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            3  研修医一年・十一月

      3  研修医一年・十一月


              一


 翌週の水曜日から、十一月に突入だ。 倉真は月が変って直ぐに、仕事帰り、実家へ通い始める。 実家まで、どう頑張っても片道一時間半は掛かる。 往復三時間も掛けて通い続けた。


 一日目。 仕事を七時半に上がり、実家へ九時過ぎに到着した。

『随分、久し振りだ……』 少し、外壁や屋根瓦が色褪せた様にも見える。 かつての自分の部屋は、真っ暗なままだった。 隣の一美の部屋からは明かりが漏れている。


 バイクを降り、暫し躊躇った。

 呼び鈴を押さずに、玄関の扉に手を掛けてみた。 鍵は開いていた。 無用心だな、とは思うが、自分が来るのを見越して、母が開けたままにしておいてくれただけかも知れない。

 軽く息を吸い込んで、声を出した。

「ただいま」

今晩は、お邪魔します。 ……そう、おとないを入れるのは、やはり違う。


 スリッパの音を響かせて、母が奥から姿を現した。

「お帰り」

微笑んで、数年振りに戻った息子を迎え入れた。

『随分、老けたな』 あの頃よりも少し白髪が増えて、少々、面痩せしてしまった様だ。

 ……自分が、心配ばかりさせて来てしまった所為かも知れない。


 七年半振りに姿を表した息子は、まともな頭に戻っていた。 背も、あの頃より7、8センチは伸びている様だ。 身体も随分と逞しく育ってくれていた。  目頭が熱くなった。


「ご飯は?」

「まだ、食ってない」

「そう。 じゃ、直ぐに準備してあげるよ」

そう言って背中を向けて、キッチンへと向かう。 目隠しの暖簾を潜ろうとして、軽く振り向いた。

「ほらほら、何時まで玄関先で立ち尽くしているの?」

「……ああ。 そうだな」

 気が戻って、倉真は漸く靴を脱いだ。


 ダイニングキッチンで、母に促されるまま椅子へ掛けた。

「親父は?」

「今、お風呂よ。 あんたが来るから、もう少し早めに入ればって言ったんだけどね。 どういう顔をして会えば良いのか、解らないみたいよ」

 夕食を準備しながら母が言う。

「そうか」

母に給仕されて、数年振りに懐かしい味を口にした。 カツ丼が出て来た。

「あんたが、好きだったからね」

一口箸をつけ、勢いが付いてガツガツと食い始める。 腹は減っている。 母は、その食いっぷりを嬉しげに眺めていた。

 一美が、自室から降りて来た。

「お兄ちゃん! お帰り」

「おお」

食いながら、短く返事をする。

「何よ? その態度。 久し振りに帰って来たんだから、何か他に言う事は無いの?」

「…おお」

「暫らく見ないうちに綺麗になったな、とか。 迷惑掛けて悪かった、とか。 いくらでも有るでしょうが」

「相変わらず、煩せーな」

 兄の言葉に、一美は剥れた顔を見せた。 向かいの椅子へ腰掛ける。

「お茶、入れようか。 美味しいお煎餅、見つけたのよ」

「自分でやるよ。 お兄ちゃんも、飲む?」

「ついでに頼む」

倉真は最後の一口を、口へほおり込んだ。 吸い物に口をつけている。 母は空いた器を下げる。

「お代わり、どうする? カツはもう無いけど」

「いや、いい。 アンマ食い過ぎると、頭、回らなくなりそうだ」

 一美が茶を出してくれた。 母の分も入れて、煎餅に手を伸ばす。

「て言うか、お前、そこで寛いでる気か?」

「何で? ああ、お父さんと話をしに来たんだっけ? 大丈夫、邪魔しないから。 どうせ、居間で話すでしょ? お母さん、洗い物やったげるから少し休んだら。 お兄ちゃんに言いたい事も一杯、有るでしょ?」

「……言いたい事なんて、何にも無いよ。 こうして元気に戻って来てくれたから。 ……顔見たら、ほっとして、言いたい事も忘れちゃったわよ」

倉真の食器を片付け、洗い始めた。

「甘いんだから。 お兄ちゃんが居ない間、結構、大変だったんだよ」

「文句は、今度ゆっくり聞いてやるよ。 親父、遅いな」

「お風呂で、上せちゃってたりしてね」

「ちょっと、見てくるわね」

 食器を片付け終え、母は浴室へ向かった。


 脱衣所から妻に声を掛けられ、湯船に浸かったまま返事をした。

「もう、来てるのか」

「待ってますよ」

「そうか。 居間で待たせておけ」

「はい、判りました。 お早く」

「……」

「晩酌の準備、整えて置きます」

「…頼む」

 それから暫らくして、漸く風呂から出て来た。


 居間に移動して、父親を待った。 程なくして、風呂上りのこざっぱりした様子で、父親が現れる。 昔は大きく見えていた身体が、縮まった様な印象を受けた。 自分の身体が、大きくなっただけかも知れない。


