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彼女は雨がよく似合う

作者: 未礼




 雨粒が滴る窓ガラス越しに彼女の姿を見つけると、いつも胸が高鳴った。

 はやる気持ちを抑え、軒下で傘をたたんで傘立てに置く。店の扉を開くと、最初に目が合ったのは店長だ。彼はいつものようににやりと笑った。

「いらっしゃい、一陽(いちよう)君」

「こんにちは」

 にこりと笑って、そのまま視線を彼の少し右へやった。

「こんにちは、琴利(ことり)さん」

「こんにちは、春木さん」

 いつものように小さな声で言って、彼女はその顔に笑みを浮かべてくれた。

 秋の長雨に体を震わせながら暖かいコーヒーを求めてふらりと入った喫茶店で、彼女に一目惚れをして早半年。

 初めは挨拶も小さく会釈をしてくれるだけだった。

 通い詰め、嫌がられない程度に話しかけ、共通の話題を見つけてからは少しずつ彼女からも話をしてくれるようになった。

 そして最近ようやくだ。笑顔を見せてくれるようになったのは。

 にやけそうな口元をぐっと引き締めて、ふたりの前のカウンター席に座る。

「コーヒーと今日のケーキで」

「かしこまりました」

 琴利は笑顔のままケーキを取りに店の奥へ入っていった。その後ろ姿に見惚れていると、店長の笑い声が聞こえて慌てて視線を戻す。

「雨、続くね」

「そうですね。でも俺、雨好きですよ」

 雨の日は、琴利が店に出る。

 生まれつきの体質で太陽に当たることができないほど肌が弱いらしい彼女は、いつも雨の日だけ、一緒に暮らしている叔父である店長の店を手伝っていた。

 祖母がフランス人だという琴利は、透けるような白い肌とうぐいすのような薄い茶色の目をしている。染めていないらしい髪も淡い茶色だ。

 まるで雨で色が流れていってしまったような儚さだ。彼女には雨がよく似合う。

 店長が入れてくれたコーヒーと琴利が持ってきたケーキを、礼を言って受け取った。

 ケーキは琴利が毎日ワンホールずつ焼いている数量限定のものだ。今日はイチゴが大量に乗っている。

「これ、初めて見るね」

「はい、最近作ったことのないものにも挑戦してるんです」

「へぇ」

 琴利が作ったケーキならどんなものでも食べられる自信があるが、たくさんの種類が食べられることも嬉しい。最近の彼女は色々なことに積極的だ。何かを始めてみたとよく聞くようになった。

 ケーキをフォークですくって、ひとくち口に含む。彼女に惚れているという贔屓目なしでも抜群に美味いケーキが、少し緊張した顔でこちらを伺う彼女のその上目遣いで五割増しで美味い。

 頬に手を当て、顔をとろけさせた。

「美味しい」

「ありがとうございます」

 一度気を許すととことん許してくれるタイプなのかもしれない。最近まで一度も笑ってくれなかったことが嘘のように、今日の彼女はずっと笑顔だ。

 そんな彼女の口元から覗く、ちょっと尖った犬歯がそれはもう可愛いことに気付いた。琴利目当ての客を何人か見たことがあったが、彼女はこんなところまで可愛いだなんて知っている男は、自分以外にはいないだろう。

「ここ四日ほど雨降りなのに君が来ないから、どうしてるんだろうって琴利と話していたところだったんだ」

 店長の言葉に思わず笑う。確かに、雨が降っていれば多少無茶をしてでもここに来ていた。雨が続いているのに三日も四日も来ないことは珍しかっただろう。

「昨日まで仕事で一週間、北海道に行ってたんです」

「へー、忙しないねぇ君は。この間もアメリカに行ってなかったっけ?」

「あれは一泊三日の弾丸で大変でしたけど、今回はかなりゆっくりした日程でしたよ」

 仕事半分、プライベート半分の旅行だった。自営業だからこそできることだ。

「それじゃあ、行きましたか?」

 期待を込めた目で琴利が見つめてくる。主語のないその言葉でも、彼女が何を言いたいのかよく分かる。にっと口の端を上げてみせた。

「行ってきたよ。北の森美術館」

「今って……」

「ジョゼフルーテ絵画展」

 琴利が口元を手で押さえ、それでも抑えきれなかった感動が「いいな……!」という声に滲み出た。

 これがふたりの共通の話題だった。

 元々美術館通いを趣味にしていた一陽が、喫茶店の壁に飾られている絵画のレプリカの話をしたのがきっかけだ。

 少し前に本物を見てきたと言うと、それまで必要最低限の返答しかしてくれなかった琴利が、それはもう見事に食いついてくれたのだ。

 お互いなかなか同じ趣味の人がいない同士それはもう嬉しくて、その日からふたりは一陽が見てきた展覧会の話をしたり、琴利が持っている貴重な本を見たり少しずつ距離を縮め。

