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「人間っていう種は元々からして脆弱でね、遺伝子的に見てもマンモスに勝てるような造りをしていないの」
俺はシャーペンを走らせ、黙々と宿題の数式を解いている。
横長のテーブルの上には宿題と教科書の山がある。同じように山になったそれらをテーブルの隅に寄せ、いのりはハードカバーの小説本を広げている。
彼女は勉強に飽きると、こんな風によくわからない話を俺に振ってくる。
どうやら今日の話題はマンモスらしい。
「竜虎くんはマンモスって知ってる?」
まあね、と俺は適当な相槌を打つ。
「わたしはマンモスって見たこと無いんだけど……すっごくおっきいんだよ」
おっきいんだよ、に合わせ、いのりは両腕を大きく広げる。
外人のような実に大げさなジェスチャー。
俺もマンモスを直に見たことはないが、大きいというのはテレビや図鑑で見た知識としてある。それはだいたいの人間の知るところだろう。
「おっきくて牙も生えてて、すっごく強いの。ひるがえってみて、人間にはどんな武器がある? 生えてるものなんて毛くらいじゃない。牙バーサス毛だよ? 普通に考えたら、毛に勝ち目なんてない……」
言外に人間を毛と揶揄するのはどうなのだろうか。
マンモスにだって毛は生えてるし、これじゃあ人間の立場がない。
「でもね、大昔のご先祖様……白亜紀とか、そのくらいかな? 人間は集団を作ることでマンモスに打ち勝ち、知恵を絞ることで生存競争で生き抜いてきたの。で、ここからが本題ね」
と、対面に座るいのりは微笑んで言った。
図書館の一室。
蒸し暑そうな窓の外からは、ジーコジーコと蝉の鳴き声が聞こえる。
周囲には俺たちの他にも、夏休みの宿題を抱えた学生がちらほら見受けられた。その例に漏れず、俺といのりも夏休みの宿題を抱えてここに来ていた。もちろん、受験勉強も兼ねてだ。
学生に占拠された部屋は普段の静穏からは遠く、喧騒とまでは言わないまでも、やはり賑やかではある。その賑やかな中でもとりわけ賑やかないのりは、こう続けた。
「人間が集団をつくるにあたって必要なものは言葉、コミュニケーションだった。きっと最初のコミュニケーションってのは、とても簡単なものだったと思うの。好きとか嫌いとかよりもっと簡単。単純な『イエス・オア・ノー』。それが時代を経て人間が進化していくうちに複雑化してきて、同時進行で人間の心も複雑なものに変化していった。あるいは、だけど」
俺は天井から送られてくるクーラーの冷気に、猫のように首を伸ばす。
ちなみに、マンモスが誕生したのはせいぜい300万から400万年前の更新世で、白亜紀を指す6600万年前には存在すらしていない。
賢そうに語るいのりの知識は、結構なレベルで偏っている。
「ロミオのこのセリフも、言ってしまえば『好き』の一言で片付く。細井くんもそう思わない?」
いのりはぶ厚い本を俺に差し出した。
赤くごついハードカバーの本。俺なら絶対に読まない古書。
シェイクスピアの名を知らない人のほうが少ないだろう。たとえ知らなくても、『ロミオとジュリエット』というタイトルを聞けば、大抵の人はピンとくるはず。
彼女の指差すページ、その一文にはこうあった。
『ぼくは船乗りじゃないけれど、
たとえあなたが最果ての海の彼方の岸辺にいても、
これほどの宝物、手に入れるためなら、危険を冒しても海に出ます』
「……んー、言われてみればそうかもな」
俺はまた曖昧に頷いてみせた。
「竜虎くん。いま、テキトーに頷いたでしょ?」
「いや……」
いのりは不満そうに頬を膨らます。
ジトっとした不満の視線に、バツ悪くなった俺は窓の外へ視線を移した。
まあ。
たしかにその通りだと思わなくもない。
けれど俺には、そんなことわざわざ取り上げるようなことでもない、という気持ちのほうが強かった。自分の感情をより深く相手に伝えるために装飾を施す――それは別に『好き』だけじゃなくて、あらゆることに、それこそ誰もが自然と行っていることだ。
「些細なことかもしれないけれどさ、一言で伝えられることを、あえてぼかして伝える。それって、なんだかとてもロマンチックじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ」
「……じゃあ、そうかもな」
いのりは満足したように笑う。
やれやれ、と俺はいつものように肩を竦める。
俺はそれを懐かしく思い返す。