 無言で何時もの場所へ座り、晩酌を始めた。 母は倉真の分も、グラスを用意していた。 父は何も言わずに、倉真のグラスへビールを注いだ。

「……仕事は、真面目にやってるのか?」

グラスの半分を飲んで、漸く父が口を開いた。

「ああ。 真面目に、やってるよ」

息子の、手付かずのグラスを見て促した。 促されるまま、一気に飲み干した。 二杯目を注がれる前に、倉真が父親のグラスへビールを注いだ。

「バイクだからな。 あんま、飲めないよ」

「…そうか」


 その日は、殆ど何も話が出来なかった。 お互いに何からどう切り出すべきか、考えが纏まらない。

 一時間ほど静かに晩酌に付き合って、倉真が立ち上がる。

「帰るのか?」

「明日も、仕事だからな」

「そうか」

引き止める事も無い。 それは、照れ臭い。 妙な感じだ。

「明日、また来るよ。 ……結婚したい人が出来た。 先の事も確りと話し合いたい。 ……もう、逃げ出す気も無い」

「……一人前な事を、言う様になったな」

「親父の、息子だ」

「……一人で勝手に、育ったような顔をしやがって」

自分の事よりも、妻の事を思い遣っての言葉だ。 小さく首を竦めて、倉真は静かに居間を出た。

 玄関で靴を履いている所へ、母が見送りに出て来た。

「もう、帰るの? ……お前の部屋、ちゃんと掃除してあるよ」

暗に、泊まって行けば良いと言っている。

「ここからじゃ、職場まで遠過ぎだ。 明日、また来る」

「そう。 十分、気を付けて帰るのよ」

「ああ。 飯、ご馳走さん」

「明日は、何作っておこうか?」

「そうだな。 ……酢豚、作ってくれるか?」

「アンタ、酢豚は余り食べなかったわよね」

「…最近、好きになった」

「そう」

「パイナップル抜きで、頼むよ」

 母が作る酢豚には、パイナップルが入っていた。 その味が、少しだけ苦手だった。 利知未のパイナップル抜きの酢豚は、素直に美味いと思った。

「判ったよ。……あんた、あれが苦手だったんだね」

 母親は、始めて知った。 息子はただ単に、酢豚その物が苦手なのだと思っていた。

「…みたいだよ。 じゃーな、お休み」

 玄関を出て行く、その後姿をじっと見つめた。 息子の姿が扉の向こうへ消え、バイクの音が聞こえ出し、遠くなるまで。

 じっと、扉を見つめていた。


 居間に戻ると、夫が一人で、晩酌をしている。

「帰ったか?」

「明日、また来るって言ってました」

「……飲まないか?」

倉真が使ったグラスを片付けかけた手を止め、座り直した。

「偶には良いですね」

夫が片付けかけたグラスに、ビールを注いでくれた。

「戴きます」

 妻が一口、口をつけてから、徐に呟いた。

「俺の、息子だと」

「当たり前です」

「……そう言う意味じゃない」

憮然とした夫の顔を見て、微かに笑ってしまった。

『……そっくりだわ』

「あの子、ご馳走さんって、言ってから帰りましたよ」

「それが何だ?」

「あの子が、小学校二年生の頃以来、久し振りに言ってくれました」

「…そうか」

「はい」

妻がビールを飲み干したグラスに、再び黙って勺をした。 戴いて夫へ勺を返した。 軽くグラスを掲げ、乾杯の仕草をして二杯目に口を付けた。

「少しは成長して、帰って来たんだな」

「あなたの息子です」

「…解っている」

そう言って夫は、少し満足そうな顔をして、ビールを飲んでいた。

 その夜、母親が静かに、涙を流していた。 一美は、その姿を目撃していた。



 十二時近くなり帰宅した倉真を、利知未は笑顔で迎えてくれた。

「お帰り。 …お疲れ様。 ご飯、どうした?」

「食って来た」

「そう。 じゃ、明日の朝ご飯に、回していい?」

「ああ。 明日も、遅くなる」

「うん、判った。 じゃ、倉真の晩御飯は、作らないでおくよ」

「それでいい。 風呂、入ってるか?」

「着替え、出しておくよ。 直ぐ入る?」

「そうする」

話しながら、リビングへ戻っていた。 頷いて、利知未は倉真の着替えを準備し始めた。

利知未は今日まで三日間、通常勤務だった。

 今日は少し残業になってしまい、帰宅したのは八時近かった。 明日、明後日が休みで、その後、夜勤が三日続く。


 風呂から上がった倉真と、少しだけ酒を飲んで話をした。

「お袋、少し老け込んじまってたな……」

 何気なく呟いた。 利知未は、倉真の顔を黙って見つめた。

「親父も、なんか縮んじまったみたいだった」

「倉真が、大きくなったんだよ」

「……ああ」

「喧嘩、しないで来れた?」

「喧嘩してたら、今頃、顔、腫れてるぜ」

「そう?」

「ああ」

 微笑した利知未を見て、真面目な顔になる。

「必ず、話、通してくる。 何日かかっても」

「何ヶ月だって、待ってるよ。 頑張って」

「おお」

「……信じているから」

「サンキュ」

 寄り添っていた利知未の肩を、確りと抱き寄せた。



 二日目。 今日は昨日より、早くに仕事が終わった。 真っ直ぐ実家へ向かう。

 今日も、母が夕食を準備して、待っていてくれた。 倉真のリクエスト通り、パイナップル抜きの、酢豚を作ってくれていた。

「パイナップルの代わりに、お肉どうやって柔らかくしようか、悩んじゃったわよ」

「……利知未は、酒、使ったって言ってたな」

「…あんたのお嫁さんにしたい人は、利知未さんって、言うのね」

言われて、利知未の事はまだ名前さえ伝えてなかった事を思い出した。

「そうだよ。 瀬川、利知未って言う」

「歳は、一つ上だって?」

「一美から聞いたのか?」

「そうだよ。 お医者さんだって言うじゃないか。 あんたが、そんなに頭の良いちゃんとした人を、どうやって見つけたのかって。 一美が不思議がってたよ」

「……家出る前からの、知り合いだよ」

「そうだったのかい?」

ビックリして目を丸くしている。 あの、どうしようもなかった頃の息子を、知っていたと言う事だ。 ……随分、懐の大きな女性なのかも知れない。

「昔から随分、世話になった人だ」

「……そうかい」

「人柄は保障するって、言っただろう」

「そうだってね。 ……あんた、何にも教えてくれなかったから」

「聞かれなきゃ、照れ臭くて言えネーよ」

 言葉通り、少し照れ臭そうな表情をする。 無言で空の飯茶碗を差し出す。

「本当に、酢豚、好きになってたんだね」

「ああ、あいつの飯が一番、上手いよ」

 その言葉には、少しだけ焼き餅のような感想を持つ。

「…お袋の飯、別にしてだぜ?」

 少し慌てて、そう付け足した。


『昔から、本音は優しい子だった』 捻くれてしまう前から、腕白で怪我ばかりしていたが、母親や妹の事は、それなりに大事にしていたと思い出す。

 その、昔の優しさまで取り戻してくれた女性らしい。

「会うのが、本当に楽しみだよ」

言いながら、山盛りに飯を持った茶碗を倉真に渡した。

 二日間、成長した息子を見て、まだ顔も知らない息子の選んだ女性に、心から感謝をする事が出来た。


 風呂を上がった父親と、今夜も晩酌を付き合った。

 母と話をしていた事で、今日は利知未の事から話を始めようと、気持ちを決めた。

「昨日、言った結婚したい人。 今度、連れて来たい。 ただ、親父に俺の目標を納得して貰ってからでないと、連れては来れない」

利知未の事を、思い遣っての考えだ。

 母親と妹に関しては、心配はしていない。 問題は、父親だけだ。

「目標だ? 戻る気は無いのか?」

息子から切り出されたので、父も話がし易くなった。

「親父は、まだ俺に跡を継がせたいと、思ってるのか?」

「それが、普通だろう」

 頑固さは、昔から変わらない。 以前なら、その一言で大喧嘩だ。

「家は、一美に婿でも取って貰ってくれ」

「勝手な事を言うな」

「……俺は、昔から勝手なヤツだよ」


 反射的に、父の手が上がる。 殴りつける前に、思い止まった。

 手を拳にしたまま、座卓型炬燵の上に音を立てて置いた。


「話し合いだ。 喧嘩は、する気は無い」

父親の態度を見て、倉真は真っ直ぐに、その目を見据えた。

「良い根性をしているな」

「根性は親父譲りだ」

 睨み合い、そう交わす。 父親が、始めに視線を逸らした。

「許さん」

「許す許さないの前に、俺の目標には聞く耳、持たないのか?」

「聞くだけ無駄だ」

「…そうか」

 暫らく、間を置いて考えた。 それでも、倉真は言った。

「俺の目標は、自分の整備工場を持つ事だ。 彼女も、応援してくれている。 だから、先ずは親父に納得させないと、連れては来れない」

「……」

「親父とも、仲良くやれる事を期待している。 ……俺よりも、彼女の為に」

「…生意気だな」

「何日でも、通って来るぜ。 彼女も、待っていてくれている」

「……勝手にしろ」

「勝手にするよ。 ……今日は、もう帰るよ。 明日、また来る」

「……」

 父親は、無言でビールを煽り飲んだ。


 居間の外で、一美が聞き耳を立てていた。

「お前、何やってるんだ」

「え? 情報収集。 お兄ちゃん、ベタ惚れ?」

「…惚れてるよ。 じゃーな」

少し照れた顔でそう言った兄の背中を、一美はニヤケ顔で見送った。

 母親が、呆れ顔で奥から出て来た。

「一美、何してたの」

「情報収集。 お兄様、お帰りです。 お休み」

 態と丁寧に礼をして、一美は自室へ戻って行った。

「全く、あの子は……」

「変らネーな」

「お陰で、あんたが居なくなってからも賑やかだったよ」

「…そりゃ、感謝しないとな」

「明日は、何が食べたい?」

「何でも良いよ。 ……親父とは、長期戦になりそうだ」

「そんなの、解り切ってる事でしょう?」

「そりゃーな。 …久し振りに、お袋の飯が食えて嬉しいぜ。 ご馳走さん」

「どう致しまして。 明日は、カレーにでもしようかね」

「期待してる。 じゃーな」

「気を付けて帰るのよ」

 短い返事をして、倉真は玄関を出て行った。



              二


 翌日は休みだ。 一美は現在、兄が住んでいる辺りの大学病院を、調べてみる事にした。 通勤可能な範囲の病院を、幾つかリストに上げた。


『一番近いのは、西横浜医科大学第二病院、か。 だけど、職住近接って中々、無いよね。 ……他の病院の方が、確率高いかも』

 一応、総合病院も二つ三つ、ピックアップしておいた。

「お兄ちゃんが連れて来るまで何て、待っていられませんよね」

くすりと笑みが漏れる。 昨夜の兄の話を廊下で立ち聞きしていて、興味は益々、深まるばかりだ。

 あの兄が、あれ程に惚れる相手とは、どんな女性なのか……?


