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「……本当に、ほんっっとうに申し訳ない!!」


 驚きの潔さで、目の前の男は(こうべ)を垂れた。床に擦り付けんばかりに下げられた頭部は、陽の光に輝く銀色である。それは首の後ろで、黒く細いリボンでまとめられ、背の半ばでさらりと揺れていた。その下にあるのは、藍色をした騎士の礼服である。

 袖口や襟元の刺繍が見事だな、とアウローラは目を細めた。葉の並ぶ意匠は生命の守護を表すものだった記憶がある。葉と葉の間、ところどころ挟まる星形の意匠はどんな意味だろう。この服は騎士団のお仕着せなのだろうか。これらの刺繍は侯爵家お抱えのお針子の手によるものか、王宮専属のお針子たちの手によるものか、はたまた王都一流のお針子たちの手によるものなのか。しかし、この方の髪、銀糸として縫い取りに使ったら、さぞや綺麗でしょうねえ――。

 現実逃避しながら、アウローラは男の背を眺めた。昨日の夜から現実に頭が追いつかないが、己の左の薬指には、彫り込みの優美な金の指輪が、いい加減諦めろと言わんばかりに輝いている。


 アウローラに向かい、華麗な土下座を披露する青年の名は、フェリクス・イル・レ=クラヴィス。

 フェリクスは現在、21歳。クラヴィス侯爵家の嫡男で、ラエトゥス公の嫁の弟、でもあるそうだ。仕事は王立騎士で、部署は王太子の近衛隊員。将来有望にもほどのあるエリートだ。そればかりかその顔立ちは、宮仕えする男性陣の中で五指に入る美貌ともっぱらの評判である。

 ……などという、未婚の貴族の娘なら誰しもが知っていそうな『素敵なあの人情報』を、アウローラが知ったのは昨晩のことである。

 ――一生縁のなさそうな人とどうして縁付いちゃったのかしらわたし。美貌の侯爵令息なんて、遠目にキャアキャア言うための存在ではなかったのかしら。昨日までは『お名前だけは聞いたことがございます』程度のご縁だったのに。

 アウローラは未だ、絶賛現実逃避中である。何しろ、昨晩の訳の分からない大宣言から、まだ12時間しか経っていない。今はまだ、翌朝なのである。


 前後の経緯が全くわからない『嫁にする宣言』が夜会の空気を凍結させ、あれよあれよと言う前にラエトゥス公とクラヴィス候の前に引っ張りだされ、逃すかと言わんばかりに金細工の指輪をはめられ、ぽかんとしたままクルクルと踊り、呆然としたまま家に送り届けられ、寝台に倒れこんで目覚めたら、タウンハウスの入口に豪奢な馬車が来ているというから慌てて身支度して、客を迎え入れたらこの土下座である。この一連の流れがほとんど一息に行われたと言っても過言ではない。

 ああ、昨日の夜会は荒唐無稽な夢ではなかったのか。アウローラは頬をつねってみたが、自分の指は普通に痛みをもたらした。つまり、目の前の見事な土下座は現実である。


「本当に、申し訳ない!!」


 多分もう、二十は聞いたであろう謝罪に、最早アウローラは苦笑するしかなかった。


「あのう……もう、宜しいですから、そちらの長椅子にお座りになって」


 がばりと音を立てて、青年が顔をもたげる。けれど彼は床に膝をついたまま、立ち上がろうとはしなかった。切れ長の青紫の瞳がアウローラを射抜く。

 彼は、凍れるような冷たい美貌の男だった。銀の髪も、わずかに紫の混じった青の瞳も、触れればそこから身体が凍結しそうに冷たい色で、顔つきも鋭く整っていて、甘さはない。身体は細身だが上背があり、口数が少ないせいもあって、近寄りがたい空気を漂わせている。

 王都の女性陣には、氷の貴公子だとか、月の騎士だとか呼ばれているそうよ、と微笑んだのは、アウローラの指に指輪がはまる様をにこにこと眺めていた、彼の姉君だった。

 しかしだ。


「……クラヴィス様、ご容貌とご内面が噛み合わないと、言われたことはございません?」

「知り合って三日以内にほぼ十割の確率でそう言われる」


 触れれば冷たそうな美貌の持ち主は、ちっとも氷のようではなかった。


「あのですね、クラヴィス様」

「なんだ」

「謝罪はもう宜しいですので、どうしてこのような事態になったのか、ご説明を頂きたいのです」


 しまった、という顔でまた土下座しかけたこの男の、どこが氷だ。地位の高い家柄や騎士の矜持があるだろうに、状況説明を忘れるほど切羽詰まって、全力で頭を下げる男のなにが、氷の貴公子なのか。言葉が足らず顔が冷たいだけって、どんな冗談だ。

