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Episode 0 誰かの夢

     0


 途方もないほどの深い闇の中に、私は居た。

 ただただ漠然と存在する「ここに居る」という感覚とともに、私はたゆたっていた。私の存在を証明できるなにかがあるわけではない。けれども私の意識は確実に、ここに居ると認識していた。


 気を抜けばその感覚も呑まれ、沈み、消えてしまうような混沌の世界。

 例えるなら、少しばかり自我のある夢のようなもの。この世界は『居る』という認識だけで成り立つ場所なのだと、明確な理由も答えも無いまま私は納得していた。


 私以外には何もない世界。全てが私の感覚に一任されている。時間という概念は存在しないも同然だ。一体どれほどの時間が流れたのだろう。一日かもしれないし、一ヶ月かもしれない。ひょっとしたら、気が遠くなるくらいの長い時間を、こうして漂っていたのかもしれない。


 こんなにも孤独な世界だというのに、不思議と悲しみや苦しみ、寂しさのような感情は沸いてこない。もしかしたら、感情そのものが私にはなかったのかもしれない。何も感じることは無く、何もないこの世界に疑問を抱かず、ただただ、私はここに居た。


 淡雪のように溶けゆく思考の中に、一片ひとひら強い疑問が浮かんできた。

 私は今までどんな場所に居たのだろう。それは存在の肯定。私という存在が確かにあったことを反芻するための確認。じっと、深く見つめなおした。

 思えば、夢のような空間に居たのかもしれない。風景が、場面が、面白いように前後のつながりも脈絡もなく切り替わり、人物すら泡のように消え、影のように現れる。そんな普遍的な夢のような情景が、脳裏に浮かぶ。楽しかったような、悲しかったような。そんな胡乱な感情が溢れては溶けていく。


 この真っ暗闇の空間も、夢の続きなのかもしれない。

 だとしたら、嫌な夢だ。こんなにも何もない夢なら早く覚めてくれればいいのに。そう思い、まぶたをぎゅっと閉じた時だった。


 ――()()()。真っ暗闇だから、何も見えないはずなのに、まぶた越しに感じた明るさはまるで目を突くようだった。疑問よりも好奇心が勝り恐る恐る目を開けると、遥か遠くに淡い光が灯っているのが見えた。

 その光は暖かかった。見つめているだけで満たされていきそうな、そんな気さえした。ただの暗闇に過ぎなかった空間に生まれた光を、私はじっと見つめていた。


 あの光のもとに、行かなければならない。

 どうしてか理由はわからない。しかし、私は直感した。このまま闇を漂うだけではだめだと、心の何処かが焦燥にかられるように繰り返している。目の前の柔い光を目指さなくてはいけない。でなければ、待つのは――。


 自然と、脚が動いた。

 脚は何もない空を蹴り、身体を浮遊感が支配する。

 いくら進もうとも光に近づくことはなかった。脚だけでなく、空を掻き分けるように腕も動かした。それでも、近づかない。奇妙な浮遊感に苛まされる。距離感を喪失したこの世界では、自分が進んでいるのかどうかわからない。止まっているかもしれないし、もしかしたら沖へ流されるように遠ざかっているのかもしれない。


 藻掻くたび、足掻くたびに、焦りが体を支配する。たどり着かなくてはならない、という焦燥だけが強くなっていく。一刻も早く、光を掴まなくてはならない。そうしなければ――