 昨夜の様子を見る限り、父親との話し合いは、本人も言っていた通りかなりの長期戦になる可能性が高い。 下手をしたら月跨ぎ、歳跨ぎだ。

 好奇心旺盛な血は、治まる場所が無い。 その上、一美は中々の行動派だ。

『明日から、調査開始!』 大学の後に、捜しに行ってみようと思う。

 明後日は日曜だ。 明日、見付からなくても、翌日は一日、探す事が出来る。 こんなチャンス、逃すモンじゃない。

『絶対に、来週中に見付けてやるんだから!』 と、一人勝手に闘志を燃やしていた。




 三日目。 祝日でもあり、倉真は何時もより早めに実家へ行く事にした。

 利知未も、今日は休みだ。 二人でのんびり過ごしたい気持ちも有るが、今の倉真の状況を見て、我が侭を言っている場合ではない。 朝食を食べながら、話をした。

「休みは将棋か釣りだって、言ってたな」

母の言葉を思い出し、倉真が呟いた。 昔から、父親の趣味はその二つだ。

「偶には、釣りにでも付き合ってみたら?」

「そうだな。 そう言う時の方が、構えずに話してくれそうだ」

「お弁当、作ろうか?」

言い出てくれた利知未の言葉に、甘える事にした。

「お父さんの分と、二人分の握り飯で良いか」

「良いんじゃないか」

「了解。 腕により掛けて、愛情込めて握って上げるとしよう」

笑顔で、軽い調子でそう言ってくれた。



 利知未の用意してくれた握り飯を持って、昼前には実家へ着く。 父親には、昔からお気に入りのポイントがある。 母から、今日も多分そこだろうと聞いて、その場所へ向かった。

 倉真が小学生の頃、父親が一本だけ買ってくれた釣竿が、自室の押入れの奥に仕舞いっ放しだった。 思い出してケースごと引っ張り出し、誇りを払って背中に担ぎ持った。

 自室は、あの頃のまま、それでも綺麗に掃除をされ、整えられていた。

「何時でも、泊まって行って構わないからね」

 釣竿を担ぎ、家を出ようとする倉真に、母はそう言って送り出してくれた。


 昔からのお気に入りポイントへ到着して、直ぐに父の背中を見つけた。

 大きな体が、縮こまって見えた。 考え事をしているようだ。


 父は昨日、一昨日の息子との会見を思い、考えていた。

 あの、どうし様も無かった長男が、随分、大人になって戻って来た。

 妻の口から、どうやら息子が結婚したい相手と言うのが、余程、確りした女性であるらしい事を聞いた。 跡継ぎの話は別にして、その女性には、会って見たい様な気持ちになって来ていた。

 ……けれど。

『……勝手な事を言い出しやがって』 連れて来る前に、自分が息子の勝手を認める必要がある。 それは、正直気に入らない。

 ……確りして戻って来たのなら、尚の事。

 自分が腕一本で立ち上げ、軌道に乗せた商売を。 その後を実の息子に継がせたいと思うのは、当然の親心だ。


「親父、釣れてんのか?」

 後ろから声を掛けられ、漸く息子の存在に気付いた。

「この時間に、釣れると思うか?」

憮然と答えて、釣糸の先を見つめる。

「もっと釣れる時間に、来りゃいいじゃネーか」

軽く鼻で笑って、慣れない手付きで自分の釣竿の仕掛けをし始めた。

 梃子摺っている様子を横目で見て、父が言う。

「相変わらず、下手だな。 ……釣りは、やらなかったのか」

 自分達と離れて暮らしていた、七年半の内に。

「ダチが、好きだったからな。 偶には付き合った」

「……お前は昔から、堪え性がなかったな」

「親父の血だろ。 俺は親父が釣りをするのが、不思議だぜ」

「違うもんだ。 釣りは、魚との我慢比べと思っているからな」

「そう言うモンか?」

倉真は漸く、川面へ釣り糸を垂れる事が出来た。

「我慢比べなら、負けて溜まるかと思うもんだ」

その理由に納得して、倉真は小さく笑ってしまった。  親父らしい。


 三十分ほど頑張ったが、やはり倉真には、釣りは向かないらしい。 釣糸を垂らしたまま竿を置いて、地面に仰向けに寝転がってしまった。 その様子を見て、父は微かに笑ってしまう。

