2 研修医一年・十月
2 研修医一年・十月
一
月頭の日曜日、利知未と倉真は、のんびりとした休日を過ごした。
七月末の鳩ノ巣渓谷での写真が、先月の末に送られて来ていた。 お礼の手紙を利知未が書いて、二人で買い物ついでにポストへ投函する。
「手紙の裏書も、館川なのか?」
「だって、夫婦だって言っちゃったし。 どうせ、その内、嘘じゃ無くなるんだし、イイんじゃない?」
夫婦だと自己紹介をした日の夜、改めてプロポーズをされた事になる。
「二年も先の話になるけどな」
「婚約解消、されないように頑張らないとね」
「それは、俺の台詞だろ」
「あたしにだって、不安はあるんだよ? もしも、倉真のご両親から反対されたら、どうし様も無いでしょ」
「そりゃ、無いだろ。 こんな親不孝者はノシ付けてお渡ししますって、喜ばれるだけだ」
「そうかな。 けど、親不孝なら、あたしも同じなんだろうとは思うけど」
「お前の所は、親不幸のし様も無かったんじゃネーか。 元々、離れて暮らしていたんだ」
「それは、ね。 ……けど、結婚って言うのならリスクになる可能性だって、ある事だとは思うし」
その点は本当に心配している。 不安な表情になってしまった。
「もし反対されたとしても、トコトン話し合って納得させる」
言い切った倉真の言葉は、嬉しかった。
「ありがと。 倉真の事、信じてるよ」
微笑を見せて、手を伸ばした。 倉真の左手を握り、手を繋いで歩き出す。 倉真は利知未の手を、確りと握り返してくれた。
木、金の連休を使って、利知未は空いた時間、珍しく読書をした。 数日前に送られて来た、冴吏のハードカバー本・第二段だ。
それで、少し機嫌が悪くなった。 モデルが問題だ。
本そのものは、一日で読み終えてしまった。
その日、帰宅した倉真は、リビングのテーブル上に置いてあった本を見付け、夕食後ふと手に取り、読み始めてしまった。 利知未は面白くない。
「倉真、勉強は?」
不機嫌な利知未が、声を掛けた。
「ん? ああ、今日は息抜きだ」
本から目を上げずに、倉真が言う。 その様子を見て、利知未が呆れた息を付く。
「それ、そんなに面白い……?」
「読み易いな」
「……そ」
短く返事をして、利知未がキッチンへ立つ。
「あたしは晩酌でもしようっと」
「おお」
全く気がこちらへ向いてくれない。
倉真が本を手にしている事自体、珍しい。 少々、ムッともするが、活字離れ代表選手の様な倉真が読書に勤しむのは、悪い事では無い。 諦めて、利知未は一人で、さっさと晩酌を始めた。
利知未が酒を飲んでいる隣で、倉真の読書は続く。 暫らくして、呟いた。
「成る程ね……」
「何が成る程?」
「いや、この本。 下宿の冴吏ちゃんだったか? 書いたの」
「そーだよ。 ……あたしも読んだけど」
面白くない気持ちのまま、利知未が言う。
「この、隆史ってのがさ、」
「あたしがモデルと言う、噂のね」
その点が気に入らないのだ。 利知未は、タバコへ火を着けた。
『何か、機嫌ワリーな。 ……触らぬ神に、祟りなしか?』
倉真は、そのまま読書を続行する事にした。
まるで昔の利知未並みの不良少年が、主人公だった。 ヒロインを助ける為に、敵対しているグループへ一人、乗り込んで行く。
喧嘩も強い、美少年。 趣味はバイク。 群れる事は好まない、ストイックなヒーローだ。 ……どうしても、利知未の昔と重なる。
最近、随分と可愛く、綺麗になった利知未を見て、倉真は確かに嬉しいとは感じている。 けれど、その反面。 良く昔の利知未の事も、夢に見るようになって来ていた。 無意識での欲求を満たすのには、丁度良い内容だった。
普段は活字を追っていると眠くなってしまう倉真も、つい夢中になって読んでしまう。 利知未は益々、面白くない。
「結構、面白れーじゃネーか」
「男子中・高校生には、特に人気が有るみたいだね」
倉真の呟きに、利知未が言い捨てる。また、新しいタバコへ手を伸ばす。
『俺の文学知識は、中学、高校生並みって事か?』
不機嫌な利知未の言葉に、倉真は少しだけショックを受けた。
『……ま、そんなモンか』
けれど直ぐに納得して、続きを読み始める。
中盤の盛り上がりのシーンで、喧嘩シーンも中々の迫力だ。 ヒロインとの恋愛も進展して行く。 全六章構成の第四章まで一気に読んで、再び呟く。
「格好イイじゃネーか」
「そー言う問題?」
腕を組んだまま、タバコの煙を吐き出している。 本数が、増えていた。
「読者アンケート、人気一位だって?」
「そーらしーね」
「良い事だ」
「今、真ん中だね。 その辺りは取り敢えず置いといて、ソコ以外のシーン」
「俺達が昔やった事と、大して変わらねーな」
「そりゃ、そーだけど」
「仲間内以外にゃ、気付かれネーよ」
「でも、知り合いにはバレるよ」
「自業自得ってンじゃないか?」
「……そーだけど」
かなり、機嫌は良くない。 倉真は、こっそりと首を竦めた。 電話が鳴り、利知未が受話器を取る。
始めは、それなりに声を作っていた。 電話の相手が知れた途端、利知未の声と口調が変わる。
「冴吏か? お前、良く電話なんか、して来れたなぁ……」
少し、恐ろしげな声だ。 倉真は益々、首を竦め、心の中だけで呟いた。
『……コワ』
「利知未、読んでくれた? 中々、面白く書けていると思うんだけど。 お気に召さない?」
「お気に召すか?! ったく。 今は真面目にやってンだからな、勘弁してくれよな」
「売れ行きが随分、良くって。 出版社で、お祝いのパーティーをしてくれる運びとなりました。 感謝。 ……で、利知未、招待状送るから宜しくね」
「何であたしが?!」
「隆史のモデルを見たいと、編集長のお言葉。 対談の予定もあります」
「対談? どうして? 何が楽しくて? それが何か良い結果に繋がるのか?」
「ま、いいじゃない。 続編、書く事になったから、その回の特集でページを戴きました。 ビジネスですので、宜しくね。 その内、連絡行きます」
「宜しくね、って…、あ、こら! 切るな! まだ、話の途中だろーが?!」
ったく! と、小さく叫んで、利知未は受話器を乱暴に置いた。
倉真は、耳を塞いでおく事にした。 突っ込んだら、面倒な事に成りそうだ。
「寝るかな」
呟いて、本を持って立ち上がる。
「ン? ああ、お休み…って、チョット待った!」
利知未は、すっかり昔に戻っている。 その事自体は面白い。
「何だ?」
「それ、まだ読むの?」
気を取り直して、最近の様子を少しだけ取り戻す。
「結構、面白いぜ」
「……、そ。 ……別に、イーけど」
余り良さそうではなかったが、倉真は気にしないことにした。
「やすみ」
「お休み」
利知未はソファに戻って、再びタバコへ火を着けた。ご機嫌斜めのままだ。
倉真はさっさと寝室へ引っ込んで、ベッドの上で続きを読む事にした。
『偶には、読書の秋ってのも、悪くはネーな』
今夜中に読み切って、明日は利知未の前で、この本を開かないようにした方が良さそうだ。 そうすれば夜までには、機嫌も直るだろう。
途中で読むのを止めるのは、勿体無い本だと思った。
倉真は集中して、夜の内に残りの三章を読み切ってしまった。
その週始めの月曜、樹絵から準一に連絡が入っていた。
「九日の月曜日、休みになったから。 七日の土曜日から、泊まりに行っても良いか?」
「いいよ。 オレ、八日に仕事入ってるけど、九、十は休みになってるから」
「何だ、丁度良いじゃん。 じゃ、土曜日の夜、行くよ」
「了解」
週末から三泊四日で、樹絵が泊まりに来る約束が出来た。
樹絵は、今月の十三日になる準一のバースデー代わりに、この連休中で簡単にお祝いをしてやろうと考える。
『何か、何時もより手の込んだ物を作ってやったら、喜ぶかな?』
電話を切り、寮の自室へ戻り、クッキングブックを開いてみた。
プレゼントは今週中に用意をするつもりだ。 カメラマンの弟子になった準一の為に、少々値は張るが、一眼レフカメラをプレゼントしようと考えていた。 カメラの事は良く判らないが、この前、泊まりに行った時、街中で足を止めた準一が、じっと見ていたのを覚えておいた。
『今月、金掛かるな……。 ま、いいか。 貯金、まだ有ったし』
眺めていた料理本から目を上げて、少しだけ溜息が出て来た。
週末、授業後に準一のアパートへ向かった。 今日は準一も仕事だった。 一応、呼び鈴を鳴らしてみた。 反応が無かったので、預かっていた合鍵を使って鍵を明け、玄関へ入る。 荷物を部屋へ置いて、手を洗った。
冷蔵庫を勝手に開けて、中身を検分してみた。
「ロクな物、入ってないな」
冷蔵庫を閉めゴミ箱を見て、昨夜のホカ弁の空容器を見つけた。
「ま、こんなモンか」
それならそれで、安心なのは確かだ。 準一の性格を考えた時、家庭の味が恋しくなれば、どこかで料理上手な女の子をナンパして来ないとも限らない。 取り敢えず浮気はしていないらしい。
夕飯をどうしようかと考えていると、部屋で電話の呼び鈴が鳴る。 暫らくほっておくと、留守番電話の応答メッセージが聞こえ出し、その声に被って準一の声が聞こえた。
「樹絵、いるかぁ……? まだ、来てないのかな」
