Episode 2 日神と飴玉
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「月代さん、彼の業はどうでしょう」
天野がカップを布巾で拭きながら、横でコーヒーの用意をする月代に囁いた。彼らの前方、喫茶店内には若い男が一人座っていた。男の顔は優れなかった。先程からずっと心ここにあらずと言った様子だ。時間を気にしているのか、しきりに腕時計を確認し、そのたびにそわそわとしている。
男のほかに客はいない。もとより静かな店内だが、これではまるで閑古鳥が鳴いているようだ。しかし、それを気にする人は誰もいない。天野も月代もただ黙々と仕事をこなしていた。
「それほど大きな業は抱えていないようね。ただ……迷っているみたい。人生のこと、将来のこと。全てにおいて漠然とした不安を抱えて、思い悩んでいる」
彼女は客の男を眺め、そう囁いた。彼女の目には、彼の抱える悩みや、それによってもたらされる穢れ、罪障が映っているのだと言う。彼女の役目は人々からそれらを取り除き清らかにする『潔斎』、つまり禊ぎを行うことだ。
「最近、そういう人が多いですね。……これだけ同じ悩みを抱えた人間がいるのですから、まとめて潔斎したほうが効率よさそうですが」
月代の答えを聞き、天野がそうぼやいた。何気ない一言に、月代はくすりと笑う。
「極めて人間的な考え方ね。神は効率なんてものは気にしないわ。時間という概念が曖昧だから、時間を短縮しようなんて思わないのよ」
月代がそう言うと、天野は煮え切らないといった表情で頬を掻いた。わかってはいても、心のどこかで納得できていないのだろう。困惑が顔に現れている。
「まあ、与える飴が一種類で済むから、楽といえば楽よ」
「さっきと言ってることが違うような気がしますが」
「それはそれ、これはこれよ。仕事は楽な方がいいでしょう?」
それは人間的な考えではないのか、と天野の喉から出掛かったが、言葉にはしなかった。天野は軽くため息を吐くと、来客の方を眺めた。彼は椅子に座りぼうっと外を眺めている。
月代がつかつかと歩いて行くと、男に飴玉をひとつ差し出した。個包装された普遍的なそれを、男は自然と手に取る。男は飴を満足そうに頬張る。男の変化は劇的だった。憂鬱そうだった顔は次第に晴れ、落ち着きを取り戻していく。時計を眺める回数も減り、まっすぐと正面を見据えている。
やがて飴を舐め終わったのか、彼は唐突に席を立った。彼に対する月神の仕事が終わり、ここを去る時が来たのだろう。
「飴玉は月を象ったもの。即ち月神を象ったものであり、月神の作ったそれには力が宿る……」
月代が彼に小さく手を降る横で天野が小声で呟いた。
「こうして目の当たりにしても、実感はわかないですね」
何度か口の中で言葉を反芻してみても、天野にはそれがどういう現象なのかいまいち飲み込めなかった。困惑を隠そうとしない天野に、月代が笑って答えた。
「私の仕事だもの、天野くんにすべて理解できることではないわ。あなたの権能や力は別のものだから」
「それはそうですが、今の俺は月神補佐です。多少は理解しておかないと」
「はいはい」
月代が目を細め、くすくすと笑う。
「焦らずとも、あなたにもわかる時が来るわ。今がその時ではないだけ」
天野は、本当にそんな日が来るのかと疑問を隠し切れない様子を隠さない。訝しんだ様子の天野を尻目に、月代がコーヒーを淹れ始める。彼も気持ちを切り替えるとテーブルの片付けを始めた。黙々と目の前の作業に没頭する。
すべてを終えた彼がカウンターへと戻ると、ふと疑問をもらした。
「次の客、遅いですね」
先ほどの客が退転してから、短くない時間が流れている。だというのに、未だに次の客の気配がないことを天野が訝しんだ。
そんな天野の呟きを聞いて、ふと月代が思い出したように言った。
「ああ、そういえばそろそろね」
「何かあったんですか?」
頭に疑問符を浮かべる彼に、月代はいたずらっぽく答えた。
「来客よ。人間ではないけどね」
言い終わるのと同時に扉が勢い良く開く。ドアベルがやかましく鳴り響くと、賑やかな足音が店内にこだました。
「やっほーやっほー、来たよー月代ちゃん、天野くん!」
「なるほど、日神ですか」
来訪したのは天野もよく知る相手だった。
日神。最高神たる天空神、その三柱の一人だ。この場の誰よりもハツラツとした仕草は、子どものような体躯と、長く伸ばした金色の髪の明るい印象によってさらに強調されていた。
彼女は小気味よくつかつかと音を鳴らしながらカウンター席に向かい、腰を下ろした。
「悪いね、業務を滞らせちゃって」
「問題ないわ。私も日和ちゃんに会いたかったし」
月代がそう言うと、日神――日和は目を細めて微笑んだ。
仲睦まじげに語らう二人を尻目に、天野は来客が途絶えた理由に一人納得していた。
