Episode 3 天変
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肌に当たる陽光と、撫でるような心地のいい風を感じ、天野大御は目を細めた。静かな、物音などまるで存在しない無機質的な神殿とは打って変わり、牧羊的でのどかな田園の中に彼はいた。さほど遠くない場所から人々の声が聞こえる。これもまた神殿ではありえないことだ。
彼はこの日、下界に降りていた。
日神から助言をされた後、しばらくの間は掟神の元で補佐として仕事に就いていた彼だったが、勝手が違うためかいまいちうまく仕事を飲み込めずにいた。また、どうしても無駄な思考が混ざり集中力も散漫になりがちだった。そんな彼を見かねてか、はたまたしびれを切らしたのか、掟神は一つ提案をした。
「こんにちは、農耕神さま!」
「こんにちは。今日もお疲れ様です」
寄ってきた人間の男性に、天野の横に並び立つ女性が返事を返した。彼女に挨拶を交わす人々は、彼女から離れると唐突に落ち着き払い、何事もなかったかのように歩き出す。
大人びた雰囲気のこの女性は、作物の生育を司る神、農耕神。神の中では最も下級の擬人神に位置する神であり、その呼称の通り人のように過ごす神だ。
擬人神の役割は世界の一部として神々の仕事の成果を直接見ること。そのため人を真似て生活を行っている。
掟神の提案とは、農耕神の元でしばらく過ごす、と言うものだ。少しでも気晴らしをしてこい、とは掟神の言だが、実際効果はてきめんだった。
「天神様。どうでしょうか、下界は」
農耕神は不意に振り向くと、天野に向かって問いかけた。
「活気があっていい所です。神殿のひんやりとした雰囲気よりもよっぽど、性に合っているように感じます」
率直な意見だった。彼が思い返すのは掟神の神殿だ。しんと静まり、無駄なものをこそぎ落とした果てのような無機質な彼の神殿は、居るだけで息がつまりそうだった。一切の余分を許さないようなその雰囲気に、天野大御は中てられてしまっていた。
「ふふ、良かった。あの人には合わなかったみたいだから、同じ系列の神様である天神様もお気に召さないんじゃないかって、不安だったんです」
あの人、と言うのは掟神だろう。彼が下界になじまないことは想像に難くない。堅物の彼がこの田園風景にポツリと佇む姿を想像し、天野は小さく笑う。
「彼が特別なだけですよ。少なくとも、俺は気に入りました。正直なところ、上にいるよりよっぽど居心地がいい」
天野はそう言って、風になびき揺れる草木と、活き活きと過ごす人々を眺める。
ほんの少し前まで、自分はあの場所に居たのだと思うと、どこか不思議な気分だった。天野の中の人だった頃の記憶はその殆どが溶けて消えてしまったが、元々人間だったという認識は今でもはっきりと存在している。懐かしいような、それでいて俯瞰的な不思議な気持ちが天野の胸中を満たしめいた。
「それにしても、いい天気ですね。俺の覚えている空は雨模様だったもので、あんまりいい印象は無かったのですが……」
天野にとって空は、月神雨宮月代と出会った時に見たきりのものだ。その時の天気が天野の頭からこびりついて離れない。いや、正確には天気のことばかり、頭に残っている。
「天神様は以前も下界に?」
「ええ。元々居た、というのが正しいところですが」
その言葉に、一瞬息を呑むような音が響いたが、天野は気づかない。
「こうして空気を感じ、空を見上げると、雑念もどこかへ消えてしまうような気がします」
「天神様は、不思議なお方ですね」
微笑みながら言う農耕神に、天野は首をかしげた。
「不思議、ですか」
「はい。天空神の方々はもっと超然たる存在だとばかり思っていましたから。こんなにも私達に近しい方だとは存じませんでした」
なるほど、と天野は頷いた。天野の属する天空神は基本、下の神とはやり取りをしない。中間に位置する自然神とは多少の関わりがあるが、彼女らの所属する擬人神とは殆ど接点がないと言ってもいい。それ故に印象が最上位の神しかなかったのだろう。
「もしかして、以前の来訪は月神様とでしょうか?」
「よくわかりましたね。その通りです」
