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お互い受験生だし、一緒に勉強でもどうかな。
二度目の電話で出された提案。
彼の言葉を拒む理由はなかった。
拒む理由はあっても、断る勇気をわたしは持ち合わせていない。
デートの場所は自然と図書館に決まった。
「うん、いいわ。これでバッチリね」
鏡の向こう側、わたしの後ろで母親は言う。
白い横に長い羽根のついた帽子。裾にレースをあしらった白いひらひらしたワンピース。
長髪も相成って、鏡の前にはどこかフランス人形のような自分がいた。
全然バッチリじゃない。
こんな恥ずかしい格好をして外に出ろというのか。
「これはちょっと……目立ち過ぎじゃないかなぁ?」
「なにいってるの。デートに普通の格好なんてしていったら相手に失礼じゃない」
わたしの母親は格好に気を使う人だ。
仕草や振舞い、礼儀作法を重んじている。
そんなお母さんにそうと言われてしまうと、「ああ、そうかもしれない」と思わざるを得ない。
未だわたしがデートに誘われたという事実は現実味を帯びてこないけれど、細井くんが電話を寄こしたことは間違いない事実だ。好きな人に――わたしに?――電話をかけることだって、きっと大変な勇気が必要だったはず。
不躾な格好でいけば相手に失礼なのは、ちゃんと考えればたしかに頷けた。
開館時刻は十時。
待ち合わせの時刻は十時半。
バスの時間の都合で、思ったよりも早く図書館に着いた。
天気はあいにくの雨だった。
……まあ、屋内だし。
雨足はそれほど強くないが、一日降り続きそうな雲の低さだ。
裾の長いワンピースを着ているので、足もとに注意しなきゃいけないのがちょっと面倒。屋根のあるバス停で幸いしたけれど、図書館までは雨の中を歩かなくちゃいけない。
手に持った白い傘(これもお母さんのチョイス)を広げつつ、図書館のほうを見る。
ちょうど開館の時刻なのか、職員らしき女性がしゃがんで入口のガラス戸の鍵を開けている姿が見えた。入口のすぐ隣には駐輪場があって、そこには雨宿りしている細井くんがいる。彼は学校で見る制服そのまま姿で、中学生には似合わない仕草でしきりに腕時計を気にしていた。まるで誰かと待ち合わせでもしているような……。
「…………」
いや、それわたしだ。
わたし待ちだ。
「…………」
あう。
どうしたらいいのだろう。ていうか、待ち合わせの時間は十時半って言ったじゃん。
わたしは立ち呆けた。
心の準備ができていない。
出来ることならこのうっとおしい雨と一緒に消えてしまいたい。
ぜんぶ最初からなかったことにしてほしい。
二の足を踏んでいるところで、気づかれた。
「あ、椎名!」
とでも言ったのだろうか。
遠くて声は聞こえなかったけれど、細井くんはこちらに向かって片手をあげて合図をした。
もうダメだ。
後には引けない。
わたしも手を振って返事をした。
お母さんを真似てお上品を気取ってみたけれど、ぎこちなく見えていないか心配だ。
心配と言えば、会って何を話したらいいのだろう?
デートなんてしたことのないわたしだ。
気の利いた話を振れる自信なんてないし、共通する話題なんて検討もつかない。最初は「ごめん、待たせたかな」でいいかな? でもまだ十時だし、それだとちょっと会話がおかしいことになる。無難に、「おはよう、もう来てたんだね」とかなら大丈夫だろうか。「ああ、椎名とのデートが楽しみで、つい……」とか返ってきたらどうしようふへへ……いや、うん。そんな可能性はないにしても、返ってくる言葉の予想がつかない。
ああ、恥しくて死んでしまいそうだ。
わたしは不安を踏みしめるように雨打つ地面を一歩一歩と進んでいく。
なんとか頑張ろう、という気持ちはあった。
けれどそれは跡形もなく吹き飛んだ。
「おお、マジで来たよ」
と、駐輪場から知らない人が出てきたからだ。
いたのは細井くんだけじゃなかった。
ガラの悪そうな――だらしなくシャツを着崩した金髪の――高校生数人がいた。
細井くんはその内の一人に肩を組まれて、最初は「目の前で細井くんが絡まれた!」と思ったけれど、どうやら仲の良い先輩とかその辺りらしい。
「つかさぁ、俺、トラのことだからもっと地味な子が来ると思ってたんだけど」
「だから、茶化さないでって言ったじゃないですか」
互いに笑い、じゃれ合っている。
わたしは知らず足を止めていた。
……なに、これ。
あれ?