神同士の業務は相容れない。現在は月神の補佐として存在する天野は別として、日神である彼女が月神の神域であるこの場に来た段階でお互いの仕事が完全に停止する。故に、彼女がこの場にいる間は来客はない。
「神殿じゃ息が詰まっちゃってね。会う予定もあったことだし、たまにはハメを外さないとね」
それに時間は無限にあるからね、と日和が囁いた。その言葉に月代がくすりと笑う。
「どうぞ。いつもと同じ、苦味の強いコーヒーよ」
程なくして日和の前にコーヒーが差し出された。その横には包み紙にくるまった飴玉も一つ添えられている。彼女はおもむろに飴玉を口に放り込むと、顔をしかめた。一拍間を起き、ブラックのままのコーヒーを啜るとほっと一息ついた。
「苦いコーヒーがお好きなんですか?」
見た目とはかけ離れた趣向に天野が思わず声をかける。
「いや、別に? ただ、月代ちゃんの飴を舐めたあとだと、甘かろうと苦かろうと変わらないからね」
彼女のあんまりな物言いに、月代が眉をしかめ、天野が苦笑する。
「気持ちはわかります。この飴、すごく甘いですからね」
天野は以前何度か口にした飴の味を思い出していた。この世の物とは思えない程に甘いその味は、彼の脳内に鮮烈に刻まれていた。
「いいじゃない。私は好きよ。甘い飴も、甘いコーヒーも」
しれっと言い放つ彼女に、天野と日和が揃って顔を歪ませた。彼らの反応が、彼女の作る飴玉やコーヒーの味を雄弁に物語っている。そんな二人の反応を見てもなお、月代は素知らぬ顔をしていた。
「そういえば、日神。ここには何か用があって来たのでは?」
一息つく彼女に、思い出したようにに天野が問いかける。
「ああ、うん。今日はキミの様子を見に来たんだよ」
「俺の様子、ですか」
「抜き打ちでこさせてもらったけど、だいぶ慣れたようで安心したよ。その様子なら大丈夫そうだね」
なるほど、と天野は日和の来訪が知らされていなかった理由に納得する。入ってきてからの反応を試されていたのだ。
「まだ少し抜けませんが、精進ですね……」
「まあいいんじゃないかな。少なくとも――」日和の視線が手元から月代に移動した。「あの頃の月代ちゃんよりは遥かにマシだからね」
突然名指しで話題に挙げられた月代は目を細めてくすりと笑った。
「あの頃のことは言いっこ無しよ。あの時は日和ちゃんだって――」
「おっと、悪かった。この話は無し。とんだ藪蛇だ」
月代の応酬に日和が堪らず白旗を上げた。月代の方が一枚上手ということだろう。当の本人はしてやったりと言った顔をしている。
「さて」
日和は慌てて乱れた居住まいを正すと仕切りなおした。
「月代ちゃん、しばらくの間、天野くんを借りてもいいかな?」
「大丈夫よ。今日はもうたいした用は残ってないし。それに、教えることもそろそろ無くなってきたしね」
「教えること……ねえ。まあいいや、そういうことなら、少しの間、彼を連れて行くよ」
彼女はそう言いながら席を立つと、天野に目配せをする。
「転移ですか」
「うん。いろいろとね、最終的な確認もしなきゃいけないし。そういった格式張ったことはここではできないから」
今まで幾度となく日神の神殿を訪れていた天野は、日神からの言葉に気を引き締める。
正直なところ、天野は日神の神殿が得意ではなかった。彼にとってあの場所は出向く際に覚悟を要する場所だ。短く息を吐き気持ちを整える。
「もう大丈夫です、いけますよ」
「あ、ちょっとまって」
不意に月代が彼を呼び止めた。
「このあとあいつに会う予定でしょ? これ、渡しておいて」
そう言って渡してきたのは一つの飴玉だ。あいつ、というのは十中八九掟神の事だろうと想像がついた。深くは聞かず、彼女から飴を受け取る。
「わかりました。渡しておきます」
「お願いね。じゃあ、二人ともまた後で」
手短に挨拶をすると、天野は日和の横に並び立つ。
「準備はいいかい? それじゃあ」
両手のひらを強く打ち合わせる乾いた音が一回、店内に響いた。
「――飛ぶよ」
若干の浮遊感と共に世界が暗転し、そして彼の意識は呑まれた。
◇
「大丈夫かい、天神くん」
先ほどとは少しだけトーンの落ちた日和の声で、天野大御は目を覚ました。その声はどこか遠くから投げかけられているようで、少し小さく聞こえる。転移が終わったのだろう。まぶた越しに眩しさと、皮膚を焦がすような熱を感じた。
「ええ、……大丈夫です」
天野はほとんど横たえるような姿勢から、片膝をつきながらようやく立ち上がるとそう答えた。
「本調子ではないのだから、無理することはない。夜から昼へと移動したんだ。負担は大きいだろう? しばらく慣らすといい」
よろよろと立ち上がる彼にとって、彼女の申し出は天野にとって渡りに船だった。彼女のいう通り彼の体にかかった負担は非常に大きい。
