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「ろろろろろろろろろろろローラお前いいいいい一体何したの!?」

「あら兄さま、身体はもういいの?」

「よくない全然よくないまだ熱は下がってないでもお前一体何してあんな人釣り上げたの!」

「慈善事業よ」


 慌ただしい朝を払拭すべく、精神統一と称して刺繍に励んでいたアウローラのもとに、アウローラそっくりの青年がまろぶように駆け込んできたのは、ちょうどお昼時だった。

 アウローラと全く同じ、卵で作るクリームのようなふんわりした淡い金色の髪と、一門のものに多い深い緑の瞳。二十歳を過ぎて随分経つのに、どこか女性的な面差しのせいで、一瞬姉妹に見えるほど、アウローラにそっくりな兄である。背が低い訳ではないのにちっとも男らしさを感じないのは何故かしら。親しみやすいかもしれないけど。

 そう考えながらアウローラは、今朝方婚約者になったばかりの男の姿を思い出した。氷のような美貌の彼は男くさくはなかったが、騎士として不自然ではない程度の体つきをしていた。そのあたりも、近寄りがたさの一因であろうか。


「……慈善事業って」


 がっくりと、長椅子の上で刺繍から目を離さないアウローラの前に膝をついた兄の頬は赤い。確かにまだ体調は良くないのだろうと冷静に判断しながら、アウローラはことりと首をかしげて見せた。


「突然どうしたの、兄さま」

「熱に浮かされつつ目を覚ましたら突然『アウローラ様のご婚約おめでとうございます、こちらに侯爵家からの書簡が』とか使用人一同に頭を下げられた兄の驚きとしては大分冷静な方だと思うけどね」

「熱による幻聴かと思うのが普通でしょうね」

「夢だと判断して二度寝しようとしたのを止められたところだよ」


 けほん、小さく咳がひとつ。


「昨晩お前をひとりで行かせる事になってしまったのは申し訳なかったと思っているけれどね、まさか侯爵家の嫡男を引っ掛けて帰ってくるとは思わないだろう。ウチは伯爵家と言っても家格は中の下といったところだし、何よりお前、今までに浮いた話ゼロだし」


 アウローラは顔をしかめてみせた。

 正式な婚約の書状は、今朝、フェリクス本人によって、ポルタ家――アウローラの家名である――のタウンハウスにもたらされた。しかし、諸事情あって領土にとどまっている両親の代わりに、ポルタ家の責任者として書状を受け取るべき兄はしっかり寝込んでいたため、受け取ったのはアウローラ本人だった上に、『兄さまが起きたら渡しておいて』なんて雑な扱いをしたせいで、随分と驚かせてしまったらしい。


「浮いた話は刺繍を刺す時間を削るでしょ」

「相変わらずだな」


 頬は赤いが顔は青い。典型的な病人の顔つきで、青年はずるずると椅子に這い上がる。


「……しかしお前、ちっとも浮かれていないね」

「慈善事業ですし」

「近衛隊のフェリクス様、と言ったら都中の女の子たちの憧れの的のはずなんだけどねえ」


 なにせあの顔立ちと家柄だもの。苦笑を浮かべる兄にアウローラも頷いてみせる。


「まあ、有名人だとは思うわよ」

「お前が名を覚えているだけでも相当だなとは思うよ。……しかし、慈善事業ってなんなの」

「女難の相が出てらしたので、ちょっと人助けとして風よけになって差し上げようかと」

「うん?」

「クラヴィス様のお申し出は、まぁちょっと色々と事情込みだったの。ああ、大丈夫よお兄さま、あっちの事情は理解した上でお申し出を受け入れたのはわたしだし、無理強いはされてないから」

「……ひょっとして、虫除け?」


 顔をしかめた兄に、アウローラは瞳を丸くして、まあ、と喜色の滲んだ声を上げた。


「さすが兄さま。『学園』の卒業生なだけのことはあるわね。頭の回転が早くて助かるわ。そう、わたしとクラヴィス様、双方にとってのそれなりに効力のある虫除けです」


 国内最高学府の名を上げて兄を褒めそやしてから、アウローラは言い切った。

 今朝の時点では、フェリクスの風よけになってやってもいいかと思っただけだったが、これはひょっとして、自分にとっても幸運な話ではないか、と思いついたのである。

 そうつまり、この婚約はアウローラにとっても、これ以上ない『虫除け』になるはずなのだ。


「お前、それでいいのかい」

「女性不信にはなりたくないクラヴィス様と、なるたけ刺繍に没頭していたいわたしとの利害は一致してるのよ、完璧でしょ」


 彼女は兄とそっくりの緑の瞳をにこりと細めて、満足気に笑った。

 アウローラは兄いわく、『刺繍狂い』だ。貴族の令嬢がたしなみとして刺繍に親しむ、というレベルではなく、日々を刺繍に費やしている。

 日常の暇つぶしは常に刺繍で、ちょっとした空き時間や待ち時間、夕食後の団欒の時間も寝る前のひとときも、大抵刺繍を刺している。何故にそんな趣味に目覚めてしまったのかはアウローラ自身も覚えていないが、物心ついた時には母親とともに刺していて、一番最初の図案は自分のイニシアルだった。それから幼少期の将来の夢は『刺繍職人』となり、身分からそれが難しいと理解したあとは『神殿に入り、神に刺繍を捧げて暮らす』に変わった。