樹絵が六畳へ戻って、受話器を上げる。
「ジュン? 今、来たばっかりだよ」
「お、来てた。 飯、買って帰る」
「もう帰って来れるのか?」
「仕事、今終わった。 海苔弁で良いか?」
「いいよ。 じゃ、後どれくらい掛かる?」
「四十五分。 弁当屋に寄ってくから」
「OK。 じゃ、風呂でも洗っておこうか」
「そーしてよ。 じゃーね、後で」
「気をつけて帰って来いよ」
「ラジャー!」
電話を切って、樹絵は風呂場へ向かい直した。
風呂を洗い、湯を沸かしている間に、樹絵は料理本を荷物から取り出す。
『パエリア、作ってやろう!』
夏に遊びに来た朝、情報番組で見聞きした、スペインのフラメンコ歌手が言っていたのを思い出した。
「パエリアは、あなただけ、と言う意味がある料理。 私は月に1回、最愛の妻のために大量のパエリアを作って、ホームパーティーをしている」
そんな事だ。 だったら、折角だから準一に気持ちを込めて、料理を作ってやっても良いだろう。
我侭放題、自由奔放に生きてきた準一が、自分の為に実家を出て、日々の食生活にも困りながら? 一人暮らしを始めてくれた事は、樹絵にとっては本当に嬉しい事だった。
『下宿で半年間、家事を仕込まれたのも丁度良かったよな』 お陰でレシピ通りになら、樹絵にもマトモな物が作れるようになった。
明日、準一が仕事に行っている間に材料を買いに出て、作ってやろうと思う。 甘党の彼の為に、ケーキも用意しようと思った。 少し早いけれど誕生日のお祝いだ。 プレゼントも用意して来た。
樹絵は、少しワクワクし始めた。
「ジュン、喜んでくれるかな?」 つい、顔がにやけてしまった。
そうしている内に、準一が弁当を買って、帰宅した。
翌日、樹絵は計画通りに動いた。 昼間、準一が仕事へ出掛けている間に買い物へ行く。 食材も、一生懸命吟味して来た。 パエリアの他に、鮭が好物の準一の為にムニエルを作ってやろうと、鮭も買う。
ケーキは、小さめの丸いデコレーションケーキを、千六百円で購入する。 このサイズなら、甘党の二人で食べ切れる筈だ。 ワインも購入した。
大荷物で準一の部屋へ戻り、昼食の後から料理を始めた。
料理は出来る様になったが、手際は余り良くない。 初めて作るメニューで、本を見ながらの格闘だ。 六時前には何とか、夕食の準備を整えた。
「かなり、時間掛かっちゃったな」
呟いて、利知未を思い出す。
『利知未は何時も、一時間くらいで7人分の料理、作ってたよな』 改めて凄いと思った。 里沙もだ。 一番多い時で九人分もの料理を、一時間半掛けずに作っていた。 自分は二人分に、四時間以上掛かってしまった。
その分、愛情は篭もっていると、自分を励ます事にした。
その日は、利知未の夜勤三日目だ。 夜、八時半前には家を出る。 アパートを出るほんの十分前、久し振りに樹絵から連絡が入る。
「あ、利知未だぁ! 元気ぃ?!」
電話口の樹絵の声は、酔っ払っていた。
「樹絵? 久し振りだね。 どうした? 酔ってるみたいだな……」
最後の呟きに、倉真が顔を上げる。 目で質問をする。
「樹絵だよ、酔っ払ってるみたい」
送話口を軽く押さえて、利知未が倉真に答える。
「もー、ムカムカ、ムカムカ、ムカムカする! あーもう! 何で、ジュンって、ああ何だよ?!信じられないよな」
「飲み過ぎで胃がムカついてるって、コトじゃないの?」
「違ぁぁう!! ジュンの所為! もー、どーしてやろう?!」
酔っ払った樹絵の言葉は、理解し難かった。
利知未は、時間を見て言う。
「樹絵、あたし明日は夜勤明けで休みだから、どっか、飲みに行くか?」
「行く!! 今日、これから仕事?」
「そう。 後五分で出ないと」
「じゃ、イイや。 明日、話聞いてよ」
「OK。 場所は、明日の午前中に連絡するから。 ジュンの所でしょ?」
「うん、行ってらっしゃい」
受話器を置いて、利知未が倉真に言う。
「樹絵、何かイライラ溜まってるみたいだから、明日の夜、ストレス解消に付き合ってくるよ」
「そうか。 明後日、休みだな」
「うん。 だから、チョット遅くなるかも知れない。 夕飯、どうする?」
「そうだな。 ラーメンでも、食いに行ってくるか」
「そうしてくれる? ごめんね」
「気にするな。 久し振りだ、ゆっくりして来いよ」
「ありがと。 もう、出なくちゃ」
時計を見て、利知未が言う。 出掛けのキスを交わして、仕事へ向かった。
翌日、利知未は帰宅して先ず、樹絵に連絡を入れた。
「横浜駅、電車使ったら丁度、真ん中だし。 その辺りの飲み屋で、良いか?」
「いいよ。 じゃ、五時頃、何処で待ち合わせる?」
「なら、チョット探したい本が有るから、西口の大きい本屋、判る?」
「判ると思う」
「ソコの医学書、置いてある辺りに居る事にするよ」
「了解。 じゃ、後で」
「じゃーね」
電話を切って、欠伸をする。 今日も倉真が用意してくれてあった朝食を腹に収め、洗濯物を干してから、シャワーを浴びる。 そこまでが、夜勤帰りの朝の日課だ。 それからベッドへ潜り込んだ。
約束通り、横浜駅西口の本屋で樹絵と合流した。
「本屋って、待ち合わせに丁度いいな」
合流し、連れだって歩きながら、樹絵が言う。
「コーナー決めておけば、探す手間も省けるでしょ」
「だな。 今度、大きな駅で待ち合わせる時には、あたしも活用しよう」
「そーしな。 で、何処の店へ行こうか?」
「良いよ、あのチェーン店で」
先にある、居酒屋チェーン店の看板を指差した。
そのまま、真っ直ぐに店へ向かって行った。
準一は、昨日貰ったばかりのカメラを持って、今日は箱根までバイクを走らせていた。 樹絵は昨夜から、機嫌が悪くなってしまっていた。
『何で、怒ってンのか判らネーし。 夜までには機嫌直ってるかもしれないから、ま、イイか』
と、気楽に構えている。 師匠の言い付けに従って、偶にはカメラの勉強でも真面目にしてみようと思った。
倉真は今日も残業だった。 真っ直ぐ何処かの店に寄って行こうと思ったが、財布を忘れて来た事に気付く。 一度、アパートへ戻る事にした。
『利知未、もう出掛けてるよな』
時間は、七時半を回ろうとしている。
『今日は、チョイ遅くなっちまったな』
先輩達に挨拶をして、さっさと帰途へ着いた。 腹が鳴っていた。
二
利知未は居酒屋で、樹絵のイライラの原因を聞いてやった。
「で、何があったの?」
席に落ち着いてビールを飲み、タバコへ火を着ける。
「それがさー! 聞いてくれよ! ジュンのヤツったらさ!」
昨夜の、頑張った料理への反応を、話し始めた。
準一が帰宅した時間は、六時過ぎだったと言う。 さっそく料理をテーブルに並べた所、先ずはパエリアを見て、オジヤと言われた。
「パエリアだってば。 そっちは、鮭のムニエル」
「名前なんか、どーでも良いよ。 腹へって死にそう」
その言葉に、先ずカチンと来た。
「ジュン、夏に泊まりに来た時、一緒に朝の情報番組、見てたよな?」
「情報番組? それが、何か関係あンのか?」
悪気は全く無いのは判る。 それでも、あの情報番組で例のフラメンコ歌手が言っていた事について、二人で感想を話し合ったのも事実だ。
「本当に、何にも覚えてないのか?」
「一日寝たら、忘れる」
あっけらかんと言い放った。 話しながら、樹絵は夕食の準備を進めていた。 準一は、並べられた端から箸をつけて行く。
「戴きまっす! お、美味いじゃん、このオジヤ!」
「パ・エ・リ・ア!」
「鮭も美味いよ」
「ムニエル!」
「何、怒ってンだ?」
食いながら、準一がさらりと聞いた。
「……別に、いいよ。 戴きます」
ムッとしたまま、樹絵も食事を始めた。
それでも気を取り直して、食後にケーキを用意した。
「ケーキまであるんだ。 何か、ある日だった?」
「今週末、ジュンの誕生日だろ? その日は寮だから、早いけどお祝いをしてやろうと思ったんだよ」
「そっか、オレ、今年で二十三歳だ。 早いな」
「プレゼントも有るよ、おめでとう」
樹絵が渡したプレゼントを、その場で開いた。 凄く喜んでくれていた。
「それなら、特に問題、無かったんじゃないの?」
「まだ、続きが有るんだ」
ビールは既に三杯目だ。 利知未の左手に光る、指輪に目が止まる。
「それ、もしかして婚約指輪?!」
言われて利知未が頷いた。
「報告、遅くなりました。 倉真が、プロポーズしてくれたんだ」
少し照れながら、左手を軽く上げて手の甲を向ける。
「おめでとう! そっか。 やっと、そうなったんだ! 何時?」
少し、羨ましいと感じた。
「七月の末に、あの鳩ノ巣渓谷にキャンプへ行って来たんだ。 その時に」
「良かったじゃん?」
「やっと落ち着いたよ。 樹絵、五年前キャビンへ行った時から、倉真と良く話しするようになってたんだって?」
「そんな事も、あったな。 ……今は、懐かしい。 あの時、ジュンの事で色々悩んでたから」
「そうだったらしいね」
「倉真には、世話になったよ? 利知未にもかなり世話、掛けて来たけど。 だから、あたしは二人がそうなって凄く嬉しいと思うよ」
「ありがと。 で、樹絵の話の続きは?」
「そうそう、続き!」
話を再開する。 樹絵は、また不機嫌顔に戻ってしまった。