 そして今日にいたる。

「どうでした?」

「混んでてゆっくりは見られなかったんだけど、鉛筆画がすごく繊細できれいだったよ。平置きのガラスケースに入ってるのが多くて、二十センチの距離まで近付けるんだ」

 タブレットを取り出して、写真撮影可のブースを撮ったものを見せる。

 画面を指でスライドさせながら、琴利は何度も感嘆の声を上げた。

 彼女がこの画家を好きだということは知っていた。どうにか土産話を聞かせてやりたくてレンタカーを数時間ぶっ飛ばしたが、その甲斐はあったようだ。

「そうそう、お土産も買ってきたんだ」

 毎回展覧会へ行くと、ポストカードをお土産にする。鞄を漁って、北海道名物のお菓子を店長に、ポストカードを琴利に渡した。

 いつもは遠慮をして申し訳なさそうに受け取る琴利は、今回それはそれは嬉しそうに「ありがとうございます」と受け取ってくれた。

「いつも悪いねぇ」

「いいんですよ。いつも美味いコーヒーとケーキをこんな破格で出してもらってるし」

「安いかなぁ」

「安すぎますよ」

 一陽と店長のやり取りに、琴利がおずおずと割り込む。

「あの、開けてみてもいいですか……?」

「もちろん」

 礼を言って、琴利は破かないように慎重に紙の袋を開けている。

 今回のポストカードはわざと用紙を古紙のように加工したものだ。いつもは展覧会の図録しか買わない一陽が思わず自分の分も買ってしまったくらい、とてもよくできていた。

 紙袋から取り出したポストカードをカウンターの上に並べて、琴利は感激の声を上げている。気に入ってもらえたようだ。

「きれい……」

「琴利の部屋の壁がますますポストカードで埋まっていくな」

 にやりと笑って、店長はカウンターに肘を付く。

「一陽君にもらったポストカード、額に入れて飾ってるんだよ」

「もう、叔父さん……」

 恥ずかしそうに視線を俯ける彼女もそれはもう可愛い。

 覗き込むように琴利を見上げて「嬉しいな」と笑うと、彼女も少し困ったような照れたような顔で笑った。

「あの、春木さん。展覧会図録は買われましたか?」

「買ったよ」

「次にここに来られる時、少しだけ見せていただけませんか……?」

 「いいよ」とにっこり笑う。

 実を言うと、土産はポストカードだけではない。今回だけは特別に、彼女にも展覧会図録やその他にも邪魔にならない小さな置物などを買ってきていた。

 しかしそれを渡すのはもう少しあとだ。とあることを企んでいて、それが成功するか失敗するかしたあとに渡すつもりでいる。

 北海道旅行の話で盛り上がりながらも、頭の中はその企みの事でいっぱいだ。

 何人かいた客が帰り、一陽ひとりになる。

 旅行の話もだいぶ落ち着いて、そろそろチャンスだ。

 コーヒーを一気に飲み干して、そして気合を入れて顔を上げた。

「あの、琴利さん」

 気合を入れた割には情けない声が出たが、彼女は気にした様子もなく小首を傾げる。

「ここの近くにデパートがあるでしょ? そこで小さい展覧会をしてるのは知ってる?」

「いいえ」

 首を横に振った琴利に、スマホでそのデパートの催し物のページを見せる。名前は知らない画家だが、動物を描くのが得意らしい。きっと彼女好みのタッチだ。案の定琴利は画面に釘付けになった。

 チャンスだと胸を高鳴らせる。行け、と心の中で自分の背中を押した。

「で、もしよかったらなんだけど……」

 緊張した指先で机の上にチケットを二枚置く。もちろん、その展覧会のチケットだ。

「今日の仕事相手がそのデパートの関係者だったんだけど、その時に券を二枚頂いて。琴利さん、仕事が終わったあと、俺と一緒に行かない?」

 ぱっと、琴利の血色のない白い顔が珍しく朱に染まる。彼女はぱくぱくと口を動かしてから店長を見上げた。

 その視線を受け止めて、店長は困った顔をして首筋をかいた。

「うーん、しかしな……」

「叔父さん、私……」

 琴利が店長の袖を引っ張る。

「行きたい」

 その言葉に、脳内で花火とファンファーレが鳴る。残るは店長という名の保護者のお許しだ。琴利と同じように彼をじっと見上げる。

「店長、今日は一日ずっと雨です」

 今度はふたりの視線を受け止めて、店長は早々に諦めたようだった。

「今から行っておいで」

「えっ、……でも」

 さすがに仕事を放置して遊びに行くことには抵抗があったのだろう。迷う琴利の頭を店長が撫でた。

「常連客はあらかた来てくれたし、今日はもう忙しくなることはないよ。遅くなると心配だし、行っておいで」

 まだ少し不安そうな顔をしたが、琴利は顔を上げて「ありがとう」と店長に言った。それから桃色の頬のままこちらを振り返る。

「春木さん、是非一緒に行かせてください」

「うん」

 裏返った声が出たが、琴利はエプロンを外していて多分気付いていない。

「着替えてきます。少しだけ待っていてくださいね」

「分かった」

 彼女は小走りに奥の扉から家に入っていった。階段を駆け上がる音を聞きながら、徐々に現実味が増す。九割方断られると思っていたデートの誘いが成功した。

 手を振り上げガッツポーズを決める。そんな一陽を硬直させたのは、店長の盛大なため息だ。

 恐る恐る彼を振り返る。睨むというには怖くない目で、しかし彼の顔にはいつものように笑顔は浮かんでいない。

「保護者の前で誘うとはなぁ……」

「す…………すみません……」

「ま、いつかこうなるとは思っていたけどね。……あの子ももうじき二十歳だ。過保護はそろそろ卒業しなければ」

 カウンターに肘をついて寂しそうに彼は言う。それから少し黙って、何かを決心したように一陽の顔を見据えた。

「一陽君、琴利は少し……特殊だ。君が今まで付き合ってきた女の子たちと、同じようにはいかないだろう」

 特殊というのは、肌が極端に弱いことだろう。

 確かに外出などが制限されるし、もし、例えばの話だ、もし、彼女と将来一緒になったとして、子供を産み育てることは難しいかもしれない。しかしそれは彼女に一目惚れし肌の話を聞いた辺りで悩んで、もう吹っ切ったことだ。

「同じようにはいかないこともあるだろうけど、そうしたら出来ることを探していけばいいんですよ。無理をさせたりしません」

 まだ付き合ってすらいないけどと、心の中でひとりごちる。店長は寂しそうな顔のまま頷いて、コーヒーのおかわりを入れてくれた。

「ありがとうございます」

「土産のお礼だよ。彼女、外に出るのは久しぶりだから、無理はさせないようにお願いするよ。それと」

 コーヒーカップに添えていた一陽の手を掴み、店長はぎりぎりと力いっぱい握り締めた。

「二十歳までは正しく清らかに育てると、琴利の母親と祖母と、僕の亡くなった妻と約束したんだ。……分かっているね?」

 さっきまでの寂しそうな顔はどこへ行ったのか。手を出したら殺してやるとでも言いたげに、店長は一陽を睨みつける。何が過保護は卒業だ。思わず空いている手を上げた。

「もちろんです……! 店長、さっきから話が飛躍してるけど、俺はまだ片思いです……!」

 もちろん嫌われているとは思っていないが、まだまだスタート地点だ。一転、憐みを込めた目で一陽を見つめて、店長は締め上げていた手首を離してくれた。

「信用しているよ」

「はい」

「君だから外出を許したんだ。他の男なら許していない」

「はっ、はい……!」

 真面目な顔をして頷くと、店長は表情を崩してようやく苦笑いに近い顔で笑ってくれた。

 タクシーを呼んで、そわそわとコーヒーを飲みながら待つ。

 奥から階段を下りる音が聞こえて顔を上げる。店の奥の扉が開いて、着替えた琴利が顔を出した。

「お待たせしました」

 いつもよりか細い声でそう言う彼女は、シンプルなワンピースを着ていた。いつもジーンズの彼女がスカートを穿いているのは初めてだ。褒めようか迷って、でも足ばかり見ているのかと気持ち悪がられたらどうしようか悩んで、結局タイミングを逃した。

