46
響いたのは、聞き慣れた、低く通る声だった。
切迫したその声が響いた刹那、アウローラは思い切り、背中から引き倒された。
「ひゃあ?!」
荒っぽい動きに驚いて、アウローラは悲鳴を上げる。引かれた体は背中から、固く熱いものの上にドサリと落ちた。それと同時にゴツンと後頭部を何かにぶつけて、ぐわんと頭が揺れ、目尻にじわっと涙がにじむ。
「う、うう……」
喉の奥で呻けば、大きく硬い誰かの手が、そこをゆっくりと撫でた。一度、二度、三度。何度も何度も、優しく撫でられて、ひと撫で毎に傷みが遠のく。
その仕草に妙に安堵して、アウローラは息をつくと、そろそろと目を開く。胸元に引き寄せていた手のひらをそっと開けば、金の指輪はちんまりと収まっていた。
「ああ! よ、よかった……!」
「何がいいものか!」
指輪を左手に戻そうとしたアウローラのの震える指は、低く鋭い声とともに、骨ばった熱い指に囚われた。
「下に落ちれば大怪我、一歩間違えば死んでいたかもしれないんだぞ……!」
覚えのある音が、アウローラの耳元で低く響く。いつもなめらかで控えめな声はひどく掠れ、震ていた。慌てて振り返ったアウローラの視界に、見慣れた紺地の銀刺繍が広がる。反対側の手はいつしか背に回り、アウローラは厚い胸にぐっと押し付けられる形になった。ふんわりと、石鹸のような爽やかな香りが鼻腔を突く。
「フェリクス、様……?」
声も、抱きしめてくる体温も、その香りも。すべてはアウローラが今、探し求めていたそれと寸分違わず。これは夢? とぽかんとつぶやいたアウローラに、フェリクスは眉間をぎゅうと寄せた。
「なぜ、身投げなど? 俺に口説かれるのは、そんなに……そんなに嫌だったのか?!」
「え、ええっ?!」
「ならばそう言ってもらえれば……! 潔く身を引けたかは分からないし、二度とこの手を取れないことは身を引き裂かれそうに辛いが、それでも!」
指輪ごと握られたままの手に力が加わる。その圧力に骨がきしんで、アウローラは眉間を寄せ、ぐっと顔をもたげた。夏の深緑にも似た緑の瞳と、貴重な宝石のような青紫の瞳が交錯する。
常以上に無表情に見える端正な顔の中、彼の瞳は非難の色に染まっていたが、そこには掛け値なしの心配と悲哀も滲んでいた。
「……貴女を永遠に失う方がよほど恐ろしいッ!」
喉が裂け、血が滲みそうな掠れた声色で、フェリクスが小さく叫んだ。
「そんなくらいならば、俺は……!」
「……って、あの! フェリクス様! 違います! 飛び降りようとしたわけではありません!」
揺れる瞳に呑まれかけていたアウローラは我にかえり、慌てて答えた。とんでもない勘違いである。
「その、ゆ、指輪を坂道で落としてしまって……。そしたら、裏路地へと転がっていって、この崖から落ちそうになったんです。それで、慌てて手を伸ばしたら、わたくしまで、落ちそうになって……」
「……なぜ、一人で外出を? それに、下に指輪が落ちたとしても、あとから捜索させればいいだけだろう。自分で追いかけるなど、どうしてそんな無茶をした?」
叱られた体になったアウローラは、気まずそうに視線を外した。フェリクスの言うことはもっともなのだ。伯爵家のご令嬢が伴も付けずに徘徊するなど以ての外。誰か連れているなら、代わりに拾ってもらうこともできた。階段から落ちていったとしても下で拾えば良いのだし、見当たらなかったとしても、民家の裏庭を捜索させる程度の権力はアウローラにもある。
「……一人で歩いていたのは、フェリクス様を一刻も早く、見つけたかったからで。焦って追いかけたのは、落としたのが、指輪だったからです。……その、どうしても失くしたく、なくて、ですね」
ぼそぼそと言い訳をして、アウローラはうつむく。
「使用人を利用したほうが、早く見つかるだろう」
「それはまあ、そう、なのですけど。わたしが、フェリクス様を、見つけたくて……」
「……私を?」
フェリクスは不思議そうに、己の膝の上でうつむいたままのアウローラを覗きこむ。
「何かあったのか? 貴女が私を探しに血相を変えて飛び出していったとポルタ殿に聞いたので、私も探していたのだが」
アウローラに回されていたフェリクスの腕の力が増した。ひどく心配させたようだと分かるのに、まっすぐとその感情が己に向けられていることが嬉しく、アウローラは自由になる方の指で、フェリクスの服をキュッとつまんだ。
