夜の蒼影
何かに見とれるとしたら、僕は魚に見とれていた。
展示物が眠りにつく頃、僕は青みがかったこのアクアリウムへこっそり忍び込んだ。
鍵の外れた裏口を抜けて巨大なドーナツ型をした水槽を見に行った。静かに眠れる群れが、
水槽の中で人工的に廻る水の流れに乗ってゆっくりと回遊している。いつもなら展示用のライトが
影を打ち消している所為で水槽の水は光って見えるけど、夜の間に働く浄化装置と神秘的なまでの経費節約のお陰で
水槽は透明で深い蒼に支配され魚達もそれを受け入れているみたいだ。
色づいた者達が微睡んだまま僕の前を通り過ぎた時、背後に人の気配を感じた。
そっと振り返った僕の目には微笑んでいる少年の姿が写っていた。
不思議な気持ちがあった。なにか名状しがたいものが。
「ねえなにをしているの。こんなところで」
少年は不意に語りかけた。
「魚を見てたんだ。あの蒼い魚。とても綺麗だから」
返答は反射的でとても陳腐なものになった。
それでも少年は納得したように頷くと、
「それじゃあこっちに来て一緒に見ようよ。ここのほうがよく見えるよ」
と僕の腕を持って自分の方に誘いだした。
人気のないアクアリウムのせいだろうか、普段より広く感じられた。
少年の声、仕草はどこか透明なように感じられた。
少年は僕の手を曳いて軽やかに磨きこまれた廊下を進んでゆく。
「ねえどこに行くの」
照明の落とされた暗い回廊に僕の声はとても不安気に響いたのだろうか、少年は
僕の顔を引き寄せて抱き込んだ。
「怖がらなくていいよ。静かですごい綺麗で秘密の場所があるんだ」
まるであやすように喋り、甘えるように僕の髪に指を絡ませる。
ドーナツ型水槽の内側はポッカリと空いており底にすり鉢状になっていた。
深睡する蒼が少年の持ち込んだガラス細工透過して蒼い影をちらつかせている。
「ここだよ。すごいでしょう。誰も知らない秘密の場所なんだ」
少年と僕は一緒にソーダ水を飲み、肩を寄せて視界いっぱいに広がる魚たちを眺めた。
夢の様な、本当に綺麗な光景だった。
僕はアルコールでもやってるような気分になり、少年の微笑みがまるで非道い眩暈のように感じる。
僕は少年に手を伸ばしてみる。そして確かに少年がそこにいた。何の間違いもなく存在している。
まるで変な気分だ。当たり前のことなのに。
僕は不思議な眠気に誘われて、夢の中へ、回遊する魚のように深い蒼色に落ちていった。