 しかしアウローラももう、18歳である。未婚の貴族女性としては、まさに適齢期ど真ん中だ。職人だ巫女だと言っているわけにはいかないのだと、いい加減にわかっている。今まで浮いた話のひとつもないアウローラといえども、そろそろ相手を見つけてくるか、父もしくは兄の持ってくる縁談や見合いに取り組まねばならないのだ。事実今年のシーズンが始まってから、3回ほど見合いがあった。


(でも、お見合いって、丸一日が潰れちゃうから嫌なのよね)


 しかし、婚約していれば見合いなど不要だ。縁を求めて茶会や夜会に出る必要もない。つまりだ。その分の時間を刺繍に当てる事ができるではないか!


「まあ、お前がいいなら構わないけれど。……アウローラ、クラヴィス侯爵家からの申し入れをお断りするのは難しいけれど、やっぱり嫌だとなったらちゃんと言うんだよ」


 怠いであろう身体の不調を隠そうともせずに弱々しい笑みを見せた兄に、アウローラは力強く頷いてみせる。


「大丈夫よ兄さま。嫌だと言われるなら多分あちらからでしょ」

「……うん、まあ、どっちかって言うと、そうだろうね」

「それに、お召し物の刺繍がどこの工房のものか調べてくださるそうだし」

「…………あんまり早く破談にされると流石に外聞が悪いからね? 気をつけようねローラ?」





「アウローラ・エル・ラ=ポルタ嬢?」


 ふらふらと兄が寝室に戻ったところで、アウローラに二人目の来客があった。

 またしても刺繍が中断されてしまったと顔をしかめつつ、出迎えたアウローラの前に現れたのは、まばゆい白金の巻き毛に艶やかな青い瞳の、とてつもなく華やかな美女だった。その切れ長の瞳、鼻筋や眉根のくぼみなどに、『彼』を連想させる要素が散りばめられているがために、彼女が誰なのかはすぐに分かった。

 侍女と使用人が慌てて部屋を出て行くのを横目に、アウローラは社交的な笑みを浮かべる。彼女のドレスの素晴らしい刺繍に心奪われたのだ。


「はい、わたくしがアウローラです」


 空色の訪問着は彼女の容貌からすれば地味なのだろうが、胸元や袖口の白糸と銀糸による刺繍は緻密であり、周囲に縫い付けられた細かなビーズがきらきらと、朝日を浴びる小川のせせらぎのようなきらめきを見せていた。さすが、社交界のファッションリーダー。流行の創造者はセンスが違う。


「昨晩お会いしましたね。わたくしはルナ・マーレ・クラヴィス・エル・ラ=ラエトゥス。愚弟が――フェリクスが迷惑をかけましたね、ポルタ嬢」


 アウローラが刺繍を食い入るように見つめていることには気が付かず、ルナ・マーレは優美に扇子を広げて目を伏せた。

 鈴を振るような声、とはこういうことかとアウローラは納得した。ただ名を告げ、謝罪を口にしただけだというのに、天上の音楽が鳴り響くような気配が漂ったのだ。

 アウローラがぽかんとしていると、ラエトゥス公爵家の若奥様は、弟とは真逆の雰囲気の美貌を輝かせ、女神のように微笑んだ。


「あの真面目さと顔だけがとりえの弟が、あんな馬鹿なことをするとはさすがのわたくしも思いませんでした。本当にごめんなさいね」

「謝罪でしたら、今朝、クラヴィス様から頂きましたので大丈夫です、ルナ・マーレ様」

「お父様から? それとも愚弟から?」

「……フェリクス様からです」

「そうですか。まだ来ていないとしたら後ほど平手打ちにしようかと思いましたが、今朝来たというならぎりぎり及第点ですわね」

「……非常に潔い謝罪をいただきましたので」


 後頭部と背中しか見えないような全力の土下座を思い出し、アウローラは目を遠くした。

 そして思う。……女性不信ではないと言っていたが、苦手なようではあったその一因はこの方にあるのではなかろうかと。あの、恥も外聞もかなぐり捨てた土下座を彼に仕込んだのは、この姉君かもしれないぞと。

 二言三言のこの会話から、そんな印象を抱きたくなるほど、目の前の女性は苛烈な性格を、瞳の奥に滲ませていた。あの方が氷の騎士なら、この方は炎の姫君だったのではなかろうか。そんな風情の姉弟が並べば、さぞかし絵になる光景であったことだろう。本人たちの内心はさておくとして。


「それでもその指輪を外さずにいてくださっているということは、そういうことだと判断してよろしいのかしら?」


 ルナ・マーレの瞳が、王冠を守る巨大な宝石のように、ぎらぎらときらめく。少々怖気づきながら、アウローラは頷いた。


「あのお話でしたら、正式にお受けいたしました」


 事実だけを述べる音で、アウローラが返したその途端、ルナ・マーレは彫像のように固まった。瞳は海のように色を深くし、形の良い薔薇色の口唇は、蝋燭の炎のように震えている。


