《婚約時代編》 1 研修医一年・九月
時代背景は、1998年ごろとなります。 (一部、文章が繰り返されてしまっていた事を発見し、慌てて修正をさせていただきました。大変失礼致しました 4月21日)
《婚約時代編》
1 研修医一年・九月
一
九月に入り始めの通常勤務日、四日・月曜日。
利知未は、久し振りに香と昼食を共にした。 勿論、倉真に頼まれた保坂の恋人候補を探して貰うためだ。
ついでに、遅ればせながら、倉真との婚約報告をする。
「中々、同じ時間になっても、話す機会が無かったから。 報告が遅くなってごめん」
何時もの店で、香に指輪を見せて、利知未が言った。
「コレが、エンゲージリングになる訳だ。 前に、私が貸した指輪と似ていて良かったわ」
プラチナのシンプルなデザインで、小さなダイヤは、表面に埋め込まれている。 立て爪の大き目のダイヤリングでなかった事に、香もほっとした。
「ある人からは、コレを見てからかわれたけどね。 ダイヤが小さいって言って」
利知未はバッカスでの美由紀を思い出して、小さく笑った。
「この位で、普通じゃないの? 数年前には給料の三か月分、何て言われていた時代も有るけど。 この不景気な世の中で、一般人が七十万から百万円以上のリング何て土台、無理な話よね」
「あたしも、そう思う」
「デザインは、良いじゃない? シンプルで、可愛くて。 石も悪くないと思うわ。 プラチナ純度も、そんなに低くは無いと思うけど……」
「良いお店、知ってるんだよね、倉真。 あたしも前、大学の友達から誕生日プレゼントにピアスねだられた事があるんだけど。 その時、教えてくれたんだ。 バイク便のバイトで、評判の良いってお店に荷物を届けた事があった、って言って」
「成る程ね。 良いお店みたいね、このリングを見る限りでは。 私にも今度、教えてくれる?」
「桜木町に在る小さな所だけど。 今度、葉書、持ってくるよ」
香から指輪を返して貰い、何時も仕事中にしている様に、ネックレスのチェーンへ通し、身に着けた。
「何時も、そうやって持ってるの?」
「流石に仕事中は邪魔だからね。 だけど、まだ箱にしまい込むのはイヤだなと思って」
照れた笑顔を見せる利知未を見て、香も微笑む。
「おめでとう。 幸せそうじゃない?」
「…今、一番、幸せかもしれない」
「惚気? 胸が痛いわね」
「ごめん」
素直に謝ってしまう。 香は大袈裟に手を振って、自分に風を送る。
「もう秋だって言うのに、残暑が厳しい事だわ」
そう言って、呆れた笑顔を見せた。
「で、相談があったんだ」
「幸せ過ぎて不安とか言うのなら、耳が塞がっちゃいそうね」
「じゃなくて、倉真の職場の先輩が彼女募集中なんだよね。 誰か良い相手、居ないかと思って」
「病棟のナースは?」
「あたしが今、倉真と時間ずれ捲くってるからな。 ナースも、同じ事になると思うんだ。 そうすると、上手く言った場合に気の毒かと思って。 薬局か会計辺りでイイ子が居れば、と思った」
「それは、一理あるわね。 倉真君の仕事仲間って言ったら、どうしても時間は彼と同じって事だものね。 いいわよ、心当たり無い事もないし」
「好みは、特には言われて無いんだけど。 優しい子で歳が近ければ、問題ない見たいだよ。 背は、あたしよりも二、三センチ高い位だから、釣り合いの取れない子も少ないとは思う」
「とは言っても、それなりに可愛い子の方が、いいわよね」
「多分ね」
「その人、いくつ?」
「倉真と同じだから、今年で二十四歳。 面倒見が良い、楽しい人、かな」
飲み会での保坂を思い出して、その人となりを香に伝えた。
「考えておくわね。 後、二歳年上なら、私が会って見たいくらいね」
香はそう言って、くすりと笑っていた。
この頃、利知未は、倉真の前での自分が普通に外へ現れて始めている。
香との親しい付き合いも、三年目に入った。 今ではお互い、すっかり気を許し合っている。 随分、可愛らしくなったと感じていた。
香は柔軟に、利知未の少しずつの変化を受け入れてくれていた。
その日の夕食時間、倉真と話していて、利知未はふと思いつく。
「保坂さん、歳が近ければって、前後いくつくらいなら許容範囲になるんだろう?」
惣菜を口に運んだまま、利知未の箸が止まっている。
「二、三歳なら、良いんじゃないか?」
倉真は箸を止めずに、食事を続行しながらそう答えた。
「それは、上下で? それとも、上・三歳以内、下・三歳以内って、こと?」
「でも、良いんじゃないか? それで言ったら二十一歳以上、二十七歳以下って事になるよな。 選び甲斐、有りそうじゃネーか」
「性格的には年上、年下、どっちが合うんだろう?」
「…どっちでも、平気そうだけどな」
その質問には、一応、少し考えて答えた。
仮に相手が年上なら、少々、振り回されるタイプかも知れない。 年下相手でも、自分の勉強を見てくれているあの面倒見の良さを見る限り、上手い事、行くかも知れない。 同い年なら同い年なりにやるだろう。
保坂の美点は面倒見の良い事と、対人面でのバランス感覚が良い事だ。 外見的には特に際立って善い男、…と言う訳でも無いが、悪い事は無い。
「香さんだと、年上過ぎるかな?」
「利知未より、二歳年上だって言っていたな。 平気じゃネーか?」
倉真は、余り深くは考えていない様子だ。
「ね、倉真。 真面目に考えて答えてくれてる?」
「深く考え過ぎても、無駄じゃネーか? 結局は本人同士の問題だろ」
「そりゃ、そーだけど……。 倉真が話し、持って来たんだよ?」
「それなりに、考えてるぜ?」
そう言って、再び箸を動かし始めた。
利知未は箸を持った手でテーブルに頬杖を付き、倉真の食いっぷりを呆れ顔で眺めてしまった。
「……ま、イーけど」
暫くして、軽く息を吐く。 呟いて、利知未も食事を再開した。
翌日も、香を誘って昼食を取った。