 疑念が頭をよぎる。

 そうしなければ、どうなってしまうのだろう。


 ゾッと、体を得体の知れない感情が走る。この背中から心臓をわしづかみされるようなおぞましい感覚を、私は知っている。

 恐怖だ。

 怖い、嫌だ。湧き出たその感情が焦りを生み出したのだ。生唾を飲み込み、後ろを振り返る。

 そこには、光も色もない、ただただ無限に広がる雄大な穴が待ち構えていた。か細い光などものともしない、全てを飲み込むような暗黒。

 歩みを止めた時、それに呑まれてしまうのではないかと錯覚するほどの深淵に、私は思わず身震いする。


 あれに追いつかれてはいけないのだ。追いつかれた時、具体的にどうなるかはわからない。しかし、「終わり」が待ち構えていることを、おぼろげなこの頭で感じ取った。

 一歩、また一歩と足を進めていく。歩けども、光に近づくことはない。しかし光が遠ざかるようなこともまた、なかった。


 どれくらいの時間が経ったのかもわからなくなった頃、後ろから奇妙な音が聞こえた。その音に規則性はなく、かと言って出鱈目に発せられているものでもなさそうだった。

 雑音、と言うには些か澄んだ音色。法則のある音ではない。一定の音高でもなければ一定のリズムでもないその音に、私は自然と耳を傾けていた。

 数回聴くうちに、ようやくそれの正体に行き着いた。

 なぜわからなかったのだろう。私は、それをよく知っているはずだ。ずっと、ずっとその音に囲まれていたはずなのに、それを私は忘れていた。その現象そのものを喪失していた。それほどまで、私は――


 その音は、二人の幼い少女の声だった。

 朗らかに笑いながら語らう二人の少女の声が、次第に近づいてくる。彼女たちがどこへ向かっているのかはわからない。彼女たちがどこへ向かおうと、私はただ光へ向かうのみ。その意思は揺るがない。揺るいではいけない。

 でも、もしも叶うのなら。

 その楽しげな行脚に同行したい。たぶん、寂しかったのだろう。孤独な旅を終わらせたかった。そう思えるほどに、彼女たちの声は明るかった。

 次第に声量が大きくなる。進むたび時が経つごとにその声は大きく響く。距離は確実に縮まっていた。


「みつけた!」

「やっとあえた!」


 突然、音が弾けた。

 まるで耳元から響いているようなその音量にたまらず足が止まる。同時に何かに後ろから乗りかかられその場に転がる。地面がないせいか、転んでもどこにもぶつからない。

 見ると、少女二人が私の体に覆いかぶさっていた。悪意はなく、ただひたすら純粋な笑顔だけが二つ、私の顔を覗いている。

 少女とはいえ、二人分の体重を支えるには、私の体は不十分だったようだ。ゆっくりと彼女たちを下ろすと、抗議の視線を送る。


「あははー、ごめんなさい!」

「だいじょうぶ?」


 大丈夫、と言おうとして言葉が詰まる。

 喉を手で抑え、何度か呼吸をし、再び声を出そうと試みる。しかし、乾いた呼吸音しか出てこない。声を出せない。何度喉を絞っても、嗚咽しか出てこなかった。どうやら、言葉を出す機能を喪失していたらしい。


「――……。――ッ。ァ――……あ……」


 何度か呼吸と嗚咽を繰り返し、喉から音が出るのを確認すると、一旦深く息をついた。その様子を少女たちが心配そうに覗きこむ。手振りで心配ないと伝えるが、その顔は晴れなかった。


「だい、じょうぶ。――だいじょ、うぶ。……うん、大丈夫」


 ようやく絞り出した、久しぶりの私の声。どことなく声に違和感があったのの、もはや前の私がどんな声を出していたかすら不明瞭だ。きっとこれが私の声なのだ。それを忘れるほど長い時が経っていた、ということなのだろう。

 一連の様子を見た少女たちが、不思議そうにこちらを見る。


「だいじょうぶ?」


 彼女たちは奇っ怪な私の様子を見て不安に思ったのだろう。苦笑いで大丈夫だよと繰り返し答えると、彼女たちは元の明朗な笑みを取り戻す。


「あるける?」

「いこう!」


 彼女たちに言われて思い出す。そうだ。私は光に向かって進まなければならないのだ。

 光に向き直る。消えていたらどうしよう、という不安は杞憂に終わった。その光は今でも褪せることなく輝いている。


「うん、行こう」


 一歩踏み出して、私は驚いた。

 ――地面に足がつく。

 気づけば全身を支配していた浮遊感はどこかに消え、地に足をつけていた。

 不思議な現象を前に呆然と立ち尽くす私の両手が、温かく柔らかいものに包まれた。見ると、少女たちが手をとっていた。


 彼女たちに導かれるように、一歩また一歩と足を進める。不思議だった。先程までいくらあるき続けても近づくことすらかなわなかった光に近づいている。光の中に淡く、何かの輪郭のようなものが見え始めた。


