生きていてもいいですか
私が目を覚ますと、見知らぬ白い天井が見えた。
(あれ、ここ何処かしら?)
何処かはわからないが、自宅ではない。
自宅なら天井に星の飾りが付いていて、隣に夫と娘が眠っているはず。
周りを見ると白一色の無機質な部屋。
そこに看護師さんがやって来た。
「あれ、目が覚めましたか。
どこか痛いところはありませんか」
私が無いというと、先生に診てもらいますねと出て行った。
その後に来た医者に時間をかけて問診され、ようやく私は解放された。
「では帰宅して大丈夫ですが、定期的に診察を受けてください。
また頭痛や不調があれば来てください」
医者の事務的な言葉で、退院しても良いとわかる。
一体何の病気だったのだろうか。
さっぱり覚えていないが、夫に聞けばわかるだろう。
いつから入院していたのかわからないが、とにかく早く家に帰って家事をしないと、夫は何も出来ない人だから。
家族が迎えに来ると聞き、私が待っていると夫ではなく、父と母がやって来た。
父も母もしばらく見ないうちにすっかり老け込み驚いた。
それに父母は夫を嫌っている。
わざわざ手伝ってくれるなんて、どうしたのかしら。
「あれ、旦那は来ないの?
仕事が忙しいのかな」
私の言葉に母が何かを言いかけて、父が慌ててそれを止める。
「そう、孝俊くんは仕事が忙しくて来れない。
家も散らかっているので、実家で暫く休んでくれということだ」
「じゃあ、なおさら早く帰って家を片付けなきゃ。
家に連れて行ってよ」
「いや、お前の体調もまだ戻っていない。
とにかく暫くお父さんとお母さんと暮らそう」
そんなことを言われて不安になる。
「私、覚えてないけどそんなに重病だったの?
いつから入院していたの?」
「かなり重い病だったわ。
だから3年程、あなたの家には帰っていなかったわよ」
母が少し悲しげに言った。
3年も!
じゃあ誰が夫や娘の翠の世話をしていたの?
私の言葉には誰も答えず、無言のまま父は車を走らせた。
実家に着くと、元の自分の部屋に行くが、最近まで使っていたような生活感がある。
しかも、水商売で着るような派手な服や下着、贅沢なアクセサリーが所狭しと乱雑に並んでいる。
不思議に思い、「お母さん、ここ誰かが使っていたの?」と聞くと、いいえ、あなただけしか使っていないわと返事が来た。
何が起こっていたの、怖い、
私は夫に電話をかけようとしたが、携帯がない。
聞けば紛失したという。
家の電話で掛けると、使われていないと機械が答えた。
父が来て、そのうち話すから少し休みなさいという。
私は不安感でいっぱいになりながら、ベッドで休んだが、そこは私のつけたことのない香水や化粧の匂いが充満していた。
それから暫く父も母も忙しいと言って捉まらない。
テレビを見ると、私の記憶から3年は経過していた。
娘の翠はもう小学生のはず。
早く会いたい。
家を訪ねたいが、お金も持たせてもらえず、外に出られないように外からの鍵までかけられていた。
おまけに家から外を見ると、怪しげなチンピラがウロウロして、私を見ると嬉しそうに手を振ってきた。
気持ち悪い。
それから暫く待ったが、両親とも話してくれないので私は事情を教えてくれない限りご飯を食べないとハンガーストライキをした。
さすがにこれには参ったのか、次の日に両親は話をしてくれた。
それによると、3年前に私が精神病にかかり、家事や育児が出来なくなると、夫は私にDVを行い、それを見かねた両親が私を引き取り、離婚させたという。
「嘘よ!
