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さて、相手の名に傷を付けず、かつ自分の家名に泥を塗らぬように破談にするにはどうしたらよいものか。最近のフェリクスはそればかり考えている。
夜会で馬鹿なことをしでかしてから、二週間ほどが経っていた。
「どうしたフェリクス、身が入ってねえぞ」
「小隊長」
剣術の型をなぞりながら、心ここにあらずのフェリクスに、ぶらぶらと抜身の剣を振り回す物騒な男が声を掛けた。
癖の強い栗毛を短く刈りあげた、男臭い顔立ちの男である。眉は太く、彫りの深い顔立ちで、顎から頬へ刀傷があり、それはかつて、王太子が暗殺者に襲われた際の名誉の負傷だと聞いたことがある。ガタイもよく、一見すると凶悪な顔立ちだが、『ワイルドで素敵』と案外女性に人気が高いらしい、近衛隊第一小隊長だ。
子爵家の三男坊という出だが、相手や自分の出自が何であろうと部下への態度を変えない彼は、部隊員にもよく好かれている。
「お前らしくねえなあ。なんか悩みか? 女か?」
答えに窮し、フェリクスは口をつぐむ。言い逃れたり誤魔化したりすることは、フェリクスのもっとも苦手とすることのひとつだ。悩んでもいるし、女性のことでもあるが、小隊長の言うような色めいた内容ではない。さりとてどう伝えれば良いものか。
「ああそういやお前、つい最近婚約したらしいな。指輪ぶっ飛ばしたんだって?」
「はい」
「なんじゃそらって出会いだが、婚約は継続してんだろ?」
「はい」
「相手と上手く行ってねえのか? まぁお前全然遊んでねえし、女の扱いなんかさっぱりだろうけど」
顔はいいくせに堅物にも程が有るよなあ。ニヤニヤと笑う小隊長にむっとした目を向けて、フェリクスは大きく息を吐いた。
「花街に行きゃあ教えてもらえるぜ、女の扱い方。お前の顔ならツケで遊べるんじゃねえの」
「そういった事を考えているわけではありません」
きっぱりと告げ、剣を鞘に戻す。関係性に悩む以前の問題なのだ。
フェリクスは自分の暫定婚約者を思い出す。
アウローラ・エル・ラ=ポルタ。ポルタ伯爵家の長女である彼女は、緑色の大きな目が印象的な娘だ。柔らかに波打つ淡い金の髪と健康的な肢体の持ち主で、言葉数の少ないフェリクスに淡々と、しかし根気強く付き合ってくれる気の長い女性である。特別美しくはないが、目に見えた欠点もなく、分類するなら『愛らしい』に属するだろう。
本人曰くの欠点といえば、茶会の最中でも刺していたいくらいに刺繍に夢中、ということだが、会話で場をもたせる自信などこれっぽっちもないフェリクスにとってはむしろありがたい趣味である。腕も良いらしく、花の礼だと渡されたハンカチーフに施されていた刺繍は、良し悪しの分からぬフェリクスの目から見ても見事だった。しげしげと眺めていたら、母親が額装しようと言い出したので、慌てて懐にしまったくらいには。
しかし、フェリクスにとって何より幸いだったのは、彼女がフェリクスの実家やその容色に、ほとんど興味がないということだった。会いに行っても騒ぎもせず、緊張もしない彼女は、他所の令嬢たちよろしく熱狂する使用人を叱り、淡々と茶を淹れ、話を聞いて、相槌を打つ。沈黙が落ちても刺繍に集中するだけで、フェリクスを非難することもない。それがどれだけ助かるか、彼女は知るまい。
指輪がぶつかったのが、華やかでおしゃべりで媚を売るような女性――そういった女性のほうが多いことは重々承知である――だった可能性もあったのだ。もしそうだったら、酔いの戯言だと言ってとっくに破談していただろう。しかし、謝罪に訪れたフェリクスに向けられたアウローラの瞳には、困惑こそあれ、媚も歓喜もなかった。少し年下のはずの彼女の瞳は、ただただ、フェリクスの愚行をたしなめ、困った人だと苦笑いするようなものだった。