「お城……?」


 それは荘厳なお城のように見えた。驚き、言葉を失う私に少女たちが告げる。


「付き人が居ないと、あそこには行けないもんね!」

「そうそう、まだ、行けないもんね!」


 彼女たちが「あそこ」と指を差す。

 すると、突然光が強く瞬いた。一瞬目が眩むが、光はすぐに収まっていく。

 目が慣れると、光はなくなっていた。そこにあるのは、雄大なお城。まるでおとぎ話のように空中にそびえ立つそれに、私は目を奪われ息を呑む。


「わ……」


 綺麗だった。思わず何もかもを忘れて見惚れてしまうほどに、そのお城は荘厳で、雄大だった。お城は淡く輝き、周囲の濃い闇を侵食するように薄っすらと照らしている。


「きれい……」

「でしょ!」

「これから、あそこに行くんだよ!」


 私の反応に気を良くした少女たちが、左右からそれぞれ私の手を握って駆けていく。思いの外強いその力に、私は引っ張られるように後を付ける。

 徐々に、お城に近づいていく。少女たちに導かれるままに、私は進む。

 安心したのだろう。心が和らぎ思考の余裕が戻ってきた。思考が滝のように流れだす。

 考えれば考えるほど疑問は尽きない。この場所のこと、私のこと、光のこと、少女たちのこと、お城のこと。考えても答えなど出ないとわかっているのに、それでもなお想像を巡らせてしまう。

 そして、そんな冷静な自分が鎌首をもたげるように私に近づいてきた。


(この先に行くと、何があるの?)


 「私」が問いかける。

 わからない。でも、あの真っ暗闇よりはマシなはずだと自分に言い聞かせる。

 不安より期待のほうが大きかったのだ。はっきりと言ってしまえば、この時の私は楽観的だった。

 まるで子供のように、はたまた夜中の羽虫のように、深く怖い暗闇よりもきらびやかで温かい場所を求め、その光景に一方的に希望を持ち、救われると無邪気に突き進んでいたのだ。

 けれども、冷静な自分はこの場所の真実にきっと気づいていた。


(闇の中には、何があったの?)


 「私」が問いかける。

 わからない。いや、わからないフリをした。

 あの真っ暗闇に何があったのかを、既に私は知っている。そして、もう振り返るには遅いことも、私は知っていた。


 記憶の隅に少しだけ、楽しかったような、辛かったような、普遍的でありがちな記憶が残っている。けれども、それも終わり。私を構成していたものが、急速に失われていくのを、私は知らないフリをして耐えようとした。

 段々と記憶が泡のように弾け、溶けて消えていく。止めることはできず、留めることも叶わない。

 このとき、これまでの選択の意味にようやく気がついた。それでもなお、私は目を背けようとして、「私」が事実を淡々と告げてくる。


(あそこには、――があった)


 「私」が三度みたび問いかける。

 わからない。今となっては、もう何も。私はただ絶望的な闇から逃れたかったのだ。暗がりの中に見えた、どうしようもない結末を避けたかった。だから、目の前の暖かいものに縋ったのだ。


(そう。だから私は逃げてしまった)


 怖いと思ったあの闇の先に、それは置いて行かれたのだろう。留まっていたら、もしかしたら――

 胸が締め付けられる、苦しく悔しい感情に襲われた。

 後ろを振り返っても、もう闇はない。だって、この場所はこんなにも明るいのだから。


(そう、だから私は――)


 私はお城へたどり着いた。踏み入ってしまった。途端、まるで夢のように場面が暗転する。

 命運は決した。もう二度と後戻りは出来ないのだと、無慈悲なその結末を他でもない私が突きつける。

 次に目が覚めるとしたら、幸せな世界でありますよう。そうやってこの世界に祈りを込めて。


(さようなら、「私」だったもの)



 ――この日、「私」は消えてしまった。

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