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瑠璃色のミトン

作者: 白瀬 凡

幼き日の思い出

 学校から帰って一学期の通信簿を母に見せ二階に上がると、奥の部屋に人の気配がした。商いをしている家だったから人の出入りは繁く開放的ではあった。しかしその日のその一画は青とも黄ともつかぬ色合いを含み、小学六年生を小さな恐怖で包んだ。覗いてみると、西窓の下に蝦蟇に似た黒いものが横たわって盛んに鼾をかいている。見慣れた部屋に眩暈を誘うほどに酒気が充ちていた。

 (たがやす)は驚いて階段を駆け下り、息はずませて階上を指差しながら台所の母に問うた。母は溜息混じりに言う。露骨に迷惑そうだった。

「父さんの幼なじみらしいの。浦さんっていうんだって。暫く泊まっていくみたいだよ」

 東京オリンピックの数年後、耕の夏休みが始まろうとする日のことである。

 夕食の頃合となり、酔漢に声をかけるよう母が言った。耕は再び階段を上がるのだが、薄暮の中にあるそのひと隅だけがいつもと異なる佇まいで、古びた家の窓から射し込む数条の夕陽の雫が、空中の塵を照らしている。綺麗なものだなと耕は脈絡無く思った。恐る恐る呼びかけてみたけれど、小さな塊の凄まじい鼻音は止まず、時々途切れる瞬間があって、妙な間が少年に緊張を強いた。その人は、五年程前テレビで放映された「怪傑ハリマオ」のように、角ばった黒眼鏡を掛けていた。

 さらに声を励ましてみた。ひときわ大きな鼻息が上がって、もぞもぞ体を動かす気配があった。調子をもう一つ上げて言ってみる。

「あのう、夕飯にどうぞって」

「あ?ああ、どうも、どうも、ありがとうね。今下りていきます」

 その声は凄まじい大鼾からは想像もできないほど嫋々としたものであった。

 耕の父と母、二つ上の姉の冬子、そして父方の祖母が待つ階下へ顔を出した浦氏は、泥酔の姿を晒したばつの悪さに身を縮めていたのだが、酒が次第に回るにつれ虎の気を取り戻し再び豪傑になっていくようだった。黒い眼鏡を外している。目が小さくて、案外可愛らしい瞳をしているなと、障子に騒ぐががんぼの羽音を聞きながら耕は思った。浦氏の声には先ほどとは違って賑やかな張りがあった。

 その夜大人たちの会話から耕が紡ぎ出したことは、浦さんと耕の父とは昔なじみと言えばそれに違いはないけれど、わずかひと夏ほどの交友でしかないということだった。

 浦氏はこの町に昔あった医者の家に一ヶ月くらい預けられたらしい。叔母さんの嫁ぎ先のようだ。その家は一家をあげて東京に移り去り今は無い。当時浦さんは母親を亡くして間もない頃であった。思い出と言ったって耕の父にはほんとは皆無に等しい。ぼんやりした霞の奥に、昭和に改元されてすぐの頃の夏、都会から来た少年と一緒に遊んだことがあるような無いような、おぼろな像が残っているだけなのである。貧相な黒眼鏡の俄かの訪いに当惑しているのが本音だったようだ。

 耕の父は晩婚だったから、二人のこの日の再会は互いに五十を過ぎてのことだった。耕と姉はやがて上の部屋に引き上げたが、少年の日の覚束ない記憶を頼りとする男たちの酔いは、その覚束なさゆえにむしろ不思議な味わいとともに深まっていくらしくもあった。

 翌朝ラジオ体操帰りの耕は、散歩にでも出ていた風の浦さんと店先で出くわした。彼は夜が明け初めるのを待ちかねるようにして外に出たよとは、後日祖母から聞いたことである。中学生はラジオ体操を義務付けられてはいないから、冬子はこの頃にようやく起きてくる。耕の帰宅が朝食を告げる合図となった。

 翌日もその明くる日も浦さんは散策に出、同じ時刻に帰って朝餉を共にした。どこを回られたのかと祖母が訊ねると、まあその辺をとだけ応えた。食事の後はたいてい父と母はそれぞれの仕事、姉は部活などで早速家を飛び出すし祖母も外出の大好きな人だった。

 耕は出不精のほうで、自分から遊び仲間を求めて出かけることはなかった。古い畳に寝そべりながら、開け放たれた縁側から望まれる夏雲を飽かず眺め暮らした。浦氏がそんな男の子を見逃すはずもない。将棋盤やら碁盤やらを運んできては少年に声をかける。

 この人いつ帰るのかな。耕は思う。夕暮どき、酒が入れば賑やかにもなるのだが、十二歳の子に垣間見せる素面の昼の顔には幽かな(かげ)があった。盤を二つ持ってはくるのだが結局五目並べばかりをした。

