Episode 8 濫觴の天
8
退店のベルの涼やかな音色がやや古めかしい洋風の店内に響き渡る。
店の主人、雨宮月代は退店する少女に小さく手を振りつつ、ため息を吐いた。接客ということで微笑んではいるものの、その顔はどこか物憂げだ。
「彼女も、たとえ次にまた来店したとしても、なにも覚えていないのよね」
いつものこと。考えても仕方のないたぐいのことだ。
神と人は相容れない。同じ地球という場に根ざした神と人だが、両者の在り方はあまりにもかけ離れている。故に、神が人と接する場合はいくつかの制約が存在する。
特例を除き神は地上に降りることができない。人は神の存在を記憶することができない。両者の間に縁を結ぶことはできない。
他にも様々な決まりごとがあるが、彼女が頭を悩ませているものは以上の通りだ。つまるところ、神と人との間のやり取りは綺麗さっぱりなかったものとされてしまう。
「わかってはいるけれど、寂しいものね」
そんなことは神になった時に了承済みなのだから、と小さくつぶやく。その顔はどこか寂しげだった。こんなことをもう何度繰り返したかわからない。幾千と人と接してきた。しかしそのどれも、人々の記憶には残らない。
「人を真似ても、人あらざる私は……」
長い時間を彼女は神として生活してきた。しかし、それだけの時間を経ても彼女の心から空虚感が消えることはなかった。これまでの日々の中で幾度となく人の営みを眺め、そしてそれを羨んできた。
「だめね、会話できる相手を見つけちゃうと」
彼女が思い浮かべたのは天野大御という青年だ。彼は比較的月代に近い神だ。神としてはあまりにも未成熟で、そのあり方はむしろ、人に近い。そんな彼とのふれあいに、月代の心は刺激されていた。
「あんまり人の心に毒されるというのも、問題ね……」
小さく息をつくと業務のリストに目を通した。予定では次の人間が訪れるはずだが、どうにもその様子がない。なにかあったのかと思ったが、特にリストにおかしな点はなかった。通常神の業務は寸分の狂いなく遂行され、遅れることはない。
不思議な遅延に首を傾げたが、やがて原因に思い当たる。数回頷くと、どこからか本を取り出し読書を再開した。静かな店内にページを捲る音が響く。
読書を初めてしばらく経ってから、不意に鈴の音が鳴った。来客の予想をしていたためさして驚くことはなく迎え入れた。
「あら、珍しいじゃない掟神さん」
彼女は芝居がかった言い方で流れるように彼を迎え入れた。皮肉めいた言い方だったが、来訪者は顔色を変えず、挨拶もせずにズカズカと上がり込んできた。
「ふん、白々しい。貴方なら私がここに来ることもわかっていただろうに」
訪れたのは少々やつれた顔が特徴の細身の少年だ。幼い外見とはかけ離れた大人びた雰囲気をまとい、見るものにアンバランスさを感じさせる。感情を感じさせない顔で、鋭く月代を見つめていた。
掟神と呼ばれた彼は、人々の世界の原初の法こと自然法を司る神だ。月代が唯一「あいつ」と呼び捨てる神でもある。彼自身も月代をよく思っていないため、最初からお互い喧嘩腰だ。
店の中央で仁王立ちをする彼に、月代が声を掛ける。
「相変わらずね。座ったらどう?」
挑発するような雨宮の態度に掟神は肩をすくめて言い返す。
「別に疲れるわけでもないのでな。それに、長居するつもりもない」
やせ我慢――というわけではない。彼も神であり人ではない。故に決して疲労することはない。
「あ、そ。まあいいけれど、この店に入ったからにはコーヒーの一杯は飲んでいってもらうわよ」
売り言葉に買い言葉。棘のある物言いだが、掟神は月代――月神よりも下級の神だ。強制力というほどでは無いにしろ、その言葉には力がある。掟神は嫌々という空気を醸しつつ、表情を変えずにカウンター席に腰を下ろした。
すでに準備はできていたようで、時間をおかずにコーヒーカップが置かれる。掟神は差し出されたカップを手に取った。
「来ることがわかっていたなんて、随分な言いよう。まるで予言者かなにかね、私は」