『始めて釣りに連れて来た時と、同じ事をしやがる』 遠い風景を思い出していた。

 もう、十五年以上も前の事だ。 息子が小学校の、低学年の頃だ。


 父の雰囲気を感じて、倉真がそのままの姿勢で、話し出した。

「何年振りだ? 親父と、こうやって呑気にしてんのは」

「……忘れた。 昔の事過ぎる」

「……そうだな」

 そのまま、暫らく沈黙が流れた。 倉真の腹の虫が、鳴き始めた。

「腹、減らねーか?」

「もう昼か」

太陽の傾きを見て、父親が答える。

「弁当、持たされた。 親父の分も有るぜ?」

「母さんか」

「いや。 彼女に、だ」

言いながら、起き出して弁当を広げ始めた。 水筒もある。 使い捨てのお絞りまで、確り入っていた。 沢庵付きだ。 何時の間に、買ってあったのだろう。

「流石、利知未だな」

大きな握り飯が、八個。 倉真の食欲から、父親の食欲も考えて、それくらいは必要だろうと考えたらしい。

 握り飯を包んであったホイルを開いて、父親へ渡した。

「……戴くとするか」

「そうしてやってくれ」

水筒の内蓋に茶を入れて、それも父へ渡す。 お絞りを使って、手を拭って受け取った。 ……確かに、確りした娘さんらしいと、父親は感じた。

 腕白者で考え無しの息子には、丁度良い相手かも知れない。


 握り飯の形も、硬さも、上手な物だった。 具が、たっぷりと入っていた。

 二人で八個の握り飯を、綺麗に平らげてしまった。

「……どんな、お嬢さんなんだ?」

「会いたくなって来たか?」

「……そうだな」

「んじゃ、俺の目標も理解したって事か?」

有り得なさそうだが、一応、突っ込んでみた。

「それとコレとは、話が別だ」

「そーかよ、頑固だな」

父は、息子のぼやきは、聞こえない事にした。

 まだもう少し、時間が掛かりそうだと、倉真は思った。



 翌日、一美は行動を開始した。

 利知未は、その夜から夜勤だった。 翌日の日曜も当然、仕事だ。


 倉真は今日も仕事後に、父親との会見に赴いた。 その日の会見も特に得る事は無かった。 自分の目標については、伝えられる限り伝えて来た。

 明日また来ると言い置いて、実家を後にした。




 通い始めて五日目の日曜は、午前中から父親の趣味に付き合った。

「流石に、将棋は解らねーな」

「教えてやる」

そう言われて渋々ながら、働きの鈍い頭にルールを叩き込んだ。

 しかし、やり始めて一時間も経つと、負けず嫌いに火が着いてしまった。

「お前じゃ、相手に成らん」 そう鷹揚に言い放った父親に、その後、五連敗してしまった。

 朝からの合計で、見事に十連敗だ。 当たり前だった。 父親は趣味の仲間内でも、中々の兵らしい。 負けず嫌いの倉真も、流石に精力を使い果たしてしまった。


 数日間、通い続けて来た長男に、父親は徐々に打ち解け始めた。

 そこから漸く構え抜きの、本音の話し合いが始まった。


 言い分は、何処まで行っても平行線を辿る。 それでも利知未との結婚については、良い方向へ進み始めた。 やはり、跡継ぎ問題が難関だった。

「お前が結婚して家に戻って、修行を始めれば問題ない」

「俺の目標は、変らない。 家は、一美に譲る」

「相手は、お前が戻る事になっても構わないと言っている」

「俺の夢を、応援するとも言ってくれている」

「つまり、お前の意思次第と言う事だろう」

結局、そこが終着点だ。 倉真の意思は変わらない。

 将棋版を挟んで、次の一手を指しながら、そんな事を言い合っている。 偶にお茶を入れ替えに現れる母親は、半分呆れ顔だ。

 昔の様に殴り合いが始まらずにいてくれるのは、有難い事ではある。


 夕食まで済ませて、今日も倉真は帰宅する。 帰り際、母親が言った。

「私は、倉真のやりたいようにしてくれて構わないよ。 お父さんには、私からも折を見て、説得するからね」

「……済まない。 お袋」

 我を張れば、そんな事はしなくて良いと言ってしまう所だ。 それでも今は、母親の援護射撃も必要なのは確かだ。 ……母の、思い遣りも解る。

「私は早く、あんたのお嫁さんに会って見たいんだよ。 是非、お礼も言いたいと思っているからね」

「俺も、早く連れて来たいと思ってるよ」

 そう言って、玄関を出て行く息子に、母は確りと頷いてくれた。



 一美は二日間、利知未を探して、幾つかの病院を回っていた。

 日曜も収穫は無く、明日はついと兄の現住所近くの、大学病院へ当って見ようと決心していた。

『大学終わってからじゃ、遠過ぎるし。 ……ま、いいか。 サボっちゃえ!』

何時もの通学時間よりも早くに家を出て、朝から探し始めようと決めた。


 両親にも、当然、兄にも内緒の行動だ。 倉真に知れたらトンでもない事に成るのは、目に見えている。

『……けど、会いに行って迷惑に成ったら、どうしよう……?』 そうも思う。 それでも、見たい。 話をして、どんな人なのか自分の目で確かめたい気持ちの方が、勝っている。

『人柄は保障するって、お母さんに言ってた訳だし。 きっと、大丈夫!』


 あの兄を、見事に操縦している。 その手並みも興味の対象だ。 是非とも会って、その人物を確認したいと、本気で思っていた。




             三


 六日、月曜日。 朝八時、一美は大学をサボって、横浜市西区に来ていた。

 八つピックアップしていた病院の内、既に五つを当たり全てハズレだ。 尋ね人の特徴は、外科の研修医で、女性。 その時点で、殆ど全滅だった。

 漸く手応えがあったかと思えば、身長が足りない。 兄は、背の高い美人研修医だと言っていたのだ。

 自分も、166センチはある。 中学時代から高校まで、その長身は、部活動で続けて来たバスケットボールには有利な武器だった。 高校からは、相手チームの選手達にも有る程度の長身が揃っており、その中では平均的な身長となってしまった。 それでも一般的に見た時、背が高い女性と表現されるのは、恐らく165センチ以上。


 ひとつ前に当った候補者は、ギリギリ160あるかないかの、身長の持ち主だった。 失礼ながら、美人と言う評価にも足りない物を感じた。

『お兄ちゃんの彼女が、本当に大学病院の研修医だって言うのなら、ここが実質上、最後の候補だ』

 あと二つは、念の為、数に入れておいた総合病院である。 大学との繋がりも、有る事は有る。 けれど病院名に、その名を掲げては居ない所だ。

 病院の裏手に回り、夜勤明けナースでも捕まえてみようと考えた。


 病院名のリストを片手に、地図を眺めながら建物の裏口を見張っている女子大生の姿は、傍からの見た目、やや不振人物と言えるかも知れない。



 その日、利知未は夜勤明けだ。 八時半には、病院を出た。 裏門付近で髪をポニーテールにした背の高い女性に、視線が留まる。

『透子と、同じくらいの身長だな』 先ず、そう思った。

 懐かしいついでに、別の誰かを思い出す。 誰かを探しているらしい。 利知未は、声を掛けてみる事にした。

 有り得なさそうだが、仮に何か怪しげな事を考えている人物だったとしても、不思議ではない。 自分なら、もしそうだった場合でも対処は利く。


 一美はこちらに歩いてくる人影を見て、一瞬、男性かと思った。 単純に、身長がそれ位だったからだ。 利知未は髪もショートなので、朝晩の冷え込みにコートを羽織るこの時期、遠目に見誤ってしまっても、仕方が無い事だ。

 顔立ちがハッキリし始めて、漸くその人物が女性だと気付いた。

「お早うございます。 何方かの、お見舞いですか?」

利知未は、先ずは軽く笑顔を見せて挨拶をした。

「お早うございます。 お見舞いでは無いのですが、人を探しています」

一美は素直にそう答えた。 別に、怪しい事を考えているのでは無いのだ。 焦る必要は無い。 声を掛けてくれた女性は、美人だった。

「人探し、ですか。 この病院に、勤めているのですか?」

「それが、良く解らないので困ってます。 ここは、西横浜医科大学第二病院ですよね?」

「そうですけど。 勤め先も解らないで、人探しですか?」

少し面食らってしまった。 けれど、その素直な物言いと雰囲気に、下宿仲間だった里真を思い出す。 髪型も同じだ。

「この辺りの大学病院か、総合病院に当りを着けて探しています」

「手掛かりは、他には無いのですか?」

少々、妙な話では有るが、興味も出て来てしまった。 彼女の顔には、親近感も覚える。

 何故なのか? それは、まだ自分でも判然としない。

「手掛かりは、大学病院に勤めている、二十五歳くらいの女性研修医。 背が、高いらしい事、……それと、美人らしいと言う事」

利知未は話を聞いて、首を傾げてしまった。


 名前も知らない相手を朝も早くから捜し歩いている、若い女性。 恐らく、女子大生。

 ……目的は、何なのだろう?


 一美は、何と無くピンと来る物を感じ始めていた。

「あの、貴女は看護師さんですか?」

「いいえ、医師です。 背は、私も高いとは思いますけど」

「もしかして……、専門は、外科じゃ有りませんか?」

「何故、そう思ったの?」

「勘です。 貴女も美人、……じゃなくて、お綺麗ですね」

ニコリと微笑んだ。

 利知未は面食らった。 けれど同時に、笑ってしまった。

「どうも」


 その女性は、笑顔も素敵だった。 ……この人が兄の相手なら嬉しいな、そう思う。 賭けに出る事にした。

「あの、つかぬ事を伺いますが、……館川 倉真と言う名前、ご存知では有りませんか?」


 倉真の名前が出て来て、利知未は驚いた。 ……そう言えば。

「ごめんなさい。 私は、瀬川 利知未と申します。 貴女、お名前は?」

「あ、すみません!」

慌てて頭を下げた。

「私、館川 一美と申します。 倉真と言うのは、私の兄なんです」


 利知未は、一気に納得してしまった。

 一美の顔、どこか親近感を覚える筈だ。 目が、倉真にそっくりな釣り目だった。 勝気そうな眉も、少しだけ似ているかも知れない。 背が高いのも、頷ける。 恐らく館川家は、兄妹揃って長身なのだろう。

 自分の家庭も、兄妹揃って長身だ。 家系なのだろう。


 けれど、どうして、こんな所まで来たのだろう?


