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ユール・イル・レ=ルーミスは、美しい男だった。
海老茶のリボンでまとめられた豪奢な金の巻き毛は、太陽にキラキラと輝きながら背に長く垂れ、春空のような薄青の瞳をもつ面差しは、甘く整っている。美々しい顔立ちにはほんの僅か、軽薄そうな雰囲気も滲んでいたが、それはかえって女性を惹きつけるだろうという、絶妙な塩梅だった。すらりとした手足は騎士らしく引き締まって余計な肉のひとつもなく、背はフェリクスとほぼ同じ。身にまとうのは第一班にのみ許されている、金糸で儀礼的な装飾の施された白の騎士服である。その上彼は家柄もよく、クラヴィス家と同格の侯爵家の長男坊なのだそうだ。つまるところ、頭の天辺から足の先まで、娘たちの夢見る「恋物語の王子様」そのものなのだった。
金の王子様と銀の騎士。若い娘たちからはそんなふうに呼ばれて、近衛隊所属騎士の中でフェリクスと人気を二分しているというが、おそらく彼の方が女性に受けが良いだろうとアウローラは思う。それほど、わかりやすく美しい男だった。
しかし。
しばらくは見惚れたアウローラだったが、すぐに、眉間に深くシワを刻んだ。
睨むアウローラの視界で、鍛錬場は奇妙なほどに静まり返っていた。激しい剣戟が雷鳴のごとく鳴り響き、場に満ちる気迫は怖いほどであるというのに、剣を合わせる二人の掛け声以外の声は、どこからも聞こえてこないのだ。静寂の中、間抜けなくらい場違いに、爽やかで心地よい夏の昼下がりを謳歌する小鳥のさえずりが響いている。
静寂の中、ザシュッという不自然な音がして、アウローラはハッと息を呑んだ。フェリクスの袖が裂けたのだ。下の皮膚に赤い筋が走る。しかしフェリクスは剣を取り落としたりはしなかった。気付いてさえいないかのように、迫った剣を押し返す。勢い良く身体が回る。右腕が唸り、剣が風を斬る。
ガキィン! という重苦しい音に反して、舞うように二人は飛び退った。痺れる腕を構え直し、しかし次の瞬間には大きく踏み込んで、砂を抉るかかとの音と同時にユールは剣を振り上げ、フェリクスは剣を振り下ろす。彼の剣はユールの胴を打ち、ユールの剣はフェリクスの頬を掠めた。どちらも倒れない。ただ、フェリクスの上気した白い頬に、じわりと赤い筋が生まれる。
——どうして模造刀で、肌が裂ける?
アウローラは目を眇める。模造刀であっても、勢いがあれば裂傷は作れるのかもしれない。だが、あんなふうにすっぱりと、刃物を当てたように切れるものなのだろうか?
しかし、アウローラのその気付きはどうやら、あまりに今更だったらしい。青年達の輪の中で、響く金属音の世界は完全に凍りついていた。痛いほどの静けさの理由が、そこにあった。
みんな、気づいているのだ。ユールの模造刀が模造刀ではないことに。
アウローラははっと息を呑んで、ふらりと立ち上がった。インゲルス小隊長がぎょっとした目を向ける隙間に、脚を踏み出し、階段を降りてゆく。踵のなるカツンカツンという音の合間に、雷鳴にも似たガツンガツンという音が大きくなる。
漂ってきた土埃がアウローラを包んだ。誰かの——おそらくはインゲルス小隊長の大きな手のひらが、アウローラの腕を掴む。
「ダメだよお嬢さん」
「でも」
「大丈夫だ、あいつは強い」
「そういう問題なのですか」
「こういうことは、フェリクスに限らず珍しいことじゃない」
「そんな」
「敵さんはルールなんか守っちゃくれねェからな」
あの程度の火の粉を払えないようじゃ上にはいけない。なんでもないことのようにインゲルス小隊長は応え、思わずの体で足を出したアウローラを止めた。
「アイツは模造刀ならほぼ確実に負けると分かっているから、己の手に馴染んだ真剣を出してきたんだろう。何も殺そうと思ってるわけじゃあねえ」
「そうして勝つことに意味があるのでしょうか」
「さあなあ」
「インゲルス様はあれを許すのですか」
「いんや、後で罰する。まあ人間の汚さも訓練の一部ってこった」
あっけらかんと言われ、アウローラは眉間に深いシワを寄せた。フェリクスのそれよりもよほど深い溝に、インゲルス小隊長が目を細める。
「……納得できませんわ」
「まあ、そうだろうなあ」
「……納得、しません、わ」
釈然としないものを抱えて、アウローラは黙り込む。理解はできるが納得はし難かった。大したものではないとはいえ、目の前の人は確かに怪我を負っていて、負わせた方は――悪鬼の如き表情で、彼を睨んでいるというのに。慣習だからと看過されて良いことなのだろうか。
かと言って、声高に訴えるほどの主張も持たず、アウローラは黙り込む。口下手なフェリクスはきっと、たとえ負けても口を噤み、何も言わないだろう。怪我をした当人が声を上げれば、それなりの動きはあるだろうに。
(だって、いくらよくあることだからって、何も言わないのはどうなのかしら。大怪我してからでは遅いのに)
この人いつか、政敵に陥れられたりするんじゃないかしら。暗殺されたりしないかしら。にわかに心配が沸き起こって、アウローラはくちびるを噛み締めた。黙ったせいで恨まれたり、掛ける言葉が足らずに憎まれたり、弁解をしないせいで濡れ衣を着せられたりしてしまう未来が、あまりに容易く想像できる。
(侯爵家の嫡男がこれで大丈夫なのかしら)
ほんのひと月ほどの付き合いだというのにアウローラには、かの青年が人付き合いを苦手としていることが薄々どころでなく見て取れている。しかして、少ない会話の中からでさえ、彼がまっすぐで歪みのない人間であり、人として――特に騎士としては、好ましかろうと思われる人間であることも感じられていた。しかし、彼は侯爵家の嫡男だ。社交や人付き合いを捨てられない立場なのだ。
(……でも、今ここで、わたしに言える言葉は、あまりない)
アウローラは喉の奥でため息を殺した。
アウローラには騎士団のことは分からない。頭に仮とつくような婚約者の身で、彼の仕事に関する口を出せようはずもない。フェリクスのように、嫡男でありながら騎士をしている人間は稀であるし、それなりの軋轢や確執があるのだろう。この程度の嫌がらせ――嫌がらせにしかアウローラには見えなかった――など、珍しくもなんともないのかもしれない。
仕事というのは、それぞれに流儀のあるものである。暗黙の了解を無視することには、門外漢には計り知れない危険が伴うことがある。歪みや闇はどこにでもあるが、それを正そうとすることが必ずしも正しいとは限らない。であるからして、最後まで関わる覚悟がないなら人の仕事に口を出してはいけないと言ったのは、18歳で父の領地経営を手伝い始めた兄だ。
アウローラは騎士団の仕事について何も知らない。そしてフェリクスの婚約者としては仮の身分である。彼の未来を共に背負う覚悟などないアウローラに、騎士団のしきたりや青年の立ち位置に関して口出しできることは、何もない。
(だから、いまわたしにできることは一つだけ――)
そのたった一つの事のために、アウローラは顔を上げる。
しかし、その瞬間。ギュイン、金属のうねる音が鳴って、白刃が宙を舞い、そして。
「えっ?」
銀の真剣が己に向かって降ってくるのを、アウローラは呆然と見上げることしかできなかった。