月代は自分のコーヒーを淹れながらつぶやいた。その声は天野や日和と話すときとはまた違う、はっきりと毒を感じさせるものだ。
「抜かせ。天界の行動の殆どを予測しているくせに、どの口が言う」
「そんなだいそれたことはしてないわよ。買いかぶりすぎにも程が有るわ」
「どうだか……」
言葉の応酬を終えると、掟神は目を伏せてコーヒーを飲んだ。苦味のある液体が喉を通り、ゴクリと音を鳴らす。その様子はどこか不器用で、月代は思わず笑いそうになり口に手を当て隠す。
「何がおかしい」
気づかれたようで、掟神は半目で月代を睨みつけた。人相の悪い顔立ちのせいか、威圧的だ。
「どう、美味しいでしょ」
「あいにく、味覚なんてものは持ち合わせていない」
素っ気のない返答を聴いた月代は口を尖らせた。予想はしていたことだ。
「そうね、確かに、神に味覚はないわ。でも――」
何かを言おうとし、しかし口を止めコーヒーを口にする。その後の言葉は出てこなかった。
しばしの沈黙。会話がない、というよりはお互い睨みを効かせ硬直している、というほうが正しい。ピリピリとした空気が店内に満ちる。時計の針と、コーヒーを啜る音だけが部屋の中に響く。
最初に動いたのは月代だった。
「それで、要件はなにかしら。遊びに来た、なんてわけじゃないでしょう」
「当たり前だ」
掟神はコーヒーカップから口を離すと、眉間にしわを寄せながら話を始めた。
「――天神代行権限を持って、月神。貴方を捕縛する」
しばしの静寂が部屋を包む。お互いに無言。すべての音が過ぎ去ったかのような気さえした。
「ふぅん。やっぱり、貴方が天神の権限をさらったのね」
月代のいたずらっぽい声が響く。まるで他人事のような態度に、掟神は反応を示さなかった。
「人聞きが悪い。有効活用していると言ってほしいな。殆ど空位と化していた天神の座を埋めてやっているのだ。感謝こそすれ、悪しざまに言われる筋合いなどない」
掟神は月代を睨みつけた。その瞳は確固たる信念を感じさせた。何も語らない月代に向かってため息をつく。
「なるほど、ね。彼を一時的に農耕神兼月神両補佐とし、天神から完全に隔離する。そのうえで、自身を天神代理とし彼から帰る場所を無くす……神にしては、考えたじゃない。上出来だわ」
お互い、向き合い言葉を交わしているようで、一方的な言葉の応酬を続ける。いや、どちらかと言えば月代のほうが掟神の言葉を躱していた。意図的に避けるように会話を逸らしているようにすら見えた。
「貴方もやっていたことだ。私はちょっとばかり参考にさせてもらったに過ぎない。褒めるなら自分の悪知恵を褒めるのだな」
掟神はなおも月代を睨みつけたままだ。その視線は先程よりも強くなったようにすら感じる。
「答えろ」
語調の強いその言葉に、月代がようやく反応を示した。
「答えろ、月神。奴を――天野大御を天神の座から意図的に遠ざけて、何をしでかすつもりだった。月神」
もう一度、言い聞かせるように月代の瞳を見つめながら言った。月代は見つめ返し、そして不敵に笑った。
「あら、既にわかっているんじゃないの? お見通しでしょう、その天神の権能で」
飄々と言ってのける月代に、掟神は思わず面を食らう。はぐらかしたり、嘯いたりするものとばかり考えていたために、その顔は驚愕が見て取れた。
「何を考えている。今の私には天神の権能があるんだぞ」
思わずたじろぐ掟神に対して、月代はあくまでも冷静だった。
「好きにしなさいな。今までも、これからも、私は方針を変えるつもりはない。それに……」
彼女が言葉を紡いだ瞬間、掟神に得も言われぬ悪寒が走った。
「どうせ貴方に私は捕らえられない」
掟神が目を見開いた。その目は困惑に染まっている。
月神が消えた。
依然として、目の前に雨宮月代は立っている。確かにその場に存在している。だというのに、月神としての気配だけが、綺麗さっぱり消え去った。
月神の一切を感知することができない。目では見えているのに、感じられない。そのことが、掟神を恐慌させた。
「なんだ……何が、起こって……」
「面白い顔をしているわね、掟神さん。そんなに不思議かしら?」