プレゼントを渡して、最近の仕事の話を聞いた。 暫らくして、もう一度あの番組の内容を覚えているか、聞いて見た。
「ジュン、本当に覚えてないのか?」
「何を?」
「だから、夏に一緒に見た番組」
「毎年やってる、戦争アニメ映画?」
「だれが、アニメって言ったよ? 情報番組って言ってるじゃん」
「覚えてない。 何だ?」
「スペインのフラメンコ歌手の話!」
「そんなの、あったっけ?」
「あの時、ジュン、言ってたんだぞ? スペインの男が日本に来たら、モテるんだろうなって」
「ンな事、あったかぁ……?」
全く記憶に無い感じだ。 それで、またイライラに火が着いてしまった。
「……もう、良いよ」
樹絵は殆ど一人で、ワインのボトルを空けてしまった。
「で、昨夜の電話な訳だ」
「そう。 すっごく頑張って、料理の意味まで考えて作って出したのに。 四時間、掛かったんだぞ? 努力が水の泡って感じじゃんか」
利知未も始めて、パエリアに込められた意味を知った。
あれほど料理が嫌いで苦手だった樹絵が、そこまで頑張ったと聞いて、少し気の毒とも思う。 けれど、準一の反応には頷いてしまう。
「気持ちは判る。 けど、男にあんまり感性の点で期待するのは、無駄だろうとも思うけどな」
倉真の事より、哲の事を思い出していた。 あの鈍感さは、一種の特技だ。
「結構、鈍感な生き物だよ? 自分の態度が人にどんな風に映っているのかも、気付かないヤツもいるし」
焼酎のお代わりを注文して、樹絵の言い分を続けて聞いてやった。
倉真が帰宅したのは八時前だ。 空腹がサイレンを鳴らしている。 朝、忘れていった財布を見付けて、玄関へ向かおうとした。
その時、呼び鈴が鳴る。
「誰だ?」 新聞の集金か? と思い、財布の中身を確認しながら玄関へ向かった。
鍵を明け、チェーンを掛けたまま軽く扉を開く。 そこには新聞の集金ではなく、準一がビールを一ダース抱えて立っていた。
「へへ、行き成りごめん。 今日は利知未さん、居ないよな?」
朝、樹絵が利知未と酒を飲みに行く事を、チラリと言っていた。
「お前のカミさんと、飲みに行ってるからな」
「はは、カミさんと来た? それ言ったら、倉真だって奥さんじゃん」
「お前まで、そう呼ぶか。 …ま、いい、上がれよ?」
腹は減っていたが、このまま玄関先へ立たせている訳にも行かない。 倉真は扉を大きく開いて、準一を迎え入れた。
リビングへ勝手に通り、前回、前々回と同じ様に、勧められる前に一人掛けのソファへと陣取る。 準一の定位置となってしまった。
「で、何か、あったのか?」
倉真は、何時も利知未と二人で並んで座っている、三人掛けのソファに腰掛けて準一を促す。
「ま、ま、取り敢えず、乾杯!」
自分が土産で持って来た缶ビールのプルトップを引き上げた。
ベコッと情けない音をさせて、勝手に乾杯をする。 倉真は腹の虫を収めて、ビールを喉へと流し込む。
『炭酸で、いくらか腹、膨れるか?』 そう考える事にした。
酔いが回るのは早いかもしれない。 思い付いて、冷蔵庫を漁ってチーズを見つけて来た。 こんなモンでも腹の足しには、成るだろう。
リビングへ戻ると、準一が一缶目を飲み干し、新しい缶のプルトップを引き上げ、二本目を飲み始めるところだ。 半分ほど飲んで話し始めた。
「樹絵がさ、昨日から、なーんか機嫌悪いんだよね」
「何があったか、話して見ろよ」
「オレにも良く判んねー。 ただ、夕飯に出してくれた料理の名前に、拘っていたかな?」
「料理の名前? 何だ、そりゃ?」
「夏に泊まりに来た時、一緒に見た朝の情報番組、覚えてないのか? っても、突っ込まれたな」
「テレビ、ね。 俺も、朝は呑気にテレビ見てる暇ネーからな」
準一の話を聞いて、二人で首を捻った。
「誰か、知っていそうなヤツ居ないかな?」
「どうかな。 利知未が帰ったら、聞いてみるか?」
「そーだよな。 もしかしたら今日、聞いてるかも知れねーモンな」
「で、今日はどうしてたんだ?」
自分が利知未の機嫌の悪い時は、なるべく触れないようにしている。
「朝から殆ど口、聞いてくれなかったから、時間潰しに箱根まで行って、カメラの勉強して来た」
「で、そのまま直行して来たのか?」
準一はカメラのケースを、ここまで持って来ていた。 高い品だ。 バイクの後ろに括り付けて置いて、盗まれないとも限らない。
「そう。 フィルム5本使った」
「そんなに撮る物、アンのか?」
「彫刻の森、行って来たからね。 同じモン、何枚も撮ったよ。 角度変えたり、光の加減見たりして。 っても、師匠は厳しいから褒めて貰える可能性は、殆ど無いけどね」
「お前が、それほど真面目にやってるとは思わなかった」
「面白れーから。 この仕事なら、ずっと続けて行ってもイイかなって思ってる。 まだ普段はスタジオの雑用ばっかだけどな」
準一も、いくらか成長はしているらしい。 感心してしまった。
倉真は話を変えて、樹絵の料理の腕を聞いて見た。 ビールの空き缶は、既に七本も転がっている。 腹の減り具合も限界に近い。
「樹絵ちゃん、料理、出来るようになったのか?」
「美味いもん、作るようになったよ。 っても、泊まりに来た時しか食えないから、ドンだけの種類を作れるのかは判んね」
「意外だな。 昔、キャビン行った時の包丁捌きは、恐ろしい物があったよな」
「そーだった。 それに比べれば、雲泥の差だ」
「お前らの食生活、どうなってるのかと思っていたよ」
「一人の時は、コンビニ弁当も多いよ。 だってオレ、料理なんか殆どした事ネーもん」
「そりゃ、料理の名前も判らネーよな」
「あんま、気にしなくネー? ファミレスとか行った時以外は」
「そうかもしれないな」
利知未が作る料理の名前も、教えて貰わなければ良く判らない。 準一よりは料理もやる倉真でもそうだ。 準一が、判る訳は無いだろうと思う。
「お前、今日、夕飯食ったか?」
「出先から直行して来たからね、まだだよ」
「腹、減らネー?」
「そー言われれば、減った」
「ラーメン、食いに行こうぜ」
「アイアイサー!」
漸く倉真は、夕飯に有り付ける事になった。 既に九時を回っている。
「近所に美味いチャーシュー、出す店がアンだよ。 タマに行ってる」
「そうなのか」
「ラーメンも美味いぜ? 量も多くて、値段も安い」
「そりゃ、楽しみだ」
ソファから立ち上がり、空き缶もそのまま転がしたまま、玄関へ向かう。
利知未が居なければ、こんなモンだ。 倉真はコレでも、普段は気を使っているのだ。
その頃、樹絵はすっかり出来上がってしまっている。
途中で利知未の飲んでいる焼酎と同じ物を頼み、ボトルで一本オーダーしていた。 半分は樹絵の腹へ収まっている。 利知未は呆れ顔だ。
「樹絵、平気か?」
長時間、昔馴染みの樹絵と過ごして、昔の雰囲気が少し戻っている。
「んー…? ヘーキ、ヘーキぃ! まぁだまだ、飲めるよぉ!」
樹絵も中々、酒に強い。 それでも、いい加減フニャフニャになっている。
「パエリアには、あなただけって、意味が有るんだぞぉ……一緒にテレビ見てたのに、ジュンの奴、何で、覚えてないんだよ? 話もしたのに……」
さっきから、この言葉を繰り返している。 目が据わっている。
利知未は、一つ溜息を付いた。
「利知未ぃ! 聞ぃてるかぁ?!」
「聞いてるよ。 済みません、ウーロン茶、下さい」
樹絵に答えて、店員にウーロン茶を注文する。 絡み酒の扱いは、バッカスの常連、田島のお陰で慣れている。
「うーろんちゃぁ?! なーに言ってるんだよ?!ショーチューのロック、もぉ1っぱぁい!!」
樹絵の言葉に、店員が止まる。 利知未の顔を見ている。
「済みません、ウーロン茶で良いです」
店員の無言の質問に、利知未はきっぱりと答えた。 返事をして、店員が奥へ戻って行った。
樹絵は、そのままムニャムニャとして、テーブルに突っ伏してしまった。 半分、眠っているみたいだ。 利知未はもう一度、小さな溜息を付く。
『……まったく、……世話の焼ける』 そうは思うが、女の樹絵に、準一と同じ水掛けの洗礼は、出来る事じゃない。 ソフトドリンクでも飲ませて、少し酔いを冷まさせる他、無さそうだ。
店員が、ウーロン茶を持って来てくれた。
「ほら、樹絵。 コレ飲んで、少し酔いを冷ましな」
ムニャムニャと起き出し、樹絵は素直にウーロン茶を口にする。 利知未は頬杖を付いて考える。
樹絵と準一は、バランスの取れたカップルだと思う。 何にでも一生懸命になり過ぎる嫌いがある樹絵。 準一は、何事にも執着心を持てないで、その時その時で風に流され、波に乗って、世間を渡っている風だ。
お互いのマイナス面を補い合う、丁度いい関係と言えるのでは無いか。 上手く歯車が噛み合っていれば、最強のカップルかもしれない。
歯車を噛み合わせるのは、お互いの努力と理解と、信頼。 そして、愛情。
自分と、倉真はどうだろう……?
利知未にとっては唯一、素直になり切れる相手だ。 倉真は自分の為に、無理をしていないのだろうか?
『もし聞いてみても、そんな事は無いって、言うだろうけれど……』
しかし、それで自分が彼の重荷になったりは、しないのだろうか?
