放送室
ジリジリと暑い日射しが窓の外に広がる、ある夏の日だった。放送委員であった私は、当番であるために一人放送室の扉を開けた。むわり、と少し湿ったカビ臭い空気が鼻を掠める。私は少し眉間にシワを寄せながら、壁にある電灯のスイッチを手探りで押す。見事に見つけて押すと、黒いカーテンがかかった小さな部屋に、どっしりと置いてある少し古びたミキサーが顔を見せる。マイクは無造作に置きっぱなしだった。
「前の当番、片付けるの忘れてるじゃん」
次の委員会でチクってやろう、と思いながら蒸しきった部屋に我慢できず、急いで空調の電源をいれた。これまたカビ臭い冷たい空気が、申し訳程度に吹いてくる。無いよりはましだが、涼しいとは言えなかった。
どっと沸く汗を拭って、ミキサーの電源を入れる。赤や黄色、緑のランプがチカチカと光る。私はこの瞬間が大好きだった。
校内放送をする前に、校内のスイッチを切る。これでこれから話す言葉はこの放送室にしか流れない。リハーサルだと分かっていても、聞こえる私の声は少しだけ震えていた。
「よっす、遅れたー」
丁度練習し終わった頃に、もう一人の当番がやってきた。時計は既に放送予定時刻の2分前。5分前には用意をするように、と委員会でも言われたくせに、この人は全く時間に間に合おうとしないのだ。
大きな弁当箱を薄汚れた机の上に放り出すように置き、原稿を私から取り上げてリハーサルを勝手に始めた彼を見て、私はいつものように溜め息をついた。毎度間に合わないと思って自分がリハーサルをするけれど、彼は何だかんだで遅刻はしない。そして、彼は堂々とした態度ですらすらと原稿を読み上げてしまうのだ。自分のさっきまでの練習の意味について問いたくなる。
「よし、じゃあCDよろしく」
こうして、今のところ指で数えるしかアナウンスをしたことのない私はCDをかける係となるのだ。いつものことだからもう気にもならないが、最初の方はアナウンスが出来なくて傷付いたものだ。私は黙っていつものようにCDをトレイにいれ、ミキサーをいじる。先程切っていた校内のスイッチを入れ、少しずつつまみを上げていく。音量を示すメーターが、曲に合わせて上げ下げを繰り返していた。
「みなさんこんにちは、昼の放送です」
いつも少しふざけた調子の彼は、真剣な顔でマイクに向かっていた。日に焼けたその横顔は滅多に見ることができないもので、私はこの時間をとても特別に感じた。
放送開始のアナウンスが終わり、急いでCDを入れ換える。今日流す曲はリクエストにより流すもので、私も好きなアーティストの曲だった。私も持っているCDを、そっとトレイに載せて再生スイッチを押し、あとはマイクを切ってボリュームだけ調節したら曲が終わるまではそのままでいい。一段落ついて、私たちは弁当を食べることにした。
「なんか暗くねえか?日光消毒も必要だろ」
彼はそう言って真っ黒の遮光カーテンを一気に開けた。外はとても良い天気だ。放送室の窓のすぐ傍にあるプランターに植えられた向日葵が、気がつけば窓の上端と同じくらいの高さになっていた。遠くに見える入道雲を眩しく見つめていると、彼は少し気分がよくなったのか、早速弁当の蓋を大袈裟に開けた。
「おお!やった、唐揚げ」
どうやらお目当ての御菜があったようで、より一層気分が弾んでいるようだった。
流れている音楽はアコースティックギターが響いており、まるで今日の天気を表現したような曲だった。真夏の入道雲の下、風を頬で感じながら自転車で海まで走っていく爽快感。私が大好きな曲だったが、今の私の気持ちとは正反対な曲だ、と思った。
私は彼の隣に、少し離れて座った。弁当箱を開ければ、珍しくいつもより彩りの良い御菜に大好きなふりかけ。声をあげて喜びたいところだったが、私はぐっと叫びを飲み込んだ。ちらりと隣を見やれば、彼はどうやら唐揚げに夢中なようだった。
「いただきます」