 さし迫ってするべきことがこの世にまるで無いという一人前の男子と、長時間呼吸を共にしたことがなかったから、それでなくても人見知りの激しい少年は困惑した。相手が饒舌であってくれれば救われもするけれど、アルコール無しの黒眼鏡は子ども相手の面白い話題に事欠いているようだ。だからこそ碁や将棋に頼ろうとしたのだろう。

 無聊が苦になるならもう一度おもてに出ればいいじゃないか。盤を挟みながら耕は浦氏と過ごす重苦しさをかこつ。いやそれを言うのならば耕にしたって、いくら外に出るのが嫌いといっても、この鬱陶しい風来坊の相手をするくらいなら、炎天に飛び出して家の横の小川に素足を浸し、川蟹でも眺めつつ無為のひと時を過ごす手もあったではないか。思い返せばあの夏の日々、耕は浦さんの見えない枷に捕らわれていたと言っていい。

 浦さんの出立の前日のことである。その日父は何かの会合で出かけ、母はいつものように忙しく立ち働いていた。祖母と姉は小雨の中を他出した。耕はやはり盤を間にして似非(えせ)ハリマオと対座させられていた。

「耕くん」

「はい」

「この家のわきの川をずっとさかのぼっていくと、滝に行き当たって、滝壺から始まる緩やかな流れがあって、そこでここの人たちは水浴びを楽しむんだよね」

 ああ、父さんの子どもの頃なんかはそうだったのかも知れないな。耕はそう思った。でも海から遠いこの町にだって今はプールがある。そのままのことを口に出すと浦氏の顔が曇ったように見えた。

「僕はね、耕くん、ちょうど今の君と同じくらいの頃ここに来たことがあるんだ」

 ゴールデンバットを燻らしながら、しんみりとした口吻である。

「叔父の家にひと月ばかり厄介になっててね、友だちもいないから、従姉の本棚から適当に本を抜き出してはその谷川へ出かけたもんだ。水遊びの歓声の輪に入りもしないで木陰で本を読んでいた。いや読む振りをしていた。僕は俯きたかったんだね。読書を装っていると思い切り俯くことができた。誰もいぶかしく思わないからさ、それが有り難かった。独りで部屋に居れば孤独に押しつぶされそうになる。叔父の家族はみんな良い人だったからそんな様を見せるわけにいかなかった」

 浦さんの立ち去る日が来たのだなと耕は直感した。十二歳の少年に言葉を飾らず話していたからだ。いつの間にか雨が屋根や窓を強く敲き始めていた。

「そんな一日、何の気なしに目を上げた拍子にね、見慣れた滝の一点が光って見えたんだ。夏も終わりに近付き、間もなくこの町ともお別れという日だった。僕は誘われるようにそちらへ登っていった。どうしてだか自分でもわからない。熊笹が生い茂っていたけどあんまり難儀した憶えはない。登れる所まで登って滝を横からよく眺めてみるとね、そこは岩屋のように抉れていたんだ。滝の水を透した光の加減で不思議な色をしていたな。恐いとは思ったけど入ってみたくなった」

 視線は安物の碁盤の盤面に落ちているのだが、浦さんの目は遠くをみていた。

「麦藁帽子に飛沫を浴びながら思い切って滝を潜った僕はぎょっとした。小暗い奥に人影が見えた。白いワンピース姿のようだった」

 相手はもっとぎょっとしただろうなと、浦氏の美しからぬ風貌を窺いつつ耕は思った。

「そのまま踵を返して逃げ帰ろうとしたんだが、思えば不思議な心理だったなあ、薄暗がりに座っているその子がいやに落ち着いていて、口元に笑みが浮かんでいるようにさえ見えたもんだから、少し業腹(ごうはら)になってさ、思い切ってね、一歩を踏み込んでしまったんだ。恐がってなんかいないぞって心の中で叫びながら尻を着けた岩の冷たさを今でもありありと思い出す。目がなれてくると、脚を投げ出した恰好のその女の子は、赤い小さな座布団を敷いているのがわかった。その姿にもまた小癪なと思ったもんだ。岩床はそう、畳で五枚くらいは敷けたかな」

 蒼然たる光の中で、突然水の簾を冒して現れた少年をその少女はどのように受け止めたのだろう。その子こそ悲鳴を上げてよさそうなものなのに、浦少年が苛立ちを覚えるほど落ち着き払っていたという彼女は、本当に生身の存在だったのかなと耕に不審が浮かんだ。

「編み物をしていたよ。齢は僕と似たようなものだった。僕は本を開いて目を落とした。背後の滝の音が耳につく。すぐ目の下には若者たちが健康な声を響かせているのに、僕たちのいるその一隅だけは、激しく落ちる水沫の音が却って静けさを醸してくれていた」