「……あの、わたくしどうしても、お話したいことがありまして。それで、昼から、ずっと、ずーっとお探ししていましたの」
「それ……は、心を決めた、という、ことか?」
「え、ええ、そう、ですね。決めました」
瞬間、フェリクスが無表情のまま、凍りついた。冬の精霊でもこれほど冷たく固まりはしないだろうと言うほどに。けれど、それに気がつかないアウローラは顔を上げ、深く、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出して、心を決める。
「……でも、それをお伝えする前に、お聞きしたいことがあるのです。フェリクス様はどうして、仮の婚約者のわたくしを、引きとめようとしてくださっているのですか?」
言葉の末尾は震えていた。
理由はもちろん分かっている。婚約の継続を決めたのは、婚約者を持つことに、ふたりとも恩恵があったからだ。周囲にうるさく言われることもなくなるし、結婚相手を探すべく夜会に出なくとも済み、親の持ってくる縁談をかわすこともできる。仮の婚約は、女性と社交が苦手でそれらの煩わしさから解放されたいフェリクスと、刺繍を刺す時間をできるだけ長く取りたいと思っていたアウローラ、どちらにとっても『良いアイディア』だったのだ。
『塔』へ入れば、アウローラはその環境を維持できるが、フェリクスはまた、縁談にまみれた日々へと戻るのだろう。それを厭う彼の気持ちはアウローラにも分かる。
「……もちろん、わたくしにも、婚約しておくことが便利だからというのは分かっています、でも」
「――違う」
でも、それだけなのなら、あまりにもさびしくて。
そう続けたくて話し出した声は、強い断定の声にかき消された。指輪を握りしめる小さな手を掴んだままの手を解き、フェリクスは両の腕の腕をアウローラの背に回した。
「…………まさか、これほどまでに伝わっていないとは」
深い、深い溜息が、アウローラの耳元でそよいだ。びくりと震えたアウローラの肩に、フェリクスの顎が乗って、ずしりと重みが加わる。少しばかり痛むほどだ。
「あ、の、フェリクス、様、重……」
「……確かに、最初はそのような気持ちもあった」
フェリクスの声は相変わらず掠れていた。彼は絞りだすように、言葉を紡ぐ。
「始めの時に言ったように、貴女との婚約は縁談を避けるのに非常に効果的だった。伯爵家、それも辺境伯家の娘なら、侯爵家に嫁いでもおかしくないし、派閥も同じで、どちらも武家だ。家格と年齢を見れば、誰もが納得した」
アウローラもこくりと頷く。
組み合わせは妥当なもので、敢えて問題を上げるならば男性が絶世の美貌であるのに対し、女性がごく普通の令嬢であるということくらいだ。反対する者があるとすれば、彼に恋慕していた女性陣か、侯爵家に縁付きたかった家の者くらいである。障害はほぼないと言っていい。
「実際、降るほどあった縁談も減り、夜会への参加も強制されなくなったし、取り囲む娘たちも減った。こんなに助かることはないと、本気で思っていた。……だが」
らしからぬ長文を吐き出したフェリクスは、浅く息をついて一度言葉を切る。続く言葉を待ち構え、アウローラはごくりと喉を鳴らした。
「今はもう、それだけではない」
フェリクスの目が、柔らかに細められる。至高の宝玉よりもとろりと艶めく青紫色の瞳は、熟れた果実のような甘みを滲ませた。初めて見るその面差しを正面から受け止めきれず、アウローラはぱっと頬に朱を散らして目を逸らす。体温が上がり、氷のような雰囲気の人の上にいるというのに、体全体が燃え上がったような気がしてくる。
(め、目の毒だわ……っ)
「……アウローラ嬢」
逸らすなと、彼は言わなかった。けれど、剣技用の厚い手袋に覆われた指がアウローラの頬に添えられ、こちらを向いてと言わんばかりの優しい仕草で、顔の向きを変えられる。こつんと額と額が合わさり、アウローラはあわあわして、けれど身動き一つできなかった。
「あ、あ、あのっ」
「その時は、情けなくも気づかなかった。でも、今なら分かる。ポルタ家の茶会で私の情けない沈黙を、貴女が気にせずに受け止めてくれた頃にはもう、私は、貴女を『仮初の婚約者』以上の存在と見ていた。――手放したくない、得難い人だと」