「昨日の話し、何だけど」
「まだ、声掛けては居ないわよ?」
「だと思ったから、慌てて今日も昼食に誘った」
「紹介、要らなくなったとか?」
聞かれて利知未は、言葉を選びながら話し出した。
「じゃ、なくて。……香さんは、三歳年下って許容範囲かな? と思って」
「私で手を打とうって事?」
「手を打つと言うより、昨日、言っていたのを思い出したから。 あと二歳年上なら会って見たい位だ、って言ってたよね?」
利知未に言われて、香は少し考えた。
「そうね、一昨年、散々お見合いさせられたお陰で、会う事には大して抵抗もないんだけど」
「会うだけ、会って見ないかな?」
「お勧めなの? その、保坂さんって」
香も昨日の倉真と同様、余り深く考えてはいない様子だった。
『やっぱり、あたしが気負い込み過ぎだった、って事か』
内心では、倉真を少し見直してみた。
「人柄は、お勧めだと思うよ。 昨夜、改めて考えてみたんだけど。 香さんにも会って見て貰って、それで気が合うのなら、敢えて他の子、探さなくても良いのかな? と、思って。 で、香さんと気が合わなくても、それならそれで他に気の合いそうな子、探し易く成るんじゃないかな? とか」
「それも一理あるわね。 そう言う事なら、良いわよ。 ただ、その保坂さんが、三歳年上でも構わないかどうかって処よね」
「それは、大丈夫だろうって」
「相手が構わないなら、私も構わないけど」
「そう言ってくれるなら、日時決めて、また連絡します」
「土日なら、私は平気よ」
案外、気楽に引き受けてくれた。 利知未は少しだけ、気が抜けてしまった。
その夜、倉真にまた、相談をした。
良い大人同士の事で、見合いと言う訳でもない。 場所と時間を取り持って、後は二人でデートでもして貰えば良いのでは無いか、と、話が纏まった。
土日なら平気と香が言っていた事を、倉真から保坂へ伝えて貰った。
翌日・水曜日の内には、保坂が自分で場所と時間を指定して来てくれた。
今週の木曜は利知未が休みだった。 病院まで会いに行って伝える程の事も無い。 香には利知未から、電話で連絡を入れた。
香は深く考えずに、本当に気楽に保坂に会いに行った。
九日、土曜日。 保坂に指定された店へ、時間通りに到着した。
保坂は少し早めに来て、待っていた。 香を見て、恐らく彼女だろうと辺りをつけて、声を掛けて席から立ち上がり、会釈をする。
外見の印象は、お互いに悪くは無かった。 立ち上がって一応、頭を下げた保坂に、香は取り敢えず5点上げる事にした。
『人柄は、お勧めって言っていたけど。 さて、どんな人かしら』
内心では審査を続けながら、香も会釈を返して微笑を見せる。
保坂は歳を聞いていたので、ほんの少しだけマイナス・スタートだ。 それでも、現れた香は大人しげな身嗜みに引き比べて、やや華やかな印象をもった、そこそこ、綺麗な人だった。 マイナスが一度にプラスへ転じた。
『館川のカミさんの、友達だって言っていたよな』
その点で想像していたのは、恐らく確りした感性、感覚の持ち主だろうと、言う事だった。
そのアタックと態度に辟易させられている愛美より、余程、期待はしている。 その期待は裏切られずに済みそうだと、先ずは安心した。
自己紹介をして、お茶を飲みながら会話の中で、その人となりをお互いに観察・審査している。 香はそれでも気楽だ。
自分と気が合わなければ、他に気の合いそうな子を探して紹介する前提だ。 その為にも彼の事は、成るべく良く知っておく必要はある。
一昨年、散々、見合いを経験して来たので、審査眼には自信がある。 取り敢えず、今までの見合い相手よりは香の眼鏡に適いそうだった。
『この人なら、私が駄目でも、他に紹介するには問題は無さそうね』
点数、20点アップだ。 好きでやっている現在の仕事に対して、真面目な姿勢も伺えた。
保坂は話をする内に、年齢の事は気にならなくなった。 香の飾り気の無い雰囲気は、一緒に居て気楽な感じだ。 ただし、やはりお姉さんタイプだとも思う。 それでもマイナスからのスタートで、プラス35点から40点。
『問題解決の為には、返って丁度いいヒトなのか?』 お姉さんっぽいイメージは、あの手の問題も難なくクリアしてくれそうな、頼もしさでもある。
愛美よりも一つ年上になる。 返って、丁度良いかも知れない。
更にプラス10点・合計50点。 65点以上になれば、付き合って見たい相手と見て構わないだろう。
香からは、楽しい雰囲気の会話にプラス10点。 中々、気の付く処も見て取れて更に10点。 けれど趣味が合うか合わないかの点で、マイナス5点・合計40点。 香はそれでも懐が大きい。 55点以上で、次の約束を取り付けても悪くは無いだろうと思う。
そこで、第一ラウンド終了だ。 喫茶店で四十五分。 次のラウンドへ進む。
店を出て、ベターに映画と散歩を挟み、夕食の第4ラウンド目で、本日の試合終了予定だった。 途中退場も可能である。
二人の結果は翌週、利知未と倉真へ報告予定だった。
保坂は一日、香と過ごして見て、合計60点の評価で終わった。
自分で定めた心の設定基準点数的には、やや、微妙な所ではある。
『けど、もう一度、会って見る価値はあるヒトだ』
そこで次の約束を、取り付けても良いかと考えた。
何よりも、事情は切羽詰っている。 今回の話をした時、倉真は言っていた。
「利知未からは、一度会ってみて貰って気が合わないようなら、別の子も探す前提で紹介するって、伝えてくれと」
それで前後二歳の範囲を考えていた保坂も、一度会ってみる事に決めたのだった。 もう一度会ってみたいと考えた理由としては。
確りとした彼女の印象に、自分の抱えている問題解決の為には丁度いいと感じた部分が、大きく占めている。
香からの最終判断は、ギリギリ55点評価と言う所だ。