ウーロン茶で少しだけ正気が戻った樹絵が、物思う利知未に気付いて聞いた。
「利知未、何、考えてんだ?」
「何でもないよ。 目、覚めたか?」
「あたしは始めから、寝てなんかいネーよーだ!」
「よく言うな。 さっき寝言で、ジュン愛してるよって言ってたよ」
にやりと笑ってやった。 勿論、嘘だ。
「そんな事、言ってた?! 本当に?」
樹絵は、一気に目が覚めた気がした。 利知未はその様子を楽しんでいる。
「さぁね」
知らない振りをして、笑ってやった。
「兎に角、そろそろ出ようか?」
十時少し前だった。
これからなら、少し酔い冷ましをしてから帰っても終電には余裕の時間だ。 今は、お互いに、待っていてくれる人が居る。
店を出るまでが一騒動だった。 親切な店員にエレベーターの下まで見送られ、ビルを後にした。
「……暫らくこの店、来れないな」
つい、利知未は小さく呟いてしまった。 それから酔っ払った樹絵を見て、笑顔を見せる。
「酔い冷ましに、ちょっと歩こうか?」
樹絵は、素直に頷いた。
エレベーターを降り、十月の夜の外気に触れ、酔いがいくらか冷めて来た。
「ランドマークタワーまで、行こうよ」
「OK」
頷いて歩き出す。
のんびり歩いて、三十分から四十分と言う所だろう。 一駅分歩くのだから、桜木町から電車へ乗れば良い。
「冷蔵庫にシジミ、ある?」
行き成りの質問に、樹絵が首を傾げる。
「何で?」
「二日酔いの防止。 結構、効くよ。 昔、良く里沙が作ってくれたな」
「そっか、利知未が深酒した次の日、何で毎回、味噌汁が有るのか不思議だった。 下宿の朝ご飯、何時もはパンにカップスープが多かったのに」
「無ければ、インスタントでも良いから買って行きな」
「判った」
「明日、寮に戻るんでしょ。 二日酔いじゃ、ジュンにも気の毒だよ」
「……そーだね」
利知未に言われて、樹絵も少し反省した。 ……ちょっと、イライラしていただけだ、きっと。
これからは準一に、ヘンな期待はしない様にしようと思った。
『ジュンは元々、あーゆーヤツだし……。 あんまり、物事を深く考えないし』
何時も風船のようにふわふわしていて、強風に逆らうよりは、風に乗って、今まで行った事もない様な場所に飛ばされる事の方を好むのだ。
そして、始めて見る景色に驚いたり、喜んだりしている。
『好奇心、旺盛だから。 で、中々、メゲたりしない。 ……柔軟に生きている』
でも、だから。
時たま、トンでもない方へ飛ばされて、そのトンでもない環境にもスンナリ馴染んで行ってしまうのでは無いか? と思って、不安になる事もある。
『だから、あたしがジュンに確り紐を結びつけて、ちゃんとその紐の端っこを掴んでいてやろ』 そう思ったのだ。
恋人が警官なら、怪しげな連中の方から避けてくれるのでは無いだろうか?
……きっと。
今日は折角、二人で居られる時間を、自分の意地っ張りで潰してしまった。
「あーあ! 勿体無い事した!」
「行き成り、どーした? まだ酔い、冷めてなかった?」
「もう、冷めた」
「肝臓、強いね」
「さっすが! 言う事が医者だね」
「医者だからね」
「そーだね。 …訳、判んない会話だな」
樹絵の感想に、利知未が軽く吹き出した。
「そーだな」
「あ! 目的地、到着! やっぱ、高いな」
ビルの天辺を、首を曲げて見上げた。
「美術館のベンチで、一休みしよう」
「疲れた?」
「酔っ払いを支えるのに、体力使ったからな」
「ご迷惑お掛けしました」
「どう致しまして」
肩を軽く竦めて小さく笑顔を作って、利知未が言った。
二人で、美術館の裏庭にあるベンチへ腰掛けた。 時間的に綱を張ってあったのを、跨いで行った。
三
ベンチに腰掛けると、利知未はバッグから携帯灰皿を取り出した。
「用意イイな」
「まーね。 でも、今日は吸い過ぎたよ」
「そーでも無いンじゃん。 前より減ってるよ」
「最近、一箱三日は持つんだよ」
「そーなのか? すっげー、減煙したじゃん。 禁煙すんの?」
「結婚して、子供が出来たら、禁煙するよ。 減らそうと思ったのはあるけど、どっちかって言うと、自然に減って来たかな?」
「倉真の為に?」
「……自分の為に。 それに、無くても居れる様にはなって来た。 仕事中は中々、吸うタイミングもないし。 家に帰れば帰ったで、結構やるコト一杯有るし。 …でも、倉真のお陰かな?」
「禁煙しろって、言われたのか?」
「違うよ。 ストレスが、余り溜まらなくなった」
「じゃ、今日はストレス溜まったんだ」
「そうじゃないよ。 外で飲むと、やっぱり本数、増えるんだよ」
「雰囲気って、ヤツ?」
「多分ね」
話しながら、ゆっくり吸っていたタバコを揉み消した。 蓋をして再びバッグへしまってしまう。 パッケージがチラリと見えた。 樹絵が聞いた。
「何時からメンソールなんだ? 前、ジュンと倉真と、四人で飲んだ時には、もう変っていたよな」
仕舞いかけたタバコの箱に軽く目を落として、利知未は答える。
「ジュンが運ばれて来た、少し前かな? …二月頃」
切っ掛けは、バレンタインデーの二日前。
酷い男に振られて、泣いていた彼女を慰めた、あの日。
倉真と、その優しさに、強いジェラシーを感じてしまった、あの出来事。
思い出して、懐かしい顔になる。
「何か、切っ掛けが有ったのか?」
「…まぁ、色々とね」
小さく笑った利知未は、今まで見た中で一番、可愛らしく、綺麗に見えた。
「そろそろ、行こうか。 お互い、心配させたくない人が居る事だし」
「…そーだね。 帰ろう!」
元気を取り戻した樹絵の返事に、利知未は再び、女らしい笑顔を見せた。
桜木町から電車を使って、横浜で私鉄へ乗り換える。 同じ沿線の、西と東だ。
私鉄線のホームで、線路を挟んで向かい合った。
樹絵の乗る電車が、少し早くにやって来た。 まだ、声が聞こえるうちに、利知未は少し大声で樹絵に言った。
「帰ったら、ジュンと仲直りしなよ!」
「判ってる! じゃ、また! お休み!」
「お休み!」
樹絵の返事に返した時、電車が二人の前へ割り込んだ。
樹絵が乗り込み、利知未の姿が見える所まで進んで行った。 扉の近くへ立って、利知未の姿を探す。
利知未側の電車も、ホームへ滑り込んだ。 利知未も乗り込んで、樹絵と同じ様に奥へと進んで行く。
窓を挟んで、顔を見合わせて笑みを交わした。 軽く手を振ると、樹絵の乗った電車が動き出した。
見送って、利知未側の電車も、ゆっくりと動き出す。
『……ちゃんと、仲直り出来るかな?』
妹分を、少し気に掛けた。
『大丈夫か。 ……樹絵なら』
直ぐに納得して、利知未の頬には微笑が浮かんで来た。
樹絵は電車に揺られながら思う。
帰ったら、今日、離れ離れだった分、二人の時間を大切に過ごそうと。
倉真は漸くリビングを片付け終わり、ソファに深く凭れ込んだ。
「後片付けが、面倒だな」 溜息を付いて、力が抜ける。
この前、準一が来た時には、部屋を散らかしたまま眠ってしまった。 朝、利知未が帰宅してから、準一と二人で片付けてくれたと聞いていた。 今回は自分の番だ。
タバコを銜え、火を着けた。 一本吸い終わるまで休憩して、シャワーを浴びる事にした。
再びリビングへ戻り、ソファに掛け直して、準一が飲み残して行ったコーラをグラスに注いで、飲んでみた。
「……甘いな。 炭酸が効いている内じゃなけりゃ、単なる砂糖水だ」
今夜は、飲み過ぎた。
準一には、帰宅する一時間前から、ビールではなくコーラを飲ませておいた。 飲酒運転、事故の元だ。
準一のバイクの運転技術では、危なっかしい事、この上ない。 酔いが冷めてから、準一は帰宅して行った。
それでも、飲酒から一時間だ。 帰宅途中、パトカーに見付かっていない事を祈る事にした。
だらけて過ごしている内に、利知未が帰宅する。 十一時半を回っていた。
「ただいま」
「おう、お帰り」
ソファに凭れ込んだまま、返事をした。
「まだ、起きてたんだ。 夕飯、ちゃんと食べた?」
「食ったよ。 ジュンが来たんだ。 近所のラーメン屋へ連れて行った」
「へー、来てたんだ」
話しながらリビングに現れた利知未が、上から倉真の顔を覗き込む。
「随分、お疲れのようですね」
「チョイな」
「シャワー、浴びてくる。 倉真、お風呂は?」
「さっきシャワー浴びた」
「じゃ、お湯張って置かなくても、いーね」
「ああ」
だらけたままの倉真を見て、微かに笑みが漏れた。 支度をしながら思う。
『今日は、ちゃんと片付けておいてくれた訳だ』
準一が来ていて、酒が出ない筈がない。 先月の朝、散らかしたまま眠ってしまった事の埋め合わせだろう。
リビングを出る前に、軽く振り向いて聞いて見た。
「ジュン、何か言ってた?」
「料理の事で、悩んでいた」
「それだけ?」
「樹絵ちゃんが何で機嫌が悪いのか、さっぱり判らねーって、言ってたな」
「成る程、成る程」
「そっちは、どーだったんだ?」
「久し振りに酔っ払いの面倒、見て来たよ」
「そんなに、飲んだのか?」 樹絵は酒に強かった印象がある。
利知未は出入り口の柱に、軽く寄り掛かった。
「まーね。 後で、ゆっくり話すよ」
少し考えてそう答えて、改めてリビングを出て行った。
樹絵は、準一よりも早くに帰宅して、シャワーを浴びていた。
準一は飲酒後だ。 何時も以上に安全運転で、パトカーに見咎められないように、なるべく裏道を使って、少し遠回りをして帰宅した。
ついでに、ご機嫌取りの土産を買って来た。 それを探して、同じコンビニのチェーン店を四軒回ってしまった。
人気の商品で、この時間に四つ残っている所が無かった。 一軒目で最後の一つを仕入れ、二軒目を空振りし、三軒目で最後の二個、四件目でもう一つと、紅茶のティーバックを購入して来た。
玄関の鍵は開いていた。 樹絵は帰っているらしい。
「ただいま」
シャワーの音が聞こえていた。 少し、無用心な気もする。 恐らく、自分が直ぐに帰るだろうと踏んでの事だろう。