「まあ」


 ぱたり、ルナ・マーレの手から扇子が落ちる。


「まああ!」


 彼女はその可憐な足取りのどこにそんなエネルギーが、と思うようなスピードでアウローラに向かい、唖然とする彼女の手を、雄々しく握りしめた。淑女らしからぬ握力に、アウローラが驚いていると、彼女はそのまま縋るように、アウローラとの距離を詰めた。


「まあまあ! ほんとう? ほんとうに?」

「え、ええ。今のところはそのつもりでおります。お返事の書簡は、兄の体調が戻ってからになりますが……」

「まあああ! あの馬鹿を見捨てないでやってくださると!?」

「ええ、と、あの、わたくしにはもったいないようなお話ですし……フェリクス様には害があるかもしれませんが、ご矜侍その他諸々はとりあえずお守りできるかと存じますし……」

「愚弟よくやった!!」


 女神の如き美女の口から、男らしいとさえ言える叫びがほとばしり、アウローラは絶句しつつ、正しく悟った。

 フェリクス・イル・レ=クラヴィスの『女難の相』の発端は、間違いなくこの美女であると。





「君がアウローラか?」

「……どちら様?」


 三人目の来客があった時、アウローラは最早、苛立ちを隠さなかった。なにせ今日は、刺繍がほとんど進んでいない。そればかりかこの客人は、まさかの窓からやってきたのである。

 屋敷にはそれなりに護衛がいたはずなのに、とアウローラが顔をしかめれば、青年は肩をすくめ、『正道をこなかったから申し訳ないね』などと言って笑った。


「……貴方も、クラヴィス様がらみのお客様でしょうか?」

「エーリクと呼んでくれ。そう、俺は君の婚約者の知人だ。護衛を呼ばないでくれて感謝するよ」


 エーリクと名乗ったのは、珍しいほど黒々と、夜のように艶めく髪を持つ青年だった。髪と同じ、闇色のばさばさとした衣服をまとっている。魔術師がよく身につけている、ローブと呼ばれる衣類だ。


「魔術師様でいらっしゃる?」

「宮廷のね」


 彼は飄々と微笑んで、アウローラの部屋のバルコニーの手すりに腰をおろしていた。頬杖なんかついている。


「魔術師であっても、窓からいらっしゃるのはいかがなものかと思うのですけれど」

「門から入れない事情があってね」

「……何の御用でしょうか」

「指輪が選んだ花嫁を見てみたかったのさ」


 アウローラは眉根を寄せた。この青年は昨日の夜会にいたのだろうか。それとも、噂は既に千里を駆けているのか。――後者かな、とアウローラは思った。あんな事件、当事者でなければアウローラだって面白がっていたに違いないのだから。


「指輪が選んだとあいつは言ったのだろう?」

「ええ、そうお伺いしましたけれど……」

「指輪、見せてもらえる?」


 きょとんとアウローラは目を見開く。エーリクはアウローラのひだりの手を取り、その指に嵌められた金の指輪を指でなぞった。

 いつの間に距離を詰められていたのか。ぎょっとして手を引こうとしたアウローラに、青年は猫のように目を細めた。


「いい指輪だ。文字通り、『指輪が君を選んだ』のだろうね」

「あの……?」

「俺は君をよく知らないが、これから言う言葉に違いがあったら言って欲しい」


 青年は真面目な顔をした。唐突な言葉についていけないまま、アウローラは仕方なしに頷く。それを見届けて、エーリクはまるで尋問するように、矢継ぎ早に口を開いた。


「君には昨日の夜まで、夫も、婚約者も、恋人も、好いている男もいなかった」

「はい」

「縁談も来ていなかった」

「はい」

「君は女性で、フェリクス・イル・レ=クラヴィスと、5歳と離れていない」

「クラヴィス様が21歳というのが嘘でなければ、その通りです」

「君の家格はクラヴィス家に嫁ぐのに、無茶というほど低い地位ではない」

「そうですね。一昔前なら無理でしたでしょうが」

「政治的に対立している家でもないね?」

「昨夜の様子を見るに、そうだろうと思います」

「君はフェリクスの容姿、性格に、今のところ嫌悪感などを抱いてはいない」

「そうですね」

「彼の評判や見た目に対して、過剰な好意を抱いてもいない」

「昨晩まで、お名前しか存じませんでした」


 エーリクが微笑んだ。にやりと、あまり心地よくない表情で。


「ご存じないとおっしゃいましたけれど、よくご存知じゃありませんか」

「いや、知らないよ」

「では、どうして?」


 アウローラが首をかしげると、彼は「つまり」と教師のような物言いをした。


「フェリクス・イル・レ=クラヴィスが近衛隊の誇る魔法騎士と言われるのは伊達ではない、ということだ」


 ワケがわからない。

 アウローラの緑の瞳が思い切り眇められたのを眺め、エーリクはさぞ面白げに笑った。

千客万来。

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