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いのり。
俺が彼女、つまり、椎名いのりに出会った時のことは、いまでも鮮明に覚えている。
それはいのりのことを好きになる前の話で、好意を寄せる以前に、俺は椎名いのりという人間をちゃんと認識してはいなかった。
こんな言い方をすると『出会っていないのだから当然だ』――と思うかもしれないが、それは違う。
俺といのりは同じ中学に通っていた。
だから、厳密に最初の出会いというなら、恐らく入学式や、委員会や文化祭など交流があったときだろう。学校という小さく閉鎖的なコミュニティで、知らない顔を探すほうが難しい。
いのりは有名だった。
そして俺は、いのりとの交流を望んではいなかった。
簡単に言うなら、いのりはいじめられっ子だった。
どういう事情があったかは知らないが、いのりはクラスの女子リーダー格に目を付けられていた。そして、そのいじめの内容は、傍観者だった俺から見ても目に余るものだった。
彼女の私物がなくなるなんて日常茶飯事。
体操着がプールの底から見つかったり、ずたずたにされたカバンがゴミ箱の中から見つかったり――……笑えたのが、上履きにこれでもかってくらい画鋲が詰められているのを見つけたときだ。上履きから溢れて、これじゃあ履こうにも履きようがない。
笑えないことに、子供の悪意はストレートなもので、加減ってものをまるで知らない。
ドラマみたいに校舎の窓から彼女の机が投げ捨てられるようなことは流石になかったが、彼女の私物が校庭の空を舞った回数は、それこそ数えるのが面倒になるほどだ。
ここで、「なぜ?」という疑問が浮かぶと思う。
なぜいのりがそこまで執拗ないじめを受けていたのか?
実のところ、特に理由なんてものはない。
理由がひとつあるとするならば、いじめる側からすれば、いじめたときの反応が面白ければ良いおもちゃになるし、無反応ならば良いストレス解消の道具になる。
いのりはその後者。
いのりは泣かない子供だった。
迫害行為は良くないこと。
人を傷つけてはいけません。
そんなの小学生にだってわかりそうなこと。
だが、ある環境においてはそれがまかり通り、あるいは必要になることだって往々にある。悲しいことに、それはこの世の中に溢れ返っている。とりわけ、特定の存在を大勢で攻撃するとき、人は一時的にではあるにしても、不安や恐怖をまぎらわすことができる。安定した精神のためには、どんな世界でも犠牲が必要なのだ。
たとえば、自らを犠牲に戦うヒーローのように。
あるいは、平和のために死ぬべき悪役のように。
いじめグループの仲間意識を高めるためだけの犠牲に選ばれたいのりは、たしかに可哀想で見ていられない節もあったが……しかしそれでも、ありふれた可哀想でしかなかった。
クラス一単位に一人くらいいる、どこにでもいそうな、いじめられっ子。
地味で、内向的で、花壇の隅っこにでも咲いていそうな、小さな花。
椎名いのり。
そういった意味で有名だったいのりを、だから助ける友達がいないように、俺がいのりを助ける理由なんて、やはりなかった。
弱い者を助けるヒーローなんて、現実には存在しない。
いたとすれば、そいつはただの馬鹿だ。
そんなわけで、当時の俺はいじめられている彼女をどうにかしようなんて思わなかったし、見て見ぬふりをするのに罪の意識すら感じなかった。仮に、もしそこで助けを求められても、俺が彼女のために動いたとは思いにくい。
人はどうでもいいものに対して、感情を動かさない。
感情が動かなければ、人は行動に移らない。
唯一動かしたとすれば、彼女を庇えば自分がいじめの対象になるかもしれない――多数の占める枠から敵対するかもしれない――という浅ましい考えと、ほんの少しの恐怖感だけ。
誰だってわざわざ敵なんて作りたくない。
だから、当時の俺にとっていのりの存在は、自分を守るために避けるべき存在であり、目に映るだけで疎ましい存在でしかなかった。