台所の小さなダイニングテーブルの上に、土産のビニール袋を置いて、電子レンジの時間を確かめた。 十一時四十七分を表示していた。 一時間近く土産を探しつつ、バイクを走らせて来た計算だ。
『苦労した甲斐、あれば良いけどな』 そう思った。
シャワーの音が止まり、樹絵がバスタオルを巻いて浴室を出て来た。
「あれ、何時、帰って来たんだ?」
「たった今。 シュークリーム、買って来た。 食わねー?」
「勿論。 服、着てくる」
樹絵は、にっこりと笑顔を見せてくれた。 準一は胸を撫で下ろす。
『良かった、機嫌、直ってる。 流石、利知未さんだ』
樹絵のご機嫌を直してくれたのは、姉御だろうと考えた。 利知未は自分達だけではなく、元、下宿の住人達にとっても、きっとで頼りがいのある、良い姉貴分だったのだろう。
樹絵の様子を見ていれば、良く判る。 余り会った事は無いが、当時、下宿で一番年下だった美加も、利知未に懐いていたと樹絵から聞いた事がある。
ご機嫌取りのダメ押しで、準一が紅茶も用意した。 普段、そんな事までは気が回らない。 今夜は特別だ。
準備をしている内に、ドライヤーの音が聞こえて来た。
電気ポットと、二つのマグカップにティーパックを入れた物、シュークリームの入ったビニール袋を持って、部屋へ入る。
ベッドと箪笥とカラーボックスに囲まれた、部屋の開きスペースのほぼ真ん中に、以前、倉真が使っていた小さ目の丸座卓が置かれている。
樹絵用のクッションと、準一愛用の座布団チックなペッタンコの敷物が、座卓の周りに置いてある。
準一は、用意して来た物を丸座卓の上に置き、腰を下ろす。 ポットからマグカップに熱湯を注いだ。
紅茶の良い香りが、髪を乾かしている樹絵の鼻をくすぐった。
『珍しい。 気ぃ、利かせてる……』
チラリと、鏡に映りこんでいる準一の行動をチェックした。
『ま、イイか。 …今回は、あたしの意地っ張りが原因だし』
許してあげようと、思った。
髪を乾かし終わって、樹絵が向きを変える。
「紅茶、入れてくれたんだ。 サンキュ」
「はい、樹絵の好物」
「一人二個ずつ、買って来たのか?」
「当然。 一個じゃ足りないっショ」
樹絵にシュークリームとマグカップを押しやって、準一が言う。
「あのさ、オレ、まだ良く判ってないんだけど…、取り敢えず、ごめん」
ぺこりと頭を下げる。 樹絵は早速、シュークリームの袋を捌きながら、準一に答えてやった。
「もー良いよ。 あたしもちょっと意地張り過ぎた。 ごめん」
樹絵からも謝られて、準一はほっとした。
視線が合い、気恥ずかしくて、人差し指で顎をぽりぽりと掻いている。
「折角、一緒に居られる日だったのに、勿体無かったな」
「オレも。 勝手に出掛けちゃったしな。 ホント、ごめんな」
「イイよ、あたしが悪かったんだから。 イタダキマス」
捌いた袋から、シュークリームを取り出して二つに割って、片方を口へ頬張った。
皮がふわふわで柔らかい、バニラビーンズの入ったカスタードクリームのシュークリームだ。樹絵は、このシュークリームが好きだった。
二人で二個ずつ平らげて、指についたシュークリームを、ぺろりと舐める。 甘い物を食べると幸せな気分になる。 甘い物が苦手な人は少し可哀想だな、と、利知未と倉真を思い出した。
樹絵が、ニコニコして指のクリームを舐める様子を見て、準一が言う。
「機嫌、直った?」
「もう、とっくに直ってる」
「良かった。 訳判らない喧嘩したまま、寮へ帰したくは無かったんだ」
「あたしも。 喧嘩したまま帰るのは、イヤだった」
仲直りをして、樹絵が準一の隣へ移動して来た。
ベッドを背凭れ代わりにして、二人で並んで紅茶を飲んだ。
「シャワー、浴びて来てよ」
「そーする」
樹絵に言われて、準一は浴室へ向かった。
今日、一緒に居られなかった時間を、全部取り戻すようなつもりで、二人は抱き合った。 樹絵は、素直に思った。
『やっぱり、準一の隣が、一番、落ち着くよ……』 どうし様も無く軽くて、風船みたいにフワフワしたヤツだけど……。
樹絵には、準一のその身の軽さが心地良いのだ。 何時も何でも頑張り過ぎて、力を使い果たして、疲れ切ってしまう自分の心を、準一は何時でも軽くしてくれる。
準一には、樹絵の重みが丁度良い。
透子に一生懸命アタックして、報われなかった、あの頃。
その経験を通して、自分には楽しく軌道修正させてくれる、友達みたいな恋人が、丁度良いと感じて来た。 ……それと、もう一つ。
一緒に居ると楽しくて、過去の悲しい初恋を忘れさせてくれる、大切な女の子。 ……初めて会ったのは、樹絵が十五歳、自分が十六歳の頃。
あの頃は本当に、ただ一緒に過ごすのが、楽しい友達だった。
利知未以外で、始めてそう感じられる女友達。 双子と、里真。 その中で、何故か樹絵。
……縁なんて、不思議な物だ。
始めは由香子に、少しだけ興味を持っていた。 理由は、和泉の視線。 あの頃、亡き妹・真澄の姿を、和泉は由香子に重ね見ていた。
由香子は、利知未をすっかり男だと信じ込んで、強い憧れを抱いていた。
あの出会いが、二人の運命を交わらせた。
気付くと、樹絵は準一にとって、特別な女の子に変わっていた。
そこまでには、透子との思い出がある。 透子は言っていた。
「利知未が躾担当、アタシは経済観念担当。 イイ姉貴達を持ったな。 ……大事な女、見つかったら紹介しろよ」
あの頃、自分は思っていた以上に、透子の事が好きだったらしいと、最近になって漸く気付いた。
今は、樹絵が居る。 樹絵の存在は、準一にとって現実社会への留め具と、リードのような物かもしれない。
けれど首輪に着いたリードは長くて、窮屈を感じる事も、全く無い。
何にしてもイイ恋人に巡り会ったと、今は透子にも由香子にも、利知未にも感謝をしている。
だから今の準一にとって、樹絵は、本当に大切な彼女だ。
『まだ、トー子さんに紹介、して無かったよな』
半分眠りに着きながら、準一は、そんな事を思っていた。
樹絵と準一が、仲直りをした頃。
利知未はシャワーを浴び終わり、改めて倉真を相手に晩酌をしていた。
今日、樹絵に聞かされた、昨夜の事を話して聞かせた。 倉真はビールを飲み過ぎて、炭酸で腹が膨れて何も入らないからと、タバコを吸っていた。
「パエリアに、そんな意味があったのか」
利知未の話で、準一の悩んでいた料理の名前と、樹絵のご機嫌についての因果関係が、漸く理解出来た。
「あたしも、知らなかったよ。 ……ね、倉真。 今度、パエリアが出て来たら思い出せる?」
「こういう風に聞いて知ったんなら、覚えていると思うけどな」
「やっぱり、そうだよね」
「利知未は、やっぱ樹絵ちゃんの気持ちが解るのか?」
「そうだね……。 解ると、思うよ」
「男と女の差か」
「そうなのかもね。 樹絵、ちゃんと仲直りしたかな?」
「大丈夫だろ」
「なら、良いんだけど」
気分を変えて、店を出る前の樹絵の様子を話してやった。
「帰り、店を出るまで凄かったんだよね、樹絵」
「どう、凄かったって?」
「笑い上戸で。 店員の顔を見て笑い、靴を上手く履けなくて笑い、心配したあたしの顔を見て笑い。 お店の人も呆れてた」
「樹絵ちゃんが、笑い上戸だったのは、知らなかったな」
「そこに至るまでは、絡み酒と睡魔が襲って来てた」
「そりゃ、大変だったな」
「大変だったよ」
言いながら、ロックへ口を付ける。
利知未には、焼酎もワインも日本酒もカクテルも、飲めない酒は無い。 けれど一番、好みに合っている酒は、やはりウイスキーかブランデーである。
散々、飲んで来たと言うのに、ウイスキーの味が恋しくなって、一杯だけロックを作って飲んでいた。
今夜は倉真も疲れているようで、何時もは倉真に凭れていたのを止めて、ソファの背凭れに背中を預けていた。
けれど、「大変だったよ」 と言った利知未の身体を、倉真は何時も通りに自分の身体へ凭れさせた。
「お疲れ」
耳元で囁くようにして、利知未を労ってくれた。
「倉真も、お疲れ様。 大丈夫?」
「何がだ?」
「凭れちゃって、平気なの? 倉真も、疲れてた見たいだったけど」
「平気だ。 ……この方が気持ちが落ち着いて、癒される」
そう言って、銜えていたタバコを取り、手を伸ばして灰皿で揉み消す。
「ありがと。 あたしも、気持ちが落ち着くよ」
倉真の体温と、鼓動を感じる。 その感覚は、利知未にとっての安定剤だ。
「そうだ。 今度ジュンを、ちゃんと夕飯に呼ぼうよ?」
「この前は行き成りだったからな。 良いんじゃないか? コンビニ弁当ばっかじゃ、栄養が偏りそうだ」
「それに、偶には三人で飲むのも楽しいよね」
「そうだな」
ロックを飲み切り、小さな欠伸をする。 倉真も利知未に釣られて、大きな欠伸をしてしまう。 利知未は、倉真の眠そうな顔を可愛いと思う。 倉真も、利知未の眠そうな目は愛らしく感じる。
お互いの釣られ欠伸に、小さく笑ってしまった。
「今日はもう、寝ようか?」
「そーするか」
利知未はソファから立ち、グラスと灰皿を片付けた。
倉真は、もう一度欠伸をしながら、一足先に寝室へ引っ込んだ。
二人ともクタクタだ。 倉真も、流石に力が抜けていた。
倉真との時間は、明日ゆっくりと取る事にした。 今夜はベッドへ入って、直ぐに二人とも寝息を立て始めてしまった。
樹絵達は多分、仲直りしただろうと思いながら、いつの間にか利知未も、倉真も、夢の中を彷徨っていたのだった。
四
四週目の金曜日、利知未が遅出の夜。
倉真は家を飛び出してから、実に七年半振りに実家へ連絡を入れた。
電話口へ出たのは、妹・一美だった。
「一美? 俺だ」
一瞬、間があった。 声を聞き違えたのではない。 まさか、あの兄が此処へ連絡を入れて来るとは、思いも寄らない事だった。
「お兄ちゃん! どうしたの? 今、何処に住んでるの?!」
何時か、『何かあったら、お袋には連絡をする』 と言っていた兄の言葉を、瞬間的に思い出す。 驚きの後、不安が膨れる。
まさか、何か罪を犯して、警察か監獄からの連絡では無いだろうか……?