「お兄さんの、お友達を探しているの?」

 貴女の探しているのは、私では有りませんか? と、行き成り聞くのもどうかと思い、念の為そう問い掛けてみた。

「いいえ、彼女を……。 ううん、もう婚約者なのかな? その人を、探しています」

 コレで、一美の尋ね人が自分である事を理解した。

「手掛かりは、大学病院の外科研修医で、二十五歳。 背の高い美人という事だけなんです」

改めて言われて、利知未はまた小さく笑ってしまった。

『そんな風に、言ってくれてたんだ』 そう思う。

「美人かどうかは、あなたの判断に任せますが。 多分、お探しの相手は、私だと思います」

「やっぱり?!」

「倉真の字、倉庫の倉に、真実の真でしょう? 貴女のお名前は、漢数字の一に、美しい。 当ってるかな?」

「そうです! やっと、見つけた!!」

 一美は、手を打って喜んだ。 ……彼女は、何をしに、来たのだろうか?

「今週に入ってから、倉真は毎晩、帰るのが遅いんだけど……。 お家で何か?」

「そうなんです! 兄は、貴女との事を話しに毎晩、父に会っているんです。 父も、結婚したい人が居るって話は納得したんですけど、家、自営業だから……。 その事が、まだ話が着かないみたいで。 兄は、父が全てを納得しない限り、貴女を家に連れて来ようとはしないから、痺れを切らして、会いに来てしまいました! ……ご迷惑でしょうか?」

 一美は、少し不安そうな表情になる。 利知未は笑顔で答えた。

「迷惑なんて。 そんな事、有りませんよ。 私も貴女に会ってみたいと思ってました」

一美の不安な表情が、一変した。 ほっとして、喜びを素直に伝えた。

「嬉しい! 良かったぁ。 ……ホントは、ドキドキしてたんです。 迷惑だって言われたら、どうしようかと思って」

彼女が将来の義妹に成ると言う事だ。

 かなりの行動派らしい。 流石、倉真の妹かも知れない。 もう少し、ゆっくりと話をしてあげたいと思った。

「私は仕事明けで、これから朝食なんですけど。 一美さんは、もう済んでいるの?」

「この病院を当ってみてから、どこかで済まそうかと思っていたので」

「そっか。 じゃ、丁度いいから、一緒に食事、いかがですか?」

「本当ですか?! 是非!」


 イメージしていたよりも余程、柔らかい印象の優しい人だと思う。

『昔は男前だったって、言ってたよね……? どう言う意味なんだろ』 兄の国語能力の無さを感じてしまった。

 それとも兄なりの感性で、そう言う感じの人だったと、言う事だろうか?


 利知未は少し考えて、外で食事を済ますことにした。

「ファミレスか喫茶店、どっちが良いかな?」

言葉もフランクにして、改めて言い出した。

「ファミレスなら、モーニングメニューの時間ですね」

「駅前まで行く事になるけど、良い?」

「はい」

二人で、並んで歩き出した。

「家に呼んでも良いとは思うけど。 夜勤が続いてたから、片付いていないんだよね」

「今度、伺ってもいいですか?」

「倉真が、何て言うかな……?」

父親が納得しない限り、家族への紹介も後回しのつもりで居る筈だ。

 妹の勝手な行動は、恐らく解っていないだろう。 行き成り自分と一美が知り合いになっていたりしたら、機嫌が悪くなるのは目に見えている。


 一美は、利知未の言葉で始めて解った。

「一緒に、住んでいるんですか?」

近くのアパートに、別々に暮らして居るのかと考えていた。 問われて利知未は、内心でしまったと思う。

「お兄さんに、聞いてない?」

「全然! 知らなかった。 お兄ちゃん、中々やるわね」

最後の一言は呟きだ。

 利知未は軽く笑ってしまった。 明るい、楽しい子みたいだ。 これから先も、仲良く出来たら嬉しいと思う。



 駅前のファミレスで、二人で向かい合って食事を取った。 オーダーを終え、改めて話を始める。

「ところで、いくつの病院を探してくれたのかな?」

「今日ので、六つ目でした」

それは凄いと思う。 一美は随分、頑張り屋さんらしい。

「何日間、探していたの?」

「今日で、三日目でした。 一昨日は大学の後で探して、昨日は日曜だったから、一日。 で、今日は、講義サボっちゃいました」

 照れ臭そうに、笑っている。

「あたしの名前も判らないままで、良くやったね」

「兄の名前出せば、きっと解ると思ってたから。 手掛かりも、結構あったし」

「大学病院外科の女研修医で、二十五歳。 背の高い……」

「美人! ホントに美人だったから、驚いちゃった」

「それはどーも。 自分では、そんな風には思わないけどね」

「美人ですよ! よく、家の兄貴を相手にしてくれました! モテるんじゃないですか?」

「……そんな事は、無かったけど」

「本当に? 信じられない」

「身長と顔付きは、昔からコンプレックスだったから」

「どうしてですか? あたしも背、高い方だけど、自慢にしてますよ」

 確かに、一般女性としては長身なのだろう。 モデルでも、スポーツ選手でも無いのだ。

「身長、何センチあるの?」

「166センチ。 後、四センチあったら、バスケでも良い所、行けたかな……?」

「バスケットボールやってるの?」

「ええ、やってました。 高校の時は、レギュラーでインターハイまで行けそうだったんですよ」

「インターハイには、出場できなかったの?」

「予選で負けちゃいました。 今でも残念!」

話を聞いていて、一美の根性と行動力に納得をした。 運動部で鍛えられたという事かも知れない。 勿論、あの倉真の妹だ。 血筋も、その助けになっていたのだろう。

 オーダーした物が運ばれて来て、一美は直ぐに箸をつけた。 中々の食べっぷりと言えそうだ。 昔の自分を思い出す。 それよりは、上品かも知れない。


 食事を終えて、もう暫らく、食後のデザートと珈琲を頼んで話をした。 利知未はデザートを食べる一美を見ながら、ゆっくりと珈琲を飲む。

「本当は、お兄ちゃんが利知未さんを連れて来るまで、待って様とも思ったんだけど……。 好奇心が勝っちゃいました。 でも、会えて良かった」

「あたしも、会えて良かった。 倉真が昔、住んでた所、一美さんにだけは知らせていたって言ってたから。 ……あたしにも兄が居るから、兄妹の仲が良いのは嬉しいと思ってた」


 一美は、すっかり利知未が気に入った。 こんなに綺麗で優しくて、物分りの良いお義姉さんなら、もしも結婚して家に来てくれる事になったとしても、嬉しいと思う。

 そうは思うが、兄は、絶対に家には戻らないだろうと言うのも、解り切っている。


 一美には、是非、利知未に会って直接、伝えたい事があった。

「母が、早く会いたがっています。 家の兄、結構どうし様も無い感じの人だったから。 ……家を飛び出した後も、心配していて。 でも、あのお兄ちゃんがちゃんと就職して真っ当に生きるようになった事、本当は家族全員喜んでいるんです。 それが、利知未さんのお陰だって聞いて、母は電話があった日、ちょっと泣いてました。 ……嬉しくて」