「それじゃあ、怪我しないように気を付けてね。今日は寄り道はしないように」

「はい。行ってきます、叔父さん」

「行ってきます」

 手を振る店長に手を振り返して、ふたりで顔を見合わせてから店を出る。

 怪我をしないようになんて、まるで小学生の遠足のようだ。それ程までに彼にとって琴利は、頼りなく心配な存在なのかもしれない。

 今日の目標は、怪我をさせずに展覧会を見て無事に帰ってくること。そして琴利ちゃん呼びを了承してもらうことだ。余裕があれば連絡先も聞こう。

 琴利は行きのタクシーの中では緊張していたのか口数は少なかったが、デパートにつく頃には少しずつ喋るようになってきた。

 平日の昼間ということであまり混んではいないデパートの中を、どこかおっかなびっくり歩いているような彼女に寄り添う。

「外に出るのはどれくらいぶり?」

「……もう思い出せないくらいです」

 数年単位だろうか。それなら怯えているように見えるのではなく、実際に怖いのだろう。

「疲れたら言ってくれたらいいからね。時間はいっぱいあるし、休みながら行こう」

 不安そうに顔を上げた琴利に笑いかけると、その顔を見て彼女も小さく笑ってくれた。

 体力のない彼女に合わせてゆっくりと進む。大きな美術館ではなくデパートの催事場に設けられた小さな展覧会で、むしろよかったかもしれない。

 ほとんど客のいない簡素な受付に少し不安がよぎったが、中は思ったよりも立派な展示だった。

 後ろから他の客が来る気配もなかったので、ゆっくりとしたペースで進んでいく。

 絵を横から見たり下から見たり、ちょこちょこと動く琴利と絵を交互に楽しむ。誰かと絵を見に来るのは初めてだったが、進むスピードが同じくらいでとても居心地がいい。

「春木さんって、そうやってぼんやり眺めるんですね」

「そうだね。こう、真正面から見るかな。琴利さんは色んな角度から見るんだね」

「油絵の具の盛り上がり具合とか、色んな角度から見たら楽しいですよ」

 笑って言う彼女には、もう最初の不安そうな表情はない。楽しんでくれているようで嬉しくてたまらなくなる。

 彼女に倣って、女性の膝の上で眠る猫の絵を斜め下から眺めてみる。

「あー、毛の流れがすごい」

「そうですね。一本一本がくっきりしていて、すごい」

 似たような感想に、ふたり同時に噴き出した。

「絵を見るのは好きだけど、だからって評論家みたいに批評したり分析したりはできないんだよなぁ」

「私もです」

 感想を言い合いながら、のんびり進む。のんびりしていたはずなのに、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。

 最後の一枚の前で、もうこれで終わりかと思うと寂しくて立ち尽くした。薄情なことに、全ての絵を見終えた寂しさが一割、琴利との短い外出の目的が終わってしまう寂しさ九割だ。

 すぐ隣で同じよう眺めていた琴利が、絵を見たまま口を開く。

「春木さんは、どうして美術品に興味を持ったんですか?」

 顎に手を当て思い出す。初めて美術館に入ったのは、大学を出て仕事を初めてすぐの頃だった。

「実はね、最初はすごく不純な動機だったんだ。美術館って、携帯の電源を切っておかないといけないだろ? だから仕事に疲れて、どうしても仕事から離れたいなぁって時に、電源を切ってぼんやりするために来てた」

 映画でも良かったが、あとでなぜ電源を切っていたのか聞かれて、映画を見ていたと答えるのと美術館に行っていたと答えるのなら、なぜか美術館のほうが印象がよかった。たったそれだけの理由で、美術館を巡るようになった。

「俺さ、お爺ちゃんとかお婆ちゃんによく話しかけられるんだけどね、美術館でもよく話しかけられて、でも全然絵の話についていけなくて。ちょっとは勉強するかって調べ始めたのが絵が好きになったキッカケかな」

 呆れるかなと彼女の横顔を見下ろしたが、彼女は可笑しそうに口に手を当て笑っている。

「琴利さんはどうして絵が好きなの?」

「私も大した理由はないですよ。祖母が美術品好きで、フランスに住んでいた頃によくルーブル美術館に連れていってもらっていて、それで」

「それ、充分大した理由だよ」

 彼女は生まれは日本だが、十歳前後までフランスで祖母と一緒に暮らしていたらしい。その時に連れて行ってもらっていたのだろう。

 幼い頃に母親と死別し、父親の話はこれまで一度も聞いたことがないので離婚をしたか疎遠なのか。

 彼女のことは全て知りたいが、まだこの話題を出すような仲ではない。

 名残惜しかったが会場を出て、物販でポストカードを買って来た道を戻る。

 彼女の歩くスピードが少し遅くなった気がして、飲み物を売っている店の前で琴利に声をかけた。

「少し疲れたから休んでもいい?」

 そう言って近くのベンチを指さす。琴利は少しほっとしたような顔をして「はい」と頷いた。彼女をベンチに座らせて店に向かう。何が飲みたいか聞いても、彼女は遠慮して答えないだろう。無難に紅茶とフルーツジュースを買った。

 困った顔の琴利の目の前にふたつを差し出す。

「どっちがいい?」

「あの……私、お金出します……」

 言うだろうと思っていたセリフに微笑んで、体を屈める。少しだけ顔を近付けて「お願い、カッコつけさせて」と囁いた。

 琴利は頬を赤くして、さらに困った顔をする。

「どっちがいい?」

 もう一度聞くと、彼女の目がふたつのカップを行き来してもう一度一陽の顔を見上げる。その直前に紅茶に視線が止まったのは見逃さなかった。

「春木さんが先に選んでください」

「じゃあこっち」

 フルーツジュースを引き寄せて紅茶を差し出すと、琴利はようやく受け取ってくれた。

「ありがとうございます。いただきます」

「うん」

 彼女の隣に腰を下ろして、さっそくストローに口をつけた。やっぱり少し緊張していたようで、いつの間にかカラカラに乾いていた喉に、絞りたてらしいジュースはそれはもう美味しい。