「今、横浜西区のアパート借りてる。 連絡しなくて悪かった」
利知未が十年を暮らした下宿や、バッカス、アダムの在るあの街へ、倉真が引っ越して行って住み始めた五年半前。 一美にだけは、新しい住所を伝えに行っていた。
自分も通っていた母校の正門前で、学校帰りの一美を待ち、英語ノートの最終ページへ住所と電話番号をメモした。
その前に、中学時代に世話になった担任から、久し振りの説教を戴いた。
一美を、実家の近くまでバイクの後ろへ乗せて走った。 後にも先にも、妹をタンデムシートへ乗せたのは、あれ一回切りだ。
まだ、バイク便のバイトをしていた、十九歳の春の事だ。
「そう……。 マトモに、やってるの?」
「ああ、ちゃんと就職もした。 もう、二年半勤めているよ。 皆、元気か?」
「うん、元気だよ。 お兄ちゃんこそ、病気してない?」
「ああ、元気だよ。 …お袋、居るか?」
「うん。ちょっと待ってて」
取り敢えず、兄の近況は平和そうだ。 犯罪や病気の告白でなかった事に、一美はほっとして母を呼びに行った。
「お母さん! 電話!」
「はいはい、ちょっと待って。 誰から?」
母は、夕食の片付けの最中だ。
何時も通り穏やかに返事をして、洗剤のついた手を水で洗い流す。
「……ビックリしないでね?」
「何? もったいぶって」
洗剤を落とした手を、エプロンの裾で拭きながら、娘の顔を見た。
「お兄ちゃん」
「え?」
「だから、音信不通の、お兄ちゃん!」
耳を疑った。 あの子が、連絡をして来てくれた……? まさか、一美は自分を担ごうとしているのじゃ無かろうか?
「嘘じゃないよ! 本当に、本当!!」
焦れた一美の声が上がる。 母は、漸く理解が追いついた。
追いついた途端、年甲斐も無く、キッチンから飛び出して電話に走り寄る。
「もしもし? もしもし! ……? 一美! 電話、繋がらないわよ?!」
慌てて焦って、保留の解除をするのも忘れた。 自分の失敗にも気付かない。
自分よりは機械に詳しい娘に、助けを求めて声を上げる。
「やだ、お母さん、解除してないじゃない!」
パタパタとスリッパの音をさせ、急いで近寄った一美が呆れた声を上げる。 言いながら、電話の保留を解除してやった。
保留音が解けた途端、声が出る。
「倉真!? どうしてたの?! 今まで連絡も寄越さないで……! 今、何処に住んでるの? 一美から住所を聞いて、手紙を書いたんだよ、それが宛先不明で戻って来て……。 私はあんたが何か仕出かしたんじゃないかと思って、どんだけ心配していたか!!」
繋がった途端、受話口から聞こえて来る、懐かしい母親の声。
「……悪い。 一年半くらい前に、引っ越してたんだ。 連絡するタイミング逃しちまった」
倉真は素直に、母に詫びた。
受話口から聞こえて来た声は、紛れもなく、息子の声だ。
その、無事に生きて居てくれた、こうして連絡をして来てくれた事実を、声を聞いて漸く理解した。 叱りたい事、聞きたい事、心配していた事など色々有るが、取り敢えず、安堵した事を伝えたい。
「……まぁ、良かったよ。 こうして連絡してくれて。 今、どうやって暮らしているの? ちゃんと食べてるの? 病気はしてない?」
一美と同じ事を聞かれて、場違いな可笑しさが一瞬、頭を過ぎった。
「ちゃんと就職してるよ。 車の整備工場で働き始めて、二年半になる。 飯はちゃんと食ってる、病気もしていない」
全て、利知未のお陰だ。 早く彼女を、家族に紹介してやりたいと思う。
「本当に? あんたは昔から、隠し事ばかりしてたから心配だよ」
「…一度、会いに行くよ。 ……会って貰いたい人が、居るんだ」
その為の、電話だ。
「……まさか、お嫁さん?!」
息子は、もう二十四歳になる筈だ。 家を飛び出して、七年半。
母親の頭に浮かぶのは、まだ、あどけなさが消え切らなかった、十七歳になる前の、派手な頭をして、頑固さを表した上がり眉と、ヤンチャな釣り目。
けれど、実際の年月を思う。
あの頃、漸く中学に上がったばかりだった長女・一美も、今はもう二十歳。 大学へ通っている。
母の性急な判断に、倉真は一瞬、言葉が止まってしまう。
「…結婚したいと思っている人だよ」
落ち着き直して、はっきりと言い切った。
「あら、まぁ……! 久し振りに連絡、寄越したと思ったら……。 そうだね、もう二十四だもんね……。 そんな人が出来ていても、可笑しく無いわねぇ……。 私も歳を取る筈だわ。 …一美も二十歳になったし……」
「それで、一度、親父と話し合いたいと思っている。 彼女は、親父との話がついたら、改めて連れて行こうと思ってる」
「……そう。 ……そうだね、ちゃんと話し合わないとね。 どう言う風にしようと思っているかは、解らないけれど」
家に戻って来るつもりが、有るのか? 父の後を継ぐ気になったのか? それとも、自分の道を進んで、家にも戻る気は無いのか……?
息子の性格を考えた時、後を継ぐ事、ここへ戻って来る事は、考えられない事ではある。 それでも、久し振りの息子の声と口調に、成長を感じられる。
……もしかしたら、少しは期待しても、良いのだろうか?
「ま、その辺の事は、行った時に話すよ」
「その方が、良いわね」
期待は、持ちたい気持ちと、持っても無駄な気持ちと、半々だ。
ただ、あの、どうしようもなかった息子が、随分と確りとした話し方をするようになった。 仕事も真面目にしていると言う。
「……あんたが、まともに生活を出来る様になったの、その人のお陰かい?」
「ああ」
その通りだ。 倉真は短く、けれど確りと、はっきりと答えた。
「そう。 あんたを、真っ当に戻してくれるような人なんだね……。 会うのが楽しみだよ」
母の声が涙ぐんでいる。 後ろで一美が、賑やかに騒いでいる。
「何? お兄ちゃん、結婚するの?! 本当に? ね、どんな人なのか聞いてよ!」
「ちょっと、黙ってなさい」
「後で、電話変わってよね?!」
はいはい、と妹に答える声を聞いて、倉真が話を戻す。
「詳しい事は帰った時に話すから、親父、何時なら家に居る?」
「あの人は、何時も夜九時にはお風呂上がって、晩酌してるよ。 日曜は何時も釣り行ったり、将棋指しに行ったり。 まともに家に居る事が、殆ど無い」
「相変わらずな訳だ」
「それでも、あんたが出てった頃は大変だったんだから。 ここ三年くらいだよ、元に戻ったのは。 ……仕事は、膿まず弛まず真面目な儘だったけどね」
「……悪かった」
「いいよ、返って丁度良い時期かも知れないよ。 だから、お父さんと倉真で話をするだけだったら、夜9時ごろ来た方が、確実だね」
「そうか。 ……仕事の都合見て、来週にでも顔出すよ」
「待ってるよ」
「ああ」
「お父さんに、言っておくよ」
「それとなく、頼む。 ……今まで、心配させてごめん」
「あんたが、素直に謝るようになる何てね……。 ……よっぽど、良い人なんだね」
「人柄は、保障するよ」
「そうかい、会うのが本当に楽しみだよ。 …じゃ、元気でやるんだよ」
「お袋も」
母子の会話は終わった。 受話器を置こうとした時、一美の声がした。
「ちょっと、お兄ちゃん! あたしにも、話させてよ?!」
昔から変わらない、利かん気そうな元気な声だ。 倉真は再び受話器を耳に当ててやった。
「何だよ?」
「何だよって事、ある? 久し振りに可愛い妹と話が出来るって言うのに!」
そんな物言いも、懐かしい感じだ。
「悪かったな。 で?」
「どんな人なの?!」
「は?」
「お兄ちゃんの彼女に、決まってるでしょ! 結婚考えてるなら将来、あたしのお義姉さんにもなる人なんだから。 少しくらい、教えてくれたってイイでしょ? どんな感じの人? 歳は? 仕事は? どー言う性格?!」
早口で、質問が繰り出された。 少し怯んでしまう。
「そう言う事か。 背の高い、美人だよ。 歳は俺より一つ上で、外科医」
「は?! 外科医って、お医者さんって事?」
「そうだよ。 大学病院で働いてる、研修医だ」
「そんなヒトと、何処で知り合ったの?!」
バイクで事故でも、起こした事が有るのだろうか? それにしても、ナースではなく研修医と言うのは、直ぐには納得し切れない感じだ。
「その辺は、またゆっくり話すよ。 高校も、横須賀の北条だった。 お前も知ってるだろ? 有名な所だ。 医大もストレート、留年なしできっちり六年で医師免許取った、凄い努力家だ。 性格は……、昔は、男前だった」
「何? それ! 男前って、サッパリした、気の強い人って、事?」
男前と言う表現を、女性に対して使った兄の感性は、良く判らない。
「気は、強い方だろうな。 けど、キツイ人じゃない。 お前も会ったら、一発で気に入るよ」
「へー、そう…? 成る程」
外科医と言う仕事のイメージが、漸く一美の中で、一つの姿を現す。
外科、と言う事は当然、手術もあるのだ。 人の身体を、メスを使って開くのだから、気の弱い人と言う事は在り得ないかも知れない。 しかも女性だ。 整形外科や内科、歯科などならば、女医のイメージもある。
男っぽいらしいと言うのも、頷ける。 そうなって来たら、少しでも早くに見てみたくなって来た。
「お前、ヘンな事、考えてるんじゃ無いだろうな?」
言葉が止まった一美の様子に、倉真の勘が働いた。
妹の性格は、良く判っている。 ……あの頃の、ままなら。
「え? 何のこと?」
「こっそり会いに来ようとか、思ってんじゃないだろうなって、事だよ」
図星を突かれてしまった。 けれど一美は、何でもない声を出す。
「まっさか! お兄ちゃんが家に連れて来るのを、楽しみにしてますよ。 じゃ、本当に来週、来るのね?」
母との会話は、隣で聞き耳を立てていた。
「取り敢えず、俺だけな」
「判った。 じゃ、事故起こさないように、気を付けて来てね。 待ってるから」