おそらくは、その瞳に縋ってしまったのだろうと思う。気がつけばフェリクスは、もうしばらく婚約しておいて欲しいと、彼女に告げてしまっていた。
真に誠実に対応するならば、翌朝の時点で破談にするべきだったのかもしれない。だが、相手には何の否もないというのに、こちらから一方的に破談にすれば、彼女を侮辱することになるのではないかと、とっさにフェリクスは考えたのだ。あまりに早くに破談になれば、彼女はクラヴィス侯爵家に縁組するほどの人物ではないのだというレッテルが貼られてしまうだろう。それはあまりに申し訳ないと、心の底から思ったのである。
彼女が何を思ったのかは分からなかったが、婚約の継続を了承したアウローラはフェリクスの目に、救いの手を差し伸べる女神のように見えた。そして今フェリクスは、おそらくはひとときだが、縁談の類から開放されて、短い自由を謳歌している。
彼女には、非常に感謝している。だからこそ、相手には何一つ傷の付かない形で、上手く破談を申し出なければならないと考えているのだが、どうすればいいかさっぱりわからない。自分に傷がつくのは構わないのだが、家名には傷を付けられないから、余計に難しいのだ。
しかしそんなこと考えているなどと、小隊長に相談するわけにもいかない。姉や母など論外だ。お前が自力で嫁を見つけられるわけがないのだから、政略結婚をしたいのでなければ絶対逃すなとさえ言われている。
沈鬱な表情で黙りこくってしまったフェリクスに、小隊長が呆れたように肩をすくめる。
「何を悩んでんのか知らんがな、男女関係はまず話し合いだ。俺が嫁と婚約してた間には、そりゃあ何度も喧嘩をしたが、その度に話し合いでなんとか誤魔化してきた!」
青紫の瞳を眇め、フェリクスはぼそりと呟く。
「小隊長の場合はほとんど浮気が原因だったのではありませんでしたか」
「違っ……じゃねえ、誰に聞いた、それ」
「第二小隊長殿です」
「あんにゃろ……」
次の小隊対抗戦の時に全力でぶちのめす。物騒な事をぼやく上司に呆れの息をついて、フェリクスは頭を下げた。この人を参考にしてはいけない。
「雑念を払ってきます」
「……おう、誰かに打ち合いでもしてもらえ」
「はい」
踵を返す青年の背に、上司はぽつりとつぶやいた。
「……あれも一種の『出会い』だろうに、何悩んでんだかなあ」
*
「はぁ? 相手の名前を傷つけない別れ方ァ?」
カキン、高く澄んだ剣戟の音を響かせながら、相手はそう言った。短く刈り込まれた紅茶色の髪が汗と太陽できらめいている。
「はい」
「なんでそれをオレに聞くんだ」
視力が良すぎるがゆえに掛けているらしい眼鏡の奥の鳶色の瞳が、不穏に細められる。踏み込まれ、振り下ろされた剣を鍔で受け止め、力任せに跳ね返し、1本に編んだ銀の髪をなびかせながら、フェリクスは答えた。
「副隊長なら解決できそうだと殿下が仰ったので」
「よーしあいつ後で潰す」
近衛隊副隊長のセンテンス・イル・レ=アウクシリアは王太子の乳兄弟で、若干25歳の若さで副隊長を務めている、腕の立つ魔法騎士である。
「ご経験があるのですか」
跳ね返されたセンテンスは大地に踵で己を縫い止め、反転して飛び上がり斬りかかった。袈裟懸けに落ちてくる剣を辛うじて受け止め、力を流すように右に身を返せば、追撃が襲いかかる。刃は潰してあるが、当たれば皮膚は裂け、骨は砕けるだろうと容易に想像ができた。