 隣で琴利もストローをくわえる。

「さっきの話だけど」

 まだ申し訳なさそうな彼女の気をそらすため、明るい声を出した。

「ルーブル美術館、憧れだなぁ。死ぬまでに一度は行ってみたい。オルセーは行ったことある?」

「はい、一度だけ」

「いいなぁ。あっちはもう建物からして芸術だろ?」

 琴利の視線がふと遠くなる。幼い頃を思い出しているのだろう。

「はい。初めて見た時は、少しの間見惚れて動けませんでした」

 彼女はフランスで暮らしていた時の話を、彼女の祖母の話も織り交ぜて教えてくれた。

 彼女の祖母は芸術を通して日本文化に興味を持ち、そして日本人と結婚したらしい。琴利の話を聞く限り、ずいぶんと元気なお婆ちゃんだったようだ。

「何歳までフランスにいたんだっけ?」

「十歳過ぎまでです」

「それじゃあフランス語も日本語もペラペラなんだね。すごいなぁ。俺、いつかフランスに行くために、今フランス語の勉強中なんだ」

「春木さん、英語は得意ではなかったですか? 観光地だけなら英語だけでも充分ですよ」

「俺ね、旅行に行ったら観光地から離れて、地元の人しか知らないような店に行くのが好きなんだ」

 海外でもよくお年寄りに話しかけられる。その時に色々と教えてもらい、ガイドブックには載っていないような穴場を見つけるのが好きだった。

「素敵、楽しそう」

 琴利が両手を合わせ、キラキラと目を輝かせる。

「じゃあもし俺がフランスに行くことになったら、琴利さんが通訳してよ」

 言ってからしまったと内心固まった。少し調子に乗りすぎたかもしれない。引かれていないかとちらりと琴利を見下ろすと、彼女は丸くしていた目を細めて満面の笑みを浮かべたところだった。

「いいですよ」

 心臓が五センチほど飛び跳ねる。

 意味を分かって返事をしたのだろうか。通訳をするということは、一緒に旅行に行くということだ。

 そういう事に疎そうな彼女だ。きっと何も考えずに楽しそうだということだけで返事をしたんだろうと思ったが、下を向いてストローをくわえているその頬と耳が赤くなっていることに一陽は気付いてしまった。

 息を大量に吸い込んで、気付かれないように静かに吐き出す。

 自分で思っているよりもずっと、彼女はこちらを好意的に見てくれているのかもしれない。

 いけるかもしれない。

 頭の中で勝利のガッツポーズを決めた自分を、いやいや慢心するなと殴り飛ばす。慢心したら負けだ。

 「楽しみだな」と冗談めかして笑ったが、動悸が治まらない。

 まずい、帰りたくない。帰したくない。

 そんな思いを嗤うように、店内に午後四時を知らせる放送が鳴った。

 喫茶店を出て二時間。今日はこの辺りにしておいたほうがいいだろう。

 外出慣れしていない彼女のためにも、喫茶店で心配して待っている店長のためにも。そして、このままではあれだけ信用してくれた店長を、裏切ることになりそうな自分のためにも。

「そろそろ店長が心配しすぎて胃を押さえてるんじゃないかな。飲み終わったら、帰ろうか」

 ストローを口に含んだまま琴利が顔を上げる。眉を垂らしてこくりと頷く姿を見て、やっぱり帰したくないと心の中のもうひとりの自分が駄々をこね始めた。

 それは表情には一切出さずに、飲み終わったカップを受け取ってゴミ箱に捨てる。

「大丈夫?」

 スマートにスマートに。ごく自然に見えるように、座る彼女の目の前に手を差し出す。

 驚いた顔を赤くして、琴利は「ありがとうございます」と呟いておそるおそる手を重ねた。

 小さくて柔らかくて、随分と冷たい手だ。ぎゅっと握って彼女を立たせてから、手を離した。

 一瞬だったが手を繋げた。上出来だ。今日はこれで我慢しよう。

 来た道を戻って、タクシー乗り場でタクシーに乗り込む。

 十分程の道のりでほとんど会話はなかったが、行きの車の中よりふたりの距離は近付いた。

 タクシー代を払おうと身構えていた琴利より先にカードを差し出して会計を済ませ、先に車を降りて傘を差してから琴利が濡れないように降ろして、これで今回のデートは完璧にミッションコンプリートだ。

 ゴロゴロと遠くの方から雷が聞こえる。ひどくなる前に帰ってこれてよかった。

 喫茶店の方ではなく、店の裏にある彼女の家の玄関にふたりで駆け込む。

 琴利は少し悔しそうな顔をしていた。

「いつもたくさんお土産を買ってもらっているから、今日は私が全部払うつもりでいたのに……」

「いいんだよ。やっぱり誰かと一緒に見るのは楽しいね。ついてきてくれてありがとう」

「……私も、とても楽しかったです。連れて行ってくださって、ありがとうございました」

 一瞬沈黙が下りる。

 何度かタイミングを伺っていたが、なかなか言い出せなかった。今が最後のチャンスだ。

「あのさ……琴利ちゃんって、呼んでもいい?」

 琴利が驚いた顔で見上げてくる。さすがに少し早かったかと青くなった。

「ごめん、ちょっと馴れ馴れしかったかな」

「いいえ……あの……呼び捨てでも構いません」

「そっ」

 恥ずかしそうに言う彼女を見て、顔面に熱が集まるのが分かった。脳内で「琴利」と呼び捨てにしてみて、脳内でもんどりうつ。

 赤い顔を隠すように手の甲で口元を押さえ、しどろもどろに言った。

「それは、その、もう少し仲良くなってから……」

 デートはほぼ完璧だったのに、最後の最後でこんな顔を見せてしまった。彼女の顔を見ることができないが、誤魔化すように笑う。

「俺のことも名字じゃなくて、下の名前で呼んでくれたらいいからね」

「は、はい」

 狼狽えた声が聞こえて、もうお互い様だと開き直る。顔を上げると同じタイミングで顔を上げた彼女と目が合って、もう恥ずかしいを通り越して可笑しくなってきた。

「琴利ちゃん、また誘ってもいい?」

「はい、是非。誘ってもらえて、すごく嬉しかったです。……一陽さん」

「……うん」

 ああ、こんなにも楽しそうに笑ってくれる彼女が愛しくて堪らない。好きだと伝えたい。抱き締めたい。でも駄目だ。まだ駄目だ。少しずつ進めていかなければ。少しずつ一緒に外に出て、彼女が外出に慣れるのと同じくらい、ゆっくりと進めなければ。