もし、相手から次の約束を言い出したら、もう一度くらい会ってあげても良いだろう。 その程度だ。 同時に。 彼なら、他の子を紹介しても平気そうだとも判断した。
自分の以前の恋人よりは余程、確りとしている印象を受けた。
『ま、アイツは、今思うとどうし様も無い奴だったと思うし』
よく、三年も付き合っていた物だと、改めて感心した。
当時の彼よりも年下の保坂でさえ、現実的な部分で確りと地に足を着けて生きている印象がある。 つまり元彼に比べ、良い男は世の中ごまんと居るという事だ。
その発見だけでも、今回の利知未からの紹介も得る物は有ったと思う。
なので、別れ際に連絡先を聞かれた保坂と一応、電話番号だけは交換しておいた。 付き合う、付き合わないは別として、人物としての保坂には及第点を上げる事にしたのだった。
二
翌週の月曜日、十一日。 倉真は、保坂から報告を受けた。
「取り敢えず、もう一度、誘ってみようと思う」
「連絡先、聞いたンすか?」
「一応な。 電話番号だけ、教えて貰ったよ」
「んじゃ、後は任せます。 で、どうしても上手いコト行かないようなら、また利知未に言っておくっすよ」
「それで良いよ。 カミさんに宜しく礼、言っておいてくれよ」
「カミさんつーのは、何か、ヘンな感じだな」
「同じ様な物だろ? 一緒に住んでるんだし」
「ま、そりゃ、そーっすけど。 ……で、あの店、行った事は、お互いに他言無用って事で」
「言う訳、無いだろ」
「…っすよね」
これで、倉真は一応、安心する事にした。
利知未は同日、月曜日。 夜勤明けの朝、帰宅前に薬局へ寄って行った。
着替えを済ませ私服で香に声を掛ける。 まだ朝一で診察へ来た患者も、薬を取りに来るには早過ぎる様な時間だ。 待合のソファもガラガラである。
受付に腰掛けパソコンへ向かっている香へ、声を掛けた。
「ああ、瀬川先生。 お早うございます、お疲れ様でした」
利知未の姿を認めて、香が職場での挨拶をする。 それから何時も通りのフランクな様子に戻った。 周りを少し気にして見て、短く言葉を交わした。
「お早うございます。 …で、どうだった?」
「そーね、悪いヒトじゃ無いわね。 けど、まだ結果を出すのは早過ぎって、感じかしら?」
「連絡先とか、交換したの?」
「電話番号だけはね。 もう暫く彼の人となりを観察させて貰うわ。 それからの方がどっちに転ぶにしても、対応が利き易いだろうから」
「流石、確りしてる。 けど、取り敢えずは上手く行ってるって事で、いいのか」
「今の所はね。 もし、やっぱり駄目だと思っても、彼なら別の子を紹介しても、悪くは無いと思うわよ?」
「了解。 じゃ、後は、お任せします」
「暫く様子見てて頂戴ね」
患者が一人、薬局へ向かって来る。
それに気付いて利知未は、挨拶をしてその場を離れる事にした。
帰宅して、何時も通りに家事の一部をこなして仮眠を取った。
夜、倉真と夕食時間に、お互いの報告をした。
「じゃ、取り敢えず一安心だな」
「うん。 香さん、自分と合わないと思ったら薬局の若い子、紹介して置くって。 さっき連絡、貰ったよ」
「そりゃ、有り難い。 飯、まだ有るよな?」
「有るよ。 お代わり注ぐよ」
飯茶碗を受け取って、山盛りにして倉真に渡した。
「相変わらず、良く食べるな」
感心して、その食いっぷりを眺めてしまった。 見ているだけで、自分は腹いっぱいの気分になる。 お陰で利知未は、無理なく自然ダイエットだ。
「美味い物は、いくらでも入るからな」
倉真はそう言って、またガツガツと食い始めた。
『良く、太らないモンだよね』 改めて、そう思った。
けれど、このまま年齢を重ねていった時には、少し恐ろしいかもしれない。 今から健康的にダイエットを出来る料理のレシピも、考え始めた方が良いかも知れないと思った。
利知未は、翌日の火曜日、一日休みで、その後また遅出となる。ここまでで特に何も無い時の、利知未の基本シフトが決まって来た。
三勤二休で、水曜が含まれる勤務は夜勤が入る事も無い。 大体、月二回、火曜休みと日曜休み、土曜休みが入る。 隔週計算で木・金の連休も、月に二回は入る。 火曜は毎回、夜勤明けからの半・二連休状態だ。
倉真の隔週・土曜休みとは完全に入れ違っている。 八月の二回の連休は、本当に珍しい事だった。
利知未の生活サイクルが決まって来たお陰で、二人の生活は随分と、予定が組みやすくなってくれた。 家事の分担も、それに伴い自然と決まってくる。 倉真は利知未が夜勤の日は必ず、朝、洗濯機を回して置いてくれる様になった。
月曜のゴミ出しも、今では倉真の担当だ。 月に二日は、二人揃っての休日が出来た。
その週は、十五日の祝日を挟んで、十六日・土曜日が倉真の隔週出勤日だった。 十三日からの三日間、利知未は遅出だ。 帰宅は早くても十時半。
日によっては十二時近くなる。 利知未は遅出の時も、出勤前に一品か二品は、夕食の準備をして出掛ける。
魚を焼いて貰いたい時や、食事前にもう一度、煮込んで欲しいような時は、メモに書き残してアパートを出る。
それ以外の時は、帰宅した倉真が勝手に電子レンジを使って温め直すか、火を入れて温め直すかして、一人で先に食事を済ます。 倉真に自炊の経験があってくれた事に、利知未も倉真自信も、感謝していた。
もしも倉真が昔から変わらずに、何も出来ない儘の男であったのなら。 この生活、利知未の負担が大き過ぎた事だろう。
その十五日、祝日の夜に、利知未は気付いてしまった。
その日も倉真は帰宅の遅い利知未を待ち、テキストを開いていた。
夜十一時近くなり、利知未が帰宅してから遅い夕食に付き合って、晩酌を始めた。 利知未は先に夕食を済ませてから、風呂へ入った。
利知未は帰りが遅くなった日は、夕食は軽めに収めて倉真の晩酌にも付き合ってくれる。 一人で飲むのは、流石に味気ないだろうと思うからだ。