デートって、二人だけのものじゃなかったっけ。
重苦しい感情が訴える。
決して聡いわたしではないけれど、この状況はそれを連想させるに容易だった。
というのも、当時は好きでもない相手に告白するなどという下らない冗談――心を蔑にする最低な遊びが流行っていたから。
……ああ、細井くんも。
そういう人なんだ。
学校での印象が印象なだけに騙された。
怖そうだけれど、筋の通った人だと思っていた。
手放した傘が地面を打つ。
わたしは逃げだした。
悔しさが込み上げて、浅い息が胸を苦しくさせる。
……馬鹿みたいだ。こんな。期待してたみたいな格好して。
追いかけてくる細井くんから逃げ切ることが出来ないのはわかっていた。
わたしの運動オンチぶりは、他でもないわたしが一番よく知っている。
それでも、足をつまづかせて、盛大にこけるとは思っていなかった。
水たまりに突っ込んだ。
さながらボディプレスの態で。
あまりの情けなさに泣きそうになる。服はお母さんに顔向け出来ないほど汚れていた。
「なんで逃げんだよ」
余裕で追いついてきた彼は言う。
「……なんで、追いかけてくるの」
「それは椎名が逃げるから……」
と彼は手を差し伸ばし、
「ほら」
わたしはその手を借りて立ち上がる。なにも言わず制服の上着を掛けられた。
逃亡に失敗した手前、その気恥しさったらなかった。
不良軍団が追い付く。
「ちょ、大丈夫? いきなりどうしたのさ。ってか服ビチョ濡れじゃん」
リーダー格の金髪不良は仲間を見、
「……そういや、近くにコンビニあったよな?」
「なら俺タオル買ってくるよ、煙草も買いてぇし」
「あ、じゃあ俺も行く」
「よう彼女、なんか飲みモンいる? あったかいもん買ってこようか?」
「えっ?」
予想していなかった事態に混乱した。
なにこれ。
わたし……なんか、優しくされてる?
「バカ。俺ら全員で行くんだよ。邪魔ンなってんのわかんねーのか」
そう言って五人の不良はコンビニに向かった。
残されたわたしは、細井くんの手にひかれ、バス停のベンチに腰を降ろした。
ひとつ席を空けて座った細井くんは、なかなか喋ろうとはしなかった。
雨が降るバス停の中は気まずい雰囲気で――けれどわたしの中にあった居心地の悪さは、どこかへと消え去っていた。
細井くんが掛けてくれた上着をぎゅっと握りしめる。
彼の服まで汚してしまうのは申し訳なかった。
けれど、それ以上にうれしかった。
なんの躊躇いもなく掛けられた服が。
彼の優しさが。
やがて、
「ごめん」
呟くような謝罪。
「言ってなかった。いや、恥ずかしくて言えなかったんだ。さっきの人ら、俺のことめっちゃ応援してくれてさ。今日のことも、あの人らの後押しがあって椎名を誘えたっていうか……だからついてくるって言ったときも断りきれなくて」
そこで細井くんは小さく吹き出し、
「結城さんさ、ああ、金髪の人のことなんだけど。椎名が来たら俺のことを滅茶苦茶に褒めて、そのままどっか行くつもりだったんだよ。『心配すんな、俺に任せとけ』って鼻息荒げてさ。年上なのに子供みたいだろ?」
「……ごめん」
「いいよ」
わたしが謝ったのは、細井くんを含めたみんなを“そう”だと勝手に決めつけたからだ。
「けど、ちょっと寂しかったな。もちろん悪いのは先に言わなかった俺だけど、あんな風に逃げられたら何にも言えなくなる。謝ることも、違うんだって説明することもできなくなる」
「……うん」
「お互い反省だな」
細井くんは二カッと笑ってくれた。彼の笑顔を始めて見た気がした。
大人だな、と思った。
本当に優しい人なんだ、とも。
やがて結城さんたちが戻ってきた。
結城さんは、バツ悪そうにモジャモジャな金髪頭をかいて、
「いやーなんつうかさ、邪魔しちまったみたいで悪いね。けど彼女、これだけは言わせてくれ。コイツはなかなかナイスな奴でさ。無愛想な顔してっけど根っこンとこが熱くて――」
「結城さん」
細井くんが割って入る。
「すんません。それ、待ってる間に言っちゃいました」
「は?」
きょとんと。
合点がいったのか、結城さんは頭をさらに乱暴にかいた。
「あー……そんなカンジ? なるほどねぇ、ダメだこりゃ。今日はどうも具合がよくない。もう帰ってゲームしてクソして寝るわ」
雨も気にせず帰路につく五人。その後ろ姿を見送る。
わたしたちは顔を見合せて笑った。