月代は下界を好んでいた。立場上おいそれと下界に降りるわけには行かない彼女だからこそ、その憧れがより強かったことは天野にも容易に想像がついた。でなければ神殿の延長であるあの喫茶店を設けたりなどしないはずだ。下界に極めて近い空間を生成することで、疑似体験を行っているのだろうと天野は推測していた。
そんな彼女の営みを、天野は否定しない。他ならぬ彼も、少なからず下界への羨望を抱いていたからだ。
「やっぱり。ふふ、噂通りの御方なのですね」
「噂?」
農耕神の何気ない一言を、天野が聞き返す。その様子に農耕神がきょとんとする。しばらくして、思い至ったように口を開いた。
「月神は異端の神である――と。もしかして、ご存知ありませんでしたか?」
「異端の、神……」
彼女の言葉を天野は無意識に反芻した。『異端の神』。その言葉に、いい意味合いが含まれていない――か、あるいは極端に少ない――ことは明白だ。
農耕神が『噂』を語り出す。
「『月神は神であり、神でない。神に背き、神を騙り、神を欺く存在である。異端で、異常で、異質で、異様で、異色で』――」
不意に、言葉が止まった。気づけば農耕神の口の動きが止まっている。否、止めさせられた。
気づけば空は曇天に覆われ、あたり一面が暗がりへと変容していた。分厚い雲はうねり、刻一刻と形を変え成長する。遠くから雷鳴の低い唸りが轟いている。風が吹き荒び、冷気が肌を刺す。
そして、雨が押し寄せた。
逆巻く風にまき上げられた雨粒が体にぶつかり次々に弾けていく。
農耕神の言葉は、嵐によってかき消された。絶えず鳴り響きつんざくような風の音が、彼女の言葉を遮る。
辺からは人の気配が消えていた。この場にあるのは自然の音のみだ。このあまりにも激烈な気配は、人の子を寄せ付けない。
天野は立ち尽くし、動かない。突然の豪雨に驚いているわけではない。彼は必死だった。自分の心から溢れていく感情を押さえつけるために、ただ前だけを見て心をなだめていた。
次第に雨は止み、風が和らぎ、世界に光が戻る。
「私の失言をお許しください、天神様」
気づけば彼の横で農耕神が膝を付き顔を伏せていた。
我に返った天野が畏まる農耕神に対して言う。
「……失礼しました。謝るのはこちらの方です。申し訳ない」
神威。神の、己の権能に基づいて自然を行使する原初の御業だ。通常の自然神や擬人神程度の神であれば一時的な天候不良に留まるはずの力。だが、天神である天野が起こす場合はわけが違う。
天空神が滅多に地上に降りることがない理由はここにあった。彼らの役割に与えられた力は余りにも強大で、ひとたび念じれば容易に天変地異すら引き起こす。
「まだまだ未熟、ということですね。あれしきで心を乱されるとは、天空神の名折れです」
そう言って天野は農耕神に頭を下げた。突然のことに、農耕神が驚き困り顔で言った。
「そんな、天神様が頭を下げることではございません。それに、あの程度で済んだのです。天神様が未熟だなんてことはありえません」
実際、あたりを見渡しても被害の度合いは突発的なにわか雨程度で、災害に届かないうちに沈静化されていた。最高神であるということを加味すれば、天野の力の制御が相当なものなのは紛れもない事実だった。
「そう、でしょうか……」
なおも訝しむ天野に、農耕神がまるで脅すように言う。
「天神様はこの星を司る神です。もしも本気でお怒りになられれば……」
「き、気をつけます」
全てを語ることは無かったものの、その先が容易に想像でき、天野は黙りこくる。
その様子に農耕神がくすりと笑う。気づけば畏まった雰囲気はどこかに消えていた。
「天神様。大方本日の確認は終了しましたので、そろそろ戻りましょう。この様子でしたら予定通りに進むはずです」
気づけば辺りは薄っすらと暗くなっていた。もうじき日が落ちる。
「わかりました。神殿へ戻られるのですか?」
「はい。と言っても、簡素なものですが……」
そう言うと彼女が手を一回叩く。パシン、という乾いた音を鳴らすが、一向に転移する様子がない。不思議に思った天野があたりを見渡すと、農耕神の正面に小さな水車小屋が鎮座していた。
「ようこそ、天神様。これが農耕神の神殿です。人を招くための、人の生活に根ざした空間で大変恐縮ですが……」
小屋を前に、天野は言葉を失っていた。神殿というには小さいそれは、まさに「人のための住まい」だ。天野ら天空神に充てがわれた「神の座す空間」とはわけが違う。考えうる限り完璧な居住空間に、天野は感心していた。