 琴利に伸ばしたくなる手を押さえつけるため、わざとらしく「あ」と声を上げた。

「そうだ。買ったやつ渡さないと」

 彼女のものも全部、雨に濡れないように仕事用の鞄に入れていた。彼女のポストカードと店長へのお土産を差し出す。

「はい」

「ありがとうございます」

「今回の展覧会の案内ももらったけど、いる?」

「はい、欲しいです」

 頷いて、ファイルに挟んでいたチラシを取り出そうと指を差し入れる。

 どれだったかと紙をめくっている時、スッと指先に嫌な感触が走った。

 思わず手を引く。案の定、遅れてきた痛みと共に、指先から血がぷくりと滲んだ。紙の端で切ってしまったようだ。

 琴利が慌ててハンカチを取り出したが、それから逃れるように手を遠ざける。

「大丈夫だよ。ハンカチが汚れる。これくらい舐めれば治るから」

「汚れても構いません」

「ダメダメ」

「でも、一陽さ、ん……」

 呟いた彼女の手からハンカチが滑り落ちた。一陽はそれを視線で追いかけて、手を伸ばす。

「琴利ちゃ」

 言葉を切ったのは、琴利がハンカチを拾おうと伸ばした手を取ったからだ。

 驚く間もなく、彼女の冷たい指が手を引き寄せ。

 そして血のついた指を、彼女は何のためらいもなく口に含んだ。

 ねっとりと舌が指を這い、ようやく何をされているのか理解して体を震わせる。確かに舐めれば治るといったが、本当に舐めるなんて意外と大胆なことをする。

 いや、そんなことを思っている場合じゃない。

 傷の上を舌先が撫でる。ぴりりとした痛みが走って手を震わせる。

「琴利ちゃん」

 痛みと何とも言えないくすぐったさで全身がむずむずして仕方がない。

「もう大丈夫だよ、だから……」

 彼女の口が少し開く。そのまま離してくれるのだろうと思った、次の瞬間。

「いっ……!」

 予想していなかった程の痛みに思わず声を上げた。反射的に手を引きそうになったが耐えたのは、勢いよく手を引いて彼女に何か怪我をさせたらまずいと思ったからだ。

「こ、と……」

 歯だ。少し尖った犬歯が、紙で切った傷に深く食い込んでいた。

 間違えて噛んでしまったのだろう。その考えは、さらに食い込んだ歯に否定された。

 流れ出た血を小さな赤い舌が舐めとる。

 その喉元が、ごくりと揺れた。ようやく彼女の様子がおかしいことに気付いた。

「琴利ちゃん!」

 空いている手で彼女の肩を掴み名前を叫ぶ。琴利はようやく夢から覚めたように目を真ん丸にして、それから一陽の手を離した。

 呆然と一陽の顔を見つめていた彼女の顔が、みるみる青くなる。

 ふらりと後ろへよろけた琴利が、指で唇に触れた。その指先には赤い血が微かについていた。

「わ、わたし……なんてことを」

 とにかく今にも倒れそうな琴利を支えようと手を伸ばしたが、彼女は短い悲鳴を上げて玄関の扉に背中をぶつけた。

「ごっ、ごめんなさい、私……ごめんなさい……」

「いいよ、痛くなかったから、大丈夫。琴利ちゃん、ちょっと落ち着こう」

 出来る限り優しい声を出したつもりだったが、彼女の目から大粒の涙が滴り落ちた。

「ごめ……なさ……!」

 泣き声に稲光が重なる。思わず空を見上げて、その隙に彼女が玄関の扉を開いた。

「待って!」

 手を伸ばしたが彼女の肩には触れられなかった。無情にも目の前で扉が閉まり、背後で雷鳴が轟く。

「琴利ちゃん!」

 返事はなく、家の中から階段を駆け上がるような音が聞こえた。

 一陽は呆然と立ち尽くす。

 今のは何だろう。間違えて歯を立ててしまった? いや、どう見ても一度口を開いてから歯を突き立てたように見えた。そしてそのあと、血を飲んだ。

 ぽとりと指先から血が落ちる。

 数分前までの幸せの絶頂との落差で、体が動かない。

 とにかく話をしなければ。

 彼女のハンカチを拾い上げる。玄関のチャイムを何度か鳴らすが返事はない。店の方に回ったが、扉には閉店の札がかけてあった。閉店にはまだ早い時間だ。

 琴利も店長も連絡先を知らない。

 その後も近くで時間を潰しながら何度か店を訪れたが、結局店が開くことはなかった。






****






 次の日も雨だった。

 午前中に身の入らない仕事を済ませて、喫茶店を訪れる。

 雨に濡れる窓ガラスの向こうには、店長は見えたが琴利の姿はない。

 傘を傘立てに突っ込んで、扉を開く。

「いらっしゃい」

 店長は少し微笑んで、それから眉を垂らした。挨拶もできずにとぼとぼと近付いて、彼の前のカウンター席に座る。

「店長……すみませんでした」

「琴利から話は聞いたよ。君が謝るようなことはない。むしろ謝るのはこちらだ。怪我をさせてしまって申し訳なかった」

 ふと、昨日の店長の言葉を思い出す。

「……怪我をしないようにって」

「主に君に言った」

 あれは、過保護な店長が頼りない琴利に言った言葉ではなく、一陽に言った言葉だった。おそらく、琴利に血を見せないように。

「吸血鬼って信じる?」

 その言葉に顔を上げる。昨日から何度か脳内をチラついて、しかし現実味がなさすぎてまともに取り合わなかった言葉だ。

「今から僕が話すのは、くだらない戯言だって聞き流してくれたらいいよ」

 一方的にそう言って、店長は返事も聞かずに話を始めた。

「琴利の父方の祖母がフランス人って話はしたよね。その祖母がね、純血の吸血鬼なんだ」

 まさか、とそう思ったのが顔に出たのだろう。彼は肩をすくめる。

「僕もね、姉さん……琴利の母親に初めて言われた時は信じられなかった。でも、一度だけ琴利の祖母に会ったんだ。生まれてから一度も太陽にあたったことがない琴利の祖母は病的なほど青白い肌をしていて、そして犬歯じゃない、二センチほどの牙が生えていた。琴利も犬歯が普通の人より尖ってるだろ?」

 確かに、犬歯も可愛いとわざわざ考えたくらいには、他の人よりは少し尖っているかもしれない。それでも個人差の範囲だ。

 ただ、半年の付き合いだが店長がこんな状況でこんな冗談を言うとは思えない。

 でもだからと言って、吸血鬼だなんてそんなものを信じることも難しい。

「僕たちがよく聞く吸血鬼とは全く違う。肌が白いから太陽には極端に弱いけれど、灰になるわけじゃない。にんにくや十字架が苦手でもない。琴利の祖母は肌を隠して日傘をさして晴れの日でも出掛けていたし、吸血鬼に理解のある古い病院から定期的に血をもらって飲んでいたから人を襲うわけでもない」

 吸血鬼と聞いて、ファンタジーな世界のどちらかというと悪者寄りの吸血鬼を思い浮かべていた。首筋に歯を突き立て、血を飲んだ者を同じ吸血鬼にしてしまうという。

 それなのに店長の話を聞いていると、吸血鬼といっても、ただ生きていくのに血という栄養が必要なだけで、それ以外は人間と変わらないように聞こえる。

「それに、純血の吸血鬼は血を飲まないと生きていけないけれど、ひとたび人間の血が混ざるとその必要もなくなる。琴利は血を飲まなくても生きていけるし、肌は弱いが全く陽に当たることができないというわけではないんだ。ただ、吸血鬼の血も薄くなり十分理性のある大人になった今でも、血を飲みたいっていう衝動は時々あるらしい。……自分が好意を抱いている人間の血を唐突に見た時なんかは、特に」