お父さんもお母さんも弁護士でないあの人を私の夫と認めたくないから別れさせたのじゃないの。
だいたい翠の親権はどうなっているの」
我が家は名門の弁護士事務所であり、父は一人娘の私の婿に弁護士を強く勧めていた。
だけど私はそれに反発し、会社勤めで知り合った夫と恋愛結婚した。
それから両親は夫を嫌い、孫の翠も可愛がらなかった。
「離婚届けの写しがある。
翠は、お前がそういう状態だったから相手に親権を渡さざるを得なかった」
お母さんが面倒を見てくれればと口から出かかったが、自分の趣味を優先し、孫に関心のないこの人が面倒を見てくれるはずもない。
「じゃあ、あの人に会って聞いてくる。
もう私も治ったし、復縁するわ」
そもそも夫は私より飄々とした物事にこだわらない性格だ。
DVとは一番程遠い人だと思う。
「いや、アイツとは絶縁し、今後お互いに関わらないと約束した。
住所も変わり、連絡の手段はない」
それを聞いて私は絶望したが、夫も娘も死んだ訳では無い。
必ず見つけてみせる。
それから私は両親の言うことに納得したようにみせかけ、外出し、父の仕事を手伝うようになった。
そんなある日、外出先で家の周りにいたチンピラに腕を掴まれた。
「佳純、オレだ。
探したぞ。身体が疼くだろう。ホテルに行くぜ。
小遣いも頼むぞ」
変なことを言う男に怖気が立ち、交番に駆け込む。
チンピラは追いかけては来ずに、「佳純とぼけるな、また新しい男を作ったのか」と叫んでいた。
私は、もう父や母には何も言わずに黙って働き、家事をしていた。
すると両親は気を許したようで、私の携帯や通帳を渡してくれた。
携帯を見ると、友人の名前が全て無くなっていて、知らない名前が登録されている。
その間に来たメールもセックスやクスリ、カネの話ばかりで薄気味悪い。
私はその携帯を机の引き出しに入れて、新しい携帯を買った。
そして、通帳からお金を出すと探偵に夫の行先を探してもらう。
いくらかかってもいい、早く見つけてと訴えておいた。
父母はその頃から見合いを勧めるようになった。
まだ30代の前半だから、子供も大丈夫よと言われるたびに、私の子供はもう居ると思う。
探偵から連絡が来たのは数ヶ月後。
疲れた様子で、住所を教えてくれた。
離れたところだったが、休日に行ってみる。
娘はどんなふうになっただろうか。
可愛くなっているに違いない。
親が何と言っても復縁し、一緒に暮らすつもりでそこに向かう。
その住所の近くに来ると、母と子で手を繋ぎ、お父さんが子供を背負っている仲良さそうな家族が前を歩いていた。
羨ましい、私も復縁したらもう一人くらい産もうかしらと思いながら後ろを歩くと、私の目指していた家に入る。
えっ、どういうこと?
私は外から窓を通して家の中を窺う。
リビングルームで寛いでいる父親は私の夫、母親らしき女性に話しかけているのは私の娘。
どうして私が居ないのに家族団欒しているの!
怒りと絶望で何も考えられなくなり、私は呼び鈴を押す。
玄関からは、可愛らしい若い主婦と幼い女の子が出てきた。
(翠!)私は駆け寄って抱きたかったが、私の顔を見ると女の子は大声で泣き、主婦の後ろに隠れた。
「どちら様?」
若い主婦は翠をあやしながら、怪訝そうに私に聞く。
そこに「どうした」と出てきたのは夫だった。
以前と変わらない飄々とした表情で、彼は言った。
「元気になって良かったな。そのうち来ると思ったよ。
少し話をしようか」
少しこの人と話をしてくると言い残し、近くの喫茶店に連れていきコーヒーを頼むと、彼は話し始めた。
「どこから話をするかな。
多分ご両親からは何も聞いていないのだろうな」
私は親から聞いていることを伝えた。
「そうか。俺がDVをして別れたと言ったか。
いかにもそういう話にしそうだな」
それからの彼の話は驚くようなことだった。
3年程前から急に私が出張や残業が増えたと言って家に帰らなくなり、娘の世話もしなくなったこと、
育児の疲れや育休を取り戻すためかと、彼が休みを取りカバーしていたが、私の浮気相手の奥さんから連絡があり、浮気がわかったこと、
夫婦で話し合ったところ、私が反省すると言ったため、和解したものの、1ヶ月程でまた元の生活スタイルに戻り、別の相手と浮気を始めたこと
「あの頃は苦しかったし、かなり喧嘩もしたんだが記憶にないかい」
「3年前から全然覚えてないわ」
「君は時々頭を押さえて苦しそうにしていたよ。
そして、人格が変わったように、泣きながら反省して、家庭と子供を愛していた、元々の君に戻ることがあった。
それで病気ではないかと思い、医者に行くことを勧めた。
元の君に返ってくれれば、元通りに家族3人で暮らしていくつもりだった」
「当時の私は行かなかったのね」
「君は医者に行くことに同意したけれど、そこから君の両親が干渉してきてね。娘を気がおかしいというのか。お前がモラハラやDVをしているから、そこから逃れようとして外に助けを求めて浮気をするんじゃないのかと責められてね」