「すごい……。これが擬人神の神殿ですか……」
「はい。我々擬人神は人とそう変わらぬ時の流れを生きます。人のように生き、生活する。つまり、地上のどこかに住まう必要があったのです。しかし、我々は神々の力の行使が正しく行われているかを、その身で確かめなければならない。そのためには私達擬人神は遍く世界に均一に存在する必要がありましました」
天野も知識としては知っていた。擬人神は個ではなく群であると。今こうして天野と会話を行っている農耕神はその中の一人に過ぎず、世界中に数多存在している。
「この空間はそんな、半ば人として存在している私達の住まいであり、そして唯一、個へと戻れる場所でもあります。群で得た情報を集約するための場所なのです」
農耕神は扉に手をかけ、静かに開く。中には農耕に必要な器具が並んでいる。中心に石臼があり、水車から動力を受けて回っている。
「天神様、私はもう寝ます。そろそろ他の私も戻ってくる頃ですから、集まる情報を整理しないと……」
下界に根ざす擬人神たちは睡眠を取る。集約される情報を整理する必要があるためだ。一度に膨大すぎる量の情報が雪崩れ込む。それを整理し、異常がないか精査する。そのためにも彼女たちに睡眠は不可欠だった。
「ええ、わかりました。生憎と俺は睡眠とは無縁なので、外を散策してきます。また明日お会いしましょう」
「おやすみなさい、天神様」
お互いに挨拶を済ませると、彼女は小屋の中へ入っていった。
既に夜もだいぶ更け、辺りは濃い闇に覆われている。暗がりを嫌にはっきりと見通せることを一瞬不思議に思うも、神故に夜目が効くのだと気がつくまでそう時間はかからなかった。
「月代さんも、この光景に憧れたんでしょうか……」
空を見上げると、そこに薄っすらと月が浮かんでいる。殆どが闇に覆われてその姿を見ることができないが、今の天野ならば見通せた。
「今日は晦日ですか。もう、ひと月経つのですね」
月を見ながら天野は天界に初めて足を踏み入れた日を思い浮かべていた。右も左もわからない天野に、月代はよくしてくれた。それ以前に、彼女に救われた立場の天野だ。こうして分かたれ、彼女への恩義を果たしたいという思いがより一層強まったようにすら思えていた。そんなことを考えていた時だった。
――不意に、世界が歪んだ。
突然体の感覚が消え、辺りの音が止み、世界が収縮していった。
この感覚を、天野はよく知っていた。
足や腰が地面から離れたような嫌な浮遊感が体を支配する。
「なっ、これは――」
これは転移だ。天野もこれまで頻繁にこの力を行使してきた。だからこそ感覚で理解している。
天野大御は今、どこかへ転移しようとしている。
肝心のどこへの転移かが全くわからない。行使している対象が不明だった。農耕神は既にいない。周りに神の気配もない。
パシンッ――と乾いた音が響く。鳴らしたのは他ならぬ天野本人だ。
強制転移に抗うため、己の神殿目掛けて飛ぶことを選んだのだ。補佐という立場を除けば彼は天空神であり、彼の力に対抗できる存在などそういない。
収縮が加速し、世界が閉じる。
唐突に視界が開けると、そこは天空神の神殿だった。
見慣れたはずの空間。見知った場所。
そのはずだった。
「ありえない……どういうことだ……。どうして……!」
彼の目論見は正しく叶っていた。途中から転移の制御は彼の元に移っていた。
彼の慟哭が神殿に響く。
「どうして転移先が、月神神殿なんだ……!」
無機質な神殿に彼の言葉だけが響き渡った。その問いへの答えは、既に自分が握っていた。しかし天野はそれが認められない。認めるわけには行かなかった。こんなことはあり得てはいけないと、天野は繰り返し言い聞かせる。冷静さなど欠片もなく、焦り喚く。
「……月神! 雨宮月代!」
何度呼んでも答えは帰ってこない。
「これは、何かの間違いだ……。こんなこと、ありえるはずがない……!」
事実から目をそらすように叫ぶ天野に、彼の神の権能が語りかける。
――月神ならもう居るだろう?
「どこにもいない……!」
――お前が、
「違う……」
――俺こそが、
「違う!!」
――天野大御こそが、
その日、月神天野大御の嘆きが神殿を染め上げた。