「……そう。 あたしは、そんな大層な事してないけど。 倉真が元々、真面目な性格なんだと思うよ。 ……ちょっと、頑固な所も有るようだけど」

「チョットどころじゃ無いですよ! ホーント、大変だったんだから」


 少し頬を膨らますようにして言った一美を見て、何時か倉真に頬っぺたを突かれた時の事を、思い出した。

『昔、この一美さんの頬っぺた、突いてた訳だ』 軽く、笑みが漏れてしまう。


「でも、今は良かったと思う。 女性を見る目は養われた様だから、許します」

「そんな風に言われると、プレッシャー感じちゃうよ」

 肩を竦めて、利知未が言う。 一美が、真面目な顔をする。

「利知未さん。 兄を、宜しくお願いします。 妹のあたしが言う様な事じゃないけど。 ……でも、きっと皆、同じ事、言うと思うから」

一美の真面目な瞳に、利知未も真面目な目をして答えた。

「あたしこそ、宜しくお願いします。 ……倉真が、これから先の事をどう決めて来ても、着いて行くから。 ……もしかすると、同居になるかもしれないね」

「そうなったら、嬉しいけど。 でも、頑固なお兄ちゃんの事だから、そうはならないと思うな。 その為に今、お父さんと話し合ってるんだから。 あたしは、どっちでも良いんだ。 お婿さん貰って家を継いでも、結婚して家を出ても。 だから、兄の事は、利知未さんにお任せします」

「……任されます」

ぺこりと、頭を下げて見せた。 それから顔を上げて、付け足した。

「でも、本当はね。 ……あたしの方が、倉真に一緒に居て貰いたいんだよ。 だから、お母さんにも伝えておいて。 息子さんをもっと自慢にして下さいって。 ……あたしが言う事じゃ、ないとは思うけど。 それが、本音です」

「……ありがとう。 伝えます」

 本当に、優しい心の持ち主だと感じた。 こんなお姉さん、もしも一緒に住む事になっても、大歓迎だ。 一美は、その思いで笑顔になって、頷いた。


 それから間もなく、席を立った。 利知未が二人分を出してくれた。 奢って貰い、一美は丁寧に礼を言った。 改めて、住所と電話番号も教えて貰った。

 利知未は駅まで一美を送り、構内を抜けて、そのまま帰宅した。



 アパートに着いたのは、十時を回る頃だ。 天気が良かったので洗濯物をバルコニーへ干して、シャワーを浴びて仮眠を取った。 利知未は、この夜勤明けから明日まで、休みになる。

 今日も倉真は、実家へ周って来ると言っていた。 今夜も、遅くなる筈だ。 夕飯の支度は、慌てる必要も無い。 ゆっくりと仮眠を取る事にした。


 呑気に眠り込み過ぎて、目覚めたのは六時過ぎだった。 慌てて洗濯物を取り込む。 すっかり、冷たくなってしまっていた。

『失敗したな。 バスルームに、干して置けば良かった』 思いながら洗濯物を片付け、冷蔵庫に入っていた残り物で、適当に夕食を済ませた。

 倉真が居ないと、つい手を抜いてしまう。 料理は好きだが、のんびり出来る時も見逃さないのが利知未だ。

 一休みしてから、倉真の為に、晩酌の摘みを少しだけ用意して置く事にした。



 倉真は、今日で六日目の会見だ。

 昨日は、父の本音も聞くことが出来た。 徐々に、進んではいる。 今日は頭から、自分の言い分を述べる事にした。

「この前、言ったよな。 今、資格試験目指して、勉強してるんだ」

「だから、どうだと言うんだ。 そんな勉強さっさと止めて、早く修行をしに戻ってくれば良いだろう」

「そんなに、俺に後を継がせたいのか?」

「当たり前だ。 お前は、俺の息子だ」


 だから、継がせたい。 そう思うのは親心だ。 その心が全く解らなかった昔とは、倉真も違っていた。

 もしも、自分に置き換えた時。 将来、自分の工場を持てたとして、それが軌道に乗ってから息子が成人したのなら……。

『自分もきっと、親父と同じことを思うかも知れない』


「……けど、親父は自分一人で店を立ち上げて、起動に乗せた。 それは親父にとっての誇りだろ? 俺にも、同じ誇りを持たせてはくれないのか?」

「お前のような半端者に、ゼロからの出発は無理だ」

「やってみなけりゃ、解らない」

「解り切っている事だ」

二人とも頑固者だ。 話は、そこで平行線だ。


 暫らく黙って睨み合ってから、倉真が、言い切った。

「俺の気持ちは、変らない」

「生意気な事を言うな」

「俺の夢は、俺一人の夢じゃない。 ……利知未と、二人で見ている夢だ」

言い切って、もう一度言い直す。

「夢なんて、半端な気持ちじゃない。 実現可能な、目標だ」


 息子は自分が思った以上に、成長して来ている。 昔のコイツなら、誰かと二人で見る夢を背負う覚悟など、持てはしなかっただろう。


「……利知未さんと言うのは、お前にとって、それ程大事な相手なのか?」

「当たり前だ。 利知未だから、結婚したいと思った。 利知未の夢を、俺の手で叶えてやりたい」

「整備工場というのは、利知未さんの夢だったのか?」

「それは違う。 彼女の夢は、……幸せな家庭だ」

「幸せな家庭? そんな物、人それぞれだろう? お前が意地でも家を継ごうとしないのと、どういう関係が有る? お前が家に戻っても、幸せな家庭は作れるんじゃないのか?」

「俺は、俺の腕一本で、彼女の夢と自分の目標を、叶えて見せる!」


 息子の気迫は本物だった。 父親は、その強い眼差しに、漸く折れた。

「……勝手にしろ」

「それは、肯定として受け取って、良いのか?」

「どこまでやれるか、見ていてやる。 手助けは一切しない」

「それで構わない」

 それでも、まだ心からの賛成では無いらしい。 その事は、これから先の自分の頑張り次第という事だ。

「先ずは、始めの試験に受かってみせる」

「……やってみろ」

 そう言って父親は、グラスのビールを一気に飲み干した。


 母親が頃合を見て、新しい摘みを盆に載せて、居間へ入る。 倉真に確りと頷いて見せて、父のグラスへ勺をした。 倉真は、自分のグラスの、泡が消え切ったビールを一気に喉へと流し込んだ。 飲み干して、立ち上がる。