「それでどうなったの」
「俺も翠の世話もして、荒れる君と話し合いもし、仕事もするというので、精神的に追い詰められていた。
今から思えば申し訳ないが、君の親御さんと喧嘩になって、離婚という話が出た。
知っての通り、君の親は俺達の結婚に反対だったし、君が帰ってきて弁護士と結婚してほしいと願っていたからね」
彼は疲れたように溜息をついて、コーヒーを飲んだ。
「でも、その時の君に聞くと、別れない、アンタや翠と一緒にいると言ったのでまだ俺は頑張った。
でも、君は反省すると言いながら、浮気を繰り返し、医者にも行かない。
おそらく医者に行って病気と解るのが怖かったのだろうな」
私は彼の顔も見られず、下を向いて聞いていた。
身体は震えていたし、顔は真っ青だったと思う。
「時々は家事をして翠の面倒をみる君を見て、いつかは戻ると信じていたが、それが打ち壊されるときが来た。
保育園で翠の身体にあちこちアザがあると言われて見ると、叩かれた跡だった。帰宅して翠に聞くと、悪い子だからと、ママにお仕置きされた、もうママと居るのは嫌だと泣き叫ぶ。
その時、君は居なかったが、携帯を忘れていた。
悪いと思いつつ、中を覗かせてもらうと、翠を殴る、蹴る、罵倒する動画があった。
他にも何人もの男に抱かれる姿もあったよ。
クスリをしていたのか随分とよがり狂っていたね」
「もう止めて!」
私は叫んだ。
周りの人がこちらを見る。
「大きな声を出さないで。
君はすべてを知る必要がある」
彼は厳しい顔で言う。
「もうその先はあまりない。
帰ってきた君に、動画を見たことを言い、離婚すると告げた。」
すると、アンタみたいな冴えない貧乏人とはやっていけないわと、いつもの君の親御さんと同じ言い方をして、別れてやると言ったよ。
それを聞いた君の親は大喜び。
俺は慰謝料と養育料をさっさと渡され、今後お互いに絶縁すると言う念書を書いて離婚した。
その後、風の噂で聞いたところでは、君の行状は更に悪化し、父親の弁護士事務所にも影響するようになったため、やむなく病院に行ったら、脳腫瘍ができていて、そのせいで性格の変容や記憶障害が起こったそうだ。
詳しくは医者に教えてもらうといい」
彼は冷えたコーヒーを飲み干し、私に通告した。
「そういう訳で、君は俺と翠には関われない。
さっき気づいたかもしれないが、俺は再婚した。
翠を抱えて苦しい時に親身になって世話をしてくれた保母さんだった人だ。
もう一人子供もできて、幸せにやっている。
君も病気が治ったのなら他で幸せに生きてくれ」
「そんなこと言われても納得できない!
私のせいじゃない、病気だったのよ!
元の家庭に戻らせてよ」
「君のせいではないかもしれないが、俺と翠は君の姿でされたことを覚えている。
既に時は流れ、今更元には戻れない。
お互いの道を生きよう。
君には大事にしてくれる親御さんもいるだろう。
ほら、ちょうど迎えに来たようだ」
彼はそう言いコーヒー代を払うと立ち去った。
代わりに来たのは私の両親。
この人たちが干渉しなければ、さっさと医者に行き、元の家庭を営めていたかもと思うと怒りしか出ない。
その後、実家に帰り、思い切ってしまってあった携帯を出してきて動画を見ると、翠を虐待しているものや複数の男たちとの見るに堪えないプレーのものが幾つもあった。
それを見て、すべてを思い出した。
確かに私がやったことだが、スクリーン越しで見るように現実感がない。
誰かに操られていたような気分だが、でも確かに私が決めて行ったこと。
目眩がして、気分がわるくなり胃の中のものをすべて吐き出す。
夫の話の通りだった。
母親が心配して寄ってくる。
(来るな!お前達のせいだ)
何故か激しくそう思った。
検査の時に、医者に尋ねた。
親から話すと言っていましたがと言いながら話してくれたのは、夫の言う内容と同じ。
違っていたのは、性格の変容は子供の時からの抑圧への迎合や反発が出たのだろうということ。
私はずっと親から男女交際を禁じられ、純潔を強要され、弁護士を婿に取れと言われてきた。
おそらくそれヘの反発と親の言うことを聴かなければという深層心理が出てきたのだろう。
そして親からされた虐待を子供に繰り返してしまった。
やはり両親のせいだった。
しかし、もう夫や翠には会う資格はない。
それからの私は抜け殻だった。
私のせいではないのだが、会わせる顔がないし、やったことを考えれば生きていることすら恥ずかしい。
私は義務的に働き飲食をして、機械のように生きている。
勿論親の勧める再婚なんかしない。
私の生き甲斐は、ただ隠し撮りした夫と翠の写真を部屋で眺め、そこにいる女の代わりに私がいることを妄想することだ。
そう今の境遇は悪い夢。
夢が醒めれば、夫と娘が隣で眠っているはず。
私は毎晩そう思いながら眠りにつく。