Episode 6 泡沫の夢
6
その日は雨が降っていた。
虚ろな意識の中、最初に五感が捉えたのはゴウゴウと雨だれの打ち付ける音だった。時折強く、そして弱く吹き付ける雨の音は、嫌に耳障りに感じた。
次に身体を襲ったのは水溜りの中にいることへの不快感だった。身体の殆どが薄っすらと水が張った地べたに接している。それだけでも不快なのに、肌に髪、衣類。全てが濡れ身体にまとわりつく感触が体中を支配していた。
その次は温度だった。冷たい氷雨や水溜りが体温を急速に奪っていくのがわかった。必死に失われた体温を戻そうと、体が小刻みに震えているのがわかる。あまりの寒さに、無意識のうちに膝を抱え丸まった。そうするうちに、水たまりの中がひどく暖かく感じてくる。このまま意識を手放せたら――と思った途端、冷静な思考が頭をよぎる。目を覚まして起きなければ、死んでしまう。漠然とした思考が頭の中に浮かぶ。そうだ。このままでは俺は、死んでしまう。
最後に、光を感じた。目の前はどうやら明るい場所のようだ。まぶた越しの明るみに思わず目をきつく閉じた。身体が光に順応していない。微睡みに縛られたまぶたは、そのまま開こうとしなかった。
しばらくそうしていると、不意に意識が覚醒した。身体が自由を取り戻し、ゆっくりと目を開いた。
(ここは……)
見慣れない場所だった。少なくとも、この場所に覚えは無かった。どうやら鉄筋コンクリートの建物の間に倒れていたらしい。
頭上にひさしのようなものは無く、雨は遮られること無く真っ直ぐに降り注いでいた。当然、地面は水浸しで、そこに転がる俺もまた同様だった。通りで寒いわけだ。冷たい水たまりから逃れようと立ち上がり、そして立ち続ける力が無いことに気付きふらりと壁にもたれ掛かった。
(一体何時間こうしていたんだ?)
髪の毛からは絶え間なく雨水が垂れ、洋服もすでにずぶ濡れだ。冷たく濡れた服は体力を奪うが、乾かすことはできそうにない。早々に諦めた。
「……とりあえず、ここから動いて……。それで――」
それで。何かを言いかけて言葉に詰まった。
――それで、なんだろう。大切ななにかを目指していたような気がする。しかし、どうにも思い出せなかった。
そのまま考え込んでいると頭がズキリと痛んだ。手で抑えつつ、いざ自分の体調に気を向けると、頭が重く、そして耐え難いほどの寒気があることに気がついた。風邪を引いているか、低体温か。
「はたまた、その両方か……」
いずれにせよ、現状をどうにかしなければいけないことは間違いなかった。このままでは遅かれ早かれ死に至ってしまう。それだけは避けなければならない。
壁伝いに狭い道を歩いていく。水たまりの上を超えて歩く力はなく、靴が浸ると分かっていてなおそのまま直進する。最初こそためらいもあったが、避けられないのだからどうしようもなかった。そもそも、靴もすでに完全に浸水しているため、その心配はいまさらだ。
一歩一歩、非常に遅い歩みだが、それでも進んでいく。どこに向かっているのかは分からなかった。けれど、不思議と迷いなく路地を練り歩いていく。さっきよりも明るい方へ、もっと明るい場所へ、街灯に誘われる虫のように進んでいく。
しばらくすると唐突に道がひらけた。大通りに出たのだ。路地裏にはないまばゆい光が視界に飛び込んでくる。眩しさにたまらず目をつぶる。
窄めた目をゆっくりと開けると、そこには一人の女性が立っていた。
見慣れぬ服装を身に纏った、小柄で長髪の美しい女性だ。大人びた雰囲気はあるものの、成長途中の少女と言った風貌がどこかアンバランスだ。そんな少女はまるで自ら輝いているかのような黄金色の瞳でこちらを見つめている。俺は、まるで呪われたかのようにその目に釘付けになった。
「ねえ、君、大丈夫?」
きれいな声だった。鈴のように透き通ったその美声が頭の中に響き渡る。
「え、あ……」
彼女を見ていると動悸が止まらなかった。何か特別な感情が自分の頭の中を支配している。