そんないのりが、俺にとって特別になったのは、ある夏の日のことだ。
中学以来、学生が夏休みを迎えるにあたって、最後の障害として立ちはだかるのが期末試験。生徒の誰ひとりとして望んでいないだろう、定期的な学力テスト。
その初日か二日目かは忘れたが……ともかく、そのときの学校は半日で、試験を終えた学生らは午前中の内に勉学から解放された。
生徒玄関から見上げた空は、透き通るような青空だったのを覚えている。
俺の通っていた高校は、生徒玄関の前にグラウンドがあり、校門から出るにはそこを通らなければならない。生徒は校門を抜け、別段交通量が多いわけでもない普通の道路から自宅へと帰る。
俺を含む生徒らがわらわらとグラウンドをゆく中で、
ドン、と。
不意に大きな衝突音と犬の叫び声が響き渡った。
女子の短い悲鳴が聞こえたような気がしたが、それは大した問題ではない。
明らかな異常を告げる音――そのほうに首を廻すと、校門のすぐ奥の道路で、白いモノが倒れているのが見えた。
一瞬、ぬいぐるみかと思った。
だが、すぐにそれが生き物で、まだ幼い仔犬だということがわかった。
――交通事故。
それを瞬時に悟ることはできた。
が、俺は呆然とした。
理解は出来るが、非現実的な事態、光景に気がすくんだ。
しかし俺の意思を無視する足は、知らず仔犬のほうに寄っていく。
二メートルほどのところで立ち止まる。
それ以上は、なぜだか見えない壁でもあるかのように近づけなかった。
仔犬は胴のあたりを激しく上下させ、まだまだ走り足りないかのように奇妙に足をバタつかせている。やわらかそうな白い毛を犯す脅迫的な赤は、ゆっくりとアスファルトに広がっていく。
そこでふと、隣に見知らぬ生徒がいることに気がつく。
見れば周りには仔犬を囲む野次馬が大勢いた。
生徒らは口を手で隠したり、まるで恐ろしいものを見てしまったかのように顔をしかめたりしつつ、遠巻きにそれを眺めている。かくいう俺もその一員で、可哀想に……と無責任に思ったのを覚えている。
誰も動けず、誰も動こうとはしなかった。
誰もが傍観者だった。
ただ一人、いのりを除いて。
いのりは野次馬をかき分け、迷いなどないように仔犬に駆け寄った。
抱き上げる拍子に、彼女の白いブレザーに赤がついた。その姿が妙に印象に残っている。
なにをしているのだろう?
無論、彼女が仔犬を助けようとしているのはわかっていた。だが、俺の頭はそんなことを思っていた。誰もが置いてけぼりになった時間の中で、なぜ彼女だけが動けるのか?
やがて、いのりは走り出した。
呆然とする群衆の一員だった俺は、思いついたように彼女の後を追った。
なぜ追いかけたのか……その理由はわからない。
とにかく俺は、彼女の姿を必死に追いかけた。
ほどなく、道路の真ん中で座り込む彼女を見つけた。
「ごめんね……」
そのとき、初めていのりの声を聞いた。
「助けてあげられなくて、ごめんね……」
同時に、初めていのりの泣き顔を見た。
仔犬はもう動かなくなっていた。
いのりは、仔犬を胸に抱きしめながら、大声をあげて泣いた。
おんおんと、顔をゆがめて、血で汚れたブレザーのまま、涙をぽろぽろと零して。
俺はただそれを見ていた。
不思議な感覚だった。
そして俺は、これまで彼女の涙を一度として見たことがなかったことに気がついた。
いのりは――椎名いのりという人間は、自分のカバンを捨てられても、教科書を燃やされても、机にラクガキをされても、上履きにデタラメな量の画鋲を詰め込まれても、頬を濡らすどころか、一粒の涙すら零してはいなかった。
そんな椎名いのりが声をあげて泣いていた。
青空の下で、道路に座り込んで、まるで子供みたいに。
俺は泣かなかった。
代わりに、こんな馬鹿みたいに純粋で、どうしようもなく壊れやすそうな女の子を放ってはおけないと思った。
守ってやりたい、と。
当時中坊だった俺は、幼いながらも、そう思ったのだ。