センテンスは強い。王太子がまだただの王子であり、第一王女との権力争いの中で日々暗殺者に狙われていた頃、たった一人で彼の護衛をしていた時期さえあるという。そのせいか、彼の剣は型や美しさなどを無視し、守るべき人を何としても逃がすための、実践的で時に汚い『負けない』剣だ。
「あるというか……」
ギン、と剣が鳴った。剣圧に引きずられ、つま先が大地を抉る。互いにバッと後退し、今度はフェリクスが飛び上がった。彼の持ち味は身の軽さとスピード、そして動体視力である。
高所から鋭い突きを繰り出せば、副隊長が舌打ちをして左にずれた。一瞬の隙。そこを見計らって二度目の突きを仕掛けたが——ガツン、大きな音を立て、吹き飛ばされたのはフェリクスの剣だった。
「勝負あったな」
「……相変わらずお強い」
フェリクスより一回り体格のいいセンテンスの、重く正確無比な迎撃に、フェリクスは感嘆の声を上げる他ない。吹き飛んでいた剣はくるくると宙を舞い、落ちて大地に突き刺さった。
身が焦げるような悔しさはあるが、今の技量では敵わないことは、自分がいちばん分かっている。経験も技術も、まだまだ足りない。
「ありがとうございました」
「まあでも、お前、だいぶ強くなったなあ」
深く頭を下げたフェリクスの前に立ち、剣を鞘に押し込んで、センテンスは眼鏡の奥を今度は柔らかく細めた。
「入隊直後はやったら綺麗な儀礼みたいな型で、実戦には出せないだろうと思ったもんだが」
俺と打ち合えるようになるとはねえ。しみじみ言われ、フェリクスは再び頭を垂れる。
「副隊長や小隊長のご指導のお陰です」
「相変わらず真面目だなあ。第一班の筆頭候補だったくせに、『儀礼的な剣でなく実践に耐えうる剣技がほしい』とか言って第四班志望された時のオレらの驚きときたらもう」
「顔と身分だけで第一班に所属させられたくはありませんでしたので」
「顔と身分で選ばれるのが第一班だっての。まあ、確かにお前、あそこは向いてないだろうけど」
にやにやというセンテンスにフェリクスは閉口する。懐のハンカチーフを取り出して、誤魔化すように汗を拭った。
フェリクスの所属する第一小隊第四班は、魔法騎士のみが所属する班である。現在の班長はフェリクスで、それは、第一小隊の魔法剣士の中でもっとも魔法の技術が高い者が、彼であるという証でもあった。
そして話題の第一班は、儀式と社交の際に王太子に侍る、見目と家柄と儀礼剣を何よりも重視した、『儀礼』と『式典』を受け持つ、実に華麗な班なのだった。自然、美しいが気位が高いという、扱いづらい班になる。侯爵家の嫡男であり、幼い頃から美貌で知られ、士官学校の剣舞や儀礼剣の授業で好成績を修めていたフェリクスは、誰がどう見ても第一班向けの人材だったので、彼が第四班を率いるようになった時は世間をそれなりに騒がせた。1年ほど前の話である。
「お前の魔法は……あいつを除けば団長に次ぐし、実戦力になる班に居てもらえるのは助かる。ま、結果オーライだな」
「光栄です」
剣を拭って鞘に収め、フェリクスはまた頭を垂れた。銀の髪が風に揺れ、キラキラとたなびく。
「ところで副隊長」
「なんだ?」
「先程の話ですが」
「……ぐッ」
上手いこと逸らしたつもりだったのに。舌打ちしたセンテンスに、フェリクスは顔をしかめる。
一刻ほど前。フェリクスは、誰か打ち合いの相手をして欲しいと、休憩所にいた騎士たちに声をかけた。すると、視察に訪れていた王太子の、従者を務めていた副隊長が手を上げたのだが、その際に王太子がちょっと笑って、『キミの悩みはきっとこいつが解消できる』とフェリクスだけに聞こえるように耳打ちしたのである。