 思わず琴利に噛まれた指を見下ろして、それを反対の手で握り締めた。

「母親と死別して、父親に捨てられて、その後祖母とも死別して。自分が何者なのか、湧き上がる血を飲みたいという衝動をどうすればいいのか、彼女は充分に教わる事ができなかった。人を傷付ける事を怖がって、ずっと外に出られなかったんだ。……そんな琴利がね、自分から外に出たいなんて言うのは昨日が初めてだったんだ」

 思い出す。

 展覧会に行きたいと必死に店長を見上げる横顔を。楽しそうに外を歩く姿を。誘ってもらえて嬉しかったと、恥ずかしそうに笑うその顔を。

「……実際に血を飲んだら、血を飲みたいって気持ちは落ち着くんですか?」

「そうだね」

「健康な血だったら、飲んでも彼女に悪い影響はないんですか?」

「ないよ」

 うんと頷く。

 そして、このにわかには信じられないような話を、信じようとしている自分に驚いた。

 本当に吸血鬼なんているのか、そんなことはどうでもいい。そんなことを考えたって調べたって、今そこに存在している琴利が時々血を飲みたくなるという事実は変わらない。

 むしろ彼女が対策さえしていれば晴れの日でも出かけられることを知ることができた。血さえあれば、彼女はもっと自由になれる。一緒に、色々な場所に。

「一陽君、頼む」

 店長の声にいつの間にか俯いていた顔を上げる。

「もうあの子に関わらないであげてくれ」

 絞り出すような彼の声に目を見開く。無意識に首を横に振っていたが、店長は視線を伏せてそれを拒絶した。

「あの子は、思わず君の血を飲んでしまったくらい君に好意を抱いているよ。だからこそ、絶対に誰にも知られたくなかった秘密を、よりによって君に知られてしまってものすごく混乱してる。……もう彼女は君に会えない。昨日あったことも、今の話も、琴利のことも……もう忘れてやって欲しい」

 絶対に嫌だ。唇を引き結んで、頭の中でそう叫ぶ。そんなことを言うのなら、なぜ今の話をした。適当に理由をつけて追い返せばよかったんだ。

 忘れることなんて不可能だ。

 俯いて、声を絞り出す。

「……分かりました」

 爪が食い込むくらいこぶしを握る。そして睨むように店長を見上げた。

「お願いがあります。琴利さんに、最後に一回だけ会わせてもらえませんか?」

 店長の眉間に皺が寄る。それでも食い下がった。

「お土産……北海道のお土産、全部渡せてないんです」

「……昨日渡していなかった?」

「昨日のは一部です。まだもう少しあって、昨日別れる時に渡すつもりでいたんです」

「どうして?」

 鞄から土産を取り出す。図録とその他たくさんつまった袋だ。

「彼女が好きな画家だって分かってたから、つい、自分でも引くくらい色々買ってしまって……それで、展覧会に誘う前にそんなにたくさんあげて、誘いを断りにくくなってしまったら駄目だと思って……」

 少しの間があって、それからふっと笑い声が聞こえる。店長は顔半分を手で覆い、寂しそうに笑っていた。

「君は本当に優しくて誠実な男だな」

 ため息をついて笑いを収めて、彼はカウンターの扉を開いた。

「渡すだけだよ。琴利が嫌がったら、すぐに帰ってくれるかい?」

「は、はい……!」

 慌てて立ち上がって鞄を持つ。カウンターの中に入ると、店長が奥の扉を開いてくれた。昨日琴利がワンピースを着て出てきた扉だ。靴を脱いで静かに上がる。

「階段を上がって、一番奥の部屋だよ」

「分かりました」

 返事を聞いて、店長は何度かためらいながら扉を閉めた。ふたりきりにしてくれるらしい。

 優しくて誠実な男だと、信じてくれているのだろう。扉についている小さなガラス窓から少しの間店長の背中を見つめてから、「すみません」と謝って階段を見上げた。

 薄暗い階段を音を立てずに上る。二階には扉はふたつだけだ。奥の部屋の扉には小さな鳥の絵がかかっている。ここだろう。

 小さくノックをしたが、返事は何もない。

「……琴利ちゃん、俺だよ。店長に上げてもらった」

 がたんと、部屋の中から音がした。中にはいるようだが、やはり返事はなかった。

「店長から全部聞いたよ。少しだけ話をしたい」

 少し待って、目を伏せる。

「もうこれで最後にするから。嫌ならもう会いにこない。だから、最後に話をしたい」

 また部屋の中で小さな音が聞こえた。

 辛抱強く待った甲斐があった。扉が音もなくそっと開く。隙間から目を真っ赤に腫らした琴利が見えた。ずっと泣いていたのだろうか。

 彼女は俯いたままその隙間から出てくる気配はない。手を差し出す。

「もう少しこっちに来て」

 しかし彼女は動かない。絶望している目は、差し出した手の指に貼られている絆創膏を見つめていた。

「指……痛みますか……?」

 掠れた声だった。

「全然痛くないよ。傷ももう塞がってる。見る?」

 そう言って絆創膏を剥がす。扉が少し開いて、彼女が傷を見ようと体を部屋の外に乗り出す。わざと彼女の角度から見にくいように手を広げると、さらにその体が外に滑り出た。

 素早くその腕を掴み、力任せに引き寄せて胸の中に抱き締める。

 最後になんて、するつもりは毛頭なかった。

「捕まえた」

 笑いながら耳元で言うと、少ししてようやく自身の置かれた状況を理解したらしい琴利が猫のように飛び跳ねた。逃げないように腕に力を込める。

「だ、駄目……私、また」

「俺の血が飲みたくなる? 飲んでもいいよ」

「駄目!!」

 悲鳴を上げるように叫んで、彼女はその細腕のどこにそんな力があるのか、一陽の胸を押して逃れようと体を捩じる。それでも所詮、男と女だ。その腕を掴み直して壁に押し付けると、あっという間に彼女は身動きすら取れなくなった。