「帰りが遅いと、寝るまでに時間が無いから、太っちゃいそうだよね」
何気ない利知未の言葉に、倉真が言う。
「運動してから眠れば、良いんじゃネーか?」
ニヤリと笑っている。 その表情で、利知未は直ぐに倉真が言わんとしている事に気付く。
「スケベ。 って言うか、倉真、本当に体力お化けみたいだよね」
「イイ事じゃネーか。 これでも色々と工夫をして、力、抜いてるんだぞ」
「そう言えば、鉄アレイとか増えたよね。 あたしは、倉真は太らない工夫をしてくれているんだと思っていたけど」
「女じゃ有るまいし。 アンマ、気にしないけどな」
「けど、太り過ぎは成人病の元だよ? あたしが一緒に住んでるんだから、そんな事にならない様に気を付けてるつもりだけど。 だけど、倉真の食欲見てると不安になって来ちゃうよね。 年取ってからもその調子だったらどうしよう? って」
「何もしなくても、年取りゃ自然と減ってくンじゃ無いのか?」
「だったら、運動選手の引退後、どう説明つけるの? プロのアスリートじゃなくても、大学時代とか激しいスポーツをして来た人は、運動量が減っても胃袋の大きさが変わらないから、つい必要以上に栄養取り過ぎて、どんどん太って行くんだって。 藤澤先生が言っていたけどね」
利知未の薫陶を受けても、倉真は中々、変らない。 ただ、知識だけは増えて行く。 それはそれで、良いバランスの二人かも知れない。
「難しい事は、考えない事にしてるんだよ。 今は資格の勉強だけで、脳みそギチギチだぜ」
「ま、いいけど。 ずっと、あたしが管理してやるんだから」
「家族に医者がいると、便利だよ」
「まだ、家族じゃないけどね」
「職場じゃ、お前の事、名前で呼ばれないんだよな」
「何て、呼ばれてるの?」
「カミさん、奥さん呼ばわりだよ。 どうも言われ過ぎて、感覚が麻痺して来たみたいだ。 すっかり結婚した気分だな」
軽くそんな事を言われて、利知未は少し照れ臭くなってしまった。
「赤くなってンのは、酒の所為か?」
倉真が意地悪く、ニヤリと笑って言った。
「…風呂、入ってくる」
少し、昔の口調に戻った利知未を見て、照れ隠しだな、と感じる。
「ごゆっくり」
そう言って倉真は、利知未が出て来るまで何時も通り、変わらない様子で晩酌を続けた。 利知未が風呂を上がってから、寝室へ引っ込んだ。
その夜の倉真は、珍しかった。
何時もなら、必ず最低3度は利知未に挑んでいく。利知未から、3度目にNOを出される事も、間々ある。 利知未の言葉通り、体力お化けと言えるかも知れない。 それでも翌日、寝坊して仕事に遅刻する事も先ず無い。
倉真はすっかり利知未の弱い所を、把握している。 巧妙に攻められ過ぎて、利知未は最近、1度目で半分以上の体力を消耗してしまう。 お陰でその後は、疲れ切って良く眠れる。
倉真は、利知未のアノ声が、実はかなり気に入っている。 その声を求めて、今夜も巧妙に攻めていく……。
利知未も倉真の囁き声が、かなり好きだ。 その声がスパイスになり、更に悦びを増していく。
一度新しい形を体験した覚えで、利知未の責め方のコツを、倉真は新しく知ってしまった。 今夜も指だけではなく、舌や唇を使って、弱点を狙う。
それだけで利知未は、反応し疲れてしまいそうだ。
『シーツまで、……濡れちゃいそう』 快感の中で、無意識に考える。
……明日の休日は、シーツも交換して洗わないと、ならなくなっちゃいそう……。
倉真は夢中になって、利知未の身体に没頭している。 お気に入りの声に調子が上がって行った。 ……つい、ウッカリしてしまった。
1度目のフィニッシュで、悪い癖を出して利知未に怒られてしまった。
暫くの脱力後。 倉真を少しだけ叱って、利知未は手洗い所へ立つ。
手洗い所で、利知未は考えた。
『倉真の癖、相変わらずだし……。 ピルだけの避妊で、本当に平気なのかな?』
女性の体の中に設置するタイプの、避妊器具でも併用するべきかな? とも思う。 この調子で続けて行ったら、冗談抜きで結婚前の子供が出来てしまいそうだ。 一度、相談してみようかと考えた。
寝室へ戻って、タバコを吸っていた倉真の後ろから、そっと腕を回して抱き付いてやった。 まだ足りない倉真の相手、第二ラウンドが始まる。
利知未が気付いてしまったのは、倉真の何気ない一言からだった。
二回戦目も終わり、身を横たえて倉真が言った。
「やり切った」
「今日は、もう良いの……?」
身体をピタリと倉真にくっ付けて、利知未が聞いた。
「そんな事を言うと、もう1回やるぞ?」
ニヤリとする倉真に、利知未は軽く手を上げて白旗を揚げる。
「降参」
「やっぱ、お前が最高」
倉真が、つい漏らした本音に、利知未の勘が反応する。
「やっぱ、って、どう言う意味……?」
一瞬だけ、倉真の目が反応した。 直ぐに何事も無かった顔に戻る。
「深い意味なんか、ネーよ」
「…そう?」
既に、利知未の感覚はフル回転している。 昔からの、二人の関係を考えた時、利知未の洞察力に、倉真が勝てる筈は無かった。
利知未は、倉真の瞳が一瞬反応した、挙動不審な光を見逃さなかった。
倉真は、言いたくない事を口に上せる事はしない。 黙りを決め込めば、貝の様に口を塞ぐ。 嘘を付く事になれば、徹底的に貫き通す。
長年、喧嘩上等人生を歩んで来た名残だ。 張ったりは上手かった。
……けれど、利知未には弱い。
今夜のようにポロリと本音が出て来た結果、利知未に無言の追求を受け、誤魔化し切るのは不可能かも知れない。
倉真には、弱点がある。 利知未の笑顔と、涙。
それでも頑張る倉真に対して、利知未は必殺技を繰り出す事にした。
『……嘘じゃないから、良いか?』 瞳を潤ませ、涙を流す、数秒前。
涙を武器にするのは、確かに卑怯かもしれないが、その気持ちの裏側が本当の気持ちからなら、許されるだろう。