それは決して温かい感情ではなかった。焦燥のような、危機感のような、背筋をひんやりとした何かが掠めたようなそんな嫌な動悸を伴う黒い感情だ。心臓が跳ね上がるように早鐘を打つ。体調の悪さも手伝い、平静を保つことができない。
すでに雨でびしょ濡れの身体に脂汗が染み出していく。じっとりとなぞるように垂れる汗や雨粒を払う余裕はあるはずもなかった。
「ァ……」
不意に呼吸が止まる。空気を確保しようと口が開くが、それでも息はできなかった。
気道が狭まったのだと気付いたのはそれから数秒経ってからだ。身体を蝕む不調は収まらない。ついには心臓を何者かに鷲掴みにされたような鈍く強い痛みが胸元を支配した。とても立って居られなくなり、その場で崩れ膝をつく。
「ちょっと、大丈夫!?」
目の前の彼女が傘を放り出し、駆け出しているのが見えた。その表情は何かを叫んでいるようにも見えた。しかし、よくわからない。既に焦点は合わず、ただ少女のような影がこちらに向かっているように見えたからそう判断した。
声すらも耳に届かない。気付けば雨の音も、あれだけうるさく感じていた風も、静かに凪いでいた。
『――――けた』
一つだけ、聞こえる音があった。いや、聞こえているというよりは感じている、という方が適切だった。
(何かが、何かが俺を――)
聞こえた音に五感の全てを向けた。もはや痛み熱もなにも感じない。俺にはこの声だけがあった。
『――見つけた、神の愛し子。おいで。私のもとに』
静寂の中、俺を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。それはとても甘い声だった。手招きするように、優しく抱くように俺を呼ぶ。その声はどこか懐かしく、そして、どこかで聞いたことがあるような気がした。
「しっかりして……! もういい、もういいの。大丈夫、もう大丈夫だから……!」
次第に意識が刈り取られていくのがわかった。スッと考える力が失われていく。頭を空白が支配し、そしてその中で、俺は顔をぐしゃりと歪めて泣いている少女を見た。
◇
あれから一週間ほど時間が経った。雨の中倒れて死にかけだった彼を私は店まで連れて行き、どうにかその命を繋げることができた。
今は奥に増設した部屋の中に簡易だがベッドを起き、そこで休ませている。最初の数日こそひどく衰弱していたが、現在は小康状態にまで回復していた。
簡単な軽食を手に、彼の部屋へと足を踏み入れる。部屋に入ると、彼は窓の外をじっと眺めていた。
そこに、貴方の求めるものは無いというのに。
「あ、すみません、わざわざ……」
「いいのよ。たくさん休んで早く元気になってもらわないと逆に困っちゃうんだから」
ベッドに腰を掛けたまま深めに頭を下げる彼を見て、少し申し訳なくなった。
「外、晴れないですね」
横に備え付けられている小さな机に持ってきた食事を置くと、彼が外を見ながら呟いた。
「そうね、しばらく降るんじゃないかしら」
この雨が止まないことを、私は知っている。けれど、未だ人の子である彼にそれが理解できるはずはない。だから適当にはぐらかすことにした。
「ねぇ。まだ、聞こえるの?」
それは彼が耳にしたという声。呼び声、どこかに誘おうとする明確な意識が介在する呪的なその音が、彼にはまだ聞こえているらしい。
「ええ……。だから早く向かわないと。誰かが俺を、呼んで……」
心臓がずきりと痛み、思わず胸を抑えた。
その必要はないのだ。もうその声は気にしなくていい。
「その声に従って、あなたはどうするの?」
「それは……」
幾度となくした問答だ。
もう彼を呼ぶ者はいないのだから当然、呼ばれることなどないはずなのだ。彼は、彼の中に残留した声に誘われているに過ぎない。しかし、当人である彼はそれを飲み込めないでいた。
「わかりません。でも、もう帰る場所、ないですから」
「本当に少しも、覚えていないのね」
彼の言葉を受け、視線を落とす。寂しげに微笑む彼を、見ていられなかった。
「確かに、貴方からはもう、人であった頃の大部分が消えてしまっている」
「……名前も、住んでいた場所も、なにも思い出せないですからね。嫌でも、理解します」