 その顔に浮かんでいるのは恐怖だ。がたがたと体を震わせ、彼女は掠れた声で叫ぶ。

「気味が悪いでしょう……? 今のこの時代に、吸血鬼とか……そんなの、おかしいって思うでしょう……!」

「思わないよ。思っていたらここには来てない」

「でも私、あなたに怪我を……!」

 唇の内側を噛む。泣きそうなくらい痛かったが顔には出さないようにする。血の味が口に広がったのを確認してから、錯乱する彼女の首筋を手のひらで掴んで引き寄せた。

 真ん丸の目と視線を絡めたまま唇を押し当てる。舌を捩じ込むと、彼女は体を硬直させたあとくぐもった悲鳴を上げながら、一陽のスーツのジャケットを力いっぱい引いた。

 しかしその抵抗も、ほんの数秒だけだった。

 すぐに琴利は目を閉じて、唇の力を抜いた。

 首に回された腕にされるがままに引き寄せられて、もっと深く繋がる。血を求める彼女の舌を誘導して好きにさせた。昨日のように歯を立てられる覚悟もしていたが、彼女は耐えたようだった。

 そのかわりに一陽の頭がぼんやりとしてきて、もう駄目だった。琴利の肩を掴んで引き剥がそうとする。しかし彼女は腕に力を込め、涙で潤んだ目を開いた。

「もっと……」

 その言葉に、一瞬頭が真っ白になる。

 すぐに理性は舞い戻った。琴利の部屋の扉を蹴り開けその床に彼女を押し倒して伸し掛かったが、彼女が固い床に頭を打たないようにクッションの上に押し倒したので理性はきっと多分あった。

 ぶつかるようにもう一度唇を合わせる。

 今店長が様子を見に来たら、きっと後ろから殴り殺されるだろう。

 でも、殺されたって諦めきれない。琴利に嫌いだと言われたのなら仕方がない。でもそうじゃない。こんなにも好きなのに、彼女も同じくらい好きでいてくれているかもしれないのに、諦められるわけがない。

 苦しそうな声が琴利の喉から漏れはじめる。その声を聞いて、ようやく彼女から離れた。

 琴利はひゅと息を吸って、それから床に額をつけ激しく咳き込む。その背中を撫でていると、ようやく呼吸が落ち着いたようだ。その横顔も、落ち着きを取り戻していた。

「落ち着いた? 俺は落ち着いた」

「はい……」

 彼女が起き上がるのを手伝う。白い唇に血がついていて、それを指で拭った。

「ごめんね、大丈夫?」

「だいじょうぶです……」

 舌っ足らずにそう言って、琴利は一陽を見上げる。無防備なその姿から目をそらすように部屋を見渡した。

「俺があげたポストカード、ほんとに飾ってくれてるんだね」

 部屋には本棚がたくさん並んでいる。その隙間の壁には、額縁に入ったポストカードが飾られていた。

 きれいに整頓された部屋だ。それなのにそれを台無しにするのは、黒く分厚いカーテンとじっとりとしていて薄暗い部屋の空気だった。その中で座り込む琴利の体は、そのまま薄暗闇に溶けてしまいそうだった。思わず彼女の腕を掴む。

「……外、出れる?」

 顔を上げて、彼女は考えるのも億劫だというように首を縦に振った。手を引いて抱き上げ、肩に担ぐ。

 そのまま部屋を出て、階段を降りて店への扉を見た。小さなガラス窓の向こうには店長が見える。

 客は来ていないようだが、彼の背中は何かを耐えるようにぴくりとも動かない。そっと通り過ぎて玄関に向かう。

 靴は店のほうにあるので、店長のものらしきサンダルを勝手に借りる。必ず返しますと念じて、ついでに傘も借りた。

「傘持ってて」

「……どこに行くんですか?」

「どこに行こっかな」

 人目につかない道を通って当てもなく歩き出す。そう言えばすぐ近くに大きな公園があったはずだと思い出した。

 一分と歩かずにたどり着いた公園は、普段は子供で溢れているのにこんな雨の日にはもちろん人影はない。

 公園の中の小高い丘を登る。三階分はあろうかという階段を、軽いとはいえ女の人をひとり担ぎ上げて。息を乱したら格好悪いと気合いだけで登った。

 丘の上には小さな屋根のついたベンチがある。落ち葉を払いのけ、その上に琴利を下ろした。隣りに座って深く深呼吸して息を整える。

 琴利をこんなところまで連れてきたのは、正直に言うと勢いだ。ただただ、彼女を薄暗い室内から連れ出してやりたかった。

 雨雲が天井を覆う外も薄暗いが、風が吹いている。分厚いカーテンもない。

 視線を感じて琴利を見る。

 その青白い頬についている、雨粒か涙かを指で拭った。

「琴利ちゃんが好きなんだ」

 ゆっくり進めようと思っていたが仕方がない。逃すくらいなら、どうやってでも引き留めたい。

 じっと見上げる瞳からまた涙を落として、琴利は首を横に振った。

「でも、私は……普通の人間じゃない」

 彼女の言葉に小首を傾げる。

「普通の人間ってなんだろ」

 まるで哲学だ。琴利も顔を上げて、戸惑ったように眉を垂らした。

「だって、誰にだって人に言えないような秘密のひとつやふたつはあるだろ? 君にもひとつ秘密があるだけで、それ以外は他の人と何も変わらない」

「でも……その秘密が普通じゃない」

 はははと声に出して笑う。

「その秘密が普通なのか普通じゃないのか俺には決められないけど、でもね、世界にはとんでもないゲテモノ食いがいるだろ? 少なくとも俺は、その悪食家か血を飲む琴利ちゃんかどっちかにキスしないといけないんだったら、迷わず琴利ちゃんにキスするね」

 そう、ちょっと血を飲むくらいがなんだ。世界にはもっととんでもない人間はごまんといる。

「普通じゃないものなんてありふれてる。君は特別じゃない」

 ぽかんと口を開けて、それから彼女は視線を泳がせた。

「で、でも、私……一陽さんに怪我をさせてしまいました」

「最初にドジをして指を切ったのは俺だよ。それに、全然痛くなかった……って言ったら嘘になるけど。俺、そんな痛みなんかどうでもいいくらい、君のことが好きで堪らないんだ」

 どれほどこの目の前の人を想っているのか、ようやく分かってくれただろうか。

 真っ赤になった顔を隠すように、彼女はベンチの上で膝を抱いて顔をうずめた。さらに追い打ちをかける。

「一目惚れだよ、一目惚れ。ビックリした。琴利ちゃんを見た瞬間、頭の中で花火が上がったんだ。こんなに可愛いくてきれいな人がこの世にいるなんてって。趣味が同じだって知って、運命だと思った。君を知れば知るほどどんどん好きになっていった」