倉真の事について、不安な事を思う時。 自然と利知未の瞳から、涙が流れ出す。 ……それは倉真と、こう言う関係になってからの、利知未の学習だ。
じっと黙って見つめられて、その瞳が曇り出した。
『……ヤバイ、泣き出しそうだ』
利知未が泣くのは構わないが、自分が泣かせるのは、駄目なのだ。
降参する事にした。
「……悪かった」
「何時……?」
「この前、お前が夜勤の時。 先輩と飲みに行って、…店に入った」
保坂の名前だけは、出さない事にした。 どうせ直ぐにバレるだろうが、男の友情・職場の義理だ。 先輩だって、保坂一人ではないのだ。
「シロート相手じゃ、ないのね?」
「そりゃ、勿論!」
「……そーゆーコトか」
利知未は呟いて、軽く溜息を付いた。
「じゃぁ、かなり酒、入ってたんだ?」
それは無かったが、そう言う事にして頷いた。
「……面目ない!」
認めて謝ってしまえば、戦術は180度変わる。
倉真はベッドの上に正座して、土下座をした。 利知未は頭の向こうにチラリと見える、倉真の分身に注目した。 ……あーぁ、ちっちゃく成っちゃって。 と、思う。
『そこが、一番、正直だよね』
「随分、反省しているようだし。 ……仕方ないな」
「マジ、反省してます!」
頭を下げたまま、倉真は肯定した。 その潔さに、利知未は譲渡案を出す。
「一つだけ、答えて」
「何なりと」
「…ちゃんと、コンドーム使った?」
目を上げて、倉真は利知未の目を見て答えた。
「使いました」
その目をじっと見て、利知未が言う。
「……なら、今回は勘弁してあげる。 …でも、成るべくもう、しないで」
「判った。 二度と致しません。 本当に悪かった」
倉真はほっとして、もう一度、確りと頭を下げた。
利知未からのお許しを貰い、倉真はやっと落ち着いて眠る事が出来た。
いつの間にか寝息を立て始めた倉真の顔を見て、利知未は色々な事を思う。 エンゲージリングを貰ってから、まだ一月半だ。
何時か、ベッドで将来の約束を交わした時は、嬉しいと感じながらも、心の奥からは危険信号が出ていた。
それは微かな信号だったが、結婚は真面目な話し。 そう言う事をした後の言葉は、果たして心から信じて良い種類のものだろうか? その時の雰囲気と勢いに流されて、口走る事だって有るかも知れない。
だから、あの時。 始めて、その言葉を倉真が口にした夜。
利知未は頷きながらも、心の奥では不安を感じていた。
始めて心の底から彼の子供なら欲しいと感じられたのは、テントの中で抱き合った、あの時だ。 リングと言う約束の象徴を受け取って、漸く安心してその思いに至る事が出来たと思う。
けれど、出産・子育てについては、利知未には理想がある。
自分の母親が自分達兄弟を産んで、その後。 どんな母親だったかと言う問題だ。 仕事に忙しくて、子供の事は構ってもくれない母親だった。
その裏事情として、父親の無職時代が関係してはいる。 稼ぎ手の父が、長年勤めた会社の倒産で稼げなくなってしまった。
その分の埋め合わせも勿論あった事だ。 利知未の父は、職場運に恵まれない男だった。 やっと見つけた再就職先も、直ぐに潰れてしまった。
その頃、母は育児休暇後に復帰した仕事で、頭角を現してしまった。
ニューヨーク支局への、栄転の話が転がり込んだ。
仕事自体も好きな人だった。 単身、ニューヨークへ渡る事を決めた母親と、父は何度も話し合ったらしい。
その頃、利知未はまだ二歳か三歳だ。 大人の事情など全く判らなかった。 八歳年上の長兄、裕一でさえ、まだ十歳。 優は小学校に上がるか上がらないかの頃だ。
両親の話し合いは、お互いの主張が完全に食い違った儘、結局は離婚となってしまった。
父親の、二度目の無職時代の事だ。 家庭裁判所は、子供の養育権を母親に委ねる他、無かった。
大人になって、その頃の事情を知ってからも、幼い子供時代に感じていた寂しさは、利知未のトラウマとなってしまった。
母を許せない思いは、そうそう簡単に消えてくれる物ではない。
その分、裕一に対する親愛の情も深かったと言える。
自分の過去を思う時、自分は、あの母親のようにはなりたくないと感じてしまう。 栄転の話が来た時、彼女は何故、家族よりも仕事を選んだのか?
美由紀のように、女手一つで二人の息子を立派に育て上げた母親もいるのだ。 引き比べて、やはり母の取った選択には、頷けないものがある。
『妊娠、出産、子育ては、きっと楽しい事ばかりじゃないとは思うけど……』
辛い事ばかりでも、無い筈だと思う。
ただ、子供を産んだら、その子を愛しみ育てるのは両親の務めだ。 その責任を果たせそうも無いうちは、まだ子供を望むのは、早過ぎると思う。
女の体は、新しい生命を生み出すために作られた物だと、利知未は思う。
……だから、この人の子供が欲しいと思えるパートナーに巡り会ったら、やっぱり自然に任せて出来るのを待つのが、一番良いのだろう。
親としての責任を、キッチリと果たす事が出来るのなら。
利知未の本音で、医者として多くの人を助けたいと言う思いも勿論ある。 けれど、それ以上に、自分が育って来た様な、あんな寂しい思いは、自分達の子供にだけはさせたくないと感じている。
何時か倉真の夢を実現させてあげたいのも、本音だ。
『まだ、お互いの親にも紹介してない訳だし、お金も掛かるし……』 やる事は、一杯だ。 何にしても、先ずは経済力だろう。
今月から、利知未は二人の将来貯金も始めている。 倉真の協力で、当初の計画よりはもう二万ほど多くなった。
弁当も作り始めた。 利知未の勤務に余裕がある時は、必ず作る事にした。
ふと、時計を見て、午前二時を回ることに気付く。
「もう、こんな時間か……」 呟いて、欠伸をする。
倉真の浮気については、考え方を少し改めた。
アダム・マスターと、奥さんの話もある。 男の性欲は、女に比べて御し難い所も多いのだろう。
