えたらもう一個あげるから、まずはきちんと制服に着替えて授業を受けること」
「もぐもぐ……約束ですよ……」
貴重なおやつが減ってしまったが、その程度で彼女を懐柔できるというのなら安いものだ。……って、いやいや! 普通の女の子は食べ物に釣られなくても、ちゃんと学校に通えますから!
ぷちシューで機嫌をよくしたフロンだが、一難去って、私たちは次の一難とぶつかった。
「蝶子さぁーん、尻尾が邪魔でスカートがー……」
フロンのプリーツスカートは後方が尻尾で持ち上げられて、どこぞのラッキースケベ少女よろしく、おぱんつを丸見えにさせているのでした……。このような痴態では、さすがのフロンも物申したい気分にもなるだろう。だが、表情だけを見るとあまり恥じらっているようすはなく淡々としているように思えるが。
私も頭を抱えた。
「うーん……わかった。とりあえずスカートの下にスパッツ穿きなさい。これで少しは恥ずかしくなくなるでしょ。後はなるべく尻尾がせり上がらないように気をつけて」
「気をつけてって、具体的にどうすればいいんですかー……」
「ぎゃーっ! すがりつくな、ブレザーの裾ひっつかむな! 伸びるでしょうがッ!」
どうしたらいいって、こっちが聞きたいくらいよ!
☆
やはり思ったとおり、学校中は大騒ぎになった。
食堂でも、学校でも、猫耳と尻尾を生やしたフロンは注目されないことはなかった。そりゃそうだろう。私だって第三者の立場になったら確実にぎょっとしていたに違いない。
まあフロンが注目されるのはいい。問題は、その奇異な視線を一緒にいた私にまで向けられているということだ。いつの間にか、すっかりフロンの保護者として認知されてしまっている私は、ルームメイトの少女に対して説明を果たす義務があるように思われていたのだ。無言のインタビューに対して私は素知らぬ顔を決めることにした。私にだってわからないし、尋ねる勇気のないものにわざわざ答えるには疲れすぎていた。私の顔を見て、周りの生徒は尻込みしたらしい。よっぽどすごい表情をしてたのだろう。不要にわずらわしい思いをしなくて済むのはありがたいが、その反面、少しむなしい。
私とフロンはクラスが違うので、授業中は周りのやかましさから解放される貴重な時間となった。だが休み時間になると話題はまたしても猫になった少女の話に戻る。クラスメイトの相葉汐音さんがおずおずと声をかけてくる。
「ねえ、芹沢さん。あなたのルームメイト……一体どうなってるというの?」
私に聞かれても困るってば……とは言えず、私はもう少しマイルドなかたちで応対した。
「わからないわ。朝起きたらあんなふうになってたから。しかも私たちの心配をよそに、あいつは全然気にしてない感じだから……」
「ちょーこさん、すごいことになりましたよー……」
そう言って廊下から顔を出してきたのは、噂をすれば……の猫少女だった。すごいですよ、とのたまっているが、現れた格好からして、すでにものすごいことになってしまっている。
私のアドバイスに誠意が欠けていたせいなのだろう。フロンのねこしっぽは興奮しきって、ぴんと反り立っている。スカートの後ろが勢いよくまくれあがり、背後の少女たちにぷりちーなお尻を完全にさらしてしまっている。まったく、スパッツを穿かせたのは英断だったと思う。
だが、フロンは自分の状態などお構いなしに私にせっついてくる。拒否したところで休み時間が無駄に削がれるだけだ。彼女の興奮を冷ますためにも、私は仕方なく応じることにした。
「それで、一体何がすごいというのよ。フロン」
「見ててください。私なんと、しっぽでものをつかむことができるようになったんです!」
そう言うと、フロンはくるりとぷりちーなおしりを私に向けて、持っていたペンケースに尻尾を近づけた。うまくからめようとするが失敗し、三度目のチャレンジでようやくペンケースを宙で巻きつけることに成功した。
「ど、どーですか蝶子さん、ほめてくださーい……」
フロンの声が震えている。それ以上に尻尾がぷるぷるとわなないている。フロンの渾身の芸は三秒とももたず、フローリングにペンケースを落とすかたちで終わった。もともと、猫の尻尾はそういうふうに作られているわけではないから致し方ない。
「うーうー……」
なんか必要以上に落胆してしまっているフロン。そこ落ちこむところ? と私は正直に思った。
「うー……蝶子さんのせいですよお。蝶子さんの応援パワーさえあれば、もっと本来の力を発揮できたはずなのにー……」
私のせいかい。あまりにもくだらないぶん、責任転嫁されてもそれほど腹は立たない。それにしても猫になってもホント、マイペースな娘ね……。
そのとき、私の心に暗いカゲが降り立った。私は怖い顔とお嬢様っぽい見てくれのせいで、周りから誤解を受けて、わだかまりを少しでもほぐそうと普通の人以上に心を砕いた。砕く必要があった。それなのに、このルームメイトは突然、異なる姿になってしまったにも関わらず、まったく自然体を崩そうとしない。よっぽど肝が据わっているのか、周りが見えていないのか。
いずれにせよ、私との落差を思い知らされて
、無性に羨ましくて、無性に妬ましくて。