「ああ。 お前、来年成人式だったな?」
さっきの母との会話を思い出した。
「うん、良く覚えてたじゃない」
「何か、祝いやるよ」
一美の事は、昔からそれなりに可愛がって来た。
高校一年の春から夏。 自分が学校を中退するまでの間の事件や、以前の住所を伝えに行った時の事など考えると、妹にも迷惑を掛けて来た。
「まったぁ! どー言う風の吹き回しよ?」
「…お前には結構、感謝してんだよ、これでも。 要らないってんなら、知らねーよ」
「要らないなんて、言ってない! じゃ、アクセサリーか、腕時計がイーな」
「ちゃっかりしてるな」
「貰える物は、貰っておかないとね。 近頃の女子大生は確りしてるのよ」
「そーかよ、解ったよ。 単位、落とすなよ」
「お兄ちゃんとは違うから、大丈夫よ。 お祝い、期待してるからね!」
バイバイと言って、電話は切れた。
ツーツー音が聞こえて来た。 倉真は静かに、受話器を置いた。
少し、力が抜けそうになる。
七年半振りの、家族との会話。 倉真の記憶の中で、一美は中学三年のまま。 母も、今より八歳若かった頃のままだ。
一美については、五年半前に会った時、そして今の会話。 大して代わり映え無いように思う。 ……母は、少し草臥れてしまったかも知れない。
『俺の、所為だろうな』 反省の思いが、浮かんで来た。
十七歳の誕生日を迎える前、家を飛び出し、一人暮らしを始めた、あの日。 宏治の母、美由紀から託った封筒に入っていた、母からの手紙と十八万円。
あの時、始めて母親に対する感謝の気持ちが芽生えた。
それまでの自分は、家族の事を思い遣る気持ちや、感謝の気持ち等、感じた事もない、どうし様も無いガキだった。
父親とはよく、殴り合いの喧嘩をした。 倉真の父は血の気が多い、手の早い男だった。 ……息子に対しては。
それが、父の愛情からの行動だったのだと、最近、漸く理解し始めた。 反りが合わなかったのは、似た物同士ゆえの事だったのかも知れない。
整備工場の社長は、社員達の良き父親代わりだ。
特に早くから親元を飛び出してしまった倉真にとって、あの人の厳しさも、優しさも、思い遣りも、離れた父の事を思う、その切っ掛けだった。
社長の厳しさは、力技の厳しさでは当然、無いけれど。
夏のキャンプで知り合った、山内氏の事も。 父親のことを考え直す、良い切っ掛けになった。 人柄は、180度違う。
山内氏は、穏やかで物分りの良い優しい父親だった。
いくつかの出来事や切っ掛けを通して、倉真は漸く気持ちが固まった。
『親父と、トコトン話し合う』 その決心は、利知未の言葉が、後押しをしてくれた。
山内さんへの返事を、一緒にポストへ投函したあの時。
自分の家庭事情に不安を抱いている事を、始めて利知未は倉真に溢した。 けれど、同時に。
「信じている」 とも、言ってくれた。
その信頼に、キッチリ答える時期が、来たのかも知れない。
父の愛情にも、思いが至る事が出来始めた。 今の自分なら父親と、逃げずに正面から話し合う事も出来るだろうと。 ……その思いが、今夜。
倉真の背中を、押してくれたのだった。
五
利知未が帰宅したのは、十時半頃だった。
倉真は実家への電話を切ってから風呂へ入り、その後からリビングでテキストを開いていた。 勉強は勿論、続行中だ。
今月に入ってから、社長の娘婿から確認されていた。
「社長は、来年三月の試験を受けさせるつもりのようだ。 念の為、聞いておくが、館川はそのつもりでやってるんだよな?」
資格試験の勉強については、この娘婿が面倒を頼まれている。 倉真の勉強状態を把握して、義父である社長へ定期的に報告している。
「その、つもりっすよ? って言うか、俺に三ヶ月で試験勉強、終わらせるのは無理があるだろうって、言われたっす」
「奥さんか?」
「…そんな所です」
利知未の事を指して、奥さん、カミさん呼ばわりをされる事にも、流石に慣れ始めた。 社員一同、全員がそう呼んでいる。
利知未の評判は、この工場内ではかなり良い。 館川には勿体無い女性だと、口を揃えて言っている。
「館川のようなヤツにだからこそ、確りしたお嬢さんが丁度良いんだ」
と、社長からも少々キツメのお言葉を戴いた。
「大事にしろよ」 とも、諭された。 あの飲み会の、翌日の話だ。 言われるまでもない、と、倉真は素直に頷いていた。
帰宅した利知未を迎えて、倉真は夕飯の惣菜を温め直してやる事にした。 その間、利知未は先に入浴を済ませた。
利知未の遅い夕食に付き合って、倉真もダイニングで晩酌を始めた。
利知未の食事風景を眺めて、その食べ方が昔に比べて随分、変わって来たと思うと、つい倉真が漏らしてしまった。
「何? 昔は男らしかったって、こと?」
「宏治達と飯食ってるのと、アンマ変わらなかったよな」
少しだけ剥れたような顔を見せ、利知未が言う。
「努力を認めてくれない? 別に良いんだよ、見てるのが倉真だけなら、昔みたいな食べ方しても。 でも、こう言うのって普段から気をつけていないと、イザと言う時ぼろが出ちゃうからな」
「イザと言う時?」
「色々。 職場仲間と食事に行く時や、改まった席での会食の時とか。 …後、将来のため」
「将来のため?」
「倉真が、今まで通りの食べ方で、あたしも昔通りだったら、将来、子供が出来た時、どうやって躾ける事が出来るの?」
「そんな先の事、考えてたのか」
「先の事だけど、確実にやってくる未来。 ……だと、あたしは思ってるけど?」
「成る様に、成るんじゃネーか」
「いい加減だな。 ま、いーよ。 確かに、まだ随分、先の話しだし」
そう言って利知未は、昔の少々、豪快な食いっぷりを、久し振りに見せてくれた。 租借して飲み込んで、悪戯坊主のような笑みを見せる。
「やっぱ、こうやって食った方が美味いよな」
口調も少しだけ、昔に戻してみた。 その様子を見て、倉真は面白そうに笑っていた。 倉真の笑顔を見て、利知未も小さく笑った。
再び普通に食べ始め、明日の夕食の話になる。
「明日は、煮魚でもやろうか?」
「だったら、秋刀魚の塩焼きが良いな。 大根おろしで」
「焼き魚だと、また倉真に焼いて貰わないと成らないけど」
「お陰で魚の焼き方、上手くなっただろ?」
「助かるよ。 倉真が一人暮らしの時、自炊していてくれて良かった」
「明日は久し振りに、俺が飯、作っておくか?」
「それは嬉しいな。 遅出の時は朝、出来るだけ支度はしてくけど。 偶には、のんびりさせて貰っていい?」
「構わネーよ。 ……悪いな。 兼業主婦みたいな生活させて」
「そんな事は気にしない。 コレも予行練習みたいなものでしょ」
「予行練習と言うか…。 すっかり、嫁さんだよな」
「籍は、まだ入ってないけどね」
そう言って、利知未は小さく笑う。
「けど、結婚したら、もっと倉真に厳しくなるかも知れないよ?」
「覚悟しとくよ。 …尻に敷かれるンだろーな」
「もう少し、お尻大きくしておこうかな。 倉真が、逃げられないように」
「恐ろしい事、言うな」
「そう? 愛情の深さだと、思い知っといて」
利知未のキツイ冗談に、倉真が情けない顔を見せる。 倉真の表情を見て、利知未は面白そうに、くすくすと笑った。
利知未の食事が終わり、食器を片付け始めた。 洗い終わり布巾で拭いた食器を、倉真が立ち上がり、棚へ仕舞ってくれた。
「いつも、ありがと」
「急に、何だよ? 俺の方こそ、何時も感謝してる」
「……やっぱり、倉真で良かった」
利知未の呟きは倉真の耳に入ったが、照れ臭くて聞こえない振りをしてしまう。
棚の前に居る倉真を振り返って、利知未はシンクに軽く寄り掛かる。
「本当に、結婚してからも、優しい倉真で居てくれるのかな……?」
「努力する」
倉真は利知未に背中を向けたまま、短く答えた。
「うん」
返事を聞いて、利知未も小さく頷いた。
「あたしの晩酌、付き合ってよ」
「おお」
晩酌と言うよりは、寝酒かもしれない。 リビングへ移動して、飲み始めた。
食事中の話が、結婚後の話に向いてくれていた。 丁度良いタイミングだ。 倉真は利知未とも、真面目に、これからの話し合いをしておこうと考えた。
何時も通り、寛いだ姿勢で飲んでいた。 倉真が、何気なく言い出した。
「来週、実家へ行って来る」
その言葉の意味を、改めて思う。 ……漸く、倉真の心が、決まったと言う事。
「そう。 …話し合いに、行くんだね」
利知未の言葉に頷いて、倉真が真面目な声を出す。
「これからの事、話さないか?」
「うん」
頷いて、利知未は一人がけのソファへと移動した。
「甘えた姿勢じゃ、考えまで甘えてしまうよ」
穏やかな微笑を浮かべていた。 グラスも、テーブルの上に置いた。
「お前らしいよ」
「で、倉真は、どうしたいと思ってるの? 実家、継ごうとは考えなかった?」
「それは、考えなかったな。 ……選択肢の、一つではあったけどな」
「考慮には、入れてたんだ」
「一応な。 悩む事は無かったよ。 俺には、俺の夢…、目標がある」
夢と言う言葉を、目標と言い直した。 その言葉は、強い決心の表れだ。
「倉真の目標は、自分の整備工場を持つ事、だね」
「ああ。 随分先の事には成るだろうけどな。 それを目標に頑張るよ。 ただ、お前の事が気になっている」
「あたしの事?」
「出来れば、医者を続けて行きたいんじゃないか? 俺が本当に工場を持つ事が出来れば、どうしても利知未の協力が必要だ。 ……そうしたら、お前の夢はどうなる?」
倉真の言葉に、驚いた。 同時に嬉しいとも思う。
「そんな事、気にしてくれてたんだ……」
「そんな事ってのは、無いだろ。 俺が、将来やりたいことが有るのと同じだ。 大事な事だろ」
「ありがとう。 でも、あたしの将来設計は、いくつかあるんだよ。 どう転んでも、後悔なんかしない」