「月神、一体何をした……!?」
「月神? 貴方の権能に聞いてみなさい。月神は今、どこにいるのか」
「何を……」
間を起き、掟神は手で顔を覆う。髪をかき乱し、かつて無いほどに憎悪に染まった表情で月代を凝視した。
「お前は……! この期に及んであいつを利用するのか……!」
怒りに染まったその言葉に、月代は表情一つ変えることはなかった。そればかりか、およそ人とは思えないような冷たい顔をしている。そんな月代が底冷えするような感情のない声ではっきりと言った。
「そうよ」
月代の返答に、掟神の動きが完全に停止した。
彼の瞳孔は小刻みに動き、呆然とした視線で月代を見ていた。
「彼は私の計画に必要な駒。貴方が権能で知ったその計画の、最も重要なパーツよ。……利用しないで、どうするの」
自分は今、恐ろしいものと対峙している。目の前にいるのは神でも、人でもないのだと、掟神の本能が告げていた。掟神は堪らず席を立ち、後ずさった。
「自分が何をしようとしているのか……わかったうえで言っているんだな……?」
「当然」
掟神を追うように、いや、追い詰めるように月代が店の中へと歩を進める。
「じゃなかったら、こんなだいそれた計画建てないわ。そう思うでしょ?」
「貴方は、狂っている……」
掟神は同意を求める月代を突き放す。まともに取り合ってはいけない。あれは獲物を狩る者の目だ。まともに相対すれば狩られ、毟られる。そういう直感が掟神を支配した。
「……そうやって今までの天神もだまくらかして来たのか」
「気づいたのはあなたが初めてよ。気づかせてあげたの」
「なっ……」
「だって、こんなこと露見させるわけにはいかないじゃない? 仕事熱心な神々だもの。血眼になって私を止めに来るに決まっている」
だから隠していたの、と月代は続けた。その顔は無邪気な子供のようにも、冷めた諦観者のようにも見えた。彼女は楽しそうに、リズムを刻むかのように言葉を綴っていく。
「でももういいの。もう、時は来た」
「……ッ!」
「流れだした水は戻らない。もう動き始めてしまった。だから、私はやるの」
「……大罪だぞ。場合によっては、貴方の存在が消えるかもしれない」
身を案じたような掟神の言葉を月代は遮った。
「それが、どうしたの?」
彼女はきょとんとしていた。まるで、そんなことを一度も疑問に思ったことがないように。
「私は消える。そして天も落ちる」
一歩、二歩と月代が距離を詰め、そして掟神が後退る。次第に壁が近づいてくる。
「これは私の復讐。愚かな天への誅伐。止められるものなら止めてみなさい」
月代はそのまま歩を進め、掟神の前を通り過ぎる。
「神でも人でもない私を、あなたは裁くことはできない」
独白のようにつぶやく彼女を、掟神はただ静かに見つめていた。どう接するべきか推し量るような顔をして、ただただその場に釘付けになっていた。
扉まで歩くと、ドアノブに手をかける。
「本当に、やるのか」
月代は答えない。どこか悲しそうな視線だけが投げかけられた。
扉が開く音と、それに合わせてドアベルの涼やかな音色が鳴る。
「奴は、知っているのか?」
「知ってるわけ、ないでしょう。彼はこのまま何も気づかずに朽ちる。それでいい。知らないほうが、気づかないほうがいいことだってある」
それでいいのか、と彼が問いかけようとした時、不意に月代が振り返った。
「そうそう。彼から貰った飴、美味しかった?」
突然の問いかけに掟神は沈黙で返した。この問に対して彼はなんと答えるべきかわからなかった。
「そう、食べたのね」
月代は無言を肯定と取った。見透かすような眼だった。まるで、全てがお見通しと言わんばかりのそれに、掟神の全身に悪寒が走り抜ける。
「御愁傷様、あなたももう、戻れない」
囁くような声に全身がこわばる。何かを盛られた。そう気づくのに大して時間はかからなかった。
「どうやったら私を捕まえられるのか、その頭で考えなさい」
その言葉を最後に月神雨宮月代は姿を消した。その場に取り残された掟神が呆然と立ち尽くす。
天界を取り巻く大罪は、既に濫觴を迎えていた。