序
「……暇」
と、アウローラは深い息をついた。
彼女の緑の瞳に映り込むのは、磨きぬかれた床に映り込む華やかなドレスと、流行の最先端を行く夜会服の群れだ。アウローラの前を通り過ぎてゆく紳士淑女の誰一人をとっても、時代遅れな装束を纏うものはいない。もっとも、それぞれの『趣味』による良し悪しはあるのだけれども。
客の身を飾る衣服の質はそのまま、夜会の開催者の質であると言っても過言ではない。平民のパーティは一張羅の晴れ着になり、あまり裕福でない貴族の夜会は地味になり、成金の催すそれはどうしてもギラギラする。『客層』を表現するもっとも分かりやすい指針、それが『装い』なのだ。
これほどまでに人が着飾る夜会は、王宮以外ではそうそうあるものではない。王宮の舞踏会にも劣らぬ華やかな人々の装いは、この夜が『社交の場』として、非常に重要なものであることの現れでもあった。
——今日の夜会の主は、ラエトゥス公爵である。ウェルバム王国の3大公爵家の一つ、今もっとも『時めいている』と言われている、大貴族だ。
「……暇だわ」
そんな大貴族の夜会でぼけっと突っ立っているのが、今日のアウローラだ。
彼女の身内がここにいたなら、何を馬鹿なことを言うかと叱責くらいは落としたかもしれないが、残念ながら彼女はひとりだった。大貴族の館での夜会は、伯爵令嬢であるアウローラにとっては社交の場、つまりは『職場』といってもいい。本来なら、暇であるべきではないのだが、アウローラは壁際で、ぼんやりと世間を眺めていた。
アウローラにとって今夜は、デビュタント以来となる久しぶりの夜会だった。しかし、パートナーを務めるてくれるはずだった兄が風邪をひいて寝込んだために、一人ぼっちでの参戦となってしまったのだ。
貴族の令嬢がパートナーも連れずに夜会に参加するなど、普通では考えられないことなので、当然の結果としてアウローラは、それはもう見事な壁の花と化していた。
(……いいのよ。花には花の、楽しみがあるもの)
広げた扇の影でひとつ息をつき、アウローラはにんまりと笑った。
(流石、公爵家の夜会となると違うわね。素晴らしい刺繍のお衣装ばかり。眼福!)
キラキラと己の目が輝く。貴婦人の嗜みとしてのそれ以上に、アウローラは刺繍をこよなく愛しているのだ。兄がここに居れば、『アウローラの悪い病気がまた出た』とか、ため息をついただろうほどに。
しかして残念ながら、今日のアウローラを止められる人間はいなかった。彼女は目の前を、くるりくるりと踊り抜けてゆく令嬢たちを眺める。
淡い色から濃い色へ、滑らかに変わる染めの布地に、似た色の糸で華やかに刺繍を施して、ところどころに金糸銀糸の縫い取りを散らしたドレスが、今の流行だ。縫い取りをシャンデリアが照らすと、きらきらと星屑のように輝いて美しいのだという。
(確かに……砕いた水晶を散らしたみたいに見えるわ。あんまりやると下品だけれど、今通り抜けた方のは素晴らしいバランスだった。星の意匠もいいけれど、唐草模様もいいわね)
アウローラは感嘆の息を漏らす。流行のおかげもあって、今日の夜会服の刺繍は男女ともに、見事なものばかりだ。
なんでも、そんな意匠を流行らせたのは、本日のホストたるラエトゥス公の嫡男の奥方なのだという。社交界の花と呼ばれた、豪奢な白金の髪と真っ青な瞳を持つ美姫は、昨年公爵家に嫁いでいまや、貴族社会のファッションリーダー、というわけだ。
(ああ、あのお嬢さんの刺繍、きっと名のある工房のものだわ。なんて丁寧で緻密なのかしら。……それにしてもわたしったら、ちょっと地味だったかしら?)
アウローラは自分のドレスを見下ろして、扇の影で目を眇めた。淡い青から真っ青へと変わる染めと、そこに刺された青い花の刺繍こそ流行のものだったが、金糸や銀糸の縫い取りは控えめだ。少しばかり名の知られた令嬢たちは皆、そんなきらびやかな装いなものだから、アウローラのドレスは年配のご婦人たちのそれに近いように見えてしまう。
(こんなに流行ってるなんて知らなかったわ……。帰ったら何か追加で刺しておこうかしら)
やはり星の意匠がいいだろうか。敢えての『花』もいいかもしれない。先ほど見かけた唐草模様も捨て難いし、昨今話題の東方の文様も、エキゾチックで素敵かもしれない――。
背後に誰も居ない壁際、扇で顔が隠れるのをいいことに、ニヤニヤと刺繍へ思いを馳せていたから、アウローラはちっとも気が付かなかった。壁から遠く離れた主催陣の集う壇上がにわかに騒がしくなり、そこからものすごい勢いで、何かが飛んできたことに。
「痛った!」
ゴッ。
吹っ飛んできた何かはとても小さかったのに、当たった額は酷く痛かった。きっと明日には痣になるだろう。一体何事、とアウローラは涙目で、己のドレスに引っかかった何かを眺め、ぱちくりと目を見開いた。
それは、彫り込みの美しい、金の指輪だった。
「なぜ、指輪が飛ぶのです?」
それ以前に、こんな小さい指輪をあんな勢いで飛ばすとか、一体どんな技術だ。ひょっとして魔法だろうか。
ぼやきながらつまみ上げ、眼前でまじまじと眺める。
古式ゆかしい、植物の彫込が、輪にそってぐるりと一周している。絡みあう蔦のようなそれは、夫婦の縁が繋がることを示すものと言われ、婚姻の際に夫が妻に送るものとして、よくある意匠だ。内側には古代文字が刻まれているようだが、アウローラには読めない。
(どう見ても婚姻の指輪ね。誰かが痴話喧嘩でもしたのかしら? ……あらでもこの意匠、刺繍にしたらどうかしら。みんなみたいにスカートの部分に散らすんじゃなくて、この指輪みたいにドレスの裾とウェストに、ぐるりと回したら……)
ガッ。
またものすごい音がした。指輪をつまみ上げる腕を誰かに掴まれたことに気がついて、アウローラは悲鳴を喉元で押し殺した。しまった、指輪に夢中で、近づいてきた人影に、ちっとも気づいていなかった。
「ああああああのごめんなさいまし?!」
この指輪はどこからか吹っ飛んできただけであって、わたくしは物盗りではありません!
……そう言いたくて顔を上げたアウローラは、ぽかんと間抜けに口を開いた。扇の向こう、彼女の眼前には、びっくりするほど美しい――アウローラはこの時、自分の語彙力のなさを心底呪った――顔立ちの若い男が、銀にも見える薄灰の髪と青い瞳を燃えたぎらせて、アウローラを睨みつけていたのである。
青年は、呆然と立ち尽くしているアウローラには何も告げず、指輪をつまんでいた彼女の手元をぐいと引き、高々と掲げ、凛とした声を響かせた。
「指輪が選んだのはこの人だ」
……はい?
何がだと口を開こうとして、アウローラはようやく気がついた。
のんびりと賑やかしかったはずの夜会の広間はいつしか、音楽さえもやんでしんと静まり返り、その場の人々は皆、アウローラと青年を見つめていたのだ。
カツン、青年の踵が床を鳴らす音だけが、ひどく場違いに響いた。
「な、に……?」
すみませんちょっと説明を、そう言いかけたアウローラの言葉を掻き消すように、青年が叫んだ。
「私は、この人を妻にする!」