「邪魔した、帰るよ」

「明日は、どうするの?」

「やっと、親父から了承を得たからな。 暫らくサボってた分、勉強に気ぃ入れなきゃならネーよ」

「そう。 ……けど、明日もう一日だけ、顔を出してくれないかい?」

 母の顔よりも、父の横顔を見てしまった。

「利知未さんを、何時連れて来てくれるのか。 今度は、私と話をしましょう?」

 電話でも、済みそうな話だ。 それでも、母の気持ちも解ると思う。

「……解った。 取り敢えず、明日は来る」

 母は、嬉しそうな笑顔で、頷いていた。



 倉真が帰ってから、母は父と、二人で話をした。

「……あなた、お疲れ様でした」

確りと三つ指を突いて、深く頭を垂れた。

「まだ、早い。 アイツが、本当に何処までやれるのか、これからだ」

「それでも、あの子が帰って来れたのは、あなたがキチンと息子を受け入れてくれたからです。 ……本当に、ありがとうございます」

再び頭を垂れた妻の背中を見つめて、夫はグラスを差し出した。

「勺をしてくれ」

「はい」

 その夜、夫婦は遅くまで、静かにグラスを重ねていた。



 利知未の元には、倉真の帰宅よりも早くに、一美から連絡が入った。

「明日は、お母さんの要望で、もう一日こっちに来るって言ってたけど」

「そう。 お父さん、解ってくれたんだ」

「渋々ながら、って感じでは有るけど。 だけど、これで漸く、利知未さんをお兄ちゃんから紹介して貰える運びとなりました」

「仕事の都合が有るから、何時になるかは判らないけど」

「その前に、もう一度、遊びに行って良いですか? ……お兄ちゃんには、内緒で」

「それなら、あたしの休みの平日に、昼間、来れる?」

「何曜日ですか?」

「近い所で、明日。 次の土曜なら、倉真は仕事だけど」

「それなら、土曜の講義は午前中だけだから、土曜日で良いですか?」

「OK。 お昼、作って待ってるよ」

「本当に?! 利知未さんの料理、興味があったんです!」

酢豚の事を思い出した。

 兄は昔、母の作る酢豚は余り好きではなかった筈だった。 それがこの前、パイナップル抜きの酢豚を美味そうに平らげていたと、母親から聞いていた。

 どうやら、利知未さんの料理のお陰らしい。

「何が好き?」

「我が侭言って、良いですか?」

「出来る物なら、構わないよ」

「じゃ、カルボナーラ、作れますか?」

パスタのカルボナーラは、中々、家庭で作るのは難しい。 一美も以前、挑戦してみた事があったが、ソースがダマになってしまって余り美味しく出来なかった。


「カルボナーラ、ね。 OK。 取って置きのレシピ有るから、期待してて」

 昔、アダムで高林から教わった事が有る。 偶に厨房に入ると、利知未は必ず一品は、プロの業を盗んでいた。 その上、高林も松尾も、利知未の質問には、何時も確りと答えてくれていた。

