いらっしゃいませ
俺の名前は水野 優斗。何の変哲もない地方大学を卒業してそのまま会社勤めをしている22歳だ。要領も悪いが勉強しかできない奴だった事もあり、会社でも仕事に追われる毎日だが、それでも不器用ながらに今日を何となく生きている。
そんな中、残業を終え終電の電車に駆け込む為に走っていた──のだが。
「間に合わなかった.......」
今までこんな事は無かったのだが、いざ経験してみると絶望感が限りなく降ってくるのである。駅周辺の店もほとんど閉まっており、いよいよ俺は途方に暮れていた。
「そういや、新しくネカフェができたって聞いたな。行ってみるか」
誰もいない駅前で小言を呟いた後、俺はそこを後にした。大丈夫。時間を潰す場所さえあれば明日の仕事だって間に合うし.......仕事?
「俺、何の為に生きてんだろうな」
走る足が段々と遅くなり、急に俺は涙を堪えるのに必死になっていた。俺には昔から楽しいという感情が無いに等しいのだった。
いや、確かにそれはあるのかもしれないが、やるべき事や周囲からの期待に圧迫され、楽しむ余裕が生まれなかったと言った方が正しいのかもしれない。
「会社に向かうだけの人生なら、もう.......」
俺は跪き、地面を何度も拳で叩いた。痛烈な痛さと共に平凡なリアクションしかできない自分が悔しかった。もっと輝ける世界に行きたい。そう思っていた矢先の事だった。
「大丈夫ですか?」
一人の女の子の声がした。顔を上げるとそこにいたのは、儚くも美しい白い制服を着た眼鏡っ子だった。彼女の言葉を聞いて急に恥ずかしくなる。
「えっ、いや.......その.......」
「慌てなくていいですよ。私、喫茶店やってるんです。」
「はぁ」
「良かったら一服していきませんか?リラックスしたら、お話聞かせてください」
彼女に連れられ、案内されたのは噂のネカフェ──ではなく、個人経営と思われるあまり見かけないタイプの喫茶店だった。喫茶店と言う割には繁華街の目立たない地下道を通りその奥にずっと行った所にあるので、隠れ家的な場所なのかもしれない。少し胸が高鳴った。
「カフェラテでいいですか?熱いの」
「ええ、お願いします」
俺は一体何故ここにいるのだろう。社会の歯車として動かされていた日々とは全く別のふんわりとした空間にいる。荒く手厳しい場所の方が俺には合っているはずだ。ともかく、出された飲み物をさっさと飲んでお金を払ってから出ることに決めた。
「お待たせしました~」
「いただきます」
俺は少し顔を震わせ、カフェラテを啜った。口いっぱいに広がる苦味と酸味が自然と心を落ち着けていた。早く出ようとしていた自分もこれには癒されていた。
「これって特別な焙煎とかされてるんですか?」
「いえ、普通のコーヒー豆です。でも、それだからいいんです」
「それってどういう」
彼女はふっと息を吸って答えた。
「『特別になりたい』『素晴らしくありたい』って気張らない豆にも必ず良さはあるはずです。人間でも同じだと思います」
彼女の言葉にドキッとした。俺もそうだ。自分は特別で完璧じゃないと気が済まない所が幾つかあったのだ。だからいつも失敗続きでリカバリーの方に時間をかけてしまうのだった。
「あの」
「どうしました?」
「普通になるにはどうすればいいんですか?」
彼女は面食らった顔をした後、少し笑った。
「私は特別になりたかったですよ?でも、お客様にコーヒーを淹れる事しか今はできないので」
俺はしみじみともう一回目の前のカップに口を付けた。先程と変わらず、質素ながらも上品な香りが俺の心を包み込んだ。お前は頑張り過ぎだ。休め。と諭されている様に。
「そういえば深夜営業なんですね。喫茶店なのに珍しい」
「そうですよね。お仕事に疲れた人や行き場が無くなった人の為に一杯を提供しているので。だから夜にしか開けないんです。」
「なるほど」
「元気になってもらう為に、色々イベントとかもやってるんですよ?でも来客の方が少なくて、いつも赤字ですけどね」
そう言って彼女はまた笑った。今度の笑いは少し湿気がこもったような笑い方だった。
「素晴らしいと思いました。俺、仕事に打ち込んでてもそこまで考えてなかったです。目の前の事ばかりに夢中で.......」
「いえいえ、真剣に現実と戦う貴方は十分素敵だと思いますよ」
彼女と話していると段々と肩の荷が降りてくるようだった。彼女、いや、この店の力になりたい。俺の中に何か熱いものが込み上げてきた。
「俺で良かったら、この店に雇ってくれませんか?皿洗いでも店掃除でもやり遂げます」
「でも、見た感じ会社に務められてるんですよね?今の仕事を大事にしてください」
「ぐっ.......」
でもここで引き下がる訳にはいかなかった。俺は既にこの店の虜になっていた。優しく、清らかな楽園のような雰囲気のこの喫茶店が。
「もし雇ってくれれば会社だって辞めてやります。俺には何となくですが、この店の力にならないと駄目な気がして」
「.......そこまで言うのなら。丁度この店でも人員募集をしてたんですよ」
「なんの仕事ですか?」
彼女は言いにくそうな顔をしながら一息ついて答えた。
「アイドルのマネージャーです」
「.......はぁ?」
俺の顔は一瞬で歪んだ。突然のアイドル発言に仕事で疲労困憊な脳は既にショート寸前だった。
「うちの従業員から『この店は地味過ぎる』との声を頂き、どうしてもという事で日付を決めて不定期ライブしてるんです。毎度の事お客様は来ませんが」
「あの、この店は静かで雰囲気が優しいからいいんです。いきなりそんな騒々しいお仕事は.......」
「しかし、厨房も既に間に合っているので.......唯一の不安はこれしか無いんです」
俺は顔をしかめたが、折角あの仕事場から抜け出せる機会を手に入れた俺は迷った挙句、答えた。
「──やります。マネージャーでも何でも、俺にできる事なら」
「わかりました。また後日、連絡させて貰いますね」
「ちなみに店員さん、お名前は何て言うんですか?」
彼女は飲んだカップの片付けをしながら答えた。
「そう言えば言ってませんでしたね。私は文月 美奈です。ここの管理人をしてまして」
「つまりオーナーさんって事ですか」
「はっきりはしてないですけど、そんな所ですかね」
「驚いた」
俺は席を立ち、会計を済ませた。癒しを授かったからか、身体中から元気が湧いて出るような気がした。店を出た時、彼女は言った。
「もし良かったら、仕事の事じゃなくてもまたいらしてください。随分お疲れのようなので」
「いえ、もう大丈夫です。落ち着きました」
彼女は少ししゅんとしているようだった。久しぶりの来客だったのだろうか。お見送りまでしてくれるとは良心的な店だ。
「言われなくてもまた来ますよ。ここ、俺にとっての楽園なので」
彼女の顔がぱあっと輝いた。案外ポーカーフェイスのように見えて表情でわかってしまうのかもしれない。
この世の楽園というのは案外身近にあるものなのかもしれない。