「……それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」
彼ら神は自然の体現だ。故に、自然現象がお互いに干渉しあうように、神同士も常に影響し合う。
月神補佐という立場の彼だが、その本質は天神。空という千変万化を司る神だ。つまるところ彼は天空神三人の中でも、とりわけ環境の影響を受けやすかった。
先ほどまで居た場所は夜を司る月神の神殿――正確にはその延長――であり、今いる場所は正反対の昼を司る日神の神殿だ。夜から昼への急激な転換に、彼の体は拒否反応をしめしていた。
一拍、また一拍と調子を整えるたび、天野の体に変化が起こった。先程までは黒色だった髪の毛が明るい空色へと変化していった。それはまるで、日中の空模様を反映しているかのようだ。
「お時間いただきありがとうございます、日神。もう大丈夫です」
ようやく元の調子を取り戻した天野が、背筋を伸ばし、玉座に座す日神と正対する。
「気にすることはない。それはキミの性質に由来するものだ。どう足掻いたところで克服できるものではない」
先程よりも堅い日和の口調を聞き、天野は再認識する。ここは彼女の神殿であり、ここにいる間彼女は日和ではなく、神々の頂点である日神として君臨する。それは天野も同じことだ。彼がここにいる間は天野大御ではなく天神として振る舞わなければいけない。
「それでは、早速だけど本題だ。今日あの場所を訪れたのは他でもない。君を独り立ちさせてもいいかを判断するためだ」
日和は一つ間を開け、再び語り始めた。
「知っての通り、キミには本来の天神としての役割が振られていない。代わりに月神補佐という仮の役割を与え、月神の元で神としての生活に慣れてもらっている。時に天神くん。今日まで星が幾十回廻るほどの日数を保佐として費やしてもらったわけだけど……どうだった?」
言われ、天野は目を閉じて考えこんだ。どうだった、とはまた漠然とした問い掛けだったが、自身の中で答えをまとめると、静かに語り始めた。
「人と神との感覚の差異を埋めるには、充分だったかと思います。未だに慣れないことも多いですが、月神から多くを学べましたので、問題はないかと」
それに、と天野が言葉を続けた。
「彼女には……月神には返さなければならない恩があります。補佐という立場で少しでも彼女の役に立ち、その恩を返せるのであれば、これ以上のことはない」
「恩、ね……」
日神が小さくつぶやいた。
「それは、キミが彼女に救ってもらったこと、かい?」
この時の日和の言葉が冷ややかなものであることに、天野は気づかない。
「ええ。彼女があの時手を差し伸べてくれなければ、今の自分は存在しません。月神は、俺のことを救ってくれたのです」
若干の熱を含んだ天野が語り終えると、ようやく場の空気が変質したことに気がついた。日神が深いため息を吐く。
「――私から一つアドバイスをしよう。キミは大海へと乗り出し、広い視野に立つべきだ」
「それは、どう言う……」
「言葉通りの意味さ。キミはまだ成り立てで、視野も狭い。ならばこそ、もっといろいろな立場から世界を見渡してみるといい。只今をもって月神補佐の任を解く。そしてキミには……そうだね、掟神補佐の立場を与えよう」
矢継ぎ早に立場が変わり、天野は目を瞬かせた。
困惑する彼を差し置きため息混じりに日和が告げる。
「それにね、キミが彼女からどんな恩を受けたかはこの際どうでもいいけど、それはきっとキミが思っているような――」
唐突に彼女が静止する。続く言葉を探しているわけでもなく、何かに思い至ったかのように言葉を失っていた。数秒、無音の時間が流れる。
「――日神?」
静寂を破ったのは天野だ。その一言で、日神がようやく再起動を果たした。
「あー……。いやすまない。今のは聞かなかったことにしてほしい」
「はぁ……」
難しい注文に、天野はぼんやりと返答した。
「キミに告げることは以上だ。ご足労感謝するよ。さあ、帰るといい。くれぐれも、昼夜の転換には気をつけるように」
言うが早いか、日和はその場で手を叩く。空間が歪み強制的な転移により、呆気にとられ何も対応できなかった天野はその場から姿を消した。あとには日和だけが残される。
一人になったことで日神という皮が剥がれ、日和へと戻る。彼女は肘掛けにもたれかかるような楽な姿勢を取ると、ため息を吐いた。
「ごめんごめん。ついうっかり口が滑っちゃったよ」
小さく囁いたその声が神殿に木霊する。数回響いてやがて止まると、目を閉じて呟いた。
「さて……。これが私にできるせめてもの罪滅ぼしだ。あの時キミに対してはできなかった、ね」
どこか寂しそうな消えゆく声が、融けて消える。
「天野大御。キミにはまだ選べる道がある。一つに囚われず、自分の思う道を進み給え……」
その独白は、どこにも届かず彼女の中に沈んでいった。