「本当は、企業秘密なんだけどな」 そう言って、厨房の裏技も幾つか伝授してくれた。


「楽しみにしてます!」

 答えながら、一美はまた一つ感心してしまった。

『カルボナーラ、作れるんだ!』

家に呼んで、手ずから作ってくれると言うのだから、余程、自信が有るのだろう。 本気で楽しみになって来た。

 一美と他愛の無いお喋りが弾んで、少々、長電話になってしまった。


 電話を切って、三十分もしない内に倉真が帰宅した。

「ただいま」

その表情に、利知未は笑顔で頷いた。

「お疲れ様。 ……晩酌、する?」

「そうだな。 嬉しい知らせが有る」

「うん。……摘み、作っておいたよ。 それよりも先に、お風呂に入る?」

「そうするか」

「着替え、出して置くね」

 それから、倉真が風呂を上がる前に、利知未は晩酌の支度を整えた。


 リビングで利知未は、先ずは一人掛けのソファに腰掛けて、乾杯した。

「親父が、漸く折れてくれた」

「うん、おめでとう。 ……それと、ありがとう。 頑張ってくれたんだね」

「一週間、通っただけだ」

「ご家族とは、和解出来たんでしょう?」

「元々、問題は親父だけだった。 ……お袋には、心配掛けちまった」

「……あたしも、心配掛けてるのかな」

 倉真を見ていて、利知未は始めて、自分の母親の事を少しだけ肯定的に考えられた。

「俺に比べれば、よっぽど優等生だろ?」

「離れている分、悪い所は見え難くなってくれていたかもね」

 目を伏せて、考える。 ……それでも、心の奥には、まだ蟠っている物がある。

「明日、もう一度だけ実家へ行って来る。 お前を何時連れて行けるのか、話をしたいと言われた」

「そう。 出来れば、成るべく早くに行きたい所だけど……」

「仕事も有るからな。 年末年始で、構わないかとも俺は思うぜ?」

「遠過ぎない?」

「……親父は、折れてはくれたが、まだ心からの賛成って訳でも、無さそうだからな。 冷却期間も必要だろう?」

「そうなんだ」

「お前の事は、問題ない。 問題は俺の事だけだ」

「……そうだよね。 そうそう直ぐには、気持ちって、落ち着けない物だろうから……。 うん、じゃ、年末年始、早めに希望休暇、出して置くよ」

「そうしてくれ」

真面目な話を終え、倉真に促されて、何時もの落ち着く姿勢になった。

「……この重みが、これから俺が守り通す、幸せの重みだ」

 利知未の肩に手を掛け、倉真が呟いた。 利知未は、小さく頷いた。

「重くなり過ぎたら、必ず教えてね? あたしにも、ちゃんと両足はついてるんだから。 倉真の荷物だって、一緒に持てるよ」

「……お前に逢えて、マジ、良かった」

 心の底から、そう感じた。 確りと抱き寄せて、その温もりを、改めて肌に刻みつけた。

「……暖かい」

 幸せそうな表情で、利知未はそう呟いた。


 それから、この前見た夢の話を、利知未がしてくれた。

「何時か、本当にそうなったら良いなって、思ったよ」

「良いな、じゃねーよ。 それは、予知夢ってヤツだ。 俺は、そう信じる」

「うん」

 確りと一つ頷き合って、これから先の二人の未来へ、乾杯をした。



              四


 土曜日。 約束通り、一美が遊びに来た。 利知未は駅まで、迎えに行った。

 利知未の用意した昼食を取りながら、倉真の七日間に渡る訪問の顛末を、一美から詳しく教えて貰った。


「あたしは廊下で聞き耳を立てていただけだから、目で見た訳じゃないけど。 利知未さん、カルボナーラ、本当に美味しいです!」

 話しながら、ぺろりと一皿、平らげてしまった。

「お代わり有るけど、まだ入る?」

「もう少し、入りそう。 サラダも、自家製ドレッシング何ですね」

これも美味しいと、平らげてしまう。 料理を褒められるのは、他の何を褒められるよりも嬉しい事だ。 一美は、お代わりの二皿目もすっかり腹に収めてしまった。

「兄妹揃って、中々の食欲だね」

「美味しいから。 けど、流石にチョット、食べ過ぎちゃいました」

年頃の娘らしくない動作で、腹の辺りをポンポンと叩いている。 飾り気の無い雰囲気に、利知未は嬉しいと感じる。

「デザートも、作っておいたけど。 あたしは余り、甘い物得意じゃないから、サッパリと珈琲ゼリーを作ってみたよ。 入る?」

「デザートは、別腹です!」

ニコリとして、そう言ってくれた。

 珈琲から、利知未が豆をブレンドして淹れた物を使った。 これにも、見た目以上に手が込んでいる。 本当に料理上手だ。 一美は改めて感心してしまった。

 兄が、褒めるだけの事はある。

「本当に、どうやって利知未さんみたいな素敵な人、見つけたんだろ?」

そう言われて、利知未は照れ臭い。

「倉真とは、昔からの知り合いだったんだよ」

「そうなんですか? いったい、何時頃から?!」

「あたしが十五で、倉真が十四歳の頃から」

「そんな前から?! あの頃のお兄ちゃんって、」

「随分、堂の行ったヤンチャ者時代だね。 ……あたしも、似たような物だったけど」

 一美は信じられないと思う。 その感想は、顔に出てしまった。

「……びっくりした?」

「かなり」

素直な反応に、利知未は笑ってしまう。

「あたしの猫被りも、極めたもんだ」

くすりと笑い、自分の珈琲ゼリーを口にする。

「猫、被ってるんですか?」

「かなり、猫被ってるよ? 未来の小姑さんの前だから」

少しおどけた言葉に、一美も楽しそうな笑みを見せた。

「本当の利知未さん、見てみたいですね」

「じゃ、ゲームセンターにでも、行って見る?」

「ゲームセンター行ったら、判るんですか?」

「証拠は、見せられると思うけど……」

 駅前のゲームセンターには、パンチの重さを量るゲームが置いてあった。

「じゃ、是非、見せて下さい!」

「OK。 バイクは、乗ったこと有る?」

「前に一度だけ、兄の後ろに乗せて貰いました」

「じゃ、平気そうだね。 ついでに、少し先まで送って行って上げる」

「乗るんですか?!」

「元々はツーリング仲間だよ、お兄さんの」

一美は、その言葉で納得した。 あの兄と利知未の繋がりが、こんな所にあったのかと思う。


 少し休憩をしてから、利知未が運転するバイクのタンデムシートへ乗って、ゲームセンターを周ってから、送って貰う事になった。

 利知未は、動き易い格好に着替えて来た。 少しメンズチックな服装を見て、美人なだけではなく、格好イイ人でもあった事を知った。


 ゲームセンターで、利知未は約束通り証拠を見せてくれた。

「最近やってなかったから、チョイ、パンチ力落ちたかな?」

結果を見て利知未が言う。

 三回、パンチ力を測定して、合計240キロを表示している。平均、80キロのパンチ力だ。

 一美も比べるために、叩いてみた。 合計174キロ、平均58キロだ。

「一美さんも、女の子にしては力がある方だな」

特に、何もトレーニングなどをしていない一般女性ならば、平均30キロから50キロ、合計90キロから150キロで、並と言えるのでは無いだろうか。

「部活で、鍛えていたからかな?」

「後は、身体が大きいと、その分、筋力も強い物なんだよ。 肉体の仕組みが、そうなっているから」

「成る程。 流石、お医者さん!」

「感心される事でも、無いと思うけど」

 利知未は照れ臭そうに、軽く肩を竦めた。

「後は、そうだな……。 護身術、教えてあげようか?」

「護身術?」

「合気道。 昔、やってたから。 小学生の頃に終了免除、貰ってる」

「そうなんですか?! 始めのイメージじゃ、考えられない」

「だから、言ったでしょ? 猫被ってるって」

益々、兄との繋がりが見えた。 驚きと同時に、嬉しくなって来た。

『お兄ちゃんの国語能力も、悪くなかったのかも……?』 昔は、男前だった。 そう、言っていた。

 バイクを駆る姿と、ここで見せてくれた表情と証拠を見て、少しだけ昔の利知未の、イメージが出来た。


 ゲームセンターを出て、止めて有るバイクの近くで、不審な男を見つけた。

「窃盗?」 小さく利知未が呟く。

 最近、バイクや車の窃盗が増えて来て、自治会からも警告の回覧が周って来ていた。

「利知未さん、どうしたんですか?」

少し後ろから、一美が問い掛ける。

「丁度良い相手が居たよ、ここで見ていて」

利知未は一人で、不審な青年の二人連れに近づいて行く。

 その時の利知未は、迫力があった。 一美はハラハラしてしまった。


 後ろから、青年達に声を掛けた。 慌てて振り向いた奴らが、キーの差込口を弄っていた道具を武器にして、反射的に利知未へ襲い掛かった。

「甘い!」 一言、そう低く呟きながら、利知未はその青年達の攻撃をさらりと交わして、ついでに力を受け流し、得意の合気道で気絶させてしまった。

 騒ぎに通行人が騒ぎ出した。 利知未は、一美に声を投げる。

「携帯、持ってる?」

「……は、はい」

「110番、してくれる? 現行犯だから」

慌てて、言われた通りに連絡をした。

 暫らくして駆けつけた警官に、利知未は事情を説明して、犯人達を引き渡した。 ついでに被害届けも申し出た。 二人が狙っていたのは、自分のバイクだ。 小一時間、足止めを食ってしまった。

 一美は、頭の中が真っ白になってしまった。


 時間を見て、利知未が一美に謝った。

「ごめん、余計な事に時間、使っちゃった。 本当は、家の近くまで送って行って上げたかったんだけど……。 今の時間じゃ、帰るのが八時過ぎちゃうな。 倉真には内緒の事だから、帰って来るまでに、ご飯も作ってあげないと成らないし」

「いいですよ、電車で帰れますから」

「じゃ、乗り換え線の駅まで、送ってくよ。 それなら六時には戻って来れるから、大丈夫」

 再び女らしい笑顔を見せた利知未に、一美は少し憧れて、納得もした。

『確かに、お兄ちゃんとお似合いかも知れない……。 って言うか、お兄ちゃんの相手には、利知未さんじゃなきゃ、無理そうだわ』


 今日は、沢山の発見をしてしまった。 誰かに話して見たくなる。 けれど、利知未に言われてしまった。

「あたしの本性、ご家族には、内緒で宜しくね?」

「……友達になら、話しても良い?」

少し上目使いで、おねだり視線を、未来のお義姉さんに向けてみた。

可愛く見えて、利知未は小さく、吹き出してしまった。

「仕方ないな。 ……その代わり、信用できる友達だけにしてね?」

「分りました! お義姉さん!」

元気にそう言って笑顔を見せた一美に、サヨナラの挨拶をして、バイクを出発させた。



 利知未は急いで帰宅して洗い物を片付け、夕食の準備に取り掛かった。 倉真の帰宅前には、何事も無かった顔で澄ましていた。

 夕食を取りながら、保坂と香の、その後を聞いた。

「保坂さんの悩みは、片付いたらしいぜ」

香とは、ここの所、会う機会が無かった。 利知未は倉真の口から、始めて報告して貰った。

「結局、新しい彼女を紹介して貰ったらしい」

「上手く、行かなかったんだ」

「って事でも、無いみたいだ。 ただ、香さんにとっては、物足りない相手だったらしい」

「保坂さんは、気に入っていたの?」

「チョイ、意味は違うけどな。 姉貴分みたいな感じで、恋人という関係にはなれなかったそうだ。 二人で出掛けて楽しかったんだけど、姉弟で遊んでいる感じになっちまったって」

それを聞いて、納得だ。

 保坂が香に彼女を紹介して貰った変わりに、保坂も学生時代の先輩に、丁度良い感じの人が居た事を思い出し、お互いに新しい恋人候補を紹介し合って、終わったと言う。

「その情報は明後日、病院で香さんに聞いてみよう」

「そーしな」


 館川家へ挨拶に行く日も、決まって来た。

 倉真の父親の仕事も考慮して、元日に顔を出す話しが出ている。 年始は茶道界の行事も多く、毎年二日を過ぎると、茶会の注文菓子を作るのに忙しくなると言う。 お年賀として毎年、倉真の父の和菓子を持って行くお得意様も結構、多いらしい。

 二日は、利知未の大叔母の命日だ。 来年も、墓参りに行く予定がある。

 その辺りの事情を考慮して、話し合った結果だ。 元日から伺うのは申し訳ないとは思うが、それしか都合が合わないのも事実だ。 年末は、それこそどの家庭も忙しくて、呑気に挨拶になど行ける筈も無い。



 食事を終え、リビングへ移動した。 晩酌をしながら話した。

「漸く、動き出したな」

「そんな感じだね」

「……ここからが、長い道程なんだろうけどな」

「倉真と二人なら、きっと頑張れる」

 そう言って利知未は、力強い、優しい笑顔を倉真に見せてくれた。


 数日後、利知未の活躍が、新聞の紙面で明らかにされてしまった。

 例の青年達は、最近の連続窃盗事件の犯人だった。 彼らが捕まった事で、窃盗グループその物が検挙された。 利知未は警察から感謝状を戴いてしまった。

 その事件は、思ったよりも大きな記事になっていた。 月の中旬過ぎ、新聞を見た一美から早速、連絡が入った。



 更に月末に成り、もう一つの厄介事が、郵便受けに舞い込んだ。

 それは駆け出しの売れっ子女流作家、仲田 冴吏からの招待状だ。

「……忘れてた」

封筒の中身を改めて、利知未は口をへの字に曲げ、そう呟いた。




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