「それでも……」
諦観したような彼のその表情が胸に刺さる。彼はどこまで理解しているのだろうか。もしかしたら、全て悟った上で言っているのかもしれない。だとしたら、私は……。
「それでも、貴方が人をやめるとこは、ない。このままその声に従って道を決めてしまったら、貴方は何者でもなくなる。前にも言ったわよね」
それが彼に定められた運命なのだと、以前私は説明した。
「ごめんなさい、覚えて、ないです。いつでしょう……」
そう言って彼は頭を抑えた。寂しそうで泣きそうなその顔は本当に、見ていられない。
「最後に覚えてるのは、いつ?」
「……三日前です。三日前の、夕食の記憶。ああ、あの時も俺は、謝ってましたね」
「そう……」
彼の記憶能力は日に日に劣化していった。彼はもうここに担ぎ込まれた理由すら覚えていない。それを知っているのは私だけだ。彼がここを目指し倒れていたことを、私だけが知っている。
「飴は、食べてくれてる?」
「はい。あれを食べると、少しだけ、心が落ち着くんです。どこか、懐かしいような、そんな気分に……」
彼には食事の他にお手製の飴玉を渡していた。食べてくれているか心配だったが、きちんと摂っているようだ。
飴には今の彼の症状を抑制するために必要なものが詰まっている。食べていなければきっと、今日明日中に呑まれてしまうだろう。
「人でなくなったら、俺は何になるんでしょう」
彼が外を眺めながら、震えた声で聞いた。
「俺は日に日に人から遠ざかっているんでしょう? その先にいる俺は、一体なんなのかな、って。貴女みたいに、なれるんでしょうか? それとも」
次第に声量が小さくなる。彼の声が細く絞り出したような声に変わっていった。
「それとも、消えてしまうんでしょうか」
布団をキツく握りしめ、食いしばるようにその言葉を吐き出した。次第に自己が失われる恐怖に、抗っているのだ。
彼の前に示された道は大きく分けて二つだ。そしてこのまま進めば、おそらくどちらの道に進もうとも彼は消えてしまう。彼の不安は的を射ていたということ。
自己が失われ、それを自覚してしまう。その恐怖は如何ほどのものだろう。
私は、彼に何ができるだろう。こんなことを考える時点で、もう全て決まったようなものだというのに、自問する。
「貴方みたいな境遇の人を、一人知っているわ。その子は戻るべき道が無かった。自分のまま死に朽ちるか、それとも自分ではない何者かになるか。その二択で前者を選ぶことができなかった」
私が話し始めると、彼の震えが止まった。聞き入るように、食い入るように涙ぐんだ目で私を見つめる。
「その子は結局、自分ではない何者かになったわ。中途半端にその事を覚えたまま、切り離されてしまったの。選べなかったことを知っているのに、やり直したくてたまらないのに、それができない。宙ぶらりんな存在になってしまったの」
これは私のことだ。きっと彼も気づいている。だから、私から目を逸らさない。その成れの果てが目の前にいると、知っているから。
「その子はね、その選択を突きつけられた段階ですでに死んでいたの。だから、選べなかった。でも貴方は違う。貴方はまだ人よ。だから、やりなおせる。もう一度自分を見つけ直すことができる」
「そうしたら、今ここにいる俺は、どうなるんですか?」
不意にそんなことを聞かれた。はぐらかそうかと思った。本当のことを告げれば、彼はきっと迷ってしまう。知らなければいいのだ。聞かなければいいのだ。だから、
「……忘れるわ。ここにいること、ここに来たこと全て」
正直に話した。彼は、知っているのだろう。知っているから、こんなことを聞いてきたのだ。
人の身でこの場所を、天界を記憶することはできない。例えできたとして、それは夢か幻のように感じ、やがて記憶の底に溶けて消える。彼もそれは例外ではない。
言うべきではなかったと、頭では理解している。言わないほうが彼のためだったのだ。全てを忘れさせ、元の道へと戻すことが、私ができる贖罪だったのだ。