正直、弁当を食べられるような気分ではなかった。別に私のことを見ていないと分かっていても、自分が今どんな顔をしているのだろうかとか、変な顔はしていないだろうかとか、気になってしかたがない。気分は爽やかなんてものではなく、背中に流れる汗のように、厭わしいものであった。
この気持ちの名を、私は知っていた。でも、そのことを、彼に言う勇気はなかった。今こうして弁当を広げる関係が崩れてしまうのは怖かったし、万一言ったとして、次の一緒になる当番の日にこの密室で二人きり。正気でいられる自信がない。当番だから、やめるわけにもいかない。彼はきっと気付きもしないだろうから、黙っていればいいのだ。
私は一人悶々としながら、箸を動かした。私の大好きなホウレン草のバター炒め。冷凍食品であるけれど、かなり美味しい。箸でまるまる摘まんで、一気に口の中に放り込む。他の女の子みたいに口が小さいこともなく、むしろ大きい方なので、ほとんどの御菜を一口で食べてしまうのが私の癖だ。ガサツだと言われるけど、ちまちま食べている方がなんだか美味しそうじゃなくて、食べ物に失礼なような気がする。私は、口の中に広がるバターの香りを鼻まで通して、ホウレン草を噛みしめた。少し苦いような、甘いような独特の味が広がる。この瞬間が幸せなのだ。
ふと見ると、御菜が入れられているプラスチックのカップに文字が。よくあるお弁当占いだ。いつもは気にしないのだが、目に入ってきたのでなんとなく読んでみることにした。
『大吉』
『好きな人に告白するとうまくいくかも!』
一気に口の中の幸せが穴という穴から抜けていったような気分になった。何が書いてあるかはこれを入れた母にも分からないのだが、今回ばかりは何故これを入れたのだと母を恨んだ。
そんなわけないじゃないかとよく分からない複雑な感情を抱きつつ、もうすぐ曲が終わってしまいそうだったので一旦箸を置き、ミキサーへと向かった。彼も私の動きで気付いたのか、口いっぱいに頬張っていたものをつっかえそうになりながらも急いで飲み込み、アナウンスの原稿に目を通した。ゆっくりとフェードアウトさせ、急いでCDを入れ替える。放送のテーマ曲が流れて、5秒。テーマ曲の音量を下げ、マイクのスイッチを入れた。
「みなさん、放送はいかがでしたか。本日の放送は――」
担当者の名を言う彼の横顔をちらりと見る。自分の名字が彼の口から放たれて、とても恥ずかしいような嬉しいような、とにかく校庭を走り回りたくなるような気持ちになった。アナウンスが終わり、全てのボリュームを少しずつ下げていく。ボリュームが下がり切ったら、私たちの仕事はおしまいだ。マイクを片付け、CDを取り出して棚に戻す。これで、私が来た時と同じ状態(マイクは出されたままだったが)になった。
「じゃあ俺もう行くから、鍵よろしくー」
そう言って、彼は放送室を飛び出していった。窓から彼の友達が手招きしていたから、彼らと遊ぶのだろう。私は一人、ミキサーの前に突っ立っていた。誰もいない放送室とは対照に、窓の向こう……校庭からはたくさんの声が聞こえてくる。急にもの寂しくなった放送室で、私は再び箸を取り弁当を食べ始めた。
母には申し訳ないが、おいしいのかどうか味がよく分からない。心の中は彼でいっぱいだった。たった15分程度でしかないこの時間がとても愛おしくてたまらない。こんなときにしか私は彼を独り占めにできないのだから。ふと、もう一度さっきの占いを見る。告白するとうまくいくなんて無責任なことを書いて、と私は箸でカップをつついた。
「本当だったらいいのに」
言葉と共に、誰も知らないため息をついた。
ゆずの「夏色」が大好きなのと、放送委員の経験があったというところからインスピレーションが湧きまして、書き殴りました。
目標としては、なるべく会話を減らして心理描写をしていくというものでした。
なんだか難しかったです。本当はこうじゃない感。
読んでくださりありがとうございました。