彼女に散々振り回された鬱憤が、それと直結した結果。
私は、フロンの尻尾をむんずと掴んでいた。
「……ひあンッ!? ……っう、う……」
フロンの全身が痙攣して、今まで聞いたことのないような悲鳴があがった。
驚きのあまり私が尻尾から手を離してしまうと、フロンは四つん這いになり、そのまま動かなくなってしまった。私の身体から血の気が引いていくのを感じ、慌ててフロンのもとにひざまずいた。
「ちょっと、フロン、大丈夫? ……ッ!?」
次の瞬間、ものすごい勢いで私の手が掴まれ、重力の神様にもてあそばれたかのように私の身体はフローリングの床の上で仰向けになっていた。ひっくり返る一瞬、かっと見開かれた猫の双眸が視界をよぎったのは気のせいだったのだろうか。
私は天井を見ていなかった。天井が見えるはずの箇所にフロンの上半身があったからだ。そのフロンはなんと普段から半閉じであったまぶたを完全に開いており、私の顔をまっすぐに見つめていた。
「……にゃ、にゃんてことしてくれたんれすか、ちょーこしゃん……」
まるで古典的な酔っ払いのごとく、フロンのろれつが回っていない。私は息を呑んだ。今のフロンは両眼を潤ませており、顔色は赤よりもピンクに近い。マタタビを食らった猫が擬人化すると、まさにこんな感じになるのだろうか。
「ちょーこしゃんがしっぽひっぱるからっ、わらし、にゃんにゃんしないとおしゃまらないからだににゃってしまっらではにゃいですかっ……」
「フロン、待って、もうすぐ授業……」
私の抗議は、フロンの四つの耳にまったく届いていないようだった。脱出をはかろうともがくも、押さえつける彼女の腕は普段からは想像もつかないほどの力に充ち満ちて、まるでネコ科の肉食獣がエモノを押さえるかのようであった。私が心臓の表面に冷や汗を増やす間にも、フロンはどんどん顔をつめてくる。
「せきにん……とってくださいよ」
このときだけはまるで酔いを感じさせないささやきだった。もともと声質はいいから、なんとも魅力的に響いた。私はそのとき、フロンのぱっちり開かれた両眼の、その瞳孔が猫のように小さくなったのを目撃した。それと同時に私の心臓もきゅっと縛られた心地だった。
そして、鳴り響く始業のチャイムとともにフロンは身体と唇を重ねたのだった……。
☆
「うわわ……」
朝の空気にさらされ、私の意識はいつの間にか気だるげな寝姿に移っていた。今までの猫フロンのやり取りがすべて夢とさとったとき、私は安堵と疲労感でさらにベッドに沈み込みたくなった。まったく、なんて夢を見てしまったのだろう。
はあ、そうよね。いくらフロンでもいきなり猫耳や尻尾が生えるはずないもの。
寝汗に不快感をおぼえつつも、いつもの日常に戻れるというのなら何のことはない。それでも、やはり不安をおぼえてしまったので、私はルームメイトのベッドに近づき、そっと掛け布団を引き剥がした。
私は心の底からホッとした。丸くなって眠っているフロンについている耳はヒト科のものだけであり、スパッツもきれいに穿かれている。尻尾があれば、そのぶんお尻の部分の素材が盛り上がるはずである。リアルな猫の目のアイマスクが相変わらず吹っ飛んでいるが、それは別にどうでもいい。
「ん、んー……」
身じろぎをし、まぶたが重たげに開かれる。私と目が合って五秒後、ようやく身体を動かさなきゃと思ったのか、ゆったりと上半身を起こす。今にも落ちそうな勢いで頭をあっちやこっちへぐらぐらさせているフロンに私は呼びかけた。
「おはよう、フロン」
「あー……ちょーこさーん、おはようございまー……」
それ以上は続かなかったらしい。そのまま身体が崩れてしまう前に、私はフロンのショートヘアを撫でるかたちで、彼女の頭を支えた。夢の一件の後だと、いつものフロンの存在がとてもありがたいもののように感じられたのだ。撫でられて、フロンも嬉しそうに小さく微笑む。
「えへへー……現実でも蝶子さんに撫でてもらえるなんて幸せですー……」
「どんな夢を見てたの?」
私が聞くと、フロンの表情は恍惚の海を泳ぎだした。
「私が猫になって、蝶子さんが私の身体をこれでもかって撫で回してくださる夢だったんですー……。そのときの蝶子さんの手と指のテクニックがそりゃあもう素晴らしくて、私、何度も発情の声を上げてしまいましたもーん……」
前言撤回! 彼女をありがたい存在であると少しでも思った私が馬鹿でした。
やはり、彼女のことはよくわからないんだわ……。
「蝶子さん、どーしたんですかー……?」
がっくりと肩を落とす私に、フロンが気遣わしげに声を投げかけてくれる。私は「なんでもないわ」と答えて、さっさと朝じたくに移ることにした。
「あらフロン、今日は珍しく素早いじゃない」
「今日はいい夢見てメンタリズムが絶好調ですからねー……。そりゃ動きたくもなりますよ~……」
「それは結構だけど、その夢、絶対に人前では言わないでよね」
「はい。私と蝶子さんだけの秘密ですねー。朝ごはんのおかず一つで手を打ちましょうー……」
「ちょっ、口止め料要求する気!?」
驚き呆れつつも、私はこれから始まるであろう何気ない一日に心を踊らせつつあるのを感じていたのだった。