「なら……」
「貴方がここに来たこと、それ自体が間違いなのよ。こんなこと、忘れるべきなの」
彼は納得していないような表情でこちらを見ている。なぜ言ってしまったのだろう。嘘だとバレてしまったとしても、押し通すべきだった。
「ここに来たことは、本当に間違いなんでしょうか」
ポツリと言葉をこぼす。そんなの、間違いに決まっている。そう言おうとしたが声にできなかった。彼の力強い顔がそうさせない。
「ここに来た時、既に自分の記憶はありませんでした。ただ生きなければという思いだけで俺は今を生きている。俺にとっての現実は今だけです。今しかないんです」
聞いた時、涙が溢れそうになった。違う。違うのだ。彼の記憶はあったのだ。確かに存在したそれが時間の経過と共に薄れ溶け消滅したというだけ。私が消したも同然なのだ。
ここまで来て躊躇いに打ち勝てなかった、私の落ち度だ。結局、彼への贖罪を果たそうとする一方で、それから逃げる自分が居た。
「……ねえ、貴方はどうしたいの?」
「俺は、消えたくない。今あるこの思いを消したくない」
「それが貴方の最初の望みと相反しているとしても、そう思うの?」
こんなことを聞くこと自体が卑怯だ。
「過去の俺の決断なんて、もう覚えてませんから」
「そう……」
私は最初から、この答えを待っていたはずなのだ。だから、これで良い。たとえ贖罪から逃げることになるとしても、これでいいのだ。
そう言い聞かせ、私は神性を開放した。身体がふわりと浮き上がる。出で立ちも、より人の想像する神らしさを体現するものに変化しているのだろう。この姿が私は好きではないのでよく見たことはない。
「――名もなき人の子よ。その身に宿す微かな人間性よ。月神の名の下、問います」
目を開くと、青年がそこでひれ伏しているのが見えた。
「貴方には道が用意されていた。このまま進み、今の貴方を元に神と成り変わる道か。それとも、全てを忘れ引き返し人に戻る道か。……その二つを、貴方は捨てると言うのね」
「……だってそれは、俺にとっては死ぬのと同じことですから」
そうだ。その答えだ。私が彼と初めて会ったとき、彼はそう言ったのだ。良かった、彼の答えは変わっていなかった。これで私は、最終的に恨まれる。悪役に徹することができる。これで良いのだ。
「ならば、私から貴方へ、贈り物をしましょう。そうすれば貴方は外れた存在になれる」
眼の前で彼がぽかんとしているのが見える。大方、強制的にどちらか選ばされるとでも思ったのだ。あのときの私もおそらく、こんな目をしていたのだろう。
「名前を与えます。かつて私がそうされたように。今のあなたを天界に縛るために」
『――今日から君は雨宮。雨宮月代だ。これでもう君が、君という要素が奪われることはない』
彼女の言葉は今でも頭に残っている。記憶を忘れることがない神なのだから、当然と言われればそれまでだが、この言葉はたとえ私が人のままだったとして忘れなかっただろう。
「あなたは、大御。天野大御。これでもう、あなたは奪われない。失われない」
そしてこれで――。
「天野……大御……」
彼が、天野大御が己に与えら得れた名前を反芻する。馴染ませるかのように何度も何度もその名前を口にした。彼の顔に色が戻る。自己を喪失する感覚から開放されたのだろう。彼の表情からは恐怖が消えていた。
「……ありがとう、ございます。えっと、月神」
「月代でいいわよ。貴方と私はもう同格なんだから」
「この恩は一生――」
「勘違いをしているようだから一つだけ言っておくわね。貴方はいずれ、私を恨むわ」
彼の言葉尻にかぶせるようにして会話を遮った。
彼が感謝する必要も、私が感謝される理由も無いのだ。私がしたことは責められるべきことであって、貴方からそんな言葉を向けられるような存在ではない。
彼は納得していないようで、目をパチクリさせながら戸惑いと歓喜の表情を繰り返している。
「そんなこと――」
そんなことはない。そう彼はつぶやいた。けれど。
私だけは彼の、天野大御の、憎悪に満ちた表情を覚えているのだから。