「相手の名を貶めずに別れるとかなあ……誰が見ても決裂したとわかるぐらいの大喧嘩するとか、お前が浮気するとか、お前が大怪我とか大病して結婚どころじゃなくなるとか、お前の側からじゃ断れねえような規模の縁談がくるとか、まぁそんな感じで幾つもあるだろうが……」
「副隊長はそういった経験がお有りなのですか?」
「……1つ目だけな!! 2つ目はないからな!! それにオレは復縁したからな!!」
何故か必死のセンテンスに、そうですかと淡々と応え、確かにそれらは自分の性格では難しそうだと、フェリクスは息を吐いた。
「つまり、半年くらい婚約して時間を稼ぎ、最終的に大喧嘩して『性格の不一致』といって彼女から振ってもらえばいいということだな。政略婚約ではないのだから、男女のことなら仕方ないと周囲も生温かく見てくれるだろう」
「殿下」
いつのまにやらセンテンスの後ろに立っていたのは、精悍な顔立ちの王太子だった。墨でも流したような黒髪に、王家特有の深い紫の瞳の美丈夫である。
慌てて膝をついて頭を垂れ、騎士の礼をとったフェリクスを手ずから引き起こし、王太子はにこにこ、いや、にやにやと乳兄弟の肩を叩いた。
「今は『非公式』だ。そんな礼は要らない。フェリクス、この手のことはテンスが大ベテランだぞ。人生の大先輩だ」
「おいお前こいつに何吹き込みやがった!」
「テンスは女性からの振られ方を熟知しているだろう?」
爽やかな笑みを浮かべる王太子に向かい、『うるせえ!』と彼でなければ不敬罪で訴えられそうな言葉を繰り出したセンテンスに、フェリクスは口を閉ざした。兄弟のように育ったという王太子とセンテンスのやりとりは、『王太子漫才』といういささか不敬な呼び名の王宮名物である。王太子と歳が近いからと、それなりに親しく育てられたはずのフェリクスだが、彼では十年かかろうとも到達できない域のコミュニケーションだ。
「オレはいいんだよオレは!」
「大喧嘩の末に『やはり性格が合わない』などと言われて同じ女性に三回振られる経験は、お前以外にはなかなか無いだろう。フェリクス、こいつは振られる達人なんだ。女性の側から別れてもらうにはこいつを参考にすればいい」
「四回復縁してんだからいいんだよ!」
「そろそろ四回目の離別を迎えそうだと俺は踏んでいる」
「ホント黙ってくれ頼む」
「かわいい弟分に幸せになって欲しいだろう? 同じ轍を踏まないようにアドバイスしてやれ」
「お願いします黙って下さい」
王太子は、がっくりと項垂れる副隊長の背中をバシバシとたたき、フェリクスを見てにっこり微笑んだ。
「まあ俺は、君はそのまま結婚してしまってもいいと思うが」
良さそうなお相手なんだろう? 王太子の笑みにフェリクスの眉が釣り上がる。基本的に王宮から出ないこの人は、一体どこで噂を聞くのだろう。
「だってフェリクス、指輪が選んだんだろう? 君の婚約者を」
微笑みが深められ、フェリクスは思わず、眉根を寄せた。
「そうですが……」
「自分が『魔術師』でもあることを忘れてはいけないな」
「忘れては、いませんが……」
どういう意味だ、と首をかしげたフェリクスに、王太子は肩をすくめた。騎士と魔術師を兼任するからこその魔法騎士だ。魔術師であることを忘れたことなど片時もないが、王太子の意図するところが分からない。
「まあ、古風な術だから仕方ないか。……ところでフェリクス、そのハンカチーフは誰にもらったものだ? なかなかいい感じの魔力がにじみ出ているが、君の魔力じゃないな」
急に変わった話題に、フェリクスはただ、目を見開いた。
長男だけど末っ子気質なのはお姉さまのせい。