 人の言うことって当てにならないものなのね。アウローラがじっと睨むと、フェリクスはしばらく沈黙した後、きっぱりと言った。


「一言で言うと、自棄だ」


 わあ。すごい端的。

 思わず拍手しそうになったアウローラは、いや待て、自棄ってなんだ自棄って、と我に返る。21歳で結婚に対して自棄になる人生とは一体何事か。

 低音かつ低温、きっぱりと凛々しい声色は、容貌に相応しいとも言えようが、言っている内容は情けない。


「女性不信でいらっしゃる?」

「いや」


 こてんと首を傾げたアウローラに、フェリクスはまたしても端的に言った。


「昨年、86件も見合いが舞い込んで厭になった」

「はち……!?」


 絶句するアウローラに、フェリクスははっきりと頷く。


「今年は既に、それに迫る勢いで話が来ている」

「あの、侯爵様にお輿入れできるような家の未婚の娘を全部足しても、80人にならないのではないかと思いますけれど」

「我が国だけではないし、二度以上来る話もある」

「ああ……」

「昨年は慶事が多かったからな」

「お叱りにならないでくださいね。――つまり、売れ残りのところに商談が集中していると?」


 フェリクスは『良い例えだ』と言って、深々と頷く。

 分かりやすい原因に、アウローラは眉間に皺を寄せた。


「自棄になられたのは分かりましたが、何故にわたくしを? わたくし、ああいった場で目立つ人間ではございませんし、お会いしたこともございませんよね」

「指輪が選んだからだ」

「昨晩もそうおっしゃいましたけれど、一体どういう意味ですの」


 指輪が吹っ飛んできて衝突した額は、未だにうっすら赤くなっている。一体あれは何だったのだと問い詰めれば、フェリクスは真顔でこう言った。


「昨夜は周りがあまりにしつこかったので、指輪を全力で放り、当たった女性を妻にすると宣言した」

「……ひょっとしなくても、クラヴィス様、お酒をきこしめしてらっしゃいました?」

「…………申し訳ない!」


 言い訳のひとつもないその姿は、潔さと見るべきか、愚かと見るべきか。またしても、惚れ惚れするような土下座を繰り出した美青年に、アウローラは半笑いで脱力した。

 しかし、自分が熱心に望まれたわけではないのだと分かり、アウローラはかえって安堵する。見ず知らずの人間に一方的に、熱心に望まれるのは、ちょっと気味が悪い。

 誰でも良かったのだろうが、夫も婚約者も恋人もいない、18の娘にしては残念三拍子が揃っていたアウローラに指輪がぶつかったのは、彼にとっては運が良かったといえるだろう。


「とりあえず、事情はわかりました。ご誠実にお答え下さってありがとうございます。ですからそろそろ、床からお立ちになってください」


 あいかわらずに床に座り込んでいるフェリクスに、アウローラは苦笑とともに告げる。


「それに、破談にされて構いませんよ。お酒の席での過ちなのですから、笑い話で済みますわ」

「そういうわけにはいかない」

「わたくしの評判などを心配して頂くことはございませんよ。もとより嫁にいくつもりもありませんでしたので」

「私の愚かさが招いた事態を、貴女に傷のつく形で取り消すつもりはない」


 なるほど、この男は頭に馬鹿がつくほど真面目なのだ。とアウローラは瞑目した。


「いずれ円満な理由を作り、正しく解消させて頂かければならぬと思うが、それが昨日の今日ではあまりに不実に過ぎると私は思う」


 床から身体を起こし、片膝をついて騎士の正しい礼をとる男に向かい、アウローラは嘆息した。

 フェリクス・イル・レ=クラヴィス。氷のような美貌を持ち、エリート騎士で、侯爵家の嫡男である男。しかし、貴族社会の上位に属しながらこの人となりでは、さぞや生きにくいに違いない。


「だからどうか、しばらく婚約していてはくれないだろうか」


 大した抑止力はなかろうが、しばらくの間くらいなら、縁談からの風よけにでもなってあげようか。

 氷の瞳の奥深くに、懇願に似た色を見つけたアウローラは、人助けのような気分でそれを了承したのである。

土下座させたかっただけとも言……なんでもないです。

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