言葉もなく唇を震わせるアウローラに、フェリクスは畳み掛け、回した腕へと力をこめた。
部屋着でコルセットもないアウローラの身体は、ほとんど押し潰されるようになった。距離がぐっと近づき香りさえ交わって、二人の間にあるのが服だけになる。今や、風すら抜ける隙間もない。二人を包むようにふわりと吹いた風は、アウローラの長い結わぬままの髪を揺らす。
「女々しいと笑われた趣味の話にも、貴女は笑わなかった。怪我をすれば、心底心配してくれた。比喩や謙遜でなく社交の苦手な私が、夜会であれほどまでに情けない醜態を晒しても支えてくれた。まともにエスコートの一つもできない私と出かけても、楽しそうにしていてくれた。同じ景色を、美しいと思ってくれた」
蕩けた瞳を見上げ、アウローラはぼんやりと、浅い息をつく。そんな些細な事が彼の心を動かしていたなんて、正直信じられない。夢のようだとすら思う。
「――そんなことが重なれば、貴女を想わずにいることなど、できるはずもない。だから、私が貴女を引き止めるのは……ただ、あなたを手放したくないからだ。殿下との謁見のあとに、貴女に伝えようと思っていたのは、このことだった」
フェリクスはひとつ、深い息をついた。アウローラの前で、彼の胸が大きく膨らむ。
「……どうか、『塔』を選ばないでくれ。私を、選んでくれないか」
きっぱりと告げられた言葉に、初夏の森の色をした瞳が水を湛える。アウローラは滲む視界を懸命にこらえ、己の下敷きになっている男の胸元へと飛びついた。思い切り腕を回してしがみついて、慌てたように呼ばわる声と、降り注ぐ困惑の眼差しに気がつかないふりをする。頬を胸元に当てれば、どきんどきんと速い心音が耳を打った。
「わた、わたしが、お伝えしたかったのも、同じ、同じ事でした。『塔』は、とても魅力的です。――わたしは、刺繍が、大好きで大好きで」
「……そうだな」
しみじみと呟くように相槌を打たれ、アウローラは少しばかり恥じらう。確かに、彼の前では何一つ隠すことなく、刺繍を堪能してきたのだから、そう言われてしまうのは仕方がない。
こほん、アウローラは小さく喉を鳴らして、言葉を続けた。
「……幼い、頃は。日が昇ってから沈むまで、ずっと刺繍を刺していたいと願っていて。貴族の娘が刺繍職人になるのは難しいと聞いて落ち込むほどでした。……だけど」
アウローラは一度言葉を切って、大きく息を吸った。喉が震えて声はかすれ、発火しそうに全身が熱い。きっと、顔は真っ赤になっていることだろう。それどころか、耳まで赤いに違いない。
「生まれて初めて、わたしは今回、『刺繍か貴方か』で、迷ったのです。初めて、『刺繍を一番に』選ばなかった――選べなかった」
目の前のフェリクスの喉が上下するのを見つめながら、アウローラは声を絞りだす。
「それに気づいて、やっと、わたしは決めました。……フェリクス様を、探していたのは、一刻も早く、伝えたかったからです」
「アウローラ嬢……」
「『塔』を選ばなかったら、もう少し……お側にいても、いいですか、って」
アウローラにとっては、決死の覚悟で告げた言葉だ。けれど、その場に落ちたのは沈黙だった。
「……だめ、でしょうか?」
ダメだと言われても叫ぶまい、重いと思われても泣くまい。そう思いながら、ぐっと唇を噛み締めたアウローラに、フェリクスは、ひどく不思議そうな顔をした。なぜ今更そんなことを聞かれるのかさっぱりわからない、といった風情だ。
彼はしばらく黙り込み、アウローラにとっては胃の痛くなるような沈黙の中で、眉間にしわを寄せて考え込んでいたが、不意に合点がいったのか、すっきりした表情を浮かべた。
「そうか」
フェリクスは反対の手で、アウローラの膝の上に転がる指輪を拾い上げると、アウローラの左手をそっともたげて、手の甲へと唇を落とす。
そして、触れたやわらかな感触に驚いて身動きひとつできずにいるアウローラの、細い薬指へと指輪をはめて、誰も見たことのないような晴れやかな笑みを浮かべた。
「私はまだ、貴女に伝えたことがなかったんだな」
厚く大きな右の手のひらが、アウローラの柔らかな頬に再び伸ばされる。
「貴女が好きだ、アウローラ」
そしてゆっくりと、薄い唇を、アウローラのそれに重ねた。
言うの忘れてたって言うオチ。
やったね初恋!
次回が最終話の予定です。