相手がクロートで、変な病気を移されて来たり、子供を作って来たりしないのなら、多少は目を瞑る他、無いのかも知れない。
もしも結婚して、子供までいる状態でされたら、流石に許せないだろうとも思う。 けれど、まだ結婚前だ。
自分の仕事時間を考え合わせた時、倉真の旺盛過ぎる精力は、中々、収め所が無いのも事実だろうと思う。
『その内、歳を取って、精力が落ちて来たら……。 心配する事も、無くなるのかな?』
再び欠伸をして、そう思う。
『明日は多分、倉真が早起きして、朝ご飯、作ってくれるんじゃないかな』
以前の、浮気がバレた時の、朝のように……。
考えるのを止めて、眠る事にした。
翌朝、目覚まし時計の音で利知未は目を覚ました。 倉真が慌ててベルを止めた様子を、薄目を開けてみて狸寝入りを決め込んだ。
倉真は、そっとベッドを降りてキッチンへと出て行った。
利知未は目を開けて、くすりと笑ってしまった。
「さて、どんな朝食、作ってくれるのかな」 呟いて、欠伸をして、二度寝に入る事にした。
朝食の準備を終えて、倉真が改めて利知未を起こしに来た。
目覚めのキスをして、倉真が言う。
「お早う。 飯、出来てる」
何時も以上に優しい態度だ。 利知未は、許してやる事にした。 それでも、釘だけは刺しておこうと考える。
「おはよ、反省してるね」
「当たり前だ。 俺は、利知未に捨てられないように必死なんだよ」
「じゃ、もう1回、約束して。 二度と、そーゆー事しないって」
半身起き出して、掛け布団を胸の上まで引き上げる。 まだ昨夜のまま、衣服を身に着けてはいなかった。
倉真は、右手を宣誓するように軽く上げて、改めて誓う。
「偉大なる母性に誓って、二度と、浮気は致しません」
利知未は倉真と同じ様に、片手を倉真に向けて上げる。
「では、その証を示しなさい」
目を閉じた。 倉真の手が、利知未の手に合わされた。 キスを交わす。
「……ごめん」
唇を離して、倉真が利知未の耳元で囁いた。
『ごめん』の言葉に、利知未は本気で、倉真を許してやる事に決めた。
『ごめんは、特別な言葉だから……』
「……いいよ。 許して、上げる」
利知未も囁き返して、倉真の耳の横へキスをした。
倉真は、利知未を抱しめた。
「ほっとした。 …飯、食おうぜ? 服、早く着て来いよ」
利知未の身体を開放して、先にキッチンへ出て行った。
倉真が消えた扉を見て、利知未はベッドから滑り降りた。
服を着ながら、明日の日曜、今年の誕生日プレゼントに貰ったジャケットを着て、久し振りに二人でツーリングへ行きたいと思った。
『晴れれば、いいな』
Tシャツの首から出て来た利知未の表情は、柔らかい笑顔だった。
三
その日曜。 香は保坂に誘われて、二度目のデートへ赴いた。
「今日は、おれが好きな事で悪いんだけど」 そう言って、ドライブを誘って来た。
保坂はこの一週間で、取り敢えず香と暫く付き合ってみようかと、考え始めていた。
『年上って言っても、三歳だし……。 五歳や十歳の歳の差が有る訳じゃなし』
話も合わない事は無い。 小学生時代の香が憧れていたアイドルは、自分が小学校へ上がった頃にも活躍していた。 今では良いマイホームパパとなり、生命保険や食品のコマーシャルでも、活躍している。 流行の歌も同じだ。 記憶にある範囲で、判らない事は無い。
カルチャーショックを受けるほどの、歳の差では無さそうだ。
後2、3回、会って見て、その内、愛美には彼女が出来たとでも、言ってみようかと考えた。客に対するサービスだったのなら、そこでハッキリする。
香は、弟と出掛けている様な物だろう。 香が男に求めるものは、真面目さと誠実さ。 その点では、保坂も悪いことは無い。
保坂が誘って来る内は、何度か会って見ても良いだろう。
『とは言っても、頼り甲斐が有るかどうかと言ったら……』 その点では、やや物足りないかも知れない。 だから、弟と出掛けている様な気分なのだ。
それでも保坂は、中々、如才なく立ち回る。 人付き合いは良いタイプなのだろう。
『人柄はお勧め、ね。 ……確かに』
利知未の審査眼も、中々どうして、良い所を突いていると思う。
保坂の誘いに応じながら、頭の中では、次の紹介相手も考えて見ることにした。
利知未と倉真は、その日、久し振りにツーリングへ出掛けた。
今年の誕生日プレゼントで貰ったレディースのジャケットを着て、始めてのツーリングだ。
この格好なら、休憩場所で倉真と腕を組んで歩いていようが、肩を抱かれていようが、怪しげな視線だけは集めなくて済む。
ただし、長身カップルで美人を連れた男には、嫉妬や羨望の眼差しが集まって来てしまう。 倉真は上機嫌だ。
「何、ニヤけてんの?」
肩を抱かれて、呑気に海を眺めながら、利知未が倉真に聞く。
「イイ女を連れた男は、ニヤけるもんだ」
ニヤリとされて、少し照れてしまう。
「……倉真、そう言うこと、昔よりも良く言うようになったよな」
「素直な気持ちを伝えるには、必要だって教えられたんだよ」
言っていて正直、照れ臭いのは確かだ。 だから、つい、からかうような口調になってしまう。
それでも、そう言う事を言われた時の利知未の照れた顔や、嬉しそうな顔は、見ていて楽しいとも思う。
寄り添って、倉真の肩に自分の頭を凭れさせて、幸せを感じる。
「……けど、やっぱりチョット、恥ずかしいな」
「俺は、鼻が高いけどな?」
益々、利知未を照れさせて、倉真は楽しそうに笑った。
「今週が休みって事は、来週は夜勤だな」
「そうなるね、予定は組み易くなったよ」
「だな」
そうなって来ると、そろそろ真面目に、利知未を両親に紹介する機会も探して行かなければならない。
けれど、その事については、倉真はまだ決心し切れていない。
『先ずは親父と和解しなけりゃ、どうしようもネーよな……』 そのための方法は二つ。
一つは、倉真が折れて実家の後を継ぐこと。 そして、もう一つは。