「ちょっと、待ってください……」

「そう? まだまだいくらでも語れるけど、それじゃあ待とうか」

 ベンチの背もたれに体を預けて、木製の屋根を見上げる。小さな鳥が雨の中を鳴きながら飛んでいく。もう少し早い時期なら、ここは桜が満開だっただろう。次は藤の花だ。琴利と一緒に見に来ることはできるだろうか。

 物思いにふけりながら聞いていた雨の音に、琴利の「一陽さん」というか細い声が混じった。ようやく顔を上げた彼女は、じっと一陽を見上げた。

「一陽さんにもあるんですか? 普通じゃないこと」

 ぎくりと体を震わせる。

「……あるよ」

「どんなことですか?」

 今度は一陽が視線を泳がせる番だった。

「……俺と付き合ったら、いつか分かるよ」

 笑って誤魔化そうとしたが、彼女は問い詰めはしないがその顔に知りたいと書いてある。彼女の秘密を知ったうえで自分だけ隠そうとするのは卑怯かと、迷って頭をかく。

「……引かない?」

「引きません」

「今言って、気持ち悪いってフラれたらもう立ち直れないんだけど……」

「大丈夫です。……多分」

 不安しかないが、もじもじと悩むのも女々しい。

 ええいと彼女の耳に口を寄せ、秘密を打ち明ける。

 その短い秘密を聞いて、琴利は何とも言えない表情で一陽を見上げた。思ったよりもあからさまな嫌悪は見て取れない。

「無理? 受け入れられない? 気持ち悪い?」

 彼女は何度も首を横に振る。ほっとして長い息をついた。

「でも、血を飲むことと匂いフェチは次元が……」

「わああストップ! 声に出して言わないで!」

 両手で顔を覆って叫んで彼女の言葉を止める。「すみません」と小さな声が聞こえたが顔は上げられない。

「恥ずかしくて死にそう……」

「そんなに恥ずかしい秘密ではないような気がしますけど……」

「あれだよ。隣の芝生は青いじゃないけど、自分の秘密は大げさに感じるんだよ。琴利ちゃんだってきっとそうだ」

「そういう……ものなんでしょうか……」

 まだ赤いであろう頬をこすりながらなんとか顔を上げる。

「そんなものだよ。君が血を飲むって初めて知った時はちょっとビックリしたけど、でも受け入れられないほどじゃない」

 縋るような目が見上げてくる。どんな言葉をかければ彼女は少しでも心穏やかになるのか。

「頻繁には無理だけど、どうしても辛くなったら少しなら血をあげられる。今年人間ドックを受けて何も異常はなかったから健康な血だよ。ちゃんと毎年検査を受ける。だから、どんなことが辛いのか、どれくらいなら平気なのかふたりで確かめていこう。できることは少しずつしてみよう。焦らずゆっくり、ね。怖いことをするときは、絶対に俺がそばにいるから」

 淡いピンクの両頬を包み込む。

 その手をさらに彼女の手が包み込んで、ようやく笑顔を見せてくれた。

「はい……」

 額を引っ付けて、笑い合う。本当に、彼女の笑顔は花のように可愛らしい。キスがしたかったが、その前に謝っておかなければならないことがあった。

「順番入れ替わってごめん」

「……順番?」

「好きって言う前にキスした」

 その言葉に、彼女の部屋の前でした初めてにしては激しくて情熱的なキスを思い出したのだろう。みるみる耳まで赤くして、琴利は俯いた。

「嫌だった?」

 俯いたまま彼女は首を横に振る。

「どうして嫌じゃなかった?」

 答えは分かっていたが、どうしても琴利の口から聞きたかった。

「あなたのことが、好きだからです」

 答えは分かっていたのに、胸が疼いて堪らなくなった。

 よっぽどだらしない顔をしていたのか、彼女はこの顔を見てふっと噴き出して、それから破顔した。

「私、少しずつ頑張るから……そばにいてください」

「うん、いいよ」

 彼女の笑顔が雨雲を吹き飛ばしたかのように、パラパラと屋根にぶつかっていた雨の音が止む。一陽は空を見上げて、突然雲の切れ目から漏れ出した太陽の光に目を眩ませた。

「わっ、ヤバ……!」

 慌ててスーツのジャケットを脱いで琴利の頭から被せる。太陽の光から守るようにその前に立った。

「大丈夫?」

「大丈夫です。灰になったりしませんよ」

「でも、長い間陽に当たってなかったのに、急に当たったら……」

 どこか壁があるところはないかと辺りを見渡す一陽の腕に、琴利の手がそっと触れる。

「最近、部屋の中で少しずつ陽に当たって体を慣らしていたんです。一陽さんと一緒に外を歩きたかったから。……だから、少しなら大丈夫」

 腕に触れていた手が、おずおずと移動して一陽の指に触れる。少し不安そうな手をすぐに握り返した。

「それじゃあ、少しだけね」

 手を繋いで一緒に並んで座って、暖かい太陽の光を浴びる。

 彼女は雨がよく似合う、そう思っていた。

 今日、雨上がりのオレンジ色の陽の光を浴びる彼女も、言葉に出来ない程きれいだと初めて知った。

 琴利が細めていた目を開いて、見惚れていたことがバレないように顔を正面に戻す。それと同時に、太陽がまた雲の下に入り込んでしまった。

 さわさわと聞こえるのは、風が葉を揺らす音か遠くで降る雨の音か。

「また雨が降る前に帰ろうか」

「はい」

 返事をしながら、琴利が頭からかぶっていたジャケットを脱ごうとする。

「着てていいよ。寒いし」

「一陽さんは寒くないですか?」

「大丈夫だよ」

 琴利は「ありがとうございます」と呟いて、スーツのジャケットに腕を通して包まった。ブカブカの上着を着た姿も可愛い。もう何をしても可愛い。

「抱っこがいい? おんぶがいい?」

 両手を広げると、琴利は担がれてきたので靴を履いていないことを思い出したらしい。ふらふらと視線をさまよわせてどうにかできないかと考えた彼女だったが、どうにもならないと悟ってようやく観念したようだ。

「……おんぶで」

「了解」

 彼女の前で背中を向けて腰を下ろす。

 そろりと体重をかけてきた体を持ち上げた。今度は下り階段なので、上りほどは大変ではないだろう。

「大丈夫ですか? 重くないですか……?」

「全然。むしろ役得というか」

 背中で幸せを噛み締める。

 肩越しに琴利と振り返って、そして一陽はにっと歯を見せて笑った。

「さ、帰ろう。店長にバレないうちに」





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― 新着の感想 ―
[一言] 器の大きい一陽さん、素敵です。琴利が儚げで可愛いくてハッピーエンドで良かったです。短編の作品でしたが続きが読みたくなる素敵なお話でした。有り難うございます!
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