 その情景を想うと、耕の胸に少し甘酢っぱい何ものかが広がっていく。

「水遊びの連中の声は次第に静まっていった。家路に就き始めたんだね。薄い水のカーテンを背にして西日を受けた僕の影も、いつの間にか伸びていた。正確な時刻はわからなかったけど、もう帰るべき刻には違いなかった」

 持っていた石を碁笥(ごけ)にぽんと放り、浦さんは黒眼鏡を手にして弄んだ。

「僕はとうとう立ち上がったよ。振り向くと残照が滝の水に美しく歪んでいた。あんな佳麗な光には今に至るまで出会っていない」

 初めて見たときのこの男の姿を思い描くと、耕には何とも形容しがたい感情がふつふつと沸きあがるのである。あの蝦蟇の風柄をした人が可憐な何者かに姿を変え、美しくも素朴な死に装束を粛々と纏い始めたように見えた。

「その時にね、衣擦れの音がした。振り返ると、さっきまで編み物をしていた少女がいつの間にか立ち上がって、にっこり笑って何かを差し出すんだ。それは彼女がそれまで黙々と編んでいたものに違いなかった。瑠璃色(るりいろ)のミトンだった。その子が口を開いた。ほんとは普通の手袋を編んであげたかった。でも時間が無くてミトンしか編めなかったと、そう言って元の赤い座布団へ戻っていった」

 碁盤の上にも西日が射している。一手前に耕の四三勝ちが決まっているのに浦氏はそれに気付かなかった。須臾(しゅゆ)の間彼の魂は滝の裏に浮遊していたのであろう。

「ずっと気になっていたその場所に行ってみたくなってね、急に思い立ってこの町にやって来た。記憶を頼りにぶらぶらしてみたんだが、どうしても行き着けない。道で会う人や君のお父さんに訊いても、その川はわかるけれど滝なんか無いと言うばかりなんだ。耕君、あんた頭良さそうだねえ。もしかして気が付いているのかなあ、そう、俺長くない命なんだ」

 幻?そう幻だ。子どもの酷薄さで耕にはわかるのである。父の少年時代に水と戯れるそのような場所はあったに違いない。それに向かって落ち下るささやかな流れだってあるいはあってよい。でもその裏に人を容れるような空隙など無く、母を失った寂しさのあまり浦少年はこの世のものならぬ化生の夢を見ただけなのだ。

「叔父の家が近付く頃はすっかり日が暮れて、小川のほとりの草むらには蛍が飛んでいた」

 この人がなぜ耕の町にやにわに現れて数日を過ごそうという気になったのかわかるような気がした。少年特有の不遜な直感だった。命終(みょうじゅう)(とき)を知った人の匂いを嗅いだ気がした。

 心に抱き続けてきた馥郁とした時節と空間に、浦氏はそっと暇乞(いとまご)いをしに来たのである。そうに違いない。彼のこれまでの来し方を誰も知らない。耕の家族は敢えて訊ねようとしなかったのだ。ただ、その佇まいと窪んだ頬からは、彼の生活がけして豊かで平穏なものでなかったことが知れた。

 忘れ去られたような盤上の石を眺めていると、耕にはこの人ともう会うことはないのだとわかるのであった。寝転びつついつも見ていた流れ行く雲に、この日の浦さんは似ていた。

 浦さんは語り終えると立って洗面所の方へ行った。手洗いかと思ったが、洗濯石鹸で何かを丁寧に洗っているようでもあった。雨はしだいに激しさを増しまるで全ての音を消し去るようである。

 翌日浦さんは耕の家を発っていった。耕と浦氏との夏の物語はこれで終わるのである。あいつは何しにここを訪うたのか、ほぼ一週間を費やして何をしたかったのか、大人たちは口に出さぬまでもそれぞれの心にそう問いかけたに違いない。成功した姿を見せびらかしたのであれば、あるいは逆に、うらぶれて金の無心でもしたのならわかり易くもあったろう。しかしあの黒眼鏡の男は、酔いが回れば楽しく騒ぎもするけれど、そうでないときはあくまでおとなしく、朝方の数時間その界隈をもとおりつつ暫時食客の真似事をして静かにさよならをしただけなのだ。

 耕の心にはしかし、去っていく浦さんの背の円さが深く沈みたゆたっていた。虚像と知りつつも滝の裏にあったという静謐な岩棚を見つけてやりたい衝動にさえ駆られた。遠々(とおどお)しき記憶の彼方の一齣(ひとこま)があの人の生きる支えだったに違いないからだ。

 耕は浦さんが使っていた部屋に入った。父が若い一時期夢中になったというクラリネットの黒いケースが西日を受けている。わずか数時間前別れた人なのに既に懐かしい人であった。隅の文机の上に文鎮代わりの陶の置き物がある。夕明かりを受けた物がもう一つあった。洗ったばかりの瑠璃色のミトンだった。ー了ー


懐かしい人

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