親父とトコトン話し合って、自分の事を認めさせた上で、改めて利知未を紹介する。 自分の夢についても、納得させなければならない。
『もうチョイ、時間が掛かりそうだ』
ふと真面目な顔になった倉真を、利知未は首を傾げて見つめる。
「どうしたの?」
「何でもネーよ」
利知未の肩をそっと開放して、倉真はタバコを銜え、火を着けた。
その翌週、利知未が夜勤の夜。 倉真は少し、我慢が出来ないような気分に襲われた。 倉真の精力の旺盛さは、今更、言う事でもない。
『マジ、ヤバイな。 小遣いも最近、減らしたしな』 何より、利知未と約束をしてしまった。
『二度と、浮気しないって、誓ったばっかりだ』
実を言えば、ここまでの間、利知未が夜勤の夜。 倉真は何度か昔から贔屓にしている店へ、出掛けていた。 仕方が無いのだ。 利知未が忙しくて、相手の出来ない日も勿論ある。
利知未に急な残業が入ってしまう事も、偶にはある。 救急からのヘルプがそれだ。 そんな夜は、利知未も疲れてしまう。 倉真の相手をする程の体力も残ってはいない。 今週は、少し事故が多かった。
朝となく、昼となく、夜と無く。 事故後の処置は余程の事が無い限り、先輩方に比べて、担当患者も少ない利知未が、借り出される結果になる。
利知未は益々、処置速度もその的確さも、身に成って来てしまった。 相変わらず救急からは、こちらへ来ないかと誘われ続けている。
それで、今週。 倉真は利知未に、余り相手をして貰っていなかった。
『しかし、約束もあるし……』 考えて、準一を思い出す。
『ジュンでも呼び出して、酒でも飲むか?』 思い付いたら、即実行だ。 早速、連絡を入れてみた。
倉真からの連絡を受けて、準一は直ぐに部屋を出た。 三十分後、今日も酒を仕入れて、準一がアパートの呼び鈴を鳴らす。
「バンワ。 今日は、利知未さんは居ないのか?」
「いネーよ、暇潰しだ。 お前、明日の仕事は?」
「連休だよ。 はい、土産」
今日は冷えた缶ビールを6本、ビニール袋に入れて、持って来た。
「サンキュ。 上がれよ」
「お邪魔」
準一はこの前と同じ様に、さっさとリビングへ通り、一人掛けのソファに陣取った。
「利知未さんの仕事は、カレンダー関係無しなんだな」
「そりゃ、そうだろ。 開業医師ならともかく、大勢の入院患者を抱えた大学病院だぞ?」
準一からの土産の、プルトップを引き上げる。
「今日は、冷えたの持って来たんだな」
「この前、言われたからね、学習してみた。 足りなくなったら、買い足しに行けばいいし。 近所にコンビニ在ったよね」
「おお、住み易い事この上ネーよ。 スーパーも近いしな」
「駅からも、そう遠くないし。 今度は、こっちの物件探してみよう」
「また引っ越す気か?」
「うんにゃ、単なる感想」
話しながら、準一もビールのプルトップを引き上げ、飲み出した。 深い事を考えずに適当な事を言うのは、昔から変わらない。 それでも気楽な飲み仲間だ。
これからも、チョクチョク呼び出してやろうかと倉真は思う。
「摘み、買って来るか?」
「ビール、無くなってからでイイよ」
「漬物くらいは、あるかも知れないな」
呟いて、倉真はキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開けて、チーズと粗引きウインナーを一袋見付けて、軽くボイルする事にした。 マスタードも見つける。
「こんなモンで、構わネーか」
適当な皿に載せて、リビングへ戻った。
再び酒盛りを始め、倉真は準一に仕事の話を聞いて見た。
「お前、真面目に働いてるのか?」
「面白れーよ? 仕事」
「飽きずに、続けてるんだな」
「毎回、撮影する物が違うからね。 飽きる事は無いな」
「カメラ、構えてるのか?」
「んな訳ネーじゃん。 まだ、始めて半年経ってないし、雑用ばっかりだよ。 けど、面白い。 モデルのお姉さんは美人だし、動物や子供を撮ってる時はシッチャカメッチャカだし、食い物撮る時は美味そうだし、飽きないよ。 マジ、こんな面白い仕事、あるとは思わなかった」
利知未が、『向いてるみたいよ』と、言っていた事を思い出した。
「そーか。 それなら、平気そうだな」
「直ぐに辞めると、思ってたっしょ? 自分でも、こんなに続くとは思わなかった」
準一は昔通り、ヘラリと笑ってそう言った。
「今日は、樹絵ちゃんは来てなかったのか?」
カレンダー通りなら、連休だ。 思い付いて、倉真が聞く。
「先週、来たからね。 今度は、来月かな」
「連休の度、泊まりに来てるんじゃ無いのか?」
「今回は、学校の友達と旅行へ行くって言ってたな。 で、先週の週末に来たんだ。 来月は連休がある訳じゃないから、金曜の夜から来ると思うけど」
「よく、持ってるな」
自分と利知未が中々、会えなかった、あの一年を振り返って倉真は思う。
「仕事、始めたばっかりだしな。 あっと言う間だったな、半年間。 昔から、毎週会っていたって訳でもないし」
そう言われれば自分と利知未は、関係が落ち着く前の方が良く会っていたと思う。 それだから、あの一年が長く感じてしまったのかも知れない。
「ビール、無くなったよ。 買って来ようか」
「そうだな。 ジャンケンでも、するか?」
「バッカスで、良くやってたよな。 久し振りに、買出し賭けてみる?」
利知未が、大学受験に忙しかった頃。 由香子と始めて会った頃の事を、思い出した。 あの時は、何時も宏治が勝っていた。 和泉が負け率ナンバー1だった。 準一と倉真は、何時も良い勝負をしていた。
今日の勝負は、準一の勝ちだった。
倉真は買出しに出て、その夜、深夜過ぎまで飲み続けた。 準一は、倉真よりも酒に弱い。 二時前にはダウンだ。 毛布を持って来て、ソファに眠り込んだ準一に、掛けてやった。
それから、更に一時間ほど一人で飲み続けた。 三時前には、倉真も寝室へ引っ込んだ。