きっぱりと、けれど笑顔で利知未が言う。
「パターン1 結婚して子供が出来たら、専業主婦に成る。 倉真を支えながら、子供を育てる。 パターン2 当分、兼業主婦で頑張って、将来に備えて出来る限りお金を貯める。 子供は、目標金額が溜まるまで、お預け。 どう見積もっても、三千万くらいは掛かるでしょ? 半分か、責めて三分の一は貯めたいよね。 残りは、借金する事に成ったって仕方ないだろうけど……。
事業を始めるって、そう言う事でしょ? 幸い外科医は稼げそうだから、七、八年も頑張れば、貯められると思うし。 それでも、あたしは三十三歳か、三十四歳? 子供は、三十五歳位までに産めれば、何とか成るでしょ」
利知未がそこまで考えてくれていた事に、倉真は驚いていた。
「どっちにしろ、子供は欲しいんだ。 昔、自分が果たせなかった夢を、子供に託しているから」
「夢?」
「家族揃って、仲良く暮らす事。 ……変かな?」
「いいや。 ……良く、解るよ」
「うん。 で、後は……。 もしも倉真がお父さんと話し合って、やっぱり実家へ戻る事になったとしても、着いて行くよ。 その場合は、ご両親や妹さんと同居になったって全然、気にしない。 返って大家族になれて、幸せかもしれない。 ……そんな風に、思ってる」
「お前の夢は、医者を続ける事じゃ無いのか?」
「それも良いなって思う。 けど、あたしの一番の夢は、倉真と支え合って、幸せな良い家庭を作る事だから。 ……だから、倉真が元気で傍に居てくれるのなら、その他の事は、どーとだってなる。 倉真が自分の目標に向かって頑張るのなら、あたしは、それに協力して生きたい。 ……それって、倉真には、重過ぎるかな?」
「お前は、本当にそれで良いのか? 納得出来るのか?」
「勿論。 だから倉真は遠慮なく、自分の遣りたい様に遣ってよ。 あたしには、それが一番、嬉しいよ。 ……でも、重荷になるようだったら」
「お前が俺の、重荷になる訳が無いだろ。 俺の方が、利知未の夢の邪魔になるんじゃないかと、思ってたよ。 ……本当に、良いのか?」
「良いに決まってる。 プロポーズをして貰って、倉真の家庭の事情を聞いた時から、あたしはもう、決心してたよ。 ……それに、まだまだ、やる事一杯あるし! 悩んでたって、どうにもならない事は、もう悩まない。 だけど、研修医だけで終わるのは、裕兄との約束を違えてしまうから……。 それだけは、もう少し待って」
「当たり前だ。 お前に結婚、申し込んだ時から、ンな事は承知の上だ」
言い切ってくれた倉真が、今まで以上に逞しく見えた。
「ありがとう。 ……ごめんね」
「何が?」
利知未は、少し躊躇った後、違う質問を返した。
「倉真、……子供、好きかな?」
「嫌いじゃねーよ、ガキにはモテるみたいだしな。 ……お前との子供だったら、溺愛しちまうだろうな、…きっと」
一美を溺愛していた、父親の姿を思い出した。 ……あの血は、自分にも流れている訳だ。 自分で自分の将来の姿に、少し怖気が走るような気がした。
「甘過ぎるお父さんには、成らないでよね?」
利知未は、可笑しそうに笑いながら言った。
「どうかな? 保障は出来ネーな」
親父の姿を思い出して、呆れ半分、笑えてしまった。 ……あれは、きっと。 将来の、自分の姿だ。 利知未も一緒になって、暫らくクスクスと笑っていた。
……伝えたい思いが、利知未の心へ溢れ出す。
笑いを収めて、穏やかな微笑を浮かべる。
「……ありがとう。 私の事を、見付けてくれて……」
「ヘンな言い方、するな」
倉真も笑いを収め、問い掛けを返す。 意味の判らない顔をしている。
「そう? ……私の中の、悲しい部分を見付けてくれたのは、倉真だけだよ」
「突っ張り過ぎだったんだ、お前は。 本当は随分、女らしい所を持っていた癖に、人に見せようとしなかっただろ」
「どうしてだろうね」
軽く肩を竦めて見せた。 心の中には、一つの答えが、浮かんで来た。
『きっと、倉真に出会うため……』
「お陰で俺は、ライバル無しで、お前を手に入れる事が出来たよ」
「…なんか、くすぐったいな。 そー云う言われ方」
「俺も、照れ臭い」
「だったら、言わなきゃ良いのに」
「言わなきゃ、伝わらないだろ」
「そうだね。 ……倉真のそう言うところ、大好きだよ」
「どう言う所だよ」
今度は倉真が、くすぐったい。
「思ったこと、率直に言ってくれる所」 ……言いたくない事は、意地でも言わないけれど。
改めて話し合って、倉真は利知未と出会えた事に、心から感謝をした。
『俺みたいなヤツには、利知未くらい確り者の嫁さんが、丁度いい』
社長に言われた言葉を、心の中で反芻していた。
家族に多大な心配と、迷惑を掛け続けた、どうし様もなかった少年時代。 身近な両親の事でさえ思い遣れなかった、幼過ぎた自分。
夢や希望も無く、ただ、現実から逃げ続けていた、ツマんねーガキだった。
変えてくれたのは、利知未だ。
そして、自分の夢を、一緒に見ようとしてくれている。
『心から、大切にしたい、女』
出会えたのは、奇跡かも知れない。 ……それとも、必然なのだろうか?
『何にしても、気ぃ、引き締め直さネーとな』 来週、父親に会いに行く。
自分の夢と生き様に、理解を示して貰えない限り、何日でも、何ヶ月でも、何年でも……。
『通い続けて、納得させる』 誤魔化しは、もうしない。 逃げ出す事も、したくない。
コレまで随分長い事、逃げ続けて来た。 そろそろ、戦わなければ成らない。
「話し合いは、ここまでで良いのかな?」
じっと何かを思い、止まっている倉真に、利知未が優しく声を掛ける。
「そうだな、ここまでにしよう。 ……後は、親父に会ってからだ」
「うん。 健闘を祈ってるよ」
テーブルからグラスを持ち上げ、乾杯の変わりに軽く掲げて見せた。
「隣に、来ないか?」
頷いて、倉真の隣に戻った。 落ち着く姿勢になる。
利知未の重みを感じて、現実を思う。 それは、明日への活力に成る。
『守りたい女が居るから、強くなれる』
始めは、恋人。 結婚して嫁さんに成り、子供が出来て、母親に成る。
そして、守るべき命が、増えて行く。
男は、その命達の為に頑張れる。 守り通す力が必要に成り、備わって行く。
『それで、やっと親父と肩を並べて、酒を飲める様に成るのかも知れない』
それまで後、何年掛かるのやら……。
『こっちが片付いたら、利知未のお袋さんか』
「何、考えてるの?」
「……こっちが片付いたら、お前のお袋さんに、『娘は貰った!』って言って、高笑いをしてやらないとな」
倉真の言い様が可笑しくて、声を上げて笑ってしまった。
「ヘビメタだね。 ……けど、普通は、『お嬢さんを下さい』じゃ、無いの?」
「俺は、貰ったっ! て言うつもりだぜ? …パスポート、取らないとな」
冗談を返してから、真面目な顔になった。
「そうだね。 …あと、優兄の所にも、高笑いしてあげて」
「それも良いな。 『妹は貰った!』ってなるのか? ……裕一さんの、墓参りもな」
「……うん。 ご迷惑、掛けます」
「何が?」
「家族が揃って住んでいれば、一日で終わるでしょ?」
「そんな事か。 迷惑って事はないよ」
「面倒掛けます、かな?」
「そっちの方が、近いのか?」
「どーだろー? ま、どっちでも良いか」
「国語能力にも、欠けてるからな。 俺も、良く判らネーよ」
首を竦めた倉真を見て、利知未が笑った。
笑いが途切れて、倉真が、利知未の身体を確りと抱き寄せた。
「……激励の言葉、聞かせてくれよ?」
小さく頷いて、利知未が答えてくれた。
「倉真、信じてるよ。 ……頑張って!」
「サンキュ」
「……けど、何かあったら、ちゃんと相談してよね? 一人で、無理しないで」
「何よりも、心強い味方だよ」
「…うん。 あたしは最近、倉真に甘え過ぎてるから。 偶には、甘えてよ?」
「十分、甘えてるつもりだけどな」
「そう?」
「ああ。 世話、掛けっ放しだよ。 ……お前、俺より先に、死ぬなよな? 何にも出来なく成っちまいそうだ」
「……それは、倉真が約束して。 ……あたしよりも、一分でも、一秒でも良いから、長生きしてね……? もう、大切な人を失うのは、耐えられないよ……」
「約束が、食い違っちまうな。 二人同時に逝くしか、無さそうだ」
微かに、笑みが漏れてしまった。
「随分、先の話だけどね。 ……それまで仲良く、一緒に生きて行こうね?」
「その約束が、無難だな」
指切りをして、約束のキスを交わした。
「……ベッド、行くか?」
「…うん」
頷いて、ソファから立ち上がった。
確りと、お互いの存在を感じながら、朝まで熟睡した。
明け方近く、利知未は夢を見た。
数年先。 今よりも歳を重ねた二人が、幼い子供二人と、倉真の新しい城の前で記念写真を撮っていた。
シャッターを押していたのは、準一だった。
子供は、男の子と、女の子。 男の子は、倉真にそっくりだ。 女の子は、利知未に似ている。
悪戯盛りの子供達を叱って、名前を呼んでいた。 カメラを、興味深そうに眺めて、手を出している男の子。
男の子が、三脚を倒してしまう。 準一が、ビックリした顔をしている。
利知未に叱られて、男の子は首を竦めていた。 女の子は、兄の悪戯と叱られている姿を見て、イッチョ前な顔をして、手を腰に当てていた。
「ほーら! おこられた!」
「ウルセー!」
妹の頭を軽く小突いて、また利知未から怒られる……と、思ったら、倉真が女の子に駆け寄って、兄に殴られた頭を撫でてやる。 女の子は中々、気が強かった。 涙一つ溢していない。
倉真は男の子に、父親の愛の鉄拳を、見舞っていた……。
利知未は夢の終わりに、目覚まし時計よりも早くに目覚めてしまった。
何時か、夢の光景が現実となっている事を、心から願ったのだった。