翌朝、帰宅した利知未は、駐輪所に準一のバイクと、玄関に靴を発見した。
「ジュン、遊びに来てたんだ」
呟いて、それなら倉真もまだ起きていないか、夜通し飲んでいたかのどちらかだろうと推理する。
キッチンを抜けて、リビングへ入った。 準一は、すっかり暴睡中だった。 時計は九時を回っている。
「あーあ、散らけちゃって」
テーブルの上に転がる、ビールの空き缶を呆れて眺めた。
食器を片付け、空き缶を拾い集める。 その音に、準一が目を覚ます。
「あ、利知未さん、お帰りー」
目を擦って、気の抜けた笑顔を見せる。
「おはよ。 はい、後片付け」
やり掛けのゴミ袋を準一に渡して、ニコリとしてやった。
準一は素直に片付けを手伝ってくれた。 利知未はご褒美に、朝食を食べさせてやる事にした。
「朝ご飯、入る?」
「腹、減ってまっす!」
「そ。 じゃ、三人分作るから、倉真、起こして来てよ」
「ラジャー!」
言われた通りに、寝室へ向かって、倉真を叩き起こしてやった。
ダイニングへパソコンデスクの椅子を持って来て、三人で朝食を取った。
倉真ほどではないが、準一も良く食べた。 男が二人居れば米の消費量も半端ではない。 五号炊いた飯は、半分以上、無くなってしまった。
「利知未さん、今夜も仕事?」
「そうだよ。 だから、今度はあたしが仮眠、取らせて貰うから。 倉真と何処か、遊びにでも行ってくれば?」
「そうだな。 久し振りに和尚でも、からかいに行くか?」
「賛成!」
準一と倉真は飯の後、懐かしの街へ行って見る事にした。
十時過ぎ、玄関で利知未が二人を見送る。
「和尚に宜しく」
「おお、夕方までには、戻る」
「ンじゃ、ご馳走様でした!」
「どう致しまして。 ジュンは帰り、気を付けて。 倉真、行ってらっしゃい」
利知未に笑顔で送られて、二人は出掛けて行った。
二人を見送ってから、利知未は欠伸をする。
「今日は、ゆっくり眠らせて貰おう……」
呟いて、寝室へ引っ込んだ。
少林寺の少年修行者は、和泉の事を慕っている。 兄貴分として、学校での悩み事なども相談をしてくる。 師範の住職も和泉の良き兄弟子振りを見て、目を細めている。
そんな中、和泉は少年クラスの師範代を手伝いながら、自分も改めて修行を始めていた。 師範を目指して、本人も特訓中だ。
午前中、朝から手伝いをして、倉真達が到着した頃には一息ついている時間だった。 久し振りの仲間の訪れを、嬉しそうに迎えてくれた。
「お前、暫く見ないうちに、またガタイ良くなったんじゃネーか?」
始めに、倉真が目を丸くして和泉に言った。
「お前こそ、鍛えてるのか? 腕の筋肉、また付いたみたいだな」
倉真の腕を見て、和泉も目を丸くしていた。
「力抜きにトレーニングしてたら、コーなった」
「力抜き、ね……」
「倉真は旺盛過ぎて、利知未さんも手を焼いてるらしい」
準一が要らない情報を落とした。 直ぐに、倉真から叩かれてしまった。
「お前は。 余計な事ばっか、言ってんじゃネーよ」
「イテ! 倉真、力つき過ぎだよな。 コブになったら、どうすンだ?!」
相変わらずの二人を見て、和泉は楽しそうに笑っていた。
和泉は午前中、もう少し修行を手伝うと言っていた。 昼飯を久し振りにアダムで食おうかと約束をして、二人は一足先に店へ向かった。
開店直後のアダムへ到着した。 マスターは変らない笑顔で、二人を迎える。
「また、お前だけか。 利知未はどうしてる?」
カウンター席へ腰掛けた倉真に向かって、呆れた顔を見せた。
「利知未は昨夜、夜勤だったんで。 今、寝てるっすよ」
「昼飯、食いに来た」
準一もニカリと笑って、マスターに言った。
「準一は、先週も樹絵と来たな」
「今日は振られちゃったから、倉真の相手してやってんだ」
「相手して、やってるってのは、どー言う言い草だ?」
「和尚も後から来るんだ。 先に、コーラ宜しく」
倉真のぼやきは聞かない振りをして、さっさと注文をしてしまう。
「お前は、どうする?」
「何時もので、頼んます」
「畏まりました」
伝票を記入して、珈琲を淹れ始めた。 合間に準一のオーダーにも応える。
一時間程を、マスターと話して時間潰しだ。 和泉が来る頃には忙しくなる。 それからボックス席へ移動する事にした。
和泉が到着してから、昼飯を食いながら由香子との事を聞いてみた。
「取り敢えず、一度は向こうで生活をして見たいと思ってるんだがな。 牧場の手伝いをしながら、少年達に少林寺でも教えたいと思っているんだ」
「で、今は師範目指して訓練中って、事か?」
「そうなる。 牧場関係で役立つ資格も、二、三、取得したよ」
「真面目だな」
「お前も、真面目にやっているんだろう? 仕事は、楽しいのか?」
「楽しいとか、そう言う次元じゃネーけどな。 好きな事だ、遣り甲斐はあるぜ?」
「オレも真面目に仕事、続けてるぞ」
二人の会話に、準一が割り込む。 それまで食う事に集中していた。
「それが驚きだな。 俺は、お前は直ぐに飽きて、別の仕事を始めるかなと思っていたよ」
幼馴染で、弟分の準一だ。 誰よりも、その性格は理解しているつもりだ。
「自分でもびっくりだ」
「マジ、空から槍でも降ってきそうだよな」
「ヘルメットでも、買っておいた方が良さそうだな」
倉真の突っ込みに、和泉も笑いながら、そう言っていた。
由香子とは、真面目に将来まで考えているとも言っていた。
「だが、まだ問題は山積みだ。 二、三年は先になるかもしれない。 お前達の方が、結婚は早いと思うぞ」
別れ際、倉真にそうも漏らしていた。
午後は自分の修行があると言う。 準一と二人、適当にバイクを走らせて、利知未との約束通り夕方には帰宅した。
準一は、どうせ通り道だからと言って、一緒にアパートへ押し掛けた。
ちゃっかり、利知未が用意していた夕飯まで、